かなり間が空いて、かなり久しぶりの更新。
であるにも関わらず、今年一年を振り返る時期となってしまった。
そんな訳でダラダラと長文になると思うが、気の向くままに今年の出来事を書き残そうと思う。
今年を表す言葉は「税」となったようだが、
私が今年を表す言葉・・・それは「旅」であったと思う。
旅には感動があり、出会いがあり、それらが実に濃厚な一年だった。
【1.25 ご煙(ご縁)】
「蒸映」のおそらく一番のファンであろうH氏へ私が趣味で作った作品ディスクをプレゼントしたことから、この「事実は小説よりも奇なり」な物語が始まった。
今年1月、作品ディスクの御礼にと、H氏が自ら描かれた一枚の絵を頂戴した。
本来であればH氏のご親友に渡すはずであった大切な絵だったそうだが、
その絵に吹き込まれたH氏の魂を感じたご親友は、「これは受け取れない、大事に持っておくべきだ」と断ったものらしい。
そんな大切なものを頂戴してしまった訳だが、その絵を見たとき私は嬉しさあまりに泣いてしまった。
その絵は20年も前に書かれたものだが、偶然にも私の故郷・冬の羽前赤倉を往く汽車が描かれていた。
その絵からは言葉ではなんとも表現し難い、雪国特有の郷愁感がストレートに伝わってきたのである。
これを見て感動しない訳が無く、ここまで感極まるものを頂いたことは自身の人生では無かっただろう。
そして偶然にも頂いた絵が完成した丁度20年後の平成26年1月25日、今年一番の蒸気撮影となる真岡の沿線にて、初めてH氏とお会いすることとなった。
【2.9 恋焦がれていた雪中行軍シーン】
今年から定期運行が始まった釜石線のSL銀河。
その客車牽引の初の試運転となる2月9日、東北型のダブルシールドビームがなんともカッコイイC58型239号機は、凍てつく白銀の世界を威風堂々と私の前に姿を現してくれた。
この場所に至るまで、記録的な大寒波により交通機関が麻痺し、冗談抜きに途中何度も事故を起こしそうになりながらやっとの想いで着いただけに、この時の感動は並々ならぬものであった。
隣にいらっしゃた、まるで獲物を狩る鷲のように眼光鋭いIプロの、蒸気が横を去った際のあの笑顔が、この雪中行軍シーンの素晴らしさを物語っていたと思う。
蒸気はいかなる季節に於いても絵になる素晴らしい被写体だが、自身の中での一番はやはり白銀世界を往く蒸気が一番魅力的であると考えている。
そういったシーンはそう簡単にはお目にかかれるものではないため、この撮影を行えたときこれまでにないほど感動してしまい、感極まった自分は一人泣いてしまっていた。
「宮守雪中行軍」、このシーンを撮影できたことで今年の物語は大きく変わっていくこととなる。
【6.21 蒸映会】
先述の「宮守雪中行軍」、これを映画館のスクリーンで写したらどんなものになるだろうか?
そんな思い付きから横浜の映画館を使って蒸映の上映会、略して「蒸映会」を開催することにした。
もともと蒸映はその名に示すとおり、蒸気機関車の迫力や郷愁感を映画のように表現したいという思いから作っているもので、映画館での上映はかねてからの夢であり、目標でもあった。
そして迎えた蒸映会当日。
親友のD氏やH氏、 家族親戚一同(笑)、一番尊敬している鉄道写真家のMプロ、そして北は北海道、西は静岡からと、遠方からわざわざお越しくださった皆様方。
そんな方々を前にしながら、無駄に映画監督らしいなんちゃってな服装で舞台挨拶を行い、スクリーンに作品が上映された。
今までは作品はインターネットで公開して、タイムラグを経て、言葉で感想を頂戴していた。
だが今回はリアルタイムで視聴者の感情を見る訳である。
「こんなものでも感動していただけるのだろうか?」 というハラハラドキドキヒヤヒヤな不安を抱えつつも、 名画「ニューシネマパラダイス」の主人公のように様々な感情を抱きながら自身の作品を見ていた。
ラストシーンが終わり、真っ暗だった劇場が明るくなる。
締めの挨拶でステージにあがる。
これがなかなかの緊張である(笑)
結果として、ご来場頂いた方々の殆どが満面の笑顔をしてくださっていた。
音が聞こえないMプロも涙を流して感動したと仰ってくださった。
一個人が趣味の延長で始めたことが、こんな結果になるとは思いもしておらず、こんなにも幸せなことはない。
この蒸映会で得たもの、無論上映会開催に伴った金こそ失えど、それをはるかに上回る出会いと感動を得ることができたと私は思う。
ご来場頂いた皆様方に感謝の気持ちを込めて、ただただひたすらに頭を下げるほかない。
【11.08~09 望んでいたもの】
今年はSL銀河を中心に馬鹿みたいに蒸気撮影を行ってきたが、心のどこかで満たされぬ想いを感じていた。
それはズバリ、切なさを感じるまでの「旅情」や「郷愁感」を感じていなかったことにある。
SL銀河は自分の中では「希望」の列車であり、残念ながら郷愁感というイメージとは大きくかけ離れていた。
その晴れぬ想いを満たしてくれたのが、H氏との会津旅であった。
幸いにも往復路の切符が取れ、11月8日、私はH氏と乗車旅ができることとなった。
(JR古川駅の神業的な発券処理をしてくださった笑顔が素敵なお姉さんに感謝)
偶然にも乗車した列車はスハフ32、旧型客車の中でも一番の歴史が長い客車であった。
城下・若松を力強く発車した汽車は次第に、秋の奥会津へと進んでいく。
客車内の乗車は現代人と言えど、その混みようからはまるで現役時代さながらである。
橋を越え、山を越え、昔から変わらぬ風景を往く汽車列車の車窓・車内は、まるでタイムスリップしたかのようだった。
仮の終着駅・会津川口に付き、駅前で宮下のおばちゃんが丹精込めて作ったであろう駅弁を頂く。
「海鮮駅弁」のような贅沢なものではないが、山里らしいおかずのひとつひとつが、五臓六腑に沁みわたる。
高校の一人旅以来、長らく不動だった駅弁ランキング一位は横川の「峠の釜めし」だったが、そのランキングが塗り替えられたのは言うまでもない。
その後、集中豪雨で不通区間となってしまっている、思い出の橋へと向かった。
初めて只見線を訪れた際に撮影した場所へ立つ。
そこを列車が走らないことを思うと、胸が痛んだ。
その場を離れ再びホームへ向かうと、すっかり顔馴染みとなった機関士さんに突然話しかけられた。
「大場君、嘆願書を出してくれよ。この二駅先に俺の家があるんだが、線路も見るに耐えない状況なんだ・・・。」
汽車はその機関士さんの無念な気持ちを代弁するかのように、会津川口駅前集落や山々に悲しく汽笛をこだまさせながら、夜に染まりゆく若松への帰路についた・・・。
若松の夜、ホテル近くのD氏と必ずと言って良いほどの行きつけである居酒屋へ向かった。
残念ながら今回D氏は諸事情により居ないが、まったくもって遺憾である(笑)
会津の地酒や馬刺し等を頂きながらH氏と蒸気について熱く語らったが、実に美味い酒であった。
H氏の蒸気に対する熱意・捉え方は、そんじょそこらの爆煙主義者とは一味も二味も違う。
翌日、冬の気配が漂う晩秋の会津坂下駅へH氏と向かった。
今日は撮影の旅である。
駅前にはまだちっこい野良二匹がお腹を空かせてニャアニャア鳴いており、猫好きの自分は近くのコンビニで猫缶を買ってきて野良たちに与えた。
お前ら、これから寒い冬だけど、しっかり元気に生きるんだぞ。
やがて若松からやってきた汽車は坂下を力強く出発し、その後ろ姿を見送ったあと、ゆっくりと次の撮影地へと向かった。
場所は第4只見川橋梁、昨年も撮影した場所だがそのロケーションの美しさに今年も来てしまった次第である。
だが今年は例年以上に人が多く、マナーもへったくれも無い糞追っかけ連中どもに気分を害され、腹立たしい気持ちだった。
良い歳した大人が他者への配慮を欠け、その様を見ていると「こいつらと一緒にされたくないな」と人の少ないところで撮影することが多い。
遠方からわざわざ来る他県ナンバーの残念な人たちを見ていると、いったい何をやってるんだか・・・と溜め息すら出てくる。
おっと、せっかくのH氏との旅、こんなくだらんことで毒を吐くのはここいらでよそう、昼食後にH氏が見つけてくれた撮影地へと足を運んだ。
そこは会津造りとも言える雪国ならではの集落を見渡せる場所で、只見線と言えば「橋梁」となってしまいがちだが、「これぞ求めていた風景だ!」という素晴らしい場所であった。
ただ試運転に一度来ていたH氏いわく、まったくもってのスカスカで蒸気が来てしまったとのこと。
ならばと本来であればやりたくないことではあったが、機関士さんに連絡をとり、煙のお願いをしてしまった(汗)
するとどうであろう、明らかに一旦減速して力行してくるではないか・・・!
理想の風景の中を重油に頼らない本来の力強い走りで彼はやってきた。
この会津っぽ気質とも言える機関士さんの粋な計らいに、頭が上がらぬ想いであった・・・。
(その後機関士さんから「どうだった?」と電話を頂戴し、涙を流しながら御礼を述べさせて頂いた。)
演出された煙と言ってしまえばそれまでだが、たかが迷惑極まりない蒸気ファンの願いを叶えてくれ、その想いに応えてくれた煙だと思うと、胸が熱くならずにはいられなかった。
自分が機関車だけではなく機関士さんに強い憧れを持つのは、そんな男らしくも優しい気概を持った方々だからなのだと感じているからだと思う。
その一番望む形で撮影を行え、汽車を見送った際、互いに望んでいたものを得ることができた喜びに、H氏と感動の握手を交わさせて頂いた。
当初の予定では再び会津坂下駅で汽車と機関士さんを見送ろうかと思ったが、最後は汽車の後ろ姿、やがて遠ざかっていく汽車を見送ろうと咄嗟に思いつき、往路ならば満員御礼の場所へと向かった。
(案の定、人は誰もおらずその場にはH氏と私だけであった。)
定刻より遅れてやってきた汽車は、度重なる坂道を乗り越えてきて、「ようやく今回の仕事も終わるなぁ」と安堵とも言える表情で、暗闇に染まる若松城下へと下っていった。
そのシーンは映画のラストシーンやエンドクレジットを見るかのように、今回の旅の余韻を優しく思い出させてくれ、遠くに聞こえる汽笛がこの旅を終わりを教えてくれていた・・・。
ここまで素晴らしい旅ができたのもH氏がいなければ成り立っておらず、最後は握手を交わし、「また煙のある線路際にてお会いしましょう」と敬意を込めた敬礼を持ってお別れしたが、いつしかまたこんな素晴らしい旅を出来る日が来ることを強く願うばかりである。
【蒸映の先に】
作品を作り、それを公開し、それが思わぬ形で誰かの心に届き、やがては思わぬ出会いにまで発展していった。
蒸映の先にそのようなものが待っているとは思ってもおらず、これだから人生は面白いものだと思う。
来年の今頃、また同じように一年を振り返っていることと思うが、今年のように実に素晴らしい出会いがまた生まれてくれればと願うばかりである。
最後に、この無駄に長い備忘録を最後までお付き合い頂いた方に御礼申し上げ、歳末の御挨拶とさせて頂きたいと思うます。
どうぞ良い年をお迎えください。
大正映像制作所 大場 正明