歴史の足跡

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歴史は語る⑲文武即位と藤原不比等の台頭

2014-09-15 17:35:33 | 例会・催事のお知らせ
十九、文武即位と藤原不比等の台頭
中継ぎの持統天皇は子の草壁皇子と妹元明との間に生れた孫の皇太子軽皇子に譲位をするために、草壁の遺児の、軽皇子の即位の年齢まで待たなければならなかった。
軽皇子(かるみこ)十五歳に達するのを待って万を期しての譲位であった。文武天皇として即位後も、五十三歳の持統老女帝と孫の文武の二人三脚の治世であった。
この頃太政大臣であった高市皇子は前年に死去し、右大臣に多治比(たじひ)嶋(しま)に加え、大神高市麻呂が任じられ、文武の配偶者に、藤原不比等の娘宮子が夫人になった。
藤原不比等は表面的には出ないが、裏方で代々引き継がれた皇室の特別な存在として支えた。持統系の後継を引き継ぐためには重臣の協力なければ治世は難しく、父の鎌足同様裏方で支え続けた。
ただ不比等には文武の夫人に宮子を嫁がせることによって皇族の外戚となる事が出来るのは、蘇我一族と同じであった。
やがて藤原一族の朝廷中枢支配の足掛かり人っていくのである。鎌足の死から持統朝の三十一歳で官職に着くまでの履歴は明確でなく、鎌足の二男で長男の定恵は僧侶の道に入って、あの道照と同じ道を歩んだが若くして亡くなった。
父鎌足が死去した時には十一歳の少年であった。
大宝二年(702)持統太上天皇は死去した、天武没後から十六年間政務を執り、律令国家建設に尽力を尽くした。
持統の没後を支えたのは、草壁の兄弟の刑部(あやべ)親王(しんのう)が知太政官事に任じられた。右大臣に阿倍御主人(69歳)、大納言に石上麻呂(64歳)藤原不比等(46歳)紀麻呂(45歳)の三人。その後刑部親王が死去、阿倍御主人が死去し、知太政官事に天武の子、穂積(ほずみ)親王(しんのう)が任じられた。
その内、粟田真人が帰国、唐国の長安から持ち帰った長安の都城の情報に藤原京も参考にされた事だろう。
しかし文武天皇は病弱で707年二十五歳の若さで死去した。
この時には文武の子、首皇子は八歳、健在の舎人親王(とねりしんのう)、新田部(にいたべ)親王(しんのう)ら天武の皇子たちをさしおいて即位できる年齢ではなかったが、中継ぎの天皇として、その母阿閇皇女であった。
天智天皇を父として、草壁皇子の妃として、氷高内親王(元正天皇)、吉備内親王(長屋王の妃)、軽皇子(文武天皇)を生んだ。
阿閇皇女が即位して元明天皇となった。元明が即位をした正統性は、草壁皇子の皇子文武への継承であり、持統太上天皇と治めてきた。
文武天皇は自分が病気の身、治療に専念するためにあなたが天下を治めてくださいと譲られた。だが私はその器でないと断ったが、文武が死の際に譲位の意思を表明したので「命に承ます」と答えて皇位を継いだ説明がなされた。
元明天皇の即位後、孫で幼少の首皇子(聖武天皇)までの中継ぎとして祖母元明は即位をした。

★元明天皇(661~721)中継ぎの女性天皇。在位八年間、阿閇(あへい)。持統とは異母妹で草壁皇子の妃、元正天皇・文武天皇・井上内親王の母、慶雲三年(706)病身の文武天皇から即位を要請されたが辞退した。
翌年に文武天皇が病死し遺(い)詔(しょう)により即位をした。これは直系の男子の首(おびと)皇子は幼少にある為で、先帝皇后の即位は異例としての即位と思われている。
在位中は藤原不比等らの政権を中心に平城京遷都など重要な懸案を相次いで行って言った。
八年後の首皇子(聖武天皇)を皇太子としたがまだ幼少の為に霊亀元年(715)に元正天皇に譲位した。その後も太上(だじょう)天皇(てんのう)として実権を把握していた。
★藤原不比等(659~720)奈良時代の官人、鎌足の二子。母は車持君国子の女、兄定恵は出家ご夭折しており、鎌足が賜った藤原姓をただ一人の男子が継承した。
長女宮子を文武天皇の夫人として送り込み、その生まれた皇子に首皇子(聖武天皇)には三女の安宿媛を妃として皇室に深く結びつけた。
中納言から大納言に、そして右大臣に上り詰めた。藤原京の遷都事業は不比等中心に進められたと思われる。遷都と同時に山(やま)階寺(しなじ)(厩坂寺(うまやさかてら))を平城京に移し興福寺の建立を進めたが生前に間に合わなかった。
★粟田(あわた)真人(まひと)(?~719)7世紀から8世紀にかけての官僚。天武朝に小錦下を授けられ、朝臣姓となって筑紫大宰として隼人・174人に衣装を与えた。文武三年(699)に藤原不比等と共に禄を受けた。
その後、遣唐執(けんとうとしつ)節使(せつつか)となって、大宝律令を持って唐に出発、翌年唐に着き則天武后(そくてんぶこう)に謁見した。唐で評価は「好く経史を読み、属文をを解し、容止(ようし)温雅(おんが)」と評された。帰朝し中納言。大宰師、を歴任し正三位を与えられた。

※この時代に活躍した人物に、粟田真人は見逃せない。持統太上天皇が崩御した時には入唐し輝かしい成果を上げ、倭国にその情報をもたらした官人である。また大宝律令の編纂にも加わり大役を果たした。
粟田真人が唐国で見て学んだものの中に長安城は東西九・七キロメートル南北八・六キロメートルとやや長方形の形をして、東西十四条、南北十一条の中に東西二・八キロ、南北一・八キロの宮城がある。人口は約百万人巨大都城である。
因みに平城京が五万人から十万人もないかもしれないがその規模が窺い知れる。このような大規模の都城を見て粟田真人はどう思っただろうか、また建造物はレンガ造りで、日本の様な風土とは全く違った所で律令令が布かれていた。
粟田真人はこの広大な宮殿で臆することなく、則天武后に謁見をしている。
記述は藤原京に付いては詳細な事柄は残されておらず、平城京への思惑の方が優先されているようである。


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