風に吹かれて旅ごころ

はんなり旅を楽しむはずが、気づけばいつも珍道中。

2012-6 霞ヶ浦・鹿島探訪1

2012-06-24 | 北関東(茨城・栃木・群馬)
1歳から6歳まで、茨城の鹿島に住んでいました。
東日本大震災で、鹿島神宮の大鳥居が倒壊したことにショックを受けて、去年、確認かたがた参拝に行きましたが、ちょうどその時は台風が近づいており、嵐の中であまり長居もできず、お参りを済ませて早々に帰りました。

いつでも思い起こすとまぶたの裏によみがえるのは、小さい頃の町並み。
当時は鹿島郡鹿島町だった住所が、今では鹿嶋市に変わり、気がつけば元の家は市役所のすぐそばの一等地になっていました。
どう変わったのか、知るのが怖い気がしますが、震災以降(気になる所には"いつか"と先延ばしせずに行っておくようにしよう)と思うようになったため、今回はLaさんのガイドのもと、じっくり回ってみることにしました。

気分はまさに、プルーストの『失われた時を求めて』。
あれこれプランニングを重ねて、とても楽しみにしていましたが、当日が近づくにつれて、変に緊張もしてきました。
自分が大切に胸の中にしまってきた光景と、あまりに違ったらどうしようと、心配になってきたのです。
周りも転勤族だったため、今では連絡の取れる知り合いが誰もいない、私にとっては夢かうつつかといったような曖昧な土地。
未知への恐怖とはまた違うこわさ。かつて知っていたものの、今は知らない場所と、思い出を越えて向き合う時がやってきました。

緊張のせいか、乗る電車を逃してしまい、北千住⇒我孫子⇒柏⇒取手と、途中で止まってしまう電車を乗り継ぎながら、大遅刻をして土浦へと到着しました。
どの駅も、降りるのは初めて。北千住は、想像していたよりもずっとあかぬけて大きな駅でした。
取手は、高校野球でよく地名を知っていましたが、思ったよりも小さな駅でした。
土浦も初めての土地です。ここでようやく、予定通りに着いて待っていてくれたLaさんに追いつけて、ほっとしました。
ウキウキプリウスドライブの始まりです。

町を出た途端に、道の両側に畑が広がったのには驚きました。
三浦半島のキャベツ畑を思い出しましたが、ここに生えていたのは、青々としたハス。
そういえば、土浦はレンコンの産地でしたね。



Laさんと会うのは久しぶり。
おしゃべりをしているうちに、日本で二番目に大きい湖、霞ヶ浦に着きました。
霞ヶ浦は、かつて園児の私が浅瀬で溺れかけた場所。
親の職場の芋煮会についていったときのことですが、溺れたことよりも、バチャバチャともがきながら助けを求めても、みんなお芋をころがすのに夢中ですぐに気付いてもらえなかったことの方が、トラウマになっています。
花より団子、リカよりおイモ!(ぎゃふん)



(霞ヶ浦よ、もうあなたには呑みこまれないわ)と重々しく宣言して、過去のトラウマから決別しようと思っていましたが、久しぶりに間近で見た水面は、かなり水量があり、白波が立っていて海のように荒々しく、(やっぱりたちうちできない・・・)としりごみしました。
遊泳禁止レベルの迫力。(なにを申すか、このこわっぱめ)と言っているかのようです。
ということで、あっさり発想を変えることにしました。
霞ヶ浦に生かしてもらったこの命、これからも大切にしますわ!



この辺りは旧家が多く、大きな一軒家が立ち並んでいます。
それでもブルーシートに覆われた屋根もちらほら残っており、震災でかなりの被害を受けたことが伺えました。



Laさんが、「あ、マリオ」と言いました。
目を向けると、コンビニ前には、さまざまな色のツナギを着た青年たちが揃っています。
カラフルなその様子は、私にはスーパーマリオではなく、関ジャニ8のファンの子たちに見えました。
ライブがある時には、アリーナ前がツナギの女の子だらけになるからです。
彼らにとっては、コスプレではない、集合服なんでしょうね。
(茨城に来たなあ)と思いました。



鹿島神宮駅の横を通りました。
小さい頃は、駅はすりばちの底にあるような感じで、そこから歩いて上がるのがとても大変でしたが、実際にはゆるやかな上り坂スロープで、それほどでもなかったような。
幼稚園児にとっては、きつすぎる傾斜だったんでしょう。





駅からすぐのところに神社があります。
まだ鳥居は立っておらず、その場所には榊の木が植えられています。
去年見た時よりも、少し成長していました。



正面には、茅の輪が据え置かれていました。
もうすぐ夏越しの大祓です。ハチの8の字ダンスのように、茅の輪くぐりをしました。









鹿島神宮は、私にとってのソウルプレイス。参拝をし、天にもとどく杉並木を散策していると、心がしっくりと土地に合って、落ち着きます。
社の森では、オカリナを演奏している人がいました。静かな雰囲気にぴったりと合っていました。
要石に、地震をしっかり押さえてくれるように頼んで、神社をあとにしました。

次はいよいよ、元の家へと向かいます。
神宮の森を抜けたところにあった元我が家。
とりあえず、市役所に向かって車を走らせていたら、材木店が目に飛び込んできました。
ここです。まだ残っていたんですねえ。

     


車道から見て、材木屋と広大な空き地の奥に、元の家はありましたが、今や空き地はもう無く、大型店が立っていました。
家は、記憶と変わらないままで建っていました。
でも、変わらないということは、建て替えをしていないということで、つまり相当な古さ。
半ば呆然と立ち尽くします。
もはや住んでいる人もいないような、通り過ぎるのは風だけのような、「夏草や兵どもが夢の跡」状態でした。
・・・つまり私は、時を越えて古戦場にうっかり戻ってきちゃった雑兵ってこと!?
確かに、夏草というか、雑草だけが、勢いよく生い茂っていました。



材木店の道向こうにあるお寿司屋さんも、当時のままでした。
かつて母が「手を上げて、車に気をつけて、こっちに渡ってらっしゃい」と両側一車線の車道の向こうに行ってしまった時、びゅんびゅん通っていく車が怖くてどうしても道路を渡れず、泣きべそをかいたことを思い出します。
私を置いて道路を越えていったあの時の母は、地獄の王よりも無慈悲に思えたものだわ~。(遠い目)





町役場敷地内にあった図書館も公民館も、手狭になったのか別の場所へ移転しており、今は市役所だけが建っていました。
その横の道を入っていくと、私が通った幼稚園がありました。
名前が変わっていましたが、通っていた時と寸分たがわぬ建物で、すっかり嬉しくなりました。
年少ではたんぽぽ組、年長ではひまわり組だったなあ。
すみれ組がちょっとうらやましかったけれど、たんぽぽとひまわりは、どちらも自分にとって親しい花となっています。

プルースト体験をして、一気に過去の記憶と現実を結びつけたため、なんだか気持ちの消化ができなくなっています。
『失われた時を求めて』の第一篇『スワン家の方へ』には、「土地の名、名」という章があります。
そこでは、まだ行ったことのない土地の名前についての連想が、流れゆくままに語られますが、私も、自分の思い出の中にある、今は無き鹿島という土地、そして今存在している鹿嶋という土地について、いろいろと取りとめなく思いを巡らせました。

それにしても、あの時の車と母はこわかった・・・。
今もそれは変わらず…おっと、そんなことないですよっ!
(母がこれを読む時があるかも…モゴモゴ)

その2へ続きます。


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