復活日本 ~その日まで~

日本復活のその日まで、玉石混交の色んな情報を拡散します。

日本国内における言論封殺事案とその背景

2016年09月24日 | 日記
 言論弾圧、言論封殺の流れが急速に拡大しているようです。
 それはあの川崎デモ妨害事件以後、沖縄県の高江村で謎の市民団体が勝手に検問を行ったり、地元住民の方がそのために逮捕されたりという現実社会の事件に加えて、ネット放送やらFacebook、Twitter、Amazonnoレビュー削除、そしてGoogle+においても同様です。

 【高江】住民を検閲する過激派プロ市民

 桜井誠氏の「Abema TV」チャンネル、「1日」で閉鎖 放送前から「ヘイト」批判殺到

 緊急速報 FB(フェイスブック)が情報統制を始めました。F-セキュアが絡んでいます。

 Amazonがおかしい、不可解なレビュー消し

 外患誘致罪が天安門事件になったかも

 現実社会においては、あの横浜の病院で点滴に異物混入された殺人事件も起きていますね。これ、少し前に余命三年時事日記に記録されていた「在日医師Red通報事案」というのを覚えていますか?独立行政法人国立病院機構南和歌山医療センターの在日医師 金栄浩による患者への異常行為。患者の点滴に唾を入れるなどと言っていた在日朝鮮人の内分泌の医師のことです。一つの事例があれば、以後、それは繰り返されると思う、確実に、時間と場所を変えながら。
 これは言論弾圧とは趣が異なりますが、根は一つだと思いますね。言論を殺すか、人命を奪うかの違いだけで。これ以外にも、もうかなり以前から頻発するようになった列車の人身事故ですね。公園のベンチで動かなくなった人が発見されたなんてのもあるし、あちこちで人の腕、胴体、足が発見されたりしてますしね。これが清浄な日本国の日常風景だと思っている人は、余程の馬鹿かお花畑な方々何でしょうねwww

 さて、ここからが本題です。
 余命三年時事日記「外患誘致罪」の発売により、反日勢力・朝鮮勢力による日本国内言論封殺の発狂が本格化し始めましたように見えます。これ、何もネット空間だけの問題では無くてね、「人権」を盾にした実質的な人権擁護法案のごり押し実施ということになるでしょうね。具体的には、桜井誠氏のネット放送が廃止されていたり、川崎デモが市長が先頭に立って妨害してみたり、法務省人権擁護局が日本国民の人権侵害をしてみたり、沖縄県知事が日本国民(沖縄県民)を人質にして日本政府を恫喝していたり、鹿児島県知事が山口組ヤクザまがいの恫喝を九州電力に実施したり・・・枚挙に暇がありませんね。
「気狂い、片輪、めくら、つんぼ、おし、びっこ、えった・・・」といった古来からの日本語を差別用語と切り捨ててきたのも同じ背景。日本語から大切な言葉(言霊)を消し去っていこうとする悪神の企みが、いよいよピークを迎えようとしているように感じる。
 まず反日勢力・朝鮮勢力を黙らせる必要がある訳ですが、日弁連も地裁・高裁あたりまでも、そして法務省のかなりの部分までもが汚鮮されている状況を考えれば、穏やかな合法的手段というのはもう使えない状況な訳で、やはり最後のカードである「外患誘致罪」を切るしかないと思います。そして、まさにそれが今、粛々と進んでいる。そして、それに逆切れしたのか発狂したのかどちらかは知らないが、そういう対象になる方々の最後の足掻きが始まったと見るべきなのでしょう。
 私が多用しているネット界隈にも湧き出していた日本風・古色蒼然とした保守色を強く訴求したアカウント名やコミュニティの方々もまた、なんとも香ばしい反日・朝鮮フレーバーが漂っていた訳でwww勿論、こうした反日勢力の方々の中には、生まれついての日本人もおられますし、支那大陸や欧米諸国からわざわざ日本に来てお住まいになっておられる芸能界・報道関係の方々もいらっしゃいますし、色々な訳です。特定の国に偏っているのでもありませんね。

 で、なんでこうなってしまうのかということをあれやっこれやと考えてみたのです。
 結論的には、日本人以外の連中の本能だと思うのですが、他国に同化することを侮辱されたとか屈辱だと受け止めるんでしょうね。勿論、連中のなかには生粋の日本人も含まれていので、日本人の中にも何らかの区別が生じている筈だと。こうした感性を持つ日本人を真の日本人、それ以外の日本人を単に日本人と書いて区別したいものです。もう少し具体的には、日月神示的な表現を用いれば、連中には真ん中にあるべきものが欠けているんじゃないのかと。中心・芯というもの。日月神示ではこれを神のキ(神の息吹、気)と呼んでいる。私的に言うと、古神道的価値観である自然秩序への畏敬の念。これらが欠けているとどうなるか?謙虚さの喪失でしょう。何せ、我こそが正義であり、我こそが自然界の秩序決定者であり、我こそが生物界の最高峰にある人間様であり、我こそが地球の支配者であり・・・という傲慢さのなせる業であろうと。
 だから、自分達の考え方や生活習慣や規則なども、住まわせてもらっている国のそれらに決して同化しようとはしない。否、「住まわせてもらっている」という感覚ではなく「我こそが当然の権利保有者であり、その権利を行使して住んでやっている」つもりなのでしょう。これが連中の思考の原点だと思います。これ、いわば獣の本能そのものです。犬でも馬でも猿でも蛇でも鳥でも昆虫でもおよそ人以外の生物は、何か中心のものから「いただいている、授かっている」という本能や感覚に至らないのと同じでね。ところが真の日本人は「お天道様」だとか「神様」がいつも見ておられて、そうしたものに自然と感謝しながら謙虚に生活してきた筈。最近はそうでもなくなってきたようですけどwこのまったく異質な価値観の衝突が今起きている様々な現象だと思えてくる訳です。

 連中(真の日本人以外ですけど)は、生きていく上での中心・芯が欲望・独善そのものなんだと思います。西欧では一応、ユダヤ教、キリスト教という宗教、イスラム圏ではイスラム教という宗教、インドではヒンドゥー教や仏教、特亜では儒教や道教といった具合に、何らかの哲学や宗教が生活に根差しているのでしょうが、その基礎に置いている哲学あるいは宗教が本質的に欲望実現の手段と化して歴史を刻んできたということなのでしょう。発生当初は本来そうではなかった筈でしょうけど、代々受け継いでいった教祖様は所詮人間ですから、時間経過と共に欲望が膨れ上がっていったのだと思います。
 その中心・芯が欲望実現の教えに変質してしまったものだから、当然、それに従う連中の生活習慣や法も経済も科学技術もその教え通りになり、それが連中の文化・文明として固定化されていったものだと思う。
 一方、日本は一万年以上も前の縄文時代からの自然観である古神道が営々と江戸末期まで続いてきた。勿論、儒教も道教も仏教も伝来し、キリスト教も伝来したけれども、古神道はそれらをも呑み込んでしまうほどの大きな存在だったかと思います。これは「お天道様が見ている」と表現できる程に極めて単純で、日、月、星、海、空、風、石、岩、水、火、草木、人、犬、猫、などのありとあらゆる存在に神(自然秩序)を見出し、それを畏敬してきただけのことだからでしょう。単純さこそが命だったと思います。そして日本人の中心・芯は、まさにこの神(自然秩序)なのだと思うのです。ここには偉そうな人が堅苦しい「教え」を垂れる訳でもなければ、大上段に振り被った「教義」も無い。ましてや教祖様なんか縄文時代から存在したこともない。しかし大東亜戦争敗戦後のGHQ神道廃止指令にもかかわらず古神道は今も秩序を持って営々と続いている。宮司さんなどの神職は教祖とか教えを垂れる立場の人ではなく、それぞれのお宮さんのお世話係に過ぎません。ただの人ですw

 一時期、明治時代に強制的国民統合というウシハク統治目的で伊勢神宮を中心とした国家神道を押し付けられ(つまり国教化)、それが後の皇国史観に変質し、大東亜戦争敗戦までの期間、続いてきたことになる。つまり、これが一万年以上も続いてきた神道を唯一捻じ曲げて利用した日本国の最悪の過ちだったと思う訳です。それが敗戦を経て徐々に再び本来の日本人の自然秩序観(古神道観)に戻りつつあるように見えてきます。こうした時間的経過の中で起きている価値観の衝突が現在の日本国内の混乱だと感じています。