ひろむしの知りたがり日記

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木村政彦と大山倍達 (4) ─ カラテ・デビル、力道山の仇を討つ

2014年10月13日 | 日記
力道山は大山倍達同様、戦前は日本に支配されていた朝鮮半島の出身です。
現在は朝鮮民主主義人民共和国に属する咸鏡南道洪原郡龍源面新豊里参拾七番地で生まれました。プロレスラーになってから公表した生年月日は1924年11月14日ですが、相撲協会の記録では1923年7月14日となっています。本名は金信洛<キム・シムナク>、日本に帰化してからの戸籍名は百田光浩<ももたみつひろ>といいます。昭和15(1940)年2月に二所ノ関部屋へ入門、5月場所で初土俵を踏みました。21年11月場所で入幕、24年5月場所では関脇にまで昇進します。
その頃の彼は身長177センチ、体重109キロで、腕力には相当の自信があったそうです。ちなみに力道山というしこ名は、「相撲は力の道なり」という親方の持論からつけられたものです。
しかし、彼の相撲人生は、入門から10年で終わりを迎えます。人に裏切られたことや、相撲協会に対する不満などから、昭和25年8月、自宅において菜切り包丁で髷を落として廃業してしまいます。時に力道山26ないし27歳、通算成績は135勝82敗15休、幕内在位11場所でした。

力道山の自伝『力道山 空手チョップ世界を行く』

プロレスラーに転向した力道山は、昭和26年10月28日、両国メモリアル・ホール(旧国技館)で初試合を行います。そして、翌年2月3日に単身ハワイへ渡り、力士時代の得意技だった上突っ張りと張り手を応用した空手チョップを振るい、破竹の勢いで勝ち続けます。
その当時、日系アメリカ人レスラーのグレート東郷や柔道家の遠藤幸吉とハワイ遠征にやって来た倍達に、すでに現地ではスターだった力道山がいろいろと世話をやいてくれました。倍達は著書『大山空手もし戦わば』で次のように書いています。
「力道山は実際上私の兄貴分であり、私たちは仲もよく、力道山はいつも世渡り下手の私になにくれとなく忠告を与えてくれ、ご馳走もしてくれるのであった」
明るく豪快で、日の出の勢いの力道山は、倍達にとって愛すべき先輩であると同時に、闘技者としては決して負けたくない、しかし、もしかしたら「勝てないのじゃないか」という思いが拭い去れない、最も手強いライバルでもあったのです。倍達はこうも書いています。
「力道山の相撲で鍛え、プロレスラーになるために鍛えた身体に、自分の突手や蹴りがどのくらい効くかも見当がつかなかったし、力道山のパワーや体力も恐ろしかった」

ところが、そんな力道山を打ち破る男が現れます。ボクサー上がりで“赤サソリ”のニックネームを持つ太平洋岸チャンピオン、タム・ライスです。『空手バカ一代』では冒頭近く、早くもその衝撃的なエピソードが登場します(講談社漫画文庫版、第1巻)。
昭和34年、スポーツ・ライターをしていた原作者の梶原一騎は、雑誌の取材で力道山を訪ねました。そこで梶原は、次のような話を聞かされます。

ハワイに渡って以来、連勝街道を突き進んでいた力道山は、太平洋岸チャンピオンのタム・ライスに初黒星を喫します。空手チョップが売りの力道山を下したというので、調子に乗って“空手殺しの赤サソリ”と称したタム・ライスは、本物の空手家から手痛い報復を受けることになりました。
“カラテ・デビル”と名乗るその空手家は、決戦のリングに空手着を身につけて現れます。タム・ライスは空手殺しに箔が付くと、内心ほくそ笑みました。試合は時間無制限一本勝負でした。ところが開始後間もなく、たった一発の蹴りでカラテ・デビルは赤サソリをマットに沈めてしまったのです。
実はカラテ・デビルの正体こそ、米本土でプロモーター(興行主)の意に逆らって八百長試合を拒否したために、業界から睨まれて本名ではリングに立てない倍達の、仮の姿でした。

タム・ライスVS大山倍達戦の詳細は、漫画文庫版では第4巻で描かれることになります。
倍達は空手の名誉を守るため、ハワイを後にしたタム・ライスを追って、アメリカ本土に乗り込みました。しかし、力道山との闘いでボクサーとしても一流だったタム・ライスの凄まじいパンチ力を目の当たりにしており、試合開始前にリング上で跪き、神の加護を祈るほどの恐怖心に襲われます。
そのような時、半分パニック状態に陥っている倍達に、生死を賭けた実戦の修羅場をくぐり抜けてきた経験が、ある作戦を思いつかせました。
それは、力道山の空手チョップ敗北へのリベンジのため、手刀で勝負に行くと相手に思い込ませておいて、秘技“三角跳び(三角蹴り)”をお見舞いするというものでした。作戦は見事に成功し、前述のように倍達は、タム・ライスを一撃でノックアウトします。

講談社漫画文庫『空手バカ一代』第4巻

さて、この対タム・ライス戦のことは、『大山空手もし戦わば』の中にも記されています。
それによれば、タム・ライスは身長2メートル、体重130キロの巨漢で、ボクサー時代にヨーロッパのヘビー級チャンピオンをKOしたのですが反則負けとなり、次の試合で今度は前回と一緒だったレフェリーをKOしてしまい、ボクシングをやめる破目になったといいます。
得意技にはパンチ攻撃のほか、のど絞め、ネックブリーカー・ドロップ(首折り落とし)、ボストンクラブ(逆えび固め)などがありました。“赤サソリ”という異名はボストンクラブに入った時、白い身体が力を込めるごとに真っ赤に紅潮し、サソリの毒尾のように見えるからだろうと倍達は書いています。

『空手バカ一代』に描かれていたように、対決前に倍達が押し潰されそうな恐怖心に苦しめらたことは、『大山空手もし戦わば』にも記されています。しかし、いざ闘いが始まれば、それは消えてしまいました。
「恐怖は確かにあるが、恐怖を考える暇はなく、相手に応じて反射的に行動しなければならないからである」
ただ、最初から三角蹴りをやるつもりだったわけではないようです。右へ左へと回って相手のパンチをかいくぐりながら、倍達はふと気づきます。
「私は瞬間、それが何度も練習した三角蹴りのステップに似ていることを思い出した。ある一点から、別の地点(なるべく高いところ)へ飛び、そこから相手に対して飛び蹴りを決めるというワザを、山ごもりで岩や木の幹を第二の支点として、何千回、何万回と練習した。道場でも、道場の横壁を蹴って、そこを踏み切り点として、別方向を蹴る練習をした」
倍達はコーナー・マットの向こうにある鉄柱の上を第2の支点と定め、そこからタムのアゴに横蹴りを放ったのです。地響きをたてて倒れたタムは、そのまま起き上がってきませんでした。アゴの骨にひびが入っており、3ヵ月の重症だったそうです。試合時間はわずか2分10数秒でした。


TVアニメ「空手バカ一代」ブルーレイ・ボックスのDisc5。表側(左)の中央が力道山で、左端が“赤サソリ”

残念ながら、この対タム・ライス戦も他の“大山倍達伝説”と同様、虚構性の高いエピソードであると考えられており、試合自体が存在しなかった可能性もあります。しかし、『大山倍達正伝』には昭和31年7月13日に力道山と再戦して敗れたタム・ライスの、「おれの敗因は数年前、ジャパン・カラテのマス・オオヤマ(大山倍達)とのデスマッチに敗れて以来、オリエント(東洋)のサムライが怖しくなった」からだという証言が、元東京スポーツ新聞社運動部部長の門<かど>茂男が『ゴング』昭50年3月号(日本スポーツ出版社)に書いた記事からの引用として紹介されています。
また、同じく『大山倍達正伝』によれば、元東京スポーツ取締役でプロレス・ライターの桜井康雄は、倍達自身から「サンフランシスコでレッド・スコルピンというレスラーと戦った」と聞いたといいます。
倍達はタム・ライスの名前を覚えていませんでしたが、レッド・スコルピン、正確にはレッド・スコーピオン(赤サソリ)という異名、ボクサー上がりで毛むくじゃらだったという倍達の言葉から、桜井はそれがタム・ライスのことであると悟ります。門がタム・ライスから倍達とのことを直接聞き出したのも、梶原一騎が『空手バカ一代』で取り上げたのも、この桜井の話がキッカケでした。

ここでは、対タム・ライス戦が事実であったと仮定して話を進めましょう。
圧倒的な勝利でしたが、それは相手が空手というものを知らなかったために奇襲攻撃が成功しただけであって、空手とボクシング(+プロレス)が真正面からぶつかり合った結果ではないと、内心忸怩たる思いを抱えていた倍達は、力道山を破ったタム・ライスに勝っても、自分が力道山より強いという確信は持てませんでした。依然として倍達にとって力道山は、アメリカ遠征中に出会った最大の強敵だったのです。
力道山と親しい間柄だった頃から、倍達は何度も頭の中で彼との勝負をシミュレーションしていました。それは結局、実現することはありませんでしたが、後に兄と慕う木村政彦と力道山が対戦し、力道山の裏切り行為によって木村が無惨な敗北を喫した時、一触即発の事態を迎えることになります。


【参考文献】
梶原一騎原作、つのだじろう漫画『空手バカ一代』(文庫版第1・4巻)講談社、1999年
大山倍達著『大山空手もし戦わば』池田書店、1979年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年
小島一志・塚本佳子著『大山倍達正伝』新潮社、2006年
岡村正史著『力道山 人生は体当たり、ぶつかるだけだ』ミネルヴァ書房、2008年
力道山光浩著『力道山 空手チョップ世界を行く』日本図書センター、2012年

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