管理職のための組合運動

一般に管理職は労働組合員にはなれない。辛い目にあっている管理職の人々のために役立つ労働運動について考えて行きたい。

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桜田門外の変(2)

2008-11-14 19:04:02 | Weblog
なぜ32才の青年松陰は殺されたのだろいか?

その理由を探しながら、このブログを書いている。
カエデからシュロへとブログのテーマを変えてくれたのは、新宿区弁天町9 の宗参寺墓地にある山鹿素行の墓だった。
松陰の墓の次にそこを訪ねて、山鹿素行の墓のそばに屋根より高いと思われる背の高いシュロの木が2~3本立っていた。

松陰は長州藩では山鹿流兵学を藩校で教えていた。

しかし素行と松陰は活動した時代がかなり異なる。
素行が松陰を教えることは不可能である。

素行の死後、後年平戸藩に素行の末裔が家老職としてで招かれている。
あのマツラ国(末羅国)と同じ音読みの松浦(マツラ)水軍の末裔が藩主の国である。

松浦候は忠臣蔵でも両国橋まで吉良の首を検分に来ている。
武器の搬送は平戸藩の船が貢献していたであろう。

また佐久間象山暗殺のとき、河上彦斎の傍に兄弟と思われる平戸藩士が参加していた。
あとでとてつもないことをしでかしたと、河上彦斎は暗殺を後悔した節がある。
しかけたのは平戸藩ではなかったか。
以後人斬り彦斎と恐れられていた河上彦斎が、ぴったり人斬りを断っている。

長州の吉田松陰や肥後熊本藩の宮部鼎蔵(河上彦斎の同郷の尊敬する先輩)は、平戸へ行ってともに山鹿流兵学を学んでいる。
両者が親しくなったのは平戸での修行時代だと思われる。
ザビエル以降、日本の平戸はキリシタンの拠点となっているところでもある。

そして両名とも井伊大老の時代に殺されている。

松陰は小伝馬町牢屋敷で士分を剥奪されて身分を落として斬首、宮部は池田屋事変で負傷し、捕縛されてから自害している。

桜田門外に安政の大獄の首謀者、井伊大老を早朝まちぶせていたのは、水戸浪士たちと一名の薩摩藩士だった。

大名行列を町民たちは大名図鑑のような冊子を片手に土下座して見物する習慣があった。
図鑑には家紋と大名の系図や石高、人事などが描かれており、庶民の楽しみでもあった。

大雪の早朝に、道端で土下座している十名前後の武士の姿に異常を感じなかったのだろうか。
それとも大雪でもおのぼり観光の庶民は楽しみにして一斉登城する大名行列を道に並んで見物していたのだろうか。
その中に水戸浪士たちが紛れ込んでいたとすれば、異常を察知することは難しいだろう。

江戸時代のテロ対策を自然に考えてしまう。

その日の朝の雪の中で、藩主登城のための準備をしていた「ある藩の武士」が語っている。
「ある藩」としたのは、明治維新後のことであるが、出典の中でも「匿名の元武士」として報知新聞記者の取材に答えていたからである。

幕末百話(篠田鉱造著、岩波文庫)よりその早朝の様子を抜粋しよう。

「(一部略)
三月三日の節句で、上下おしなべて弥生雛様ですから、娘子供は此日(きょう)を晴れと飾立て、遊びに出よう、お客様に聘(よ)び、聘(よ)ばれようと思うていたものを夜中からの大雪、土気色(つちけいろ)の雲は低く垂れまして、礫(つぶて)のような雪がトットと降る。

朝眼が覚めて驚きました。
私もご主人の供で本丸へでねばならぬ。

コレは諸大名の御登城、サゾカシ御困難。
供廻りの苦辛(くしん)は察しられる。

自分も寒いこったと、何の気なしにソンな事を思っていました。
卯の刻明(あけ)六つには諸大名総出仕の御儀式があるんで、主人のお供をせねばなりません。」(抜粋終り)

その日の早朝の様子がありありと脳裏に浮かんで来る。

「お八ツ」によれば、江戸時代の時刻の呼び名は以下のようであった。
http://www.tamagoya.ne.jp/potechi/2005/20050919.htm

夜が明ける、これが「明六つ」である。
「明六つ」から「暮六つ」までを昼として6等分する。
また、「暮六つ」から「明六つ」までを「夜」として6等分する。
そうやって一日を十二等分したそうだ。

時間は「明六つ」から五つ、四つと減って行く。
正午は決まりで「九つになるそうだ。

正午過ぎは、八つ、七つと減っていく。
午後2時頃を「お八つ」と言って小腹を満たしたのが、「おやつ」の始まりだそうだ。

暮六つからが夜である。
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