おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

170624宇治市植物公園

2017年06月26日 | 京都


宇治市の植物公園に行ってきた。

20日に京都の植物園に行ったばかりなのに、さすがに自身を「バカ」と
いう内からの声もする。
でも思い立ったが吉日かもしれない。是々非々というものだ。

この3.4年、いつの年も桜とハスの咲く頃には宇治まで行っているようにも思う。
それで確認してみたのだが、昨年の植物園の画像や記録が散逸しているようで
見つからない。おそらくは4台ある外付けHDDの中に入っている
ものと思うが、整理が追いつかなくて、そのままになっているのだろう。

植物公園に着いたのは12時前。出たのが16時30分。49分のバスで宇治駅に
戻ったのだが、さてどうしたものかと迷う。
「恵心院」や「万福寺」に行くには少し遅い時間。七条大橋まで行って
夕日撮影も考えたが、あいにくと雲が多くて良い落日撮影が期待できない。
それで、おとなしく帰宅する。

帰宅後、撮影画像の整理を少し。いつものように特に納得できるものがないが、
これは仕方ない。
巨椋蓮が咲き始めていたので、これからの最盛期が楽しみと言えば楽しみだが、
さて、行くかどうか・・・。
今後の日程を考えたら、ほぼ無理だろうと思う。来月頭からほぼ2か月程度は
身動きがままならないからである。
やむを得ない。なるようにしかならない。

ということで、おそらくは次の更新は9月の初めころになると思います。











例によって画像はOnedriveに入れています。ご覧願います。

170624宇治植物公園

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170620京都府立植物園

2017年06月23日 | 京都

久しぶりに植物園に行ってきた。

1か月以上ぶりに行ってみると、当然のことだが咲いている植物相が
大きく変わっている。
もう春や夏前期の花たちが終わって秋の花たちの出番前の端境期のようにも
感じたのだが、園内を一通り経巡ってみると、結構多くの花たちに出会う。
当然のように夏の花であるダリアやクレマチスなども咲いている。

季節は早くも夏越しに近く、ハンゲショウの花も葉の白さを強めつつある。
むろん梅雨時の花であるアジサイも、雨が降らないけれども、けなげに咲き誇っている。
これからの花であるハス、花蓮も咲き始めていた。
木本の花である泰山木や夾竹桃も咲いている。
下はこの日の花。







最近はというよりはかなり以前からなのだが、花たちは本来は咲くべき季節が
あるのに、そうではない季節に見かけることも多い。
さすがに植物園で植栽している木本では季節をたがえて咲くことはほとんどないと
思うが、草本の園芸種はもはや季節は関係ないともいえる。
花における季語も今では実情に合わないものが多いのではなかろうか。

例えば仏花などは需要があるから季節を問わずに咲かせるようにしているのだが、
それが仏花以外の様々な花にも波及して、冬の花でも夏に、夏の花でも冬に見られるという
非常に珍奇な現象が起きている。
これは良いことなのかどうか、強い疑義を持っている。
むろん温度管理やDNA操作による耐寒性や耐暑性を持たせることは現在の技術では
容易なのだろう。でも花はやっぱり季節ごとに咲くから花であり、
通年に渡って咲くものは少なくとも私の関心は薄れるばかりである。

バラなどのように1000種も超えるほどのものが人為的に作り出されていると、
花を見る機会があったとしても写真を撮ろうとする気持ちは乏しいものだ。
私にはバラの花よりも、その辺に咲いている雑草の方が関心は確実に強い。

花たちを見ることは楽しいし、嬉しいことなのだが、そういう疑念を常に
懐胎していると、なおさらに植物と人間との今後の関わりが寂しいものに
なるのではなかろうかと思わざるを得ない。

とまれ今生のうちに、今後も私なりに花を愛でることができればと思う。

花名のわからない一枚と東屋の画像、ハグロトンボとアオサギの画像は
テキストを入れないままです。花名不明の植物についてはわかればテキストを追加します。

下はこの日の園内生き物と風景。







例のようにOneDriveに入れています。できたらスライドショウでご覧願います。

170620植物園


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湖東歴史散歩

2017年06月16日 | 思い出

170615湖東歴史散歩

6月15日、湖東を少し歩いてきました。
以下はルート。
もう10年ほど前に中山道の関が原から高宮まで歩いたことがあります。
歩き残した京都までの道をすべて歩くには年を重ねすぎた気もしますし、だから
すべての行程を歩かないで行きたいところだけ行ってみたということです。

JR桂川駅→JR篠原駅→鏡神社→JR篠原駅→JR近江八幡駅→近江鉄道市辺駅→船岡山→

近江鉄道太郎坊駅→太郎坊宮→近江鉄道太郎坊駅→JR近江八幡駅→JR田村駅→湖岸→

JR田村駅→JR桂川駅

【篠原・鏡神社】

「JR篠原駅」は東山道ルートからは少し外れている。それでも平安時代の東山道「鏡宿」と
現在の「JR篠原駅」は2キロほどの距離しかない。
篠原と言えば、平氏が壇ノ浦で滅んだあとに、生け捕りになった平宗盛とその子の清宗が
源義経によって惨殺された場所として記憶する。
義経は宗盛父子を護送して鎌倉に下ったのだが、鎌倉入りを頼朝に拒絶されて、満福寺で
「腰越状」をしたためた後、止む無く京都に戻る途中に宗盛父子を斬った。1185年のこと。
当時の武士の習いでもあり仕方ない処置ではある。
その地は「大篠原」と言い、鏡宿からも近かったようだが、今回は行かなかった。

西行が、このことを知って詠った歌がある。山家集から詞書と歌を引く。

    八嶋内府、鎌倉にむかへられて、京へまた送られ給ひけり。
    武士の、母のことはさることにて、右衞門督のことを思ふ
    にぞとて、泣き給ひけると聞きて

  夜の鶴の都のうちを出でであれなこのおもひにはまどはざらまし
     (岩波文庫山家集185P雑歌・新潮欠番・西行上人集)

「八嶋内府」とは宗盛のこと。内府は内大臣。
「右衛門督」とは平清宗のこと。

平安時代当時はもちろん中山道はできていない。江戸時代にできた中山道は
東山道と多くの部分で重なる。
平安時代には東山道にも「鏡宿」があった。宿場である。

鏡神社は古刹である。このブログで触れるのは「義経元服地」としてのものだ。
鏡神社の前に「烏帽子掛け松」や「元服の池」などの標札がある。「義経記」などを
読むと、鞍馬山を出た義経は金売吉次と奥州平泉に向かう途中、鏡宿で元服したという。
「義経記」は読み物であり、すべてが事実ではないようだ。義経が鏡宿で元服したかどうか、
事実かどうかは置くとしても、義経がその生涯に古代官道のこのルートを何度かたどったのは
間違いないはずだし、鏡神社にも何度も立ち寄ったはずだろう。
もし鏡宿での元服が事実だとすれば義経の短い生涯の中でも、自身ではとても重要な地として
認識されていたのではなかろうか。
源平争乱で戦いに明け暮れた日常にあって、なおさらに脳裡に去来した
地ではなかっただろうか?。
平氏を滅亡させた義経も四年後の1189年、31歳という短い生涯を閉じる。



【船岡山・万葉の森】

「茜さす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖ふる」
          (額田王 万葉集巻一17番)

万葉集ではことに名高い額田王のこの歌は蒲生野で読まれたという。
古来からこの辺りは「蒲生野」であり、天智天皇の大津京からはかなり
離れている。歌からもわかるように朝廷の禁野が蒲生野にもあったのだろう。
「野守」とは禁野を守護する職掌の人で、現在で言うなら農林水産庁の役人を言う。

彼女の歌は読んでいて気持ちが良い。明るく伸びやかに詠われ、外に向かって
広がる力がある。
私の詠む歌とは大違いだ。自身の深奥にまで掘り下げるというつもりで読んではいても、
変に意固地に、窮屈な歌になっていることを自覚する。
常に反省はしてはいるのだが・・・

良い機会なので額田王の歌をもう一首。

「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今こぎ出でな」
            (額田王 万葉集巻一08番)

この森は「阿賀神社」の境内地にあるのだろう。たくさんの万葉歌碑が
あったが日差しのためもあり、かつ私の視力では読みにくいものであった。
額田王の歌の情景を描いた陶板レリーフはもう10年以上前に友人の
Y・Y氏撮影写真で見ている。私のホームページにもその写真を掲載している。
そのことがあって、なんとなく懐かしい感じがした。





【太郎坊宮】

神社名は阿賀神社と言い平安朝の創建らしい。滋賀の寺社はもちろん天台宗の影響が
強くて、この神社も天台宗の流れを汲む。
「万葉の森」船岡山にある一宇と同名の社である。
「太郎坊」とは役小角の弟子というが、創建が7世紀というから、なるほどとも
思わせる。
近江電鉄太郎坊宮駅から長い参道を歩き、700段という急勾配の石段を
休み休みしながら登る。さすがにこの齢になると、駆け上がるようには登れない。
軽やかに登れるカモシカの足が欲しい。

山全体が記号の山マークの様な形をしていて、ほぼ石の山らしい。
登るほどにそのことがよくわかる。
堂宇は山の山頂までは続いていず、中腹で終わる。眺望が良い。
近江平野がよく見渡せる。







御手洗の手水は童の天狗らしい。このような山にはよくある天狗信仰は
この社でも盛んなのだろう。

登る時には息も荒く登ったのに下山はすぐであった。それだけ勾配がきつかったという
ことだろうか。私が今まで登った参道階段は讃岐の金比羅宮が一番きつく長かったと
思うが、その意味ではこの社も二番手か三番手か、ともかく三指の中に入る。

石の寺である石塔寺にも行きたかったが今回は断念。次に譲るとしょう。
時間が迫っていたので太郎坊を辞し、JR田村駅に向かう。
近江鉄道近江八幡→JR近江八幡→田村駅と行くのだが、なんと米原で30分以上の
待ち時間あり。何とかぎりぎりで湖岸の撮影ポイントに向かう。

【夕日撮影】

田村駅から歩いて10分以内に湖岸に出る。初めての地かどうか記憶はあいまいだ。
もう20年ほど前になるのか京都市西京区の自宅から自転車で琵琶湖一周をしたときには、
湖岸道路ではなくて国道8号線を通ったように思うが、定かではない。
妙に懐かしい気もする。湖岸には人が二人いただけである。
人物か、他の景物を入れて夕日を撮りたかったのだが、断念して夕日だけを撮る。
厚く黒い雲があって、思ったよりは良い画像にならない。仕方ない。
湖岸になんと自生のワスレナグサがたくさん咲いている。初めて見る光景。







かくしてこの日の一日が終わる。この湖岸にはまた来たいものである。

例によって画像はOneDriveに入れてます。ご覧願います。

170615湖東散歩

       









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170602 比叡山と日吉大社

2017年06月08日 | 京都


17.06.02 水無月(金曜日) 旧暦5月8日 晴れ

10か月ぶりくらいで比叡山に登ってきました。

行程

阪急桂駅→→地下鉄四条駅→地下鉄国際会館→→タクシー八瀬比叡山口→→ケーブル・ロープウエイ

比叡山山頂駅→→ガーデンミュージアム→→バス横川中堂・恵心院→→バスセンター→→大講堂→→

根本中堂→→ケーブル延暦寺駅→→ケーブル坂本駅→→徒歩、日吉大社→→徒歩、JR坂本駅→→桂川駅


比叡山にはほぼ毎年登っていて、それなりに慣れている。
だから安易に考えていてバスの時刻も調べないままに、四条烏丸のいつもの
バス乗り場に行くと、バスは出た直後。次便は3時間あと。仕方ないので地下鉄国際会館まで行くも、
比叡山口駅までのバス待ち時間が長い。

ともかく比叡山山頂に上がる。このルートは18歳頃に初めて利用して以来、2回ほど使っている。




山頂駅からはそのままガーデンミュージアムに入場できる。
花はそれなりに多く咲いているが植栽されている花の多くが園芸種。
園芸種にはそれほど興味もなく、花の名前もはなから覚えるつもりはない。
よって花の撮影画像は少ないと思ったのだが、カメラからパソコンに取り込んでみると
結構多い。下はガーデンミュージアムでの撮影。








一通り見てからバスで横川中堂まで。
ある団体のオフ会で横川中堂に来て以来で、実に15年ぶりになる。
15年も昔のことになると記憶は定かではなく、忘却の彼方だ。
それでも15歳若い私が確かにここにいたことは事実で、それなりに感慨深い。






恵心僧都の庵の「恵心院」にも行く。
恵心僧都源信(942~1017)は往生要集を著した人である。宇治の朝日山山麓にも恵心院があって、
私はしばしば植物撮影に行く。少宇だが私のお気に入りの場所だ。

当時の日本は仏教国家でもあった。比叡山延暦寺開創者の最澄、そしてその信奉者の教導の
もとに、叡山は多くの優れた仏教者を輩出した。それぞれの指導者が市井の中に入って
教えを広めて、それが鎌倉時代の仏教にとつながっていく。

私自身はいかなる宗教も信じないのだが、彼らのなしてきた業績には敬意を払う。
ただ往生要集は平安中期に脱稿していながら、世に広まったのは鎌倉時代という。
中世の歌人僧に西行法師がいるが、その家集「山家集」の中に「地獄絵」を見てと
詞書のある歌群がある。この「地獄絵」は恵心僧都源信のものではないということが
定説のようである。恵心没と西行生には100年ほどの隔たりがある。それなのに
西行は「往生要集」を見ていないのではなかろうか・・・。

横川からシャトルバスでバスセンターに戻ってから大講堂・根本中堂と行く。
しかし根本中堂は工事中で重機も入っている。拝観はできるのだが、何度も入っている
ことでもあり、パスしてケーブル延暦寺駅まで。






坂本までのケーブルは1年半前にも使っている。昨年、雪の比叡山に上がった時に、
バス便は運行せずケーブルのみしか動いていなかったのである。

この日は16時半近くに日吉大社に着いた。中に入りたかったのだが、
本宮は16時40分で閉門とのことで、やむなく断念して山王鳥居の所で引き返す。
ここも一度は詳しく拝観しているのだが、またの機会を作ることにしたい。

往古、ここの神輿を担いで比叡山に駆け上がり、そして京都側の雲母坂を駆け下りて、
赤山禅院に集結してから都に入って強訴を繰り返した叡山僧たちの話も、
この社を見ると、にわかに現実味を増す。
とまれ、はるかな昔の話だ。

例によって、この日の画像はOnedriveに入れています。
よろしければご覧願います。

170602比叡山と日吉大社




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17.05.28 鶴見緑地

2017年06月01日 | その他


早くも6月。5月5日の「立夏」も過ぎて久しい。

旧暦でいえば5月3日、すでに夏の真ん中の仲夏になっている5月28日。
久しぶりに大阪の「鶴見緑地」に行ってきた。
阪急及び大阪地下鉄で2回乗り換えで1時間少しかかる。

仲夏らしく照り付ける日差しはそれなりに強い。本格的な暑さは秋に
なってからとはいえ、この先の暑さを想うと、ちょっと閉口する。

だが、それも温度調節の効いた「咲くやこの花館」では忘れてしまって、
ほぼ一年ぶりで出会う花たちを鑑賞する。

最近にになっての新たな発見なのだが、どうも私は花たちを見るのが好きなようだ。
何をいまさらと思わなくもないが、様々な花たちを鑑賞し、撮影に没頭している
時は、充実とでもいうのか、確かな手ごたえみたいなものを自覚する。
もちろん風景写真も撮りはするのだが、花たちを撮影する時とは、
いわく言い難い微妙な違いがある。

古稀の年齢で花の撮影などとは大方の人たちから奇異な目で見られることだろう。
大の男が仕事でもないのに花撮影などとは、変質者のそしりを免れ得ないようにも思う。
そのことはまあ置くにしても、撮影という面においても考えてみなくては
ならない課題なのかもしれない。

10年ほど前に近くの畑の側溝で白花ホトケノザの撮影に集中していた時に、
警官の職務質問を受けたことがある。
どなたかが通報したのか、道路側の側溝までパトカーが来て、
何をしているのかに始まり、いろいろと質問を受けた。
撮影は接写であり、被写体とカメラレンズの距離はたいていは1センチほど。
そんな場所で倒れ込むようにうずくまって撮影しているのだから、見た人は普通は
「行き倒れ」の可能性を考えるのだろう。
もしも通報されたのであれば、した人の心情もよく理解できる。
つまりはそれほどに、普通ではない場所で普通ではないことをしていると
いうことだ。
だが、今後も類似の場所で同じようなことを続けて行くはずだ。
困ったことかもしれない。救いがたい。

16年撮影。鶴見緑地は4月と5月の二つがあります。

下は昨年の鶴見緑地

下はこの日のOnedriveに出した画像。多数ある中から鶴見緑地をクリックしてください。

17.05.28 鶴見緑地

このブログも久しぶりの更新です。もっと早くと思いながら、時間を有効に使う
技術がないようで、気にはなりながら果たせない状況が続きます。
そういう技術にはいつまでたっても疎いのは、不器用の証ですね。

下は当日の画像をサイズ縮小したものです。












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170515葵祭と植物園

2017年05月16日 | 京都


まずまずの天気である。

この日は両加茂社の葵祭の日だ。
久しぶりに見に行ってみようかという気になって、昼前に自宅を出る。
久しぶりと言っても一昨年か、その前年には見ている。

ちょっと長いけど私発行のマガジンから引用します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1 鴨氏と賀茂社
 
「山背(やましろ)の国」と呼ばれていたこの地が、都となったのは794年のこと。
 第50代の桓武天皇は平城京の旧弊を嫌い、長岡京に遷都しました。しかし
 長岡京も藤原種継暗殺、早良親王幽閉などの暗い事件があり、凶事も多発したため
 に、わずか10年でおわり、桓武天皇はまたしても遷都したのでした。
 そこが千年の王城の地となった平安京です。山背の国を山城の国と改め、新京を
 平安京としました。
 ここには秦氏や鴨氏が住んでいて、それぞれに氏寺も造っていました。
 平安遷都以前から鴨氏と朝廷との結びつきは強いものがあり、賀茂社は784年に
 従二位、794年に正二位、807年には伊勢神宮に次ぐ社格の正一位の位階を授けら
 れています。810年には斎院の制度も整い、賀茂祭(葵祭)を朝廷が主催する官祭
 にふさわしい儀式として、形式が整えられました。
 賀茂祭は500年代中ごろから始まり、大変な賑わいの祭りでした。朝廷が騎射
 禁止令を出しているほどです。斎院の前身ともいえる制度もあって鴨氏の女性が
 「阿礼乎止売=あれおとめ」として巫女になっていたとのことです。
 ところが800年代になって、鴨氏という氏族の祭礼を朝廷が肩代わりして主催する
 ことになったわけです。別の言い方をするなら、大変な人気のある祭りを朝廷が
 乗っ取って、主催することになりました。官祭です。
 この賀茂祭も1502年から中絶、復興されたのは1694年のことでした。以来、今日
 まで続いています。
 ただし、1943年から1952年までは「路頭の儀」は中止されています。


 2 賀茂の斎院

 810年に賀茂斎院制度が制定されてから、皇室の未婚の内親王を斎王とする
 ことになりました。伊勢神宮の斎宮と区別するために斎王といい、斎王の住む
 住居を斎院といいます。斎王はまた同時に斎院とも呼ばれます。
 普段は紫野にあった斎院御所に住んでいましたが、葵祭の期間には賀茂社の
 斎院に移り住みました。上下社隔年だったとのことです。
 初代斎王は嵯峨天皇の皇女、有智子内親王です。それから約400年間、1212年に
 後鳥羽天皇の皇女、第35代斎王、礼子内親王をもって斎院制度は廃絶しました。
 現在は斎王の代わりの斎王代が葵祭りの主役となっています。1956年(昭和31年)
 からです。
 尚、紫野斎院はどこにあったか今では分かりません。櫟谷七野神社に紫野斎院跡
 の碑がありますが、きちんと検証されて信用に足るもの、ということではない
 ようです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

源氏物語などにも、この祭りのことは記述されていますが、上記のように両加茂社も
加茂祭も大変な歴史があります。こんな大事な祭りはずっと続けてほしいものです。

そういう思いを持ってはいても、加茂祭は数年に一度しか見に行くことはしません。
何度も何度も見ていますし、もういいかなーという気もあるのです。
70歳近い高齢となれば一日仕事で10キロほどの巡行の道程をお付き合いできる
気力も体力もありません。

そういう訳で、この日も下鴨神社で「社頭の儀」を少し見て、上賀茂神社までの
巡行見物はパスして、ほど近い植物園。
植物園の花たちを見る方が私にとっては楽しいことかもしれません。
植物園ではこの季節に開花する花たちが、それなりに私を楽しませてくれました。
老境に入った私が花を愛でるのはふさわしくもあるのか、それとも大の男が
花なんて・・・と忌避するべきなのか、微妙な問題です。

ともあれ当日の画像を出します。
例によって下はOnedriveです。

170515葵祭

植物園

















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170511洛西ニュウタウン撮影散歩

2017年05月12日 | 京都


季節は初夏。すばらしい季節だ。

少しばかり簡単な用件があって自転車で洛西ニュウタウンに向かう。
拙宅から自転車で10分少しの距離である。2キロから3キロ程度。
用事を済ませてから、この日の撮影行脚が始まる。

洛西ニュウタウンは1960年代から70年代に新しく造成された街だ。
当時はモダンな町であったのだが、現在は少子化・高齢化・建物の老朽化
などの問題が出ている。新たに造成された街に共通する普遍的な問題だ。
でも地域住民団体や行政がいろんな課題に真剣に取り組み、少しでも
活力のある明るい街、住みよい街にと日常的に奮闘されている。

私はこの町ができる前に近くに越してきた。中学卒で就職のためである。
当時は勤務は朝8時から19時まで。むろん昼休みが1時間あった。
毎土曜日は17時までの仕事だったと記憶する。
今の時代では考えられないほどの長時間労働だったが、それが当たり前の
時代であった。

建物が建築される前の、造成工事が終わった更地で、週に一度の休みの
日曜の多くを草野球をして過ごしていた。
もう50年以上も前の話である。

その後、会社都合で新築された工場に移ったために、この地とは疎遠になった。
それでも20歳までの少年の頃の私が、まぎれもなく懸命に一時期を過ごした
場所であり、若さをまとったままに象嵌されている場所だ。ここで若い私に出会う。
だから妙に甘酸っぱい郷愁めいた思いを懐胎している。確かにこの地にあった
私自身の歴史と、過ごしてきた日々をいとおしく思う感覚が起きる。

それはさておき、通称ナンジャモンジャという樹が花のシーズンを迎えている。
正式名は「ヒトツバタゴ」。花はマンサクに似ているともいえる。純白の花弁が薫風に
なびいて、なんだか清冽なイメージを受ける花弁であり態様だ。

このナンジャモンジャを撮影しだしてから6.7年が過ぎるが、ほぼ毎年のように
撮影を目的にニュータウンに来ている。
この町には街路樹が多い。アメリカフウ(モミジバフウ)・ユリノキ・ケヤキ・
トウカエデ・クスノキ・イチョウなど多様だ。
それらの樹を見たり、小畑川沿いをゆっくりと散策することも私の楽しみの一つだ。

この日、5月11日に撮影した画像は例によってOnedriveに出しています。
よろしければご覧ください。「2017年」から「170511洛西激写散歩」に入って下さい。
宝飾品の画像は私の手作り商品です。

170511洛西撮影散歩















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竹の秋

2017年05月10日 | 京都


竹が秋を迎えている。

私の住む京都市西京区にある西山(西の丘)丘陵には竹林が多い。
明治時代の中頃に交通網が発達してからタケノコの販路が拡大して、
そのためにタケノコ生産農地も急拡大したらしい。
現在では京都の西山のタケノコは全国的にも有名である。

ともあれ、竹は竹のクローン(竹の子)を作ってから、葉が
薄黄色く変色し落葉する。他の樹木が秋に落葉するのとは対照的であり、
ために陰暦3月、晩春の季節を「竹の秋」という。
そこここから見える山の竹林は一様に薄黄色に変色していて、今の季節を
象徴している風物詩でもある。

親竹自体は子を作る産みの苦しみの果てに葉を変色させ、ついには落下させる
ようにも思えて、なんだか痛々しい思いも持つが、それが竹の生理であり、
ごくごく自然の現象ではある。

陰暦に直すと本日5月10日はは陰暦4月15日。季語としてはすでに半月を過ぎている。
それでももう少し「竹の秋」は続きそうだ。
葉はすぐに若々しい葉と入れ替わる。
瑞々しい葉を付けた竹を「竹の春」という。でも「竹の春」は夏ではなくて
秋の季語になっている。

  竹秋の 風騒ぎして あたたかし 「清水基吉」

下の二枚は竹の秋の画像。





ブログを長く休んでいた間、写真は撮っていました。
でもまだ整理のついていないのもあり、それらは後日にOneDriveに出します。

取り合えずは「17年画像」や「植物園総合」にリンクしますので、
直近のものをご覧ください。

OneDrive画像














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春の終焉

2017年04月17日 | 京都

桜が終わった。
瞬く間にという感じだ。まことに以って花の命は短い。
桜が咲いて初めて「春が来た」と思うのだが、花とともに春は去っていく。

佐々木信綱博士の「夏は来ぬ」の八十八夜も近い。夏は目前だ。
それなのに桜の話題でもないのだろうけど、今春の桜紀行について
少し触れてみる。

17年桜

上のOneDriveのサイトにあらかた出していますから、
興味のある方はご覧ください。

2日に宇治市植物園・宇治橋放生院・恵心院
5日に平野神社・千本釈迦堂・車折神社・嵐山
8日にインクライン・毘沙門堂
9日に桂川・円山公園・岡崎疎水・祇園白川
11日に退蔵院・法金剛院・嵐山と廻って桜行脚。
13日に植物園と半木(なからぎ)の道。
14日に西光院・松尾大社・法輪寺・桜守りの佐野さん宅・広沢の池・大覚寺・天龍寺・嵐山

以上で私の今年の春は終わった。
桜の頃は押しなべて天候が良くないのだが、例によって今年も
良くない日々であった。ことに桜の最盛期に一週間ほど青空が見えなく、
そのためもあって出かけることも少ないものだった。
やむを得ない。鬼が笑うが、来年に期するしかない。

13日と14日の画像は後日にブログアップします。まだ画像整理が
ほとんど手付かずのままです。







西光院は西行法師ゆかりの所。江戸時代に西行桜と言えばここの桜を指していました。
二枚目は法輪寺の多宝塔の桜吹雪。雪の場合もそうですが、こんな時には
フラッシュを焚くのが効果的。ただし昼の日中ではフラッシュ光はあまり届かないので、
効果は少しです。
三枚目は法輪寺の舞台から。









池の二枚は大覚寺の大沢の池。人造湖ですが月の名所としても著名。
白いのは桜の花弁。

瀧は嵐山の中之島公園から東公園に行く橋の下。
桜は祇園の桜守りの佐野さんのお宅。巨木が数本あります。
他に桜の木も多くて、毎年拝見に伺っています。





上の二枚は植物園。フタバアオイの葉は葵祭に使用されます。
もちろん画像はフタバアオイの花。

このところちよっと忙しく、次の更新は10日ほど後になります。




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祇園の枝垂れ桜

2017年04月07日 | 京都


祇園の枝垂れ桜は名桜である。その姿形は優美ともいえる。
一見して、意識を奪われるだけの力がある。

現在の樹は円山公園に植樹された枝垂れ桜の二代目である。
一重の桜で、推定樹齢は80年ほど。
もうかなりの老樹で桜守りの佐野さんのご尽力がなければ、
とうに枯れているのではないかとも思う。
画像を見ても切断もし、接ぎ木もしているようにも見える。
現在は15年ほど前の優美さは損なわれて、ちょっと痛々しい。

樹が弱った原因は老齢ということもあるのだろうが、
主にカラスの害とも聞く。それとともに付近の喧騒、
ライトアップ、すぐ側での篝り火なども起因するのではなかろうか。
花のシーズンともなると人々が押し寄せて、昼も夜中も騒ぐという
日々の連続では桜であってもストレスは相当のものだろう。
付近には寺社が多いが、花の頃には人の狂態が見られる。

もともとこの地は「円山安養寺」や「八坂神社」などの土地だが、
明治の上地令によって各寺社の敷地は削られて、公園となった。
それから120年ほどになる。公園名は円山安養寺から採られている。
古くは「真葛が原」と呼ばれていて、山城の歌枕のひとつだ。

私がこの樹が桜の花をつけているのを初めて見たのは、そんなに古いことでは
ないように思う。仕事を持っている時には平日はもちろん休日も関係なく
おおむね仕事の毎日だったので、出歩くことは少なかったのだ。
とはいえ2000年までには何度も見ているはずだが、当時は写真を撮るという
習慣もなく、証拠となるものがない。

2000年を超えたあたりから写真は撮ってはいると思うが、残っているものは少ない。
不思議なほどに画像がない。それが残念だ。桜は花を付けた日数はとても少なくて、
相対的に満開の頃に見に行くこと自体が少ない。花の頃はあまりにも短い。
あるいは古いCDに入っているかも知れないのだが、調べないままである。

もし出て来るようであればアップすることにします。
少しですが「桜花紀行総合」の「京都祇園の桜」に入れています。

桜花紀行総合























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