ひろむしの知りたがり日記

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政彦と又蔵(8)─ もう一人の“鬼”、牛島辰熊

2015年09月21日 | 日記
鎮西中学2年に編入後すぐに、木村政彦は熊本武徳殿の紅白戦に出場しました。
その試合は、勝った者がそのまま残って相手側の次の選手と戦う抜き勝負方式でした。当時まだ一級だった政彦ですが、5人を抜いて即日昇段で初段となりました。
紅白試合には「抜群」という制度があり、飛び抜けて優秀な成績を収めると、即日昇段が許されます(『柔道大事典』によると、講道館では6人以上抜いた場合とあります)。
ちなみに、この時政彦が取ったのは講道館の初段ではなく、武徳会の初段でした。
かつて、半官半民の武道奨励団体として大日本武徳会がありました。戦後、武道を危険視するGHQによって解体されましたが、それまでは柔道においても帝国大学柔道連盟が主催し、旧制高校や専門学校を中心に行われた高専柔道とともに講道館に比肩する力を持っており、独自に段位を授与していました。

3年生の4月には、政彦はやはり熊本武徳殿の紅白戦に出て紅組大将となり、白組の残りメンバー4人を全員一本勝ちで抜き去って、二段に昇段しました。さらにその翌月には三段となり、4年生の6月には佐賀武徳殿の紅白戦で、なんと10人を抜いて即日四段になるといった具合に、目覚ましいスピードで昇段していきました。

政彦は鎮西中の練習だけでは飽き足らず、武徳殿や旧制五高(現在の熊本大学)、警察に出稽古に行くとともに、町道場も木村又蔵の昭道館から、より大人の修行者が多い川北仁一の道場に移ります。
政彦は川北道場のことを、「木村道場よりは柔道らしい柔道を教えてくれた」(『わが柔道』)と、又蔵にはちょっと気の毒なことを言っています。
これだけの強さを誇った政彦です。柔道部においても、3年生からは大将を務めました。当時の試合はほとんどが勝ち抜き戦だったのですが、鎮西中は他のメンバーも強豪ぞろいで、政彦に出番が回ってくることは滅多にありませんでした。

昭和9(1934)年の初夏、鎮西中の先輩でもある拓殖大学柔道部師範の牛島辰熊が、政彦をスカウトしに訪れます。
後の政彦同様“鬼”と称された牛島は、これまた政彦が最初は竹内三統流の道場に入門したのと同じく、やはり古流柔術の汲心流江口道場でその柔道人生をスタートしました。
想像上の生物である龍も含めて3種類の獣が含まれるといういかにも獰猛そうな名前にふさわしく、闘志の塊のような男だった牛島は、試合の前夜にはスッポンの肉を食べて血をすすり、当日は口に含んだマムシの粉の匂いをプンプンさせながら、相手に襲いかかったといいます。
まだ全日本選手権のなかった大正14(1925)年、事実上の日本一を決める明治神宮大会で初優勝したのを皮切りに同大会を3連覇し、全日本柔道選士権(当時は選手権ではなく選士権といいました)が始まると、昭和6(1931)年の第2回、翌年の第3回と専門壮年前期の部(次回説明します)で連続優勝しました。


牛島辰熊が柔道部師範を務めて、木村政彦を入学させた拓殖大学(東京都文京区小日向3-4-14)

常勝牛島が、唯一制することができなかったのが天覧試合です。
昭和4年に昭和天皇の即位を記念して行われた第1回武道天覧試合(御大礼記念天覧武道大会)では、指定選士の部(これも次回説明します)決勝で、武徳会附属武道専門学校(武専)教授の栗原民雄と互いに一歩も譲らぬ激闘の末、惜しくも判定で敗れます。
雪辱を期して、猛練習を重ねて待った第2回(皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会)。ところが、その過激すぎる稽古がたたって、昭和9年と決まった試合の半年前に、肝臓ジストマと胆石、それに肋膜炎を併発してしまいました。

出場を危ぶまれた牛島ですが、皇居で催された新年会でたまたま牛島の病気のことが話題となり、心配した天皇が「胆石なら京都の松尾内科がよいではないか」とおっしゃいました。牛島が師範を務める皇宮警察の白井部長がさっそくその言葉を伝えると、牛島は病床にガバッと身を起こし、感激にうち震えながら皇居の方を伏し拝みました。
彼は天皇のアドバイスに従って松尾内科を受診しますが病気はなかなかよくならず、最後は身体が思うようにならないのを精神力でカバーしようと、洞窟に籠って1ヵ月間、自炊しながら筵<むしろ>の上で座禅を組み、宮本武蔵の『五輪書』を朗誦して試合に備えました。

そうまでして臨んだ天覧試合でしたが、回復しきらぬ身で選りすぐりの猛者たちを相手に勝てるはずもなく、予選で敗退してしまいました。肉体の限界を痛感した牛島は、自らの悲願を託すことのできる弟子を捜し求めます。そして、そのお眼鏡にかなったのが、木村政彦だったのです。

政彦は昭和10年に上京し、拓大商学部予科へ進学しました。
予科とは今でいう付属高校です。牛島が自宅に設けた塾に起居しながら柔道修行を始めた政彦は、拓大予科入学早々、先輩たちと講道館の紅白試合に出かけます。そこで彼は四段8名を倒しますが、9人目で力尽きて敗れてしまいました。
それでも五段に抜群昇段し、拓大の先輩たちと祝杯をあげ、ほろ酔い気分で牛島塾に戻ります。当然、牛島も褒めてくれるものと思いきや、報告を聞いた彼は激怒し、政彦を殴りつけて、
「試合に負けるというのは、相手に殺されるということだ。お前は8人殺して、9人目に殺されたのだ」
と勝負の厳しさを教えたのです。

そんな牛島の指導は苛烈を極めました。
力を使い果たして動けなくなっても一切容赦はしません。極限まで稽古すると、隠されていた潜在能力が湧き出してきて、再び立ち上がることができると考える牛島は、「生の極限は死」「死の極限は生」との信念で、徹底的に政彦をしごき抜きます。
鬼の牛島に鍛え上げられ、政彦はその強さにさらに磨きをかけていきました。ところが、なんとそんな彼を子ども扱いし、昭道館時代以来の柔道スタイルを、根底から変えてしまう男が現れたのです!


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
原 康史著『実録 柔道三国志・続』東京スポーツ新聞社、1977年
木村政彦著『わが柔道』ベースボール・マガジン社、1985年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年

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