毎日、一生懸命

一生懸命なんだけどなあ。

樋口一葉・斎藤緑雨

2006-08-08 20:46:47 | Weblog
 樋口一葉は明治5年山梨県の農家に生まれる。父は商才があり蓄えた金で武士株を買い、江戸に出て八丁堀の同心になる。いよいよこれからお家発展というときに明治維新となり、武士は失業、一葉の家は没落。失意の父の死後、一葉は負債を背負い二人の妹を養うという厳しい生活を強いられた。当時女性が社会に出て働くことは難しく、女子師範学校を出て教師になるか、針仕事をするか、妾になるしかなかった。学歴のない一葉は師範学校はむり、近視眼で針仕事は嫌い、妾になる気はさらさらなかった(家が傾く前のかつての婚約者が妾になれと要求してきた)。一葉は自分で稼ぐしかなく、明治26年東京で一番地価の安い吉原遊郭の裏手で小さな荒物屋兼駄菓子屋を営む。


 和歌、小説を勉強していた一葉は、美しい女性で文壇の中で取合いがあるほど引っ張り凧だった。明治27年から29年という短い期間に後世に残る大作品(「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」)を書いた。他界は明治29年11月23日、24歳。今で言えば大卒後3年目。死因はスラム街で感染した肺結核。一葉が文壇の中で一番信頼したのは、当時「嘲罵の毒筆」で恐れらていた斎藤緑雨で、「原稿のすべてを緑雨に託せよ」と遺言を残した。二人が互いに知るようになったのは緑雨からの一葉宛の手紙であった。


 斎藤緑雨は明治元年に鈴鹿市神戸に生まれる。明治維新に斎藤家も没落し、父は東京に出て藤堂藩のお抱え医師となる。緑雨には小学校卒業の記録は残っているが、それ以上の学歴を示すものはない。彼は二人の弟を大学に行かせ、自分は文才を生かして評論活動をする。ところが緑雨の筆は、当時大学出の名だたる文豪、夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、坪内逍遥らを、大学を出たが世間を知らないものとして、歯に衣着せぬ物言いで鋭く批評した。緑雨は一時森鴎外、幸田露伴とともに一緒に仕事をするが、その鋭い舌鋒故に、次第に文壇から孤立して行く。


 そんな緑雨が密かに信頼していたのは樋口一葉であった。緑雨は、人は「にごりえ」を「熱涙もて書きたるもの」と評するのを笑い、「熱涙」のうらに隠れている一葉の「冷笑」を看破していた。一方、一葉は緑雨の涙なき「嘲罵の毒筆」に対して「おもひ余りて涙をうちにのみこみつつにくき異見もいふ事あり」と言い、「嘲罵の毒舌」のかげに「涙」ありと見抜いていた。二人の信頼関係は、明治29年1月の緑雨からの一葉宛ての手紙に始まり、同年11月に一葉が肺結核で死ぬまでの短い期間に急速に深まった(緑雨29歳、一葉24歳)。緑雨は10月に森鴎外に頼んで、一葉を青山病院に入院させた(病床の一葉の服は大変みすぼらしい。東京の樋口一葉記念館に展示)。そして、一葉は全ての原稿を緑雨に託した。二人は学歴こそなかったが、人の判断ではなくて自分の目で見て判断し、人の心を見抜く目を持っていた。


 緑雨の悪意すら感じられる批評は、当時の西洋からの輸入文化を寵愛する文壇に向けられており、江戸文化を大事にしていた緑雨らしいといえば緑雨らしかった。緑雨が孤立して行ったのは、一葉と違って、自分の文学を託すべき<民衆>を見出せなかったからである。