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『歴史憧憬のエッセー』(7)『倭の五王『と『記紀』

2014-06-07 20:02:44 | 例会・催事のお知らせ
『歴史憧憬のエッセー』(7)『倭の五王』と『記紀』
「倭の五王」とは中国の記述で倭国の王の記載名で、『宋書』夷蛮伝倭国条に出てくる倭王の事で、倭王の名は「讃王」・「珍王」・「済王」・「興王」・「武王」になっている。またもや『魏志倭人伝』と同様に日本の史書『古事記』『日本書紀』の記述と符合しない状況が生じ学者・歴史研究家の解釈で論議の的になっている。邪馬台国の所在地、卑弥呼の特定同様、統一見解の出ない要因に五王の特定に決定的な違いが生まれ、讃・珍・済・興・武をどの天皇に当てはめるかが問題である。
何故にこうも漢字表記の日本も大陸での表記が異なる要因は中国の『史書』は独自の名前を表記し相手国の表記を無視する傾向がある。卑弥呼も「卑しい」とか野蛮な種族として、蔑視をした表現を当てはめる。下記の各王朝の記述も従属民族としての扱いが「朝貢」と取らえている。倭の五王の年表に拠れば下記の通りになっている。
◇413年、東晋王朝に「倭王讃」が安帝に貢物を献ずる。「晋書」安帝紀。◇421年、宋王朝に「倭王讃」朝献し武帝より「倭王讃」除受を受ける。「宋書」倭国伝。◇425年、宋王朝に「倭王讃」司馬の曹達を遣わし、貢物を献ずる。「宋書」倭国伝。
◇430年、宋王朝に「倭王讃」貢物を献ずる。「宋書」倭国伝。◇438年、宋王朝に「倭王珍」記述による「倭王讃」が没し、弟珍が立つ、自ら「使持節都監倭・百済、新羅、任那、秦韓、慕韓の六国緒持安東大将軍倭国王」と称し、聖史記任命を求める。四月「倭王珍」安東将軍国王と認める。「宋書」倭国伝」◇443年、宋王朝に「倭王済」宋・文帝に朝貢をして「安東将軍倭国王」とされる。「宋書」倭国伝。◇451年、宋王朝に「倭王済」7月、安東大将軍を進号する。「宋書」倭国伝。◇460年、宋王朝に「倭王済」12月、孝武帝へ遣使、貢物する。◇462年、宋王朝に「「倭王興」孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。「宋書」孝武帝紀、倭国伝。◇477年、宋王朝に11月、遣使して貢物する。「宋書」順帝紀。これより先、興没し弟の武が立つ、武自ら「使持節都督倭・百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国の大将軍倭国王」とする。「宋書」順帝紀。◇478年、宋王朝に「倭国王」上表し、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国の緒軍事安東大将軍倭王」とする。「宋書」順帝紀・◇479年、南斉王朝に「倭王武」高帝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍に進号。「南斉書」倭国伝。◇502年、粱王朝に「倭国武」4月梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。
日本の比定される天皇としては「応神天皇」、「仁徳天皇」、「履中天皇」、「反正天皇」、「允恭天皇」、「雄略天皇」、「雄略天皇」である。中国の呼び名から日本の天皇名に類似する点、和号の称号でも接点を見つけることは出来ない。
時代考証から推測するに「日本書紀」には天皇の系譜から「讃」=履中天皇、「珍」=反正天皇、済=允恭天皇、「興」=安康天皇、「武」=雄略天皇の説が有力視される。この内、「済」「興」「武」は一般的に一致すると思われているが、「讃」応神天皇・仁徳天皇・履中天皇・「珍」仁徳天皇・履中天皇と意見が分かれる。◎この頃の日本の王朝はヤマト王朝から拠点を大和盆地の北辺りの佐紀古墳群の辺りから古市、百舌鳥古墳群のある河内王朝へと移しつつあると所かと思われ、邪馬台国から空白の150年が日本の支配権が、目下有力視されている纏向遺跡辺りの大和王権初期の地点で「箸塚古墳」卑弥呼の墓と推定するならば、大陸に交流を持って外交で朝鮮半島に支配を求めるヤマト王朝の安定したこと、ヤマト王朝が達成されて、尚内紛か権力争いで河内に活路を見出す新王朝の出現も視野に入れて、倭の五王を考えなければならない。◎「魏志倭人伝」による日本の支配は「邪馬台国」の女王卑弥呼が記載されていて、その後150年を経て中国の史書に倭の五王の遣使が国交を始める。貢物、朝貢と接触を図り、朝鮮半島への中国の王朝に承諾を得るためにの思惑があった。413年から502年までに東晋、宋、南斉、梁王朝に対等な関係の国交を臨んだが中国の高麗国などの覇権を巡り日本の思惑通りには行かず、八十年間余りで国交が消滅する。倭の五王は代が変わっても遣使を送り、朝鮮半島への影響力と支配を認めさせようと画策した。「使持節都督倭、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓六国緒軍事安東将軍倭国王」と言う肩書きを貰ったが、実際は百済、新羅より格下の将軍称号で、最後まで百済への支配を認めなかった。
◎150年振りに中国への外交を開始した倭の五王は倭国の王名、天皇名、「記紀」の掲載名で呼ばれていなかったのか、呼ばれなかったのか、名乗っても中国風呼び名に改名され扱われたのかもしれない。◎中国での天皇の和風諡号を何故使用されず、讃、珍、済、興、武と呼ばれたか、倭国も中国の時の王朝が使い、代々受け継がれてきたと思う。◎しかも侮蔑した名をつけて日本を従属国の扱いをしょうとした。邪馬台国、卑弥呼も「邪」,「卑」の名称も目下の扱いしたようだ。◎一方的な中国の記述なので遣使との遣り取りを詳しく述べられておらず、各王朝の史書の記述も信頼性に乏しく、なかなか合致する項目がない。
※『魏志倭人伝』にしろ、『倭の五王』にしても日本の『記紀』には中国の王朝の名前すら記載されず、日本の外交は朝鮮半島に限られている。しかも、新羅や百済の朝貢を受けた記述があっても朝貢をした記述が無い。日本の王朝が大陸の王朝に朝貢する事こそ屈辱的なものと受け取られ、従属を意味するものと思われ、敢えて『記紀』に記載をしなかったものかも知れない。しかも宋王朝は日本の使者が名乗った王朝の名前を採用しなかった。それにしても讃、珍、済、興、武の文字を使った根拠は何かと考えた場合、深い意味はなく場当たり的に付けたかもしれない。『魏志倭人伝』にせよ『倭の五王』も深読みすぎで他の国の朝貢を倭国と表記したことも考えられる。問題は中国の史記を絶対視しての考察にも問題があるのではないかと思われる。








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1 コメント

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漢字使用について (野暮用人)
2014-07-07 12:18:25
倭の五王だけじゃないです。高句麗は高、百済は余、新羅は金を姓にしています。それに七支刀には倭王旨の名前が刻まれてますよ。それから倭王家は天皇家ではないと思います。卑弥呼や壱与の時代に限らず、倭国王帥升や倭奴国王、倭の五王の時代に中国官職を名乗っます。中国に倭国王等は、上表文を出してます。正式な文書に国家元首の署名が無いのはあり得ないですね。ところで、日本書紀には、応神天皇の時代に王仁博士が論語や千字文をもたらしたと記されています。千字文は漢字のイロハを学ぶテキストです。これが必要だったわけですから漢字の使用が普及してなかったということです。倭国と日本国は別物だと思いますが。

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