雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

川崎航空機時代

2017-08-30 06:17:29 | カワサキワールド

★ 田崎さんが昨日こんな写真を送ってくれた。

 

古い写真です。 皆で仲良くゴルフを楽しんでいました。(常務から平社員まで一緒です。)

柿沢さん、 中村治道さん、土井さん、清水屋さん、壱岐さん、田中 誠さん、谷岡さん、岩城さん、山田エンメイさん、塚本さん、井出さん、などの顔もあります。

ちょっとピントが悪い写真ですが、拡大して、知り合いを探して見て下さい。

 

 こんなコメントが添えられているのだが、

 

    

 

   

 

   

 

  常務から平社員まで一緒です。

  とコメントされているが、田崎さんも未だ多分平社員の頃かも知れない。

 当時の川崎航空機は、上から下までそんなにムツカシイ関係ではなく、非常に自由な雰囲気があった。

 私は、昭和32年田崎さんは昭和33年(1958)の入社なのだが、まだその頃はアメリカ空軍の東洋で唯一のジェットエンジンオーバーホール工場があって、そんな時代に事務所にカフテリアがあったり、IBM室があったりしたし、IBM室はエアコン完備だったのである。

当時そんなことは日本では考えられなかった時代なのである。IBMという会社はまだ日本にはなかったし、IBMが日本に入ってきたのは東京オリンピック前後のことだから、その10年も前の時代である。

 

 川崎航空機工業は 戦前からある企業だが、軍事産業ということで戦後長い中断があり、それぞれの部門が高槻や、播州や岐阜などそれぞれで分散してやっていたものが、昭和27年に再開されて、いろんなところに分散していた人たちが集まって川崎航空機工業となったのである。

 昭和32年当時は、神戸に本社があり、岐阜と明石に工場があって、元々明石はエンジン工場、岐阜は機体工場だったことから、明石工場ではジェットエンジンや、発動機のエンジン、歯車ミッションなどの生産が主体で、いまのロボットなども基礎研究課でやったりしていたのである。岐阜はバスボデーなどやっていた。

 旧い会社だが、みんなが集まって新しく発足したので、会社自体の雰囲気も非常に新しかったし、特にジェット部門はアメリカ流の生産管理システムや、IBMシステムがあって非常に進んでいたし、アメリカ軍人もいたので、何となくアメリカ的な自由な雰囲気もあったのだろうと思う。

 私が入社した昭和32年ごろは、財産課に配属されたのだが、財産管理台帳も碌に揃っていなかったし、会社も未だ苦しかったのだろう。ジェットエンジン工場の財産物件は、普通は1万円以上が財産物件なのだが、新設工場ということで300円以上のものをすべて財産物件に計上したものだから、すだれやバケツの類まで財産物件に計上されていて、私はその『工具器具備品』の担当をしたものだから、償却計算をする量は圧倒的に多く、1年中、手まわしのタイガー計算機を回して償却計算をしていたのである。

 そんな償却計算の機械化が出来ないかと、入社2年目IBMでの償却計算システムを検討し、岐阜も本社も巻き込んでの機械化をやったのだが、新入社員がそんことができる自由な雰囲気があって、まだ岐阜と明石でいろんなことが統一されてない時期に、償却計算だけが『全社統一』で完成したのである。多分日本で初めての『IBMによる償却計算』だったはずである。

 1年以上掛ったが、償却計算の機械化が出来ると財産課で償却計算する人員が要らなくなって、私は昭和36年に初めてできた単車営業部門に異動することになったのである。

 

★写真に写っている時期は、多分 1970年初頭だろう。

その頃、日本にもゴルフブームが始まって、一斉にゴルフをする人ができて、常務から平社員まで一斉にゴルフを始めたと言ってもいい。 みんなが新人だから、先輩・後輩なく一緒に楽しんでいたのだと思う。

このころは、私はまだ営業の第1線にいて、ゴルフなど始めていない。現場で一生懸命動いてるのに、明石では『ゴルフなどしやがって』と文句を言ってた頃である。今は、Z1会のゴルフ会の会長をされている大槻幸雄さんや、技術部長をされてた高橋鐵郎さんなども、文句を言われる立場で『ゴルフのクラブ狩り』をやらねばならないなどと言ってた時代だった。

そんなことで、私がゴルフを始めたのは40代半ばだし、高橋さんや大槻さんは50代になってからだと思う。

 

★それにしても、ここに写っているメンバーは懐かしい。

 カワサキの二輪事業の創世期を支えた人たちばかりである。

 私が二輪営業にきたころの直接の上司が壱岐敏さんだし、田崎さんの仰る中村治道さんが、あの『青野ヶ原のモトクロス』の旗を振られたのである。

 田崎さんも、Jet から単車にやってきて、桑畑さんの下で、JET流の最先端の生産管理システムや、部品在庫管理システムなど、日本の最先端のノウハウを駆使して、カワサキの単車事業のシステム構築に尽くされているのである。このメンバーではJETの総大将とも言える苧野豊秋さんもいるし、KMCの初代社長の岩城良三さんもおられる。当時の技術部長で創成期のレースを一緒にやった山田熙明さんもおられる。

 

私のカワサキの二輪事業ではいろんな部署を経験しているがその異動の指示はみんなこの写真に写っている方の指示なのである。

 ● 初めての営業仙台事務所を創れと指示されたのは 岩城良三さん。 (1966)

 ● その東北から、大阪に異動した指示は、田中誠さん (1970)

 ● その後カワ販本社に戻ったのは、田中誠社長と当時の苧野専務の指示 (1973)

 ● その後、川重に戻り、アメリカのダンピング対策でカワ販常務に動いた時の事業本部長が塚本碽春さん (1978)

 ● 単車事業本部の危機と言われた時期、企画部長に戻れと指示されたのが当時の山田熙明専務 (1981)

 ● それ以降の私の人事は、それまでずっと一緒に動いてきた高橋鐵郎さんの人事なのである。 (1987~)

 

★ こうしてみると、カワサキの二輪事業は、かっての川崎航空機のメンバーたちが創り上げた事業だなとつくづくそう思う。

そして、結構早い時期から、田崎さんとは『コンビを組んで』といってもいいほど長くいろんなことをやってきたなと思っている。 別に、そんなに『気が合った』かどうかは別にして、二輪事業では間違いなくお互いが『認めあいながら』やってきたなと思っている。

 そして、田崎さん、4年間ほど体調悪くて臥せてたのに、今年の1月『奇跡的に復活して』私とのネットでのコンビもまた『復活した』そんな感じなのである。

 田崎さんとはもう50年以上のお付き合いで、川崎重工業の社長までされた田崎さんだが、幸いにして年次は私の方が1年先輩なので、田崎さんもそのように接してくださっているのである。

 そういう意味では、独特の「ご縁がある」のだと思う。

 川崎航空機時代、お互いその頃のままの関係が今でも続いている。

 

 

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