歴史の足跡

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歴史が語る・43・承平・天慶の乱

2015-01-07 05:12:13 | 例会・催事のお知らせ
四十三、「承(じょう)平(へい)・天慶(てんぎょう)の乱(らん)」将門(まさかど)の乱(らん)

平安中期、ほぼ同時に起きた関東での平将門の乱、瀬戸内海で起きた藤原純友の乱が起きた。
関東に起きた乱は、当初身内同士、平一族の私闘(土着豪族同士の勢力争い)からから端を発した。
桓武天皇の曾孫の高望(たかもち)王(おう)は平姓を賜わって臣籍に降下した。平は都にいても何の展望もないので活路を見いだすために下総介になって関東に下った。
この将門の乱は活劇を見るような奇想天外な展開をして将門が敗れて幕を閉じるが、この混乱を見ても如何に、この時代に朝廷の東国の統治が未整備かが窺い知れ、受領と国衙の軋轢が複雑な利害関係が生じていたかが窺える。
この上に複雑な荘園(しょうえん)制度(せいど)と重なって、国衙の力が低下していたか理解が出来る。
その頃は受領に対して地方の富豪層の抵抗への鎮圧の任に当り、その武功を朝廷に認めさせ失地回復を図ったものと考えられる。
高望らは武芸(武士)に坂東の治安維持を期待と委託をされていった。
関東各地に所領を持ち土着をした。身分としては、安定した権利を有する所領と異なり、毎年告がと公田の一部を経営請負として契約を結ぶ形での保持する不安定な所領だった。
高望王の子の一人平良将は下総国佐倉に所領を持ち、その子将門は京に上がって官人として出仕し、また摂関藤原忠平の従者ともなっていた。
父良将が早世したために帰京した所、父の所領の多くは伯父の国香や良兼に横取され、将門は下総国の豊田に本拠にして力を保持、培った。
この頃、女論(女関係、女沙汰)によって不和になった。どうやら源護の娘、良兼の娘の巡る争いが起きた。また一説にこれらの娘を娶ることを望んだが適わなかった。
また一説に良兼の娘を妻にしていたが、源護の息子が横取、横恋慕(よこれんぼ)をしたといった話も有って、女を廻る争いが原因で、源扶(たすくふ)、隆、護(まもる)の三兄弟は常陸国野本に陣を敷き待ち伏せたが、これを将門は打ち破り、さらに常陸国の石田にある伯父の平国香の館に火を放ち攻撃をかけ、国香を討ち取ってしまった。
国香の息子の貞盛りは京に上がって出仕していたが、左馬充になっていたが、事の次第を知って帰郷するが復讐より和睦を望んでいたと言う。
三人の息子を将門に討たれた源護の恨みは根深く、婿の平良正に訴えた。良正は本拠地の常陸国水守で兵を集めて将門の本拠地に向かって兵を向けた。
将門もこれに応戦、鬼怒(きぬ)川(がわ)沿いで合戦となって将門が大勝利をした。良正は兄の良兼に助勢を訴え、これを承諾した良兼は貞盛を説得し味方につけ大軍を動員し良正、良兼らと合流し、南下し豊田を攻める体勢をとった。
一方将門は百騎を率いて出陣、連合軍は将門に先手を取って攻めかかったが、必死の抵抗に一旦は退却した所、将門の本隊が到着し、連合軍は総崩れになって下野国国府に逃げ込んだ。
将門は国衙(こくが)側(国府、国衙は国の出先機関で国衙役人がいた。)に将門の正統性を認めさせ豊田に引き上げた。
その後、源護の訴えにより平将門に朝廷から召喚状が届いた。将門は直ちに上京し検非違使で尋問を受けた。朝廷は微罪として将門に恩赦が出され将門は東国に帰った。
同年、またもや良兼は軍を起こし、下総国と常陸国の境界の、子飼の渡しで高望王と将門の父の良将の像を押し立てて攻め寄せた。
これには将門軍も士気喪失し退却した。
勝機に乗じた良兼軍が将門の豊田に侵入掠奪狼藉の限りを尽し、将門の妻子を捕えてられてしまった。
すぐさま態勢を整えて将門は迎撃し打ち勝ち良兼は筑波山に逃げ込んだ。将門は藤原忠平に良兼の暴状を訴え、朝廷から良兼の追補の命が下り、良兼軍と転戦したが、良兼は失意のうち病死をした。
将門側の攻勢に身の置き所が無くなった平貞盛は東山道を経て京へ上がろうとする。
将門は朝廷に告訴されるのを恐れた百騎を率いて追撃、信濃の千曲川付近で合戦となって貞盛側は被害が甚大、かろうじて身一つで逃亡し、上洛をした貞盛は将門の暴状を訴え、将門に召喚状が出された。
貞(さだ)盛(もり)は東国に帰っても将門に追い回され、以後東国を流浪するのであった。
天慶二年(939)武蔵野国に赴任した権守、興(おき)世(よ)王(おう)と介源経基が郡司武蔵野芝と争いになった時に、将門は仲裁に乗り出した。結果和解させたがその詳細は分っていない。
その後、武芝の兵が経基の陣営が包囲され経基は逃げ出して、京に到着した経基は将門興世王、武芝の謀反を訴える。
将門の元主人の藤原忠平が事の次第を調査するために使者を東国に送った。これに驚いた将門らは関東五か国の国府の証明書を添えて送った。
これによって朝廷の疑いは解け逆に経基に嫌疑がかけられ誣告(ぶこく)の罪で罰せられた。
将門の名声を知った朝廷は叙位任官で役立たせようとした。
この頃武蔵権守となった興(おき)世(よ)王(おう)は正式な受領として赴任してきた武蔵守百済王貞連と不和になり、興世王は任地を離れ将門を頼るようになった。また常陸国の住人の藤原玄明は受領と対立し租税を納めず、問題を起こし、やはり将門を頼るようになって来た。
玄明は国衙から追補状が出て常陸介藤原維幾が、将門に玄明の引き渡しを求められたが、玄明を匿い応じなかった。
維幾と将門の対立がこうじて合戦になり、将門千人を率いて、出陣した。一方維幾は三千の兵で迎え撃ったが将門の軍に撃破され国府に逃げ帰って、国府は包囲され降伏をした維幾軍は国府の印璽(いんし)を差し出した。
将門軍は国府とその周辺で掠奪、乱暴の限りを尽した。これまでの身内争いを逸脱しその時点で朝廷に反旗を翻したことになった。
興世王の進言で将門は軍を進めて下野国、上野国の国府を占拠、独自に除目を行い関東諸国の国司を任命した。
将門の謀反は直ちに京に知らされ、また同時に西国で純友の乱が勃発し、朝廷は驚愕し、所社寺に祈祷が命じられた。
天慶三年(940)参議藤原忠文が征夷大将軍として将門追討軍が京を出発した。一方将門軍は五千の兵で常陸の国に出陣し平貞盛と、維幾の子爲憲親子の捜索を続けたが行方は掴むことが出来なかった。
間もなく貞盛と下野国押領使の藤原秀郷と合流し四千の兵を持って進軍、将門軍は千人足らずの兵しか残っておらず、時を移しては不利と考え貞盛・秀郷軍は将門軍率いる藤原玄茂率いる軍と下総国川口で合戦になった。
この合戦で将門軍振るわず退却した。勢いに乗った貞盛・秀郷軍は将門軍の本拠地を攻めた。
将門軍は兵を整えても僅か四百人、貞盛・秀郷軍に京からの藤原爲憲軍が加わり合戦が始まり、最初は春一番の強風を背に矢戦で優位に立って善戦、貞盛・秀郷・爲憲連合軍を撃破したが、その内風向きが変わり連合軍は風を背に反撃、将門は先陣を切って戦ったが流れ矢が将門の顔面に命中しあっけなく討ち死にをした。
将門一派は皆殺された。将門の首は京にもたらされ梟首(きしゅ)された。
功績を称えられた秀郷に四位下、貞盛、爲憲には従五位下が授けられた。

※平将門の乱は私的な勢力、領地争いで朝廷は見ていたが、受領と国衙のいざこざと、身内同士のしかも女論での絡みと相まって、助長するかのように土着豪族の不満を将門は吸収し、勢力、関東地区での支配地拡大で「新星」と言う王城を築き支配下の豪族に除目までやってのけた。
これを見て朝廷にとって座視する訳が無く、参議藤原忠文が征夷大将軍として将門追討軍が京を出発した。
そこに貞盛・秀郷軍が参入、一進一退の結果官軍の勝利、討ち取られた将門の首は京に送られた。
将門の乱は地域の不満を吸収し膨張したが連携とまとまりの無さに、一過性の坂東の反乱に終わった。

★平将門(?~940)平安の武士、桓武天皇の曾孫の高望(たかもち)王(おう)の孫。鎮守府将軍平良将の子。身内の女を廻る争うで、叔父国香を討つ、坂東で新星の王朝を打ち立て、関東の諸国を除目し領地を与える。
当初不満を持つ土着の豪族の反目を吸収しつつ勢力を拡大して行った。
★興世王(?~940)平安期の地方官『将門記』によると武蔵国権守の時に、同国足立郡司の武蔵武芝と対立し、平将門との調停で和解した。
新任国守百済貞連と対立して将門の下に身を寄せる、将門の常陸国府の襲撃後、坂東各国襲撃を促し将門新星即位後の受領除目で上総介となった。