梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

言葉というものの大切さについて

2016-09-29 14:32:14 | 日記
   中国語の授業を受けながら、よく感じることがあります。それは、「国語」というものに対する捉え方の違いです。

   私たちの担任とも言うべき中国人講師のS先生は、日本に来てから20年近くになり、相当に日本語が堪能ですが、それでも現在私たちが教わっているレベルの高い中国語に対応する日本語が見つからず、窮することが時々あります。そんな時、S先生は必ず私を指名して問いかけて来るので、私も油断ができません。

   幸い私は読書家タイプであると同時に、教育学部の英語教育学科卒ではありますが、勤めの傍ら東洋大学の国文科の通信教育を受け、国語科教育という4単位を残してすべての単位は取得しており、一般の方よりは国語の知識も豊富ですので、大抵の質問は無事切り抜けて来ました。

   ただ、私が答えた時の皆さんの反応に、少々気になるところがあるのです。最も歴然としているのは50歳間近な男性なのですが、私が答えるとすかさず、「知らない!」と言って笑い出すのです。これが「知らなかった!」であれば、笑おうが何をしようが気に障ったりはしないのですが、「知らない!」という発言を何度も聞くうちに、少々気分を害するようになってしまいました。

   私の耳には、「そんなこと知ってたって意味ないじゃないか!そんな言葉は時代遅れだよ!」という声に聞こえるのです。私が同様の体験をしたなら、素直に相手の知識の豊富さに感銘を受けると思うのですが、彼からはそんな気持ちは微塵も伝わって来ません。そもそも、いちいち「知らない!」と言って笑い出す必要性が少しも無いシチュエーションではないでしょうか。

   その度に私は足立高校でのある日の授業を思い出しました。私が何気なく「ギャル」という言葉を使った途端、私から見ればギャルそのものでしかない女子が、「それ、もう死語の世界!」と馬鹿にして嘲笑ってくれたのです。決して頭の悪い子ではなかったのですが、彼女にとっては、自分が知り、自分が使っている言葉が世界の全てだったのです。自分が使わないとしても、一般社会においては定着してしまった言葉だということが理解できていなかった訳です。

   彼もまた、この女子と同じ過ちに陥っているような気がします。言葉の世界の広さや深さとは縁の無い世界で暮らしている人に、その奥深さや無限の広さを理解しろという方が無理なのかも知れませんが、言葉は思考を支配します。人は自分の持つ語彙の範囲でしかものを考えることはできません。もちろん、無学な老人が人生の達人めいた名言を吐いたりすることはありますが、それは実生活から生まれたもので、思考の世界から生まれたものとは少し違うような気がします。

   もちろん言葉というものは時代と共に変化していきます。単なる発音だけでも、こんなに変化しています。

「パルパ アケボニョ イヤウイヤウ ツイロク ニャリイウク イヤマギバ」

   枕草紙を当時の発音通りに読むと、こうなるのだそうです。原文を知らない人には全く意味が分かりません。

   次々と新しい語彙が生まれては消えて行く現代においては、「ら抜き言葉」を使う人がついに過半数を超えたというニュースがありましたが、言葉というものは単なる道具ではなくて、その民族の歴史と英知の賜物です。その知識が豊富な者が不足している者に笑われる・・・・。理解不能な現象です。

   実は、SNSで若者と議論をしていると、全く同じ行き詰まりが生じて来ます。彼らの多くは、私たちの年代と比べれば、遥かに語彙も知識も不足しています。しかし、彼らは自分の知識の範囲内でしかものを考えようとはしません。新しく提示された知識を受け入れる気持ちがないので、最初に自分が達した結論を修正することができないのです。概ね、何バカなことを言ってんだ!という口調で、(彼らにしてみれば)私たちの意見を一蹴してしまいます。

   実は私たちが提示しているのは、彼らにとっては未知の領域、つまり新しい知識なのですが、彼らの受け止め方は、年寄りが訳の分からないことを言っている・・に留まります。実際には若者たちの意見こそ、何十年も変わらない化石のような考え方なのですが、今までのところ、それをわからせることが出来た人はいないようです。

   こうした傾向が続けば、日本人の思考能力は確実に衰退していくことでしょう。特に古典の教育が軽んじられることによる文化的衰退は目を覆うべきものがあります。何しろ国語教師自体が古典の知識が素人並なのですから、今後の成り行きはもはや目に見えていますね。
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本日の弘田三枝子

2016-09-27 17:30:02 | 日記


   遥か昔に書いた、弘田三枝子に関する書き込みが、案外いまだに読まれている気配があります。弘田三枝子と言えば、日本がこれから高度成長に入るという時期に登場し、まだティーンでありなががらパンチの聞いた歌声で強烈な印象を残していました。

   主にアメリカン・ポップスのカバー曲を歌っていましたが、日本が徐々に自信を取り戻すにつれて、彼女もまた需要がなくなり、姿を消していきました。

   そしていつのことだったでしょうか、「人形の家」という曲で、復活して話題を呼んだのですが、美しくなった彼女を見て、どう見ても整形だろうといううわさが立ちました。

   結局彼女はこの一曲のヒットをもって表舞台から姿を消し、もっぱら顔の見えないCMソングを歌って命をつないでいたようですが、今日東京MXTVの順俗悪番組、「5時に夢中」で、その姿を見ることができました。

   おそらく70歳になるはずですが、どこかデビ夫人を思わせる顔つきになっています。おばあさんになったので、過去に整形手術を受けたことが明確な顔つきになっています。都市をとれば顔が崩れていくのが当たり前ですが、彼女の顔はとても不自然に固まってしまっていますね。

   この顔を見て、「だめだこりゃ!」と思うか、「70歳になってもこれだけ維持できるなら、整形侮りがたし。」と思うかは、人それぞれだと思いますが、自然界には存在しない顔のおばあさんになってしまっているので、私個人としては、どちらかと言えば前者の立場ですね。

   弘田三枝子を見るにつけて思います。現在整形手術を受けた結果として、美しさを手に入れた女性の皆さんは、将来どんな顔つきに変貌していくのか、不安になります。韓国の女性たちの多くは、弘田三枝子のような顔立ちのおばあさんになって行くのでしょうか。

   ちなみにどんなに年をとっても、豊胸手術を受けた女性の胸は永遠に張りのある立派な状態を維持できるのだそうです。これは病院勤めをしている方から伺った話なので、間違いない話です。孫がおばあちゃんとお風呂に入ったら、胸だけお母さんより立派だった・・・。それもどこか違和感のある話ではありませんか。
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東京では部落問題に関する授業は行っていない件について

2016-09-25 11:38:15 | 日記
   コメントありがとうございます。話が部落問題にまで広がって来ましたが、関東に被差別部落がなかったわけではありません。江戸川区で言えば篠崎、葛飾区で言えば青砥が該当します。教師の中にも妙に熱心な人がいて、授業中に部落民の女の子に自分は部落民だとカミングアウトさせて良いことをしたような気になっている人がいました。

   しかし、東京の場合、大阪とは多少事情が異なるかもしれません。たとえば浅草を含めて、そこから北は昔の言い方をすれば「エタ」の居住地でした。浅草に太鼓やのような、皮革を扱う業者が今でも見られるのはその名残です。足立区には弾左衛門と呼ばれるエタの元締めが住んでおり、江戸の皮革業を一手に支配下に置いていました。エタは農業をしませんので、荒川区や足立区には荒れ地が沢山残っていました。この弾左衛門は屋号のようなもので、代々受け継がれており、被差別階級ではありますが、正月に江戸城に登城し、将軍に挨拶することが許されていました。

   一方非人と呼ばれる人たちは、主に牛馬の死体の処理や、川をさらったりする、清掃局の代わりのようなことをしていましたが、こちらには車善七という元締めがおり、非人たちとその業務を一手に取り仕切っていました。細かく言えば被差別民は他にも様々な限定的職業があったのですが、大きく分ければこの二つに整理することが出来ます。

   関西の様子は知識がないのですが、東京の場合には大規模な組織として被差別民がまとめられており、もしかしたらその点が関西とは異なる点かも知れません。また、江戸の昔から東京は膨大な流入人口があり、部落対その周辺の一般人という対立構造が薄かったのかも知れません。少なくとも私の知る限り、朝鮮人や韓国人に対する差別意識はあっても、部落というものそのものが東京人の念頭に無かったという気がしています。職業柄、部落民の子を教えることはあった訳ですが、生徒たちは、誰も気にしないどころか、気が付きもしませんでした。

   従って東京の場合には、放って置けば完全に消滅してしまう運命にある部落差別というものを、改めてほじくり返して意識させる必要がなかった、ということになるのではないでしょうか。しかし、いつも思うのですが、「○○差別反対!」と気勢を上げるのはいいのですが、その際には必ず、誰を差別しなければいいの?という疑問が伴うような気がしてならないのです。大阪の皆さんの考え方は分かりませんが、とりあえず東京では意識させる必要がないから部落問題に関する教育は行っていないということだと思います。私自身、部落の存在についてすらも、教室で教えようと思ったことが一度もないのです。
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「在日」はどこへ行くのか

2016-09-24 14:59:57 | 日記
   Kさん、コメントありがとうございます。墓地の供え物、困りましたねえ。その内にプラスティック製の果物なども登場することになるのでしょうか。日本が本当に貧しかった時代は、墓地の供え物は貴重な食糧ともなったようですが、現代はそんなこともなく、花と共に供え物も現場で朽ち果てていくのでしょうか。

   しかし思うのですが、寺の墓地であれば毎年相当な金額を納めているのですから、一定期間が過ぎた供え物は寺の責任で撤去して欲しいと思いますし、共同墓地もまた使用料を取っているのですから、撤去は使用料金のうちに含まれていると考えてはいけないのでしょうか。ビニール袋を持って巡回しても、そう過剰な負担になるとは思えないのですが、いかがでしょう。もはや経営姿勢の問題ですね。

   最近、「在日一世の記録」という、800ページ弱の本を読みました。戦前強制連行で日本にわたって来たり、戦後済州島の赤狩りを逃れてやって来た朝鮮人や韓国人の聞き取り手記のようなものです。全体を通じて、日本に対する恨みつらみのみが深く深く貫かれていることに、とても違和感を覚えました。戦前渡ってて来た人たちは帰国船が用意され、自由に帰れたにも関わらず帰らなかった人が245名。連れてこられたことを恨むなら喜んで帰国すれば良かったものを、日本に居座っていまだに恨みつらみをぶつけ続ける気持ちが分かりかねました。

   一方、済州島から渡って来た人たちは、全員が密航者です。しかし、着の身着のまま密航してきた自分たちを追い返すでもなく受け入れ、定住を許した日本に対する感謝の気持ちがありません。こちらもまた恨みつらみしか残っていないようです。半島人に対する差別が激しかったということなのですが、彼ら自身、半島内で同じ民族同士で差別をしあっていたのですから、大きなことは言えないはずです。

   ただ、今になって思い出すことは、私が幼かった頃、それとは知らずに接していた人たちの中に、朝鮮人や韓国人がたくさん混ざっていたということです。夕方になるとやった来た紙芝居のおじさん、新井さん、新井というのは朴さんが好んで使った日本名です。少年たちが競って屑鉄を拾い集めては買ってもらっていた屑屋のおじさんもまた、半島系の人の職業でした。冬になるとやってくる、「ポンせんべい」のおじさんも・・・・。
 
   先日、在日韓国人の若者たちが50人ほど集まって合宿を行い、結束を固めました。自分たちはこれからも「在日」を生きる・在日同士で結婚する・・・・・等等・・・・、決意表明をしたそうです。

   在日というのは、ある意味できわめて特殊な国籍のようなものです。外国人ではあり、日本出国に際しては事前に手続きを怠ると、再入国できません。パスポートも韓国政府が発行します。しかし、韓国人男子に必須の徴兵の義務がありません。日本における社会保障は、とても充実しています。「在日として生きる」ということは、少々不便さを伴うものの、かなり便利な生き方なのではないかと思います。

   ただし、現状を顧みるに、在日の人たちは、自ら再び被差別への道を選択しつつあるような気がしてなりません。城東高校に勤務中に感じた、無知なまでの差別意識の無さ、そうしたものが、先述の、在日自身が選択する生き方によって、再び失われてしまいそうな気がします。私にはこの先を見届ける時間は残されていませんが、彼らの持つ異質なプライドが、これからも私たちとの関係を破壊し続けるのではないかと危惧しています。
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エントランスの造花・・・あり?なし?

2016-09-23 17:14:40 | 日記


私の住むマンションのエントランスに飾られている花です。片方はサボテンですが、花の方は四季折々に取り換えられています。先日までは向日葵(ひまわり)が飾られていました。
生花では頻繁に交換しなければならないので、これは造花です。

   皆さん、花があるな、という程度の認識で、特に気にする人もいなかったのですが、マンションの総会の場で、これが問題になりました。匿名で、管理組合に投書があったのです。

   投書の主によれば、玄関口に造花を飾ることは、風水上悪影響があるのだそうです。風水と言えば中国。当マンションの住民で中国籍の家は一軒しかないので、普通に考えればその家の人間が書いたものなのではないかと想像してしまいますが、その中国籍の人という方も、総会の数少ない出席者の一人でしたが、特にこれと言った意見を述べないところを見ると、違う方による投書なのかもしれません。

   中には、造花を飾った人と犬猿の仲の人がいて(そういう話を聞くと、女性同士の、テレビドラマを想像してしまいますが)、やることなすこと気に入らないから投書したのかもしれないから、自分は関わりたくないと言い出す人まで出て来ました。この日のテーマの一つが、最近駐車場の車の屋根に大便が載せられていることがあるというものでしたので、皆さん少しばかり憂鬱な表情になってしまいました。(この件については、私は載せられていても気にもしなかったのですが、警察に通報した人がいて、未だにお巡りさんが巡回しています。)

   最終的には、私が「匿名の投書には有効性が認められないから、取り上げる必要無し。」という意見を述べて、造花事件はそれで終わりとなったのですが、何しろ法的には、「パブリック・スペースに勝手に物を置いている人がいる。」ということが出来ますので、深く考えてしまうとどうにも収集がつかなくなってしまうのです。善意の行為であり、誰も迷惑はこうむっていませんし、一方的にその方の負担で行われていることなので、みんなで知らん顔をしていよう、という暗黙の了解が出来上がったような気がします。

   しかし、一体これは「あり」なのか、「あってはならない」ことなのか、実に難しい問題です。

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