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『倭の五王と記紀の不一致の謎』川村一彦

2014-04-08 06:40:21 | 小論文
「倭の五王」と「記紀」の不一致の謎
                       川村一彦       
わが国の古代を語り知るが上で未解明で多くの謎で包まれた「魏志倭人伝」で「邪馬台国」と「卑弥呼」は未解明で謎の中、一五〇年後の中国の史書に「倭の五王」について記述が残され、同時期の「記紀」に比定、目される天皇の接点を検証、邪馬台国候補の纏向遺跡より、佐紀古墳群から河内は古市古墳群から百舌鳥古墳群へ、葛城勢力の関与を窺わせながら、河内王朝の存在想定と、未解決の再考察と「倭の五王」の符合性と接点を探るものである。

「三輪王朝」から「河内王朝」
邪馬台国から大和王朝成立の、連続性及び経過についての歴史的説明はついていないが、纏向遺跡郡辺りと、箸塚古墳が卑弥呼の墓と仮定して、魏書の記述から一五〇年間後の倭の五王の「讃王」413年の東晋への貢物の間に何が想定できるか、倭の五王の出現の五,六代の欠史八代の天皇が、その鍵を握り、「記紀」に見る欠史八代は信憑性や実在性に不明な点多く、架空が一般的な評価であるが、僅かな記述の中に古代のなぞを解く大きな手掛かりやヒントが秘められているのではと思われる。
推定ではあるが、邪馬台国有力候補の纏向遺跡の卑弥呼の墓とされる「箸塚古墳」の祭祀の倭迹迹日百襲媛命は欠八代の七代孝霊天皇の皇女であるが、この時期が「魏志倭人伝」の魏国の使者の到来と重なったのではないだろうか。
欠史八代の後期の期間が初期ヤマト王朝の時代で倭の五王の空白の期間ではないだろうかと思われる。

欠史八代の記載事項が少なく、一般的には便宜上「記紀」の編纂に盛り込んだのではと推測される。93歳から123歳と当時の寿命として考えられないほどの長寿であり、各天皇の政治活動の実態記載がない。ただ氏族の系譜を記されており、皇宮、陵墓も橿原市から御所市に渡って展開されている。近年卑弥呼の墓と目される「箸墓古墳」祭祀される「倭迹迹日百襲媛命」は孝霊天皇の皇女とされている以上、邪馬台国と何ら関係があって統一されて、初期ヤマト王朝に継続されて行くのではないだろうか。
ある意味では国家形成の政変、混乱、淘汰、統一への舞台となった所で、曖昧な部分の編纂となったのではないかと推測を私見ではあるが想定する。

では初期ヤマト王朝と目される天皇と皇宮、御陵は何処の存在すのだろう。
欠史八代の後にその存在性の高いとされる「崇神天皇」「景行天皇」宮、御陵など集中する柳本古墳群などがある。

第10代「崇神天皇」柳本古墳群の中に崇神天皇の陵墓、宮が残されている。その中に纏向遺跡も含まれるが、ヤマト王朝の起源をから河内王朝までの波乱を検証するに初代ヤマト王朝の起点的存在の「崇神天皇」は昨今卑弥呼の墓と称される「箸墓古墳の記述に倭迹迹日百襲媛(ヤマトトトヒモソヒメ)が亡くなった時に、大市に墓が造られたと言う。
崇神天皇の世に災いの疫病が蔓延したときに、「倭迹迹日百襲媛命」(ヤマトトトヒモソヒメ)とに大物主神が憑き「災いはわが子大田田根子を祀らせれば鎮まる」と告げた、大物主の言うとおりにすると疫病は収まったと言う。
またワトトヒモソヒメが「武埴安彦」の反乱予知し崇神天皇は撃退したと言う。
こうゆう風にワトトヒモソヒメは巫女的な役割にも担っていたようである。
又大物主の妻となって物語りは、何時も大物主が夜にしかやって来ないので、朝には顔見せて欲しいと頼み、神は「朝には箱に入っているから、驚かぬように」翌朝は子をあけて姫は驚き声を上げてしまった。
「お前は恥をかかせてやろうと」飛び去り、後悔をした姫は悔いて座り込み、その拍子に尻餅をつき箸が陰部に刺さり死んだという。
その墓が大和盆地で最も古い古墳とされ、卑弥呼の墓ではないかと近年取りざたされて、科学的実証でその史実性を認められつつある。
没年119歳、在位68年、皇宮磯城瑞籬宮、古墳柳本行灯山古墳。

第十一代垂仁天皇の時代は、在位年数99年の割りに大きな政変は無く神話として兄サホビコの謀反で后サホヒメの裏切りが有って後継の皇子ホムチワケが口がきけない障害を持って生まれてきたは魂の欠陥と思われ、不倫をした母サホビメの祟りとされて手を尽くすが、出雲の神オオクニヌシの祟りをお告げがあり、ホムチワケを出雲に向かわせ参拝した所突然ことを喋りだしたと言う。
これは出雲の豪族との紛争か治世に問題があったのかも知れない。垂仁天皇の政治は古墳の埴輪と土木の記述、土師氏の祖先とされる出雲出身の野見宿禰の角力が語られている。皇宮は纏向珠城宮、陵墓は尼辻宝来山古墳、139歳に没する。

第十二代景行天皇は神話の中では評判が芳しくなく、多くの妻と80人の皇子を設けて、そのうち三人の皇子が後継者と目されていた。その一人のオホウスが天皇の命で美しい姫を連れ帰すように指示されたが、その姫を妻として父王を欺いた。父王は弟のヲウスに諭すように言い告げた。
長い間、顔を見せないので尋ねた所、「夜明けに厠に待ち伏せ、捕まえて掴み捻り潰した」と答えた父王はその粗暴性に敬遠し、九州のクマソタケル兄弟を討ち取ることを命じた。叔母のヤマトヒメから御衣と御裳と剣のお守りを受け取り九州に、酋長のクマソタケル兄弟を女装し騙まし討ちをして殺害をした。
その功績で「ヤマトタケル」の名を与えられた。その帰りに出雲の国はイズモタケルがその脅威を振るっていたのを退治せんが為に、友情を装い策略でイズモタケルを切り殺してしまう。
この勇敢な英雄伝説は九州の熊襲、出雲国勢力の反乱の平定を意味すると思われる。
大和に戻ったヤマトタケルを待ち受けていたのは、労いの言葉も無く「東征」を命じられる。
自分だけに何故役目を与えられるか、出発前に会う叔母ヤマトヒメに胸に内を打ち明け「草薙の剣」を貰い受け東国に、伊勢、尾張、相武国で騙まし討ちに遭い苦境に、叔母に貰った袋から「火打石」でその場を凌ぎ、更に東に走水(浦賀水道)で嵐に遭い船は前に進めず妻オトタチバナが自ら海に身を投じて海神を鎮めた。
「草薙の剣」をミヤズヒメに預け伊服岐の山の神に行く途中に「白猪」をやり過ごし先に進むと、その「白猪」が山の神だった。
あしらわれたことに怒った「白猪」はヤマトタケルに「雹」を降らせ打ち負かした、傷を負ったヤマトタケルは伊勢国は「能煩野」辺りから力尽き息絶えて「白鳥」になって天に舞い上がり河内国を経て天高く飛び立っていった。
このヤマトタケル伝説は大和王権が未支配の地が残っていたことを意味し、未開国を平定するヤマトタケルの英雄伝に伝え残すものである。

第十三代成務天皇には継子が居なかった。在位六〇年皇宮は志賀高穴穂宮、107歳で没し政治の業績の記事戦乱も少なく、近江に都があった。陵墓は奈良市山陵町、
ただし「タラシ」の名前に付いているのは景行天皇の大足彦(タラシ)忍代別尊以後続く、深い意味があるのだろうか。
成務天皇に継子が無くヤマトタケルの皇子が第十四代中哀天皇引き継がれた。ここに来て直系が途絶えて、在年数九年と年齢不詳、気丈で謎の多い神功皇后がヤマト王朝を牽引して行く。

第十四代仲哀天皇はヤマトタケルの皇子が継子となり、后に神功皇后で記事には九州北部、穴門(山口長門)の記事が多く明らかにタラシ系の伝説の原型なる、神功皇后の影響と言えよう。皇子タラシナカツヒコ仲哀天皇は即位後九州へ遠征中に変死をとげてしまった。理由は神功皇后に神のお告げがあって、「西のほうにある、金銀宝財で溢れた国を与えよう」神のお告げに随わず「神を疑った」にあって怒りを買い変死をしたと記されている。後年の「白村江の戦い」の皇極天皇の客死に似ているが、兎も角朝鮮半島に行く途中の出来事で有った様で詳しくは分からない。
神功皇后が朝鮮半島への遠征の執着するわけは、神功皇后の出征の由来にすることが暗示をしている。

* 「神功皇后」の出生の逸話、新羅で日の光を陰部に射し、やがて身篭った女が「赤い玉」を産んだ。ある男子の赤い玉を貰い受けた。国主の子から牛殺しの疑いをかけられて「赤い玉」を差し出し許しを乞う。赤い玉は大きな娘になったが、驕れることに罵られ「祖国に行きます」と小船で逃げ出し難波に住み着き「アカルヒメ」と呼ばれるようになり「多遅摩」に戻って、八つの宝が持ち込まれ「出石神社」に祀られている。そして娘を貰い子孫に神功皇后が出ることになった。


「河内王朝の誕生」
成務天皇亡き後、神のお告げに従ったのか、神功皇后の新羅に遠征、見事に新羅を従えた。帰国途中で皇子(応神天皇)を出産した。
所が大和に帰る途中に皇子の腹違いの兄の反乱に遭い、麛坂王、忍熊王との跡目争いと言うより王権交代は熾烈を極め、これを神功皇后と応神天皇がまた打ち破り、皇子ホムタワケが即位する。
その戦いがヤマトから河内王朝への基点となったと言われる。
この頃には「タケウチスクネ」が活躍、禊をしょうと琵琶湖、若狭国を回った。
ホムダワケの即位の手続きが若狭の角鹿の神の名と交換し即位が承認された。

* 「古事記」説話の若狭まで行って禊を行なって名前を交換で即位が承認、この地の氏族の渡来系神社と祭神との影響があったのか。

即位した応神天皇には後継者に近淡海国で出合った美しい娘の間にウヂノワキイラッコが居た、その他にオホヤマモリとホサザキの異母兄弟が居た。
表面的には後継争いはなかったが裏面では作為を凝ら死、大王ホムダワケ亡くなると約束通りオホザキは弟のウヂノワキイラツコに後を譲った。
これを不満とした兄のオホヤマモリは納得せず軍勢を集め、ウヂノワキイラツコは川を渡るときに待ち伏せに遭い殺されてしまい、那良山に葬られた。
残った二人は互いに皇位を譲り合いをしている間に弟のウヂノワキイラツコが若くして亡くなってしまった。

オホサザキ仁徳天皇は即位した。聖帝の名の高い天皇は難波は高津宮で天下を治めたと記され、地水工事、堤、池など大規模な工事が起こされ今も地名に茨田の堤が残っていて河内湾は治水が悪く、民は苦しみその救済に年貢を3年間免除など数々の功績の話が残されている。
一面聖帝オホサザキは女性問題で后の嫉妬で悩ませる天皇であったらしい。后のイハノヒメは葛城氏出身で葛城氏との影響も有ったらしい。
陵墓は世界最大の堺市大仙町、143歳没した。

仁徳天皇の死後、即位をしたイザホワケ第17代履中天皇の治世は波乱に満ちていた。即位の祝宴で寝込んだイザホワケの宮殿にスミノエノナカツミコは火を放ち、イザホワケは危うく家臣に救われ、策略をもって弟スミノエニマカツミコを打ち取り、在位六年64歳で没した。

その次に第18代反正天皇ミズハワケであるが記事も少なく在年数五年と短くタジヒノミズワケと河内は丹比芝籬宮にて即位した。六十歳で没し、陵墓は堺市北三国ガ丘。

その次に王位に就いたのは第19代允恭天皇ヲアサヅマワクネは持病の為と辞退し続けたが断りきれず即位、遠飛鳥宮で政務を執った。新羅からの薬のお陰で病は改善されたと記され、氏姓制度に取組んだと伝えられ、全ての氏を甘樫丘に集め「盟神探湯」(手を湯に浸けさせ偽る者に誓約をさせる)氏姓を改めさせた。
 ミズハワケは後継者ヲキノシカルノミコに定め七十八歳で没した。陵墓は藤井寺市国府。在位42年。

第20代安康天皇は石上に宮を構え在位年数四年と短く56歳で没し奈良市は蓬莱に陵墓がある。
*仁徳天皇の皇子3人の天皇が皇位を継承争いに終始し、複雑な天皇家の後継争いに、実の兄妹が禁断の愛に陥り、兄のキナシノカルノミコと実妹は伊予に流刑で二人は自害で終末を迎える。あと継いだ安康天皇も誤解と策略の絡んだ柵で、前代未聞の天皇が殺害される事態で河内王朝の中でも短期間で終わる。そんな短い安康天皇の王権の間にも朝鮮半島の影響行使に派遣と東晋、宋、南斉、梁国に使節を送らなければならなかった。
またその他についても記述も記事も少なく謎の多い河内王朝後期であった。
安康天皇には後継者の継子も無く弟の雄略に皇位は引き継がれる。

第21代雄略天皇は在位24年間に多くの記事を残され精力的に天下の静動を見ながら国力を蓄え、支配地を広めていったと言う推測され、積極的に大陸に使者を送り「宋書」にある「倭王武」は雄略天皇と比定され、新羅、百済の関係も深め、国内においては均衡の取れた豪族の支配、人脈の布陣をしていたと思われる。
 またその評価については「悪、徳」の両面を甕備えた大王と言えよう、雄略天皇が王権に就くまでには対立候補の兄クロヒコ、シロヒコに二人に残忍な殺害をしたと伝えられ、その非情さの一端も窺える雄略天皇と複雑な後継争いが続いた。
* 応神天皇から仁徳天皇へとヤマト王国から河内に拠点を移し、国内的にも統治拡大と強力な外交を進め中国との摩擦を避けながら、高句麗の南下を阻止せんと「河内王朝」を確立し大和盆地の自然要塞から外交、交易の立地条件の良い内海の難波の津に一大拠点を築き、中国の文化吸収と、朝鮮半島の影響力を重視した政策を推進して行ったが、ここに来て熾烈な後継者争いに、大和へと主軸を移さなければならなかった。
   
「倭の五王」
「記紀」からの比定される「倭の五王」の中国の記述では倭王の名は「讃王」・「珍王」・「済王」・「興王」・「武王」になっている。
倭の五王の年表に拠れば下記の通りになっている。
◎413年、東晋王朝に「倭王讃」が安帝に貢物を献ずる。「晋書」安帝紀。
◎421年、宋王朝に「倭王讃」朝献し武帝より「倭王讃」除受を受ける。「宋書」倭国伝。
◎425年、宋王朝に「倭王讃」司馬の曹達を遣わし、貢物を献ずる。「宋書」倭国伝。
◎430年、宋王朝に「倭王讃」貢物を献ずる。「宋書」倭国伝。
◎438年、宋王朝に「倭王珍」記述による「倭王讃」が没し、弟珍が立つ、自ら「使持節都監倭・百済、新羅、任那、秦韓、慕韓の六国緒持安東大将軍倭国王」と称し、聖史記任命を求める。四月「倭王珍」安東将軍国王と認める。「宋書」倭国伝」
◎443年、宋王朝に「倭王済」宋・文帝に朝貢をして「安東将軍倭国王」とされる。「宋書」倭国伝。
◎451年、宋王朝に「倭王済」7月、安東大将軍を進号する。「宋書」倭国伝。
◎460年、宋王朝に「倭王済」12月、孝武帝へ遣使、貢物する。
◎462年、宋王朝に「「倭王興」孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。「宋書」孝武帝紀、倭国伝。
◎477年、宋王朝に11月、遣使して貢物する。「宋書」順帝紀。これより先、興没し弟の武が立つ、武自ら「使持節都督倭・百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国の大将軍倭国王」とする。「宋書」順帝紀。
◎478年、宋王朝に「倭国王」上表し、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国の緒軍事安東大将軍倭王」とする。「宋書」順帝紀・
◎479年、南斉王朝に「倭王武」高帝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍に進号。「南斉書」倭国伝。
◎502年、粱王朝に「倭国武」4月梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。

日本の比定される天皇としては「応神天皇」、「仁徳天皇」、「履中天皇」、「反正天皇」、「允恭天皇」、「雄略天皇」、「雄略天皇」である。
中国の呼び名から日本の天皇名に類似する点、和号の称号でも接点を見つけることは出来ない。
時代考証から推測するに「日本書紀」には天皇の系譜から「讃」=履中天皇、「珍」=反正天皇、済=允恭天皇、「興」=安康天皇、「武」=雄略天皇の説が有力視される。
この内、「済」「興」「武」は一般的に一致すると思われているが、「讃」応神天皇・仁徳天皇・履中天皇・「珍」仁徳天皇・履中天皇と意見が分かれる。

* この頃の日本の王朝はヤマト王朝から拠点を大和盆地の北辺りの佐紀古墳群の辺りから古市、百舌鳥古墳群のある河内王朝へと移しつつあると所かと思われ、邪馬台国から空白の150年が日本の支配権が、目下有力視されている纏向遺跡辺りの大和王権初期の地点で「箸塚古墳」卑弥呼の墓と推定するならば、大陸に交流を持って外交で朝鮮半島に支配を求めるヤマト王朝の安定したこと、ヤマト王朝が達成されて、尚内紛か権力争いで河内に活路を見出す新王朝の出現も視野に入れて、倭の五王を考えなければならない。
* 「魏志倭人伝」による日本の支配は「邪馬台国」の女王卑弥呼が記載されていて、その後150年を経て中国の史書に倭の五王の遣使が国交を始める。
貢物、朝貢と接触を図り、朝鮮半島への中国の王朝に承諾を得るためにの思惑があった。
413年から502年までに東晋、宋、南斉、梁王朝に対等な関係の国交を臨んだが中国の高麗国などの覇権を巡り日本の思惑通りには行かず、八十年間余りで国交が消滅する。
倭の五王は代が変わっても遣使を送り、朝鮮半島への影響力と支配を認めさせようと画策した。
「使持節都督倭、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓六国緒軍事安東将軍倭国王」と言う肩書きを貰ったが、実際は百済、新羅より格下の将軍称号で、最後まで百済への支配を認めなかった。
* 150年振りに中国への外交を開始した倭の五王は倭国の王名、天皇名、「記紀」の掲載名で呼ばれていなかったのか、呼ばれなかったのか、名乗っても中国風呼び名に改名され扱われたのかもしれない。
* 中国での天皇の和風諡号を何故使用されず、讃、珍、済、興、武と呼ばれたか、倭国も中国の時の王朝が使い、代々受け継がれてきたと思う。
 しかも侮蔑した名をつけて日本を従属国の扱いをしょうとした。邪馬台国、卑弥呼も「邪」,「卑」の名称も目下の扱いしたようだ。
* 一方的な中国の記述なので遣使との遣り取りを詳しく述べられておらず、各王朝の史書の記述も信頼性に乏しく、なかなか合致する項目がない。







  
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