雲跳

空高く

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前厄

2014-01-25 | 雑記
仕事仕事に明け暮れていたら、いつのまにかそんなお年頃になっていた。
職場に数人、同じお年頃の方たちがいるので訊いてみたのだけれども、大抵気にかけながらも「なあなあ」な感じでやり過ごしている人が多かった。
きっと、タイミングが肝心なんだと思う。
「ああ、もうそんな歳か…」
なんとなく、切なさの中に気弱さが滲みはじめて「お祓いしなくちゃな」なんて言葉をポツリと呟く…。
まさかそんな自分に出くわすとは数年前には夢にも思わなかったけど。それが成長なのか、はたまた衰えなのか。
とにかく、何事にも慎重になりつつも、生来の面倒臭がり体質は抜けきっていないようで、「れっといっとびー」な日々を過ごしている。
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峠うどん物語 / 重松 清

2012-01-20 | 小説


『凍裂』のついで……といってはナンだが、久しぶりに重松清の本も借りてきた。まあ、重松なら大抵外れない、そう思って借りてきたら、うん、ものの見事に外れなかった。いつもの重松節。
 なんだかんだと涙腺を「うるっ」とさせるのは流石、泣かせの名手。
 それほどの重さを持たせず、それでも人の生死の意味を充分に考えさせるのは、まさに職人技。

 最近では、うどんより蕎麦を喰うほうが多くなったけれど、この本を読んだら無性にうどんを啜りたくなった。
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凍裂 / 喜多 由布子

2012-01-20 | 小説
 年明け、久しぶりに図書館に寄ってみた。ふと、時間があったので。
 このところ、仕事ばかりで本を読むヒマなども無いのだけれど、それでも、あの、本の背表紙がズラッと並んでいるのを眺めているだけでも、なんだかワクワクするから。
 いつもの見知った本や、いつも読もう読もうと思いつつもやり過ごしてしまう本、そして新たに加わっている名も知らぬ作者の本……。
 それらを時の過ぎ行くままに追っていったところ、ふと、どうにも気にかかるタイトルだった。

『凍裂』

 作家の名を見てもピンとこない。まったく、知らない作家。それでもそのタイトルに異常て、本をとった。表紙をめくると、新刊の帯が貼り付けてあった。

『貞淑な妻が、善良な夫を刺した。』

 ああ、もう、神(本の神様)の力が働いたとしか思えなかった。迷うことなどなく、借りた。
 そして読み始める。ただでさえ、忙しい最中で読みきることができるだろうか? と思いながらもページを手繰る。
 果たして、ものの三日もかからずに読み終える。とにかく、夢中になって読んだ。
 例えば「面白かった」とか「つまらなかった」などという感想が沸いてこないくらいに、とにかく夢中に。

 あえて感想を述べるなら、
「これからは妻への言動に細心の注意と敬意を払わなければな」
 といったところか。

 神(本の神様)の計らいに感謝する。
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クリスマスの思い出

2011-12-22 | 思い出
 クリスマスの思い出を記そう。
 
 そう、あれは中学生の時。男女の仲間でクリスマスパーティーなんかを開き、その当時こんな田舎にもちらほら進出してきた宅配ピザでも頼もうぜ、と言って「三十分過ぎたら半額」の惹句に、ウチへ辿り着くための道々のあちこちに、そこらへんにあった工事現場の『通行止め』の看板を置きまくったこと……。
 
 いや、そんなんじゃなくて……。

 そう、あれは初めて本格的に勤めだしたケーキ屋でのクリスマス・イヴ前日。まさに修羅の如くクリスマスケーキを作らされていたこと……。

 いや、そんなんではなくて……。

 青春の四年間、クリスマスは地獄でしかなかったケーキ屋を辞めて、ようやく世間一般的なラヴラヴクリスマスを過ごせると思っていたのに、どっこい肝心の相手がいなくて、世間を呪っていたクリスマス……。

 いや、そんなはずはない。

 今の女房とのクリスマス……さて、なんら思いあたらない。
 あるとしたら、毎年自分が駄々をこねて「クリスマスなんだからチキンとケーキがなきゃ話にならんよ!」と言って女房を呆れさせ、終いには「うちはクリスチャンじゃない!」などと怒られ、泣く泣く華やかなクリスマスを断念せざるを得ないと消沈しているのだが、それでも、毎年、ささやかながらも鶏の唐揚げだとか、ショートケーキなんかを用意しといてくれている。
 
 そんなところか。
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「あけましておめでとう」とかなんかについて

2011-12-15 | 雑記
 そろそろそういう時期なので、年賀状に着手する。しかし今年の日本はなんせ、地震や原発やなんやかやで、「おめでとう」なんて文言を自粛するムードがある、というのを耳にする。
 たしかに、被害に遭われた方々、ならびにその関係者諸氏などにとっては甚だめでたくはなかろう……とは思う。
 わたしにしても、遠からず、妻の叔母が福島浪江町に居を置いていたもので、災害の際の苦役を瑣末ながら身に覚えたものである。
 が、だからといって、それらとの関係、または繋がり、だろうか……いや、良識を持ち出す人には「人間全てに繋がりがある」などとのたまうのであろうが、ぶっちゃけ、「ああ、酷い目にあったものだ」だの「ああ、なにか自分にできることがあればなぁ」などと思ったとしても、何もできない、何もしない人が大半なのではなかろうか。
 いや別に、それを責めるだとか嘲るだとかではない。なんせ未曾有の事態だ。すぐさま動けるほうが稀有なのだ。

 そんな時流の中で年末年始を迎える日本。さて、様々なイベントが繰り広げられる。節電を配慮したクリスマスイルミネーション。豪華セットでバカ騒ぎする歌謡ショー。意味不明なカウントダウン。そして年が明ければこれまた意味不明なお祭りムード。

 自粛。

 いや、自粛なんてする必要はないんだね。一方ではその自粛によって不幸が起こるのだから。ただ、気になるというか、あまりにも偽善過ぎやしねぇか? と思える、そのあまりにも曖昧すぎる世論の自粛。
 今年の凄まじい災害、またはことごとくの事件、それらを想うに「おめでとう」などは心から言えないけれども、そんなの、いつの年だってそうだっただろう。いまさらになって、(それはたしかに計り知れない犠牲であるのだけれども)なにも近隣のものにたいして送る新年の挨拶賀状ごときに、目くじら立てて『自粛』しろ、もないだろうと思う。

 別に、たいがいの人は、いつだって、年が明けたくらいで「めでてぇな」なんて思っちゃいない。でもとりあえずは、気持ちを切り替える感じで、「さぁ、去年はいまいちパッとしなかった一年だったけれども、今年こそは何かめでてぇことがありますように」そんな露払い的な言葉なのだから、とくにあれこれこだわる必要もなく、儀礼的なものですませばいいのではなかろうか? と、ただでさえ面倒臭い年賀状作成をしながら面倒臭い時世に辟易としてしまうのであった。
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