増岡の妹のことは、全く知らないし、顔をあわせたことすらない。それなのに、なぜこんな気持ちになるんだろう?
と、その時、胸の奥から、何かが、こみ上げて来た。
ジンジャーシロップを入れたホットドリンクのようにほっとする、あたたかな……何かが……
「増岡、とも、こ……、だっけ? ん、……チ、チ? チ……K,k,ko……コ……子?」
途端に、グワーンと眩暈がした。
ぐわっ、何じゃこりゃ!!
うわ、このままじゃ頭がおかしくなる、ストップ、何も考えるな、何も、一切、考えるな!
俺はムンクの叫びフェースをしたまま、台東区役所に飛び込んだ。本当は、病院を出たその足で上野警察署に自首しようとしたのだが、吐き気と、めまいと、発狂の恐怖で、つい、警察署の手前にある役所に駆け込んでしまったのだ。
「おじさん、助けて!」
「どうした?」
受付にいた、バカボンのパパそっくりのおじさんがあわてて返事をした。
「頭がおかしいんです!」
「え、頭? 何かにぶつけたのか?」
「じゃなくて、やりたくないことをやってしまうんです!」
「……やりたくないこと?」
「ぶんなぐりたくないのに、人をぶんなぐっちゃうんです!」
「うん、それでいいのだ」とはおじさんは言わなかった。
そのかわり、お隣から、ものの30秒で警官が来、あっという間に、東大病院の精神科に入院させられた。
3日後、その日、名古屋から帰ってきたお母さんが面会に来た。
「直君、退院したら帰ってらっしゃい」とお母さんは穏やかに、やさしく言ってくれた。
それなのに、俺はただ下を向いて、首を振るしかなかった、何を言ったらいいのか検討もつかなかったからだ。
だって、そもそも、なんで宗田くんにあんなことをしでかしてしまったのか、さっぱりわからないんだから。
おまけに、宗田くんに、土下座でも逆立ちでもなんでもして、今すぐにでも飛んで帰りたいのに、「絶対に帰っちゃいけない!」という絶対意思(神)が、特大の漬物石のごとく、俺の存在全体を抑え込んでいるんだから。
ああ、俺は、とうとう気が狂ったんだ、きっとそうだ。一生、東大の閉鎖病棟に閉じ込められるんだ。
「……僕は、宗田君に暴行を働きました」
「ええ……。なぜなの?」
俺は正直に話した――宗田君が俺のことを好きだということから、名前は忘れてしまったが、宗田君が学校の女の子と無理やりセックスしたことまで――でも、それは暴行の引き金であって、根本理由は自分でもさっぱりわからないという、本質的な一点を除いては。
「このまま家にいたら、宗田君との関係は、ますますおかしくなって拗れていきます」
「出て行きたいのなら、それでも……いいわ、でも、今までどおり、経済的な援助はさせてもらうわ。ね?」
「駄目です!」
「なぜ?」
「今助けてもらったら、僕は一人で生きていく力を失い、絶対に、絶対に、あなたのところに帰りたくなってしまいます。今、関係を切らなければ、将来、必ずおかしなことがおこります。わかるんです。だって、俺は、俺は、あなたを……愛……」
間髪なく――、
「わかったわ」とお母さんに遮られた。
お母さんは、綺麗な眉間に細い皺を寄せて、鼻から浅く嘆息し、俺から目をはずし、お土産に持ってきた梅園の箱を見て言った。
「……食べてね」
その夜、俺は、泣きに泣いた。
一週間後、俺はあっさり退院させられ、一端相談所に引き取られ、家裁に呼ばれた。
本来なら、保護処分を免れないほどの事件を起こしたわけだが、お母さんの懇願のおかげ で、鑑別所にすら行かずに済んだ。
俺は新宿の養護施設に入所した。中学は勿論転向した。そして、養護施設に世話になりながら、都立戸山高校に入学した。高校入学と同時に新聞販売店の寮に入り、毎日、2時半に起きて新聞配達する日々が1年半ほど続いた。
こうなったら、絶対に、東大に入ってやる!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
睡眠不足と、契約時間外の仕事まで強いる店主の横暴にも耐え、俺は勉強しまくった。
突然、お母さんが亡くなった。
そして、あいつも……
高校二年、16歳の時だった。
お母さんの死は、日本中の誰よりも早く見る朝刊の一面で知った。
その途端、腰が砕けて、気が遠くなりかけたが、括約筋と丹田に力を入れ、大きく息を吸い、「くほーーーー」と吐き出す空手の呼吸法で意識を繋いだ。関根勉がよくやっているやつだ。
新聞を配る前に、朝日に向かって、手を合わせた。
何故か、この日の早朝の空はライスダールの画のごとく壮大で、赤と青とプラチナの織り成す大パノラマが天空を覆っていた。そのあまりにも絵画的な美に、神の恣意を感知してしまい、全身の産毛までが総毛立ち、胸がいっぱいになった。俺は人生のあまりの儚さと自然の圧倒的な美しさのコントラストに、言葉を失った。
高校に行くと校長室に呼ばれた。養護施設の先生もいた。その先生から、「昨日、刑が執行されました」と言われた。悲しくはなかったが、嬉しくもなかった。
同じ日に最愛の人と憎んでも憎みたりない畜生が死んだのだ。ただそれだけだった。
死ぬほど迷ったが、香典だけ送って、葬儀には行かなかった。今更、宗田君に合わせる顔はない……
程なくして、宗田君から香典返しの品と手紙が来た。
「拝啓。ご無沙汰しております。(略)。直ちゃんに鼻をへし折られたおかげで、顔つきに迫力が出て、皆に一目置かれるようになり、学校でいじめられなくなりました。これぞ、本当の怪我の功名です。(略)。お酒が母の命を奪いました。直ちゃんがいなくなった後、お酒の量が尋常じゃなくなっていたんです。母は直ちゃんのことが大好きでした。死ぬ間際まで言ってました、直君、今頃なにしてるかなって。残念です。いつか直ちゃんと笑顔で再会できる日が必ず来るような気がします。それまでお元気で。それと、母の直ちゃんへのプレゼントを断らないでください。母が悲しみます。敬具」
つづく