日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~関東・東北の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【相模古代史紀行 その5】相模国内で最大規模の前方後方墳・塚越古墳【平塚市】

2017-04-30 22:56:55 | 歴史探訪
 昨日横浜を出港したお船は、今日は終日航海をして明日の早朝に高知港に着く予定です。

 洋上にいるとスマホが繋がらないので、今日は一度も妻の声を聴くことができませんでした。

 そんなわけで今日はお掃除から帰ってきた後、ひたすらブログの記事を書いていましたよ。

 この記事で4本目です。

 一日に記事を4本もアップするのは珍しいですよ。

 明日もお掃除だし、そろそろヴェリーと寝ようかな。

*     *     *


 平塚市博物館を見終えた時点で、時刻はすでに14時半。

 当初はこの次は大磯の相模国総社を見てから秦野市の桜土手古墳を見て、最後に海老名市内の国分寺と国分尼寺、さらに秋葉山古墳群を探訪する予定でした。

 でも今日はこれ全部は無理だなあ・・・

 しかも、さきほど平塚市内の塚越古墳の展示を見てしまったので、実物を見てみたくなりました。

 ということで、大磯町と秦野市は今日は諦めて、塚越古墳を見て海老名市内を探訪して帰ることにします。

 カーナヴィに塚越古墳の大体の住所をセットして出発。

 同じ平塚市内ですが、今いる中心地からやや遠いようです。

 途中、大山がよく見えるミニストップでおやつを買って、15時10分に塚越古墳に到着。

 意外と遠かった。

 おっと、ここは駐車場が無いね。

 そんなわけで何とか止めれる場所を見つけ、さっそく古墳探訪だ。

 この上ですね。



 あ、こういう案内板は素敵。



 バス停の名前も「塚越古墳」だーっ!



 テンションが上がってきたよー。

 俗に言う「古墳に興奮」状態。

 階段を上がるとありました!



 後方部の裾から前方部を見ます。



 説明板がありました。



 さきほど訪れた平塚市博物館の解説もご覧ください。



 前方後方墳ですよー。

 大好きな初期の古墳です。

 前方部の方へまわり、前方部の裾から後方部を見て「くびれ」を確認。



 古墳で最もセクシーな箇所である「くびれ」は今一かな。

 でも、そもそも前方後円墳の方が「くびれ」が綺麗なんですよね。

 前方部の墳丘に上がり後方部を見ます。



 実はこのアングルも古墳によってはかなりセクシーなんですが、塚越古墳は大人の色っぽさはあまりないですね。

 つづいて後方部の墳頂へ上がると、五輪塔とか石仏とかそのようなものが散乱していました。



 後方部から前方部を見下します。



 平塚市博物館の解説にも書いてある通り、塚越古墳は古墳時代前期に築造された全長48mの前方後方墳です。

 関東地方の場合は、古墳を築造する有力者のグループによっては当初、前方後方墳のデザインを採るケースが結構多いです。

 ただ、例えば栃木県の那須地方など、一部の地域を除いてそれ以降は前方後円墳に変更になっているので、前方後方墳はだいたい古墳群のなかに1基だけだったりします。

 塚越古墳は古墳群を形成していたのかなあ?

 博物館のジオラマをもう一度見てみます。



 このジオラマでも古墳からの眺望が優れていることが想像できますが、実際はこんな感じです。

 と言っても、もちろん現在の風景なのですが、まずは信仰の山・大山方面。



 ここから時計回りに少しずつ方角を変えて見てみます。











 という感じで一周しました。

 塚越古墳の存在は博物館で初めて知ったのですが、来てよかったです。

 素晴らしい雰囲気の古墳ですね。

 ここでお弁当食べるのもよさそうです。

 おっと、もう15時20分だ。

 海老名市内へ急ごう。

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【相模古代史紀行 その4】古代史好きや「岩石」好きには堪らない平塚市博物館

2017-04-30 20:44:26 | 歴史探訪
 相模国府跡の有力推定地の説明板を撮影してほくそ笑んだあとは、平塚市博物館を目指します。

 説明板の場所からは車で10分ほどで到着です。



 国府関連の展示があるようなので楽しみだよー。

 入館は無料ですね、素晴らしい。

 3階館の建物で、3階にはプラネタリウムがあります。

 歴史系と天文系を合体させている博物館は結構見かけますよ。

 まずは1階の常設展示から見ましょう。

 平塚市博物館は「相模川流域の自然と文化」がテーマなのですが、壁面には相模川流域の図が。



 私が馴染みのあるのはこの地域♪



 フロア中央にはジオラマが!



 いいねえ。

 こういうの大好き。

 私が住んでいる地域はこの辺。



 こういうジオラマってずーっと見ていられるんですよね。

 でも今日は程ほどにします。

 今度は縄文人の暮らし。



 天井から吊るしてある鮭の燻製、うまそー。

 縄文人って結構豊かな食生活を送っていたんですよ。

 冷えたビールはありませんが、酒はすでにあったのではないかと思っています。

 今度は塚越古墳とその周辺のジオラマ。



 古墳時代になると低地には水田が発達していますね。

 私はなんとなく、高台にある古墳は麓に住んでいる民が常に仰ぎ見ているものだと思っていました。

 でも、考えてみれば山の斜面の木々はこのジオラマのように伐採しないと思うので、そうすると普段は麓から古墳は見えないんですね。

 そうすると、何かの祭りのときに山を登って古墳へ行った際、「木々を抜けて登り切るとそこに巨大な墳墓が突如として出現する」というストーリーになるわけです。

 これはこれで、住民にとっても非日常的な体験で、権力者への畏敬の念が高まったのではないかと思いました。

 おっと今度は近世の古民家が。



 建物の中に建物を移築しちゃったわけですね。

 こんな感じで1階の展示は非常にヴィジュアルに訴えかける俊逸なものばかりです。

 上で紹介したもの以外にも例えば平塚宿の展示などもあり、なかなか楽しい博物館ですよ。

 1階をグルッと回ってきて気付いたのですが、ここにはボランティアガイドの方が常駐されています。

 時間があればゆっくりとマンツーマンで教えていただきたいのですが・・・、うーん、残念ですが今度にしよう!

 1階には特別展示室もありますが、2階へ上がります。

 1階はさきほど言った通り、比較的大きなジオラマなど、見た目的にインパクトがあって楽しい展示が並んでいましたが、2階は考古遺物などを並べるオーソドックスな造りです。

 大好きな古道!



 考古遺物の展示はいくつかのコーナーに分かれています。

 相模国府!



 さきほど見てきたとおり、平塚市に国府があったことはほぼ確定と言っていいでしょう。

 ただし、国府は二遷か三遷しています。

 縄文時代!





 そして、祭祀の展示では縄文時代と古墳時代の祭祀遺物を展示してあります。



 平塚駅西口で見つかった、約2000年前にその時点で樹齢300年ほどだったタブノキが展示してあります。





 これはこれで貴重ですし、海岸線の変遷も解明できて楽しいですね。

 古代東海道の展示もあり、この説明はとくに重要だと思うので写真を載せちゃいますよ。



 2階では活断層や地盤の解説も充実しています。

 ところで、私は興味は薄いのですが、2階の一番の目玉は実は「石」じゃないかと思いました。



 このディスプレイは綺麗ですよー。



 黄色い石があるんですね。



 これ以外にも石が沢山展示してあるので、こういうのが好きな方は楽しめるんじゃないでしょうか。

 ぜひ足を運んでみてください。

 床に貼られたこういう地図も好き。



 というわけで、なかなか充実した内容でした。

 平塚市博物館は嬉しいことに写真撮影OKなのですが、さすがにこれ以上写真を載せるのはこれから来訪する方の楽しみを殺いでしまうかなと思うのでこの辺でやめにしておきます。

 上で紹介した以外にもまだまだ展示があり、ここはとってもオススメできる博物館ですよ!

 ヤバい、もう14時半だ。

 まだ見たい場所は沢山あるんだ。

 急ごう。

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【相模古代史紀行 その3】相模国府はどこにあったのか?

2017-04-30 18:25:46 | 歴史探訪
 妻が家にいない寂しさを紛らわすために軽度のアル中人間が取る行動は、やはり酒です。



 日中、掃除をしていると義母から携帯にメールがあって、私が「寂しい」と返信すると、義母は「寂しさの後には楽しみがあるよ」と励ましてくれました。

 優しいお義母さんです。

 ちなみにこの一番搾りは私がビール好きだということを知っている義母から頂いた物ですよ。

 早く妻と酒を飲みたいなあ、と思いつつ、昨日の相模古代史紀行の続きをお伝えします。

*     *     *


 図らずも遭遇した前鳥神社に少し時間を使ってしまいましたが、相模国府の有力候補地に設置してある説明板を見つけに雷電號を巡航させます。

 その場所には地表面で確認できる遺構や復元された物などは一切なく、説明板だけが建っているようなので、その写真を撮ることができれば満足するでしょう。

 大体の場所は事前にWebで調べてあります。

 ただ、大きな通りなので説明板の前に路駐は無理ですね。

 目的地に近付いてきたので、近くに止めるところは無いかなあ?と留意しながら操縦していると、ちょうど良くヘブンがありました。

 ・・・そういえば昼ご飯食べていないなあ。

 ついでに昼を食べよう。

 昔は城跡探訪のために地方へ行くと昼飯もできる限りこだわって、例えば海沿いだったらウニ丼を食べたりしていましたが、今は今日みたいに一人で行動する場合はコンビニで全然構わなくなりました。

 ゆっくり食べている時間があるのなら一つでも多くの史跡を見たいですし、また豪勢なものを食べるお金がない!

 なので、今日みたいに歴史めぐりでちょっと遠くへ来ていても、いつも掃除の仕事で多摩地域を回っているときに食べているものと同じようなものを食べるわけです。

 それでも、コンビニには美味しいものが沢山ありますから、好きなものを食べられるだけで幸せですね。

 お腹一杯になった後は、徒歩で現地へ向かいます。

 説明板のあるのはこの先の交差点のはずだが・・・



 事前の調べでは、「高林寺入口」という交差点の近くに立っているようです。

 近接してみると、それらしいものが見えました。

 横断歩道を渡り確認すると、ありました!

 見たかったのはこれです!



 説明板が立っている場所はこんなロケーション。



 645年の乙巳の変(いっしのへん)から続く一連の政治改革のことを「大化改新(たいかのかいしん)」と呼ぶのですが、大化改新は日本の歴史の中でも明治維新と並ぶほどの極めて重要な画期と位置づけられます。

 とくに私たちの住む東国はこれ以降、かなり社会が変わりました。

 蘇我政権に代わって新しく発足した孝徳政権は、地方の統治を今までになく強めるように施策し、とくに今までほとんど野放しに近かった東国の支配を格段に推し進めようとしたのです。

 孝徳政権は中国の律令(りつりょう)という法律を元に日本流にアレンジしたものを基本として新たな国づくりを始めました。

 なので、これ以降の古代日本を「律令国家」と呼びます。

 律令国家は列島中を60余の「国(くに)」という行政区画に分けたのですが、その中心地、すわなち今で言う県庁所在地のことを国府(こくふ)と呼んでいます。

 私が今探訪している神奈川県の大部分(川崎市と横浜市の大部分を除く)は、相模国(さがみのくに)と呼ばれていたのですが、その国府がどこにあったのかは、まだ決定的な遺跡が見つかっていないので確定が難しいのです。

 国府擬定地に関しては、

 ・国分寺があった海老名市内
 ・総社があった大磯町
 ・上の説明板の通り、「国厨」の墨書土器が見つかった平塚市のここ

 という3箇所が有力とされており、最初は平塚市にあったのがその後大磯町に移ったという意見が多いような感触を持っていますが、私はまだ相模国府の研究は始めたばかりで知識は薄弱なものの、「海老名→平塚→大磯」の三遷説が魅力的に感じます。

 もちろん今後の研究によって手のひらを返すことがあるかもしれませんが、現状の浅い知識の上ではこのように考えています。



 そういえば以前は、「国厨」と書かれた土器が見つかったからここに国の厨(厨房)があった、というような考えはおかしいと思っていました。

 例えば、私が自分の部屋で「消防署」と食器に書いたとして、それが100年後見つかったとしてもここには消防署はありませんでしたよね。

 なんてふうに考えて、「信用ならない」と思ったこともあったのですが、日本各地の国府や郡衙(国の下の郡の役所)から発見される遺物をたくさん知った結果、上述のような考えは屁理屈だということが分かりました。

 もちろん土器は移動するので、「国厨」と書かれた土器が見つかったからと言って、そこに国府があったと単純に決めつけるのは危ないですが、それ以外に見つかる土器やその他の証拠を考えて、学者の方々がそう言っているのですから信じてもいいかなと思います。

 さて、次は平塚市博物館へ行きますよ!

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【相模古代史紀行 その2】相模国大住郡に鎮座まします式内社・前鳥神社

2017-04-30 14:41:56 | 歴史探訪
 妻をこの家に迎え入れてから早いものでもう3ヶ月くらいになりますが、この間、私が歴史の仕事をほぼ徹夜状態でするときと、ケンカをしたあとに一緒に寝るのが気まずいとき以外は妻とヴェリーと私の3人(あ、ヴェリーは人じゃないので「3体」とします)で寝ているわけですが、昨晩は同居してから初めて妻がいない夜だったので、ヴェリーと「寂しいねー、一週間我慢しようねー」と話しながら2体でセミダブルのベッドを広々と使って寝ました。

 3体のなかでいつも一番堂々とスペースを確保して寝るのはヴェリーで、私も妻も身動きができない状態なのですが、ベッドのマットの質が良いためか、その原因は分からないものの、自分の部屋に敷いてある布団に一人で寝るよりも良く眠れるし疲れも取れます。

 さてそんなわけで、一夜あけて私は5時半に自然に起床。

 ヴェリーは私が起きたのにも気づかず、ベッドを独占してまだスヤスヤと寝ています。



 ヴェリーはお寝坊さんなので7時20分くらいまで寝ていましたが、起きると今度は私の部屋にやってきて、朝から歴史の仕事をしている私の後ろでまた寝ちゃいました。


 
 それでは昨日のレポートの続きです。

*     *     *


 大さん橋で妻を見送ったあとは、平塚市博物館をカーナヴィにセットして巡航、まったく未知の場所なのでどこを走っているか分かりません。

 そうしているうちに大きな川を渡りました。



 相模川ですね。

 私は川を眺めるのが好きなのですが、相模川もなかなか良い雰囲気ですね。

 右手前方には大山が見えます。



 この橋は神川橋という名前でした。

 橋を渡って寒川町から平塚市に入ったようです。

 ナヴィには博物館をセットしていますが、実はその前に相模国府の有力推定地に立つ説明板の写真を収めようと考えています。

 だいたいの場所は分かっているのでそれを目指して走っていると、不意に「相模国四之宮」と書かれた看板が目に飛び込んできました。

 しかも「式内社」とも書かれています。

 式内社と聞いたら黙って通り過ぎるわけには行かないですね。

 現場へ急行します。

 看板が指し示す方向に雷電號を進ませていくと、前鳥(さきとり)神社の境内が見えてきました。

 駐車場があるのでそこに駐車。

 さっそく探訪してみましょう。

 境内に入るとすぐに説明板がありました。



 古代で「鳥」というと私はすぐにヤマトタケルを連想するのですが、前鳥神社の祭神にもいらっしゃいますね。

 さきほど訪れた寒川神社はお宮参りの参拝客も多く賑やかしい雰囲気でしたが、こちらは静かな感じでこれはこれでいいです。

 まずはメインの鳥居を見てみます。



 あ、でもこの鳥居は一の鳥居で、参道の先にはもう一つ鳥居が見えていますね。



 おー、良い木です。



 カメラに収まりきれませんが、樹齢300年の欅(ケヤキ)です。



 神社の雰囲気を決めるポイントはいくつかあると思いますが、私的には古木や大樹があるのは絶対条件です。

 こっちにはもっと詳しい由緒書きがあります。



 社殿。



 額はありませんでした。

 境内神社を見てみましょう。

 まずは祖霊社。



 つぎに奨学神社。



 その名の通り学問の神様です。

 そして神戸(ごうど)神社。



 「神戸」というのは気になる名前です。

 有名な地名で兵庫県には神戸(こうべ)がありますね。

 歴史用語としては神戸と書いて「かんべ」と読み、神社を援助するために神社の所有物として認定された人びとのことをいいます。

 ただ、同じ字を書いても「ごうど」と「かんべ」の2種類の読み方があるのはなぜでしょうか。

 「ごうど」の場合は「強戸」と表記する場所もありますが、これらの関係についてまとめてみたいです。

 さて、境内には参詣者は私を含めて3名ほどしかおらず、あとは何かイヴェントごとの準備のためか、近所の方々らしき集団がいるだけです。



 なお、鳥居は駐車場側の道にも立っており、その先の直線道路も非常に気になります。



 あー、もう13時になる、まずい。



 そういえば昼飯も食べてないなあ。

 とりあえず、次へ行きます。

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【相模古代史紀行 その1】おふねもじんじゃもおっきかったの【相模国一宮寒川神社】

2017-04-29 23:06:40 | 歴史探訪
 本日4月29日、ついに妻は大きなお船に乗って旅立ってしまいました。

 大きなお船に乗る妻を送るため、7時過ぎには雷電號のトランクにスーツケースを積んで横浜の大さん橋へ向かったのです。



 我が家から横浜へ行くには車の場合は下道も高速もそれほど良い道は無く、10時までに行けばいいということだったので下道を使って行きます。

 大さん橋にほど近いところには、昨年の12月24日に一緒に行ったシルク博物館があります。



 ↑シルク博物館(2016年12月24日撮影)



 ↑シルク博物館で富岡製糸場のジオラマを見る妻(2016年12月24日撮影)

 そして大さん橋に着いたのはちょうど9時です。

 まだ待ち合わせ時間まで少しあるので、駐車場に雷電號をとめて、二人でちょっとプラプラしてみます。

 駐車場からターミナルへのゲート。



 薄暗いターミナル。



 あ、この吊るしてあるお船が妻が8日間お仕事をする船だね。

 ターミナルの入口はこんなふう。



 さっき駐車場に入るときにお船が停泊しているのが見えたので、それを見に行こう。

 うわー、でかー。



 ヤバイっすね、このお船。



 Princess Princessの往年のヒット曲とは関係ありません。



 なんか、いろいろなところで見かける風景があるよ。



 おっと、ターミナルの屋根には芝生が張ってあるみたい。



 ところで、この歩く部分はこのように木の板が張ってあるのですが、これが問題なのです。



 ヒールだと隙間に挟まる!

 2度も挟まってしまったのできっとまたやるだろうと虎視眈々と撮影の機会をうかがっていたのですが、思った通りまたもや挟まり、まんまと撮影に成功しました。



 平均台の上を歩くように注意深く歩かないとダメですね。

 という感じでプラプラしていると、妻の同僚のMさんご家族と会いました。

 Mさん自身は乗船しないのですが、ご家族がお客さんとして乗船するということでお見送りに来たそうです。

 そのMさん家族が記念写真を撮ろうとしたところ、妻がすかさず「私がお撮りしましょうか?」と声を掛け、お船をバックにMさん家族の写真を撮ってあげました。

 妻は写真撮影ツアーの部署にもいたことがあり、私なんかよりカメラに詳しく、一緒に出掛けると妻は知らない人にでも声を掛けて撮影をしてあげるシーンをよく見ます。

 自身から買って出る人なんか稀ですから、人助けになって偉いなあと思います。

 まあ、そんなことを思いつつ、私は写真を撮っている妻を撮って喜んでます。


 あれ、何の話でしたっけ?

 そうそう、私はお船に乗る妻を見送りに来たんでしたね。

 ※今日から一週間くらい妻と会えないために寂しさの余りたくさん妻の写真を張り付けてしまった私は本当に心の弱いダメな男です。

 さて、9時45分になり、妻はそろそろ集合場所へ行くということで私は涙を流しながら(イメージ)見送りました。

 そんなわけで、船出する妻に陸に置いて行かれた私は、今日は雷電號を駆って一日歴史めぐりをしようと思っています。

 せっかく横浜まで来たわけですから、相模国方面の歴史めぐりをしますよ。

 と言っても、横浜市の大部分は武蔵国ですけどね。

 さてそれでは、本日の一発目として、相模国の一の宮である寒川町の寒川神社へ向かいます。

 今度も下道で行きますよ。

 走り出してほどなく、信号で止まると左前方に説明板のようなものが見えました。



 何だあれ!?

 本陣だと!



 横がコインパだったので一瞬車を止めようか考えましたが、今日は素通りにします。

 今日は土曜日ということもあり、道路は結構混んでいて、なおかつ雷電號に搭載しているマツダの純正ナヴィは無難な大きい道を示して、近道とかを教えてくれないのです。

 ですから、地図を見て自力で探そうとするのですが、変に冒険して引っかかってしまっても嫌なので、大人しくナヴィの指示に従って走ります。

 結局、大さん橋から1時間45分もかかって、11時半に寒川神社に到着。

 しかも結構参拝客が多いようで、第1と第2の駐車場に入れず、第3駐車場へ誘われました。

 では、探訪開始!

 駐車場を出て横っちょから境内に入ると、いきなりでかい建物が現れました。



 でもこれは社務所なんですね。

 さっきのダイヤモンド・プリンセスもでかかったけど、寒川神社の社務所もでかい。

 左をみると門がありました。



 門をくぐると拝殿です。



 おー、広々としていますねー。

 一旦戻ります。

 門から参道を見ると遠くの方に鳥居が見えます。



 実は寒川神社の下調べはまったくしてきていないので、予備知識はゼロに近いのですが、この神社の参道は長そうな予感がします。

 あ、それはそうと、由緒書きを探そう。

 あった。



 相模国の一宮ですよ。

 と、それも重要ですが、祭神をご確認ください。

 祭神となっている寒川比古命と寒川比女命は、もしかするとヤマトの勢力がこの地に完全に定着する前に相模川流域を治めていた王とその妃かもしれませんよ。

 「さむかわ」と「さがみがわ」は何となく音が似ていて、「さがみ」は「さがむ」と呼んだかも知れず、そうすると、「さむかわ」というのは「さがむかわ」のことかなあなんて思います。

 ところで、古代国家の国司は赴任してくるとまっさきにその地域の神様にご挨拶をして回ります。

 私も今後相模国の歴史調査を本格的に実施するに当たり、一宮に詣でたのは至極自然なことなのです。

 おや、道路を挟んだ向こうには小さな神社がありますね。



 寒川神社の末社である宮山神社です。



 元々この辺りに合った神社を合祀したようですね。



 ではもう一度寒川神社の境内へ戻ります。

 鳥居まで来ました。



 まだまだ参道は続いていますね。



 もう少し境内を散策。









 気が済んだので次へ行きましょう。

 駐車場へ戻ると、大山がよく見えるじゃないですか。



 私が普段お掃除の仕事でグルグルと多摩地域を周っていると、西側に見える山並みの一番南側にある目立つ山が大山なので、私にとっても実は馴染みがある山なのですが、ここ相模ではさらにポピュラーな感じがします。

 では、雷電號のナヴィにはとりあえず平塚市博物館をセットして駆動開始。

 先ほどの参道を走っていると、もう一つ鳥居がありました。

 しかもでかい。



 そして参道はまだ続いている模様です。



 さらに進むと踏切で止まってしまいましたが、気付くとここにも鳥居が!



 鳥居のシーケンスの降り方には二通りあり、境内から遠い方から一の鳥居、二の鳥居、と呼ぶ場合と、反対に社殿に近い側から順番に呼ぶ場合があります。

 私的には、お城の場合は本丸・二の丸・三の丸とか、Ⅰ郭・Ⅱ郭・Ⅲ郭といったように、中心部に近い方から番号を付けてるので、神社の場合も同じように呼びたい気持ちです。

 寒川神社には長大な参道に3つの鳥居がありましたが、私の個人的な好みで呼ぶと、この鳥居は三の鳥居です。

 ところで交差点名は「大門踏切前」ですよ。



 ということは、踏切が「大門」と呼ばれているように思えますが、それが神社の参道入口にまつわる命名なのか、神社とは関係なく大きな門があったことによる命名なのか、今のところは分かりません。

 ちなみに八王子市下恩方の浄福寺の近くには「でーもん」という地名があり、最初「悪魔か!」と思ったのですが、「だいもん」が訛っただけでした。

 何だかんだでもう12時20分。

 急がなければ。

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相原から鎌倉道を北上/宇津貫毘沙門天と樹齢300年のシダジイ

2017-04-28 23:15:37 | 歴史探訪
 町田街道からまた丘陵に取りつきます。

 少しのぼって振り返ると、高層マンション群が。



 実はこの道は鎌倉道なのです。



 これはだいぶ古い壁画のようです。



 自治会案内図に「鎌倉街道」とある!



 随分高くまで登ってきました。

 振り返ると津久井城が見えます。



 東国を歩く会の第1回で歩いた津久井城ですね。
 


 あの日は午前中津久井城を見て、午後は高尾まで歩いてたかお食堂の「秘密の部屋」で打上げをしました。



 T字路を左折すると舗装されていない道になりました。



 古道っぽくていいですねえ。

 でも面白いことに、途中から私たちが歩いている道の左側に並走するように古道があります。



 どうもそっちの方が古い道のように見えます。

 道と道の間が土塁のようになっていますね。



 古そうな道へ行ってみますが、藪が結構酷い。



 こっちの道は歩けませんね。



 さっきの道へ戻りまた歩きだすと、右手に八王子不動尊が見えます。



 この尾根の下の道は何度か車で走ったことがあります。

 まだ歩く。



 相原駅東口方面から丘陵に取りついて歩くこと30分、急崖が現れて道は断絶しています。

 崖下に車が走っているのが見えますが、ここは本日の午前中探訪した杉山峠のすぐ近くです。



 そして驚いたことにここから下の道へ下りる道はロープを掴まないと降りれないほどの急角度となっているのです。



 ここまでくると道ではないかも。

 こんな場所へ下りてきました。



 さて、ここで本日予定していたルートはすべて歩きました。

 八王子みなみ野駅へ向かって戻りましょう。

 そして駅へ戻る途中、私のリクエストであちらへ行ってみます。



 この高い木は遠くからも目立つのです。



 到着。



 宇津貫毘沙門天。



 あ、でもお堂は風情が無い・・・



 八王子市指定天然記念物のシダジイ。



 良い木だねえ。

 私は結構古木好きなのです。

 横浜線の線路を見下します。



 それでは今度こそ駅へ向かいましょう。



 「みなみ野毘沙門の丘緑地」って言うんですね。



 はい、八王子みなみ野駅へ戻ってきました。

 時刻は14時半。

 思ったより早く帰ってきましたね。

 9時から歩きだしたので、休憩時間を入れると5時間半の探訪となりました。

 今日歩いたコースはハイキングにも最適ですね。

 天候もバッチリで、念願だった杉山峠と七国峠を見ることができてとても楽しい一日でした。

 今日はお誘いいただき、本当にありがとうございました!
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八王子・町田「峠」探訪その3/青木家屋敷ほか

2017-04-26 15:33:14 | 歴史探訪
 そういえば、先日クラツーで東北地方の南北朝時代の講座をしたとき、足利尊氏の説明の流れで栃木県足利市の鑁阿寺(ばんなじ)の写真を見せました。

 ただし、鑁阿寺の写真といっても鑁阿寺で見かけた猫ちんの写真の方を大きく見せたのですが、これがその白猫です。









 講座が終わった後、ある参加者の方が「昨日、鑁阿寺に行ったばかりなんですよ」と話しかけてきて、この猫ちんは昨日もいたということを教えてくれました。

 その方にとってはタイムリーな話で驚いており、私にとってもあれから1年半経っても猫ちんが無事に愛嬌を振りまいていることが分かり嬉しかったです。

 というわけで、先日の峠歩きの続きをご報告します。

*     *     *


 ランチを食べた大日堂の急階段をへっぴり腰で降りた後は歩きを再開します。

 場所によっては道が切通しになっており、こういう道を歩くとなぜか嬉しくなりますね。



 おっと分かれ道。



 人生にはこういった岐路がたまに現れますが、私は「結果オーライ思考」かつ「スーパーポジティヴ」なので、今までの人生で一度も判断を誤ったことがないと言い切っています。

 そしてようやく、普通の道が見えてきました。

 説明板がありますよ。



 来た道を振り返ります。



 こんなところから七国峠を越える道に入っていくことができるんですね。

 普通の道を南下していくと、相原十字路の角に神社がありました。



 でも、何の神社か分かりません。



 相原十字路からはショートカットということで、バスに乗って相原駅へ向かいます。

 相原駅!



 こっちは西口ですね。

 初めて来ました。

 私たちは駅の北方に見えるあの尾根を東から西へかけて歩いたわけです。



 相原駅は横浜線の駅ですよ。

 東口へ出てまた歩き出します。

 駅前の看板。



 相原町は東京都町田市域で、境川を挟んだ向こうは神奈川県相模原市です。

 境川はその名の通り、武蔵国と相模国を区切っている川なんです。

 あ、ちなみにこの地図は北が下ですよ。

 小料理いなご!



 もしかしたらこの道は旧街道でしょうか。



 黒塀が格調高いですね。

 立派な門が現れたと思ったら青木医院という病院でした。



 あ、説明板がある。



 青木家屋敷ですか。

 やっぱりただの病院ではなかったのですね。

 ちなみに今日は中に入ることはできません。



 医者が開院している日に診察してもらいに来れば中に入れるということでしょうか。

 今日は建物を外から見ておしまいです。

 というわけで、次は午前中歩いた杉山峠に向かって、午前とはまた違うルートで向かいますよ。

 ⇒この続きはこちら
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【八王子・町田】七国峠/出羽三山供養塔/大日如来像【境界探訪】

2017-04-25 20:38:04 | 歴史探訪
 10年以上も前から気になっていた中世の杉山峠をこの目で見ることができてご満悦な私。

 つづいて向かったのは、若干けもの道ライクな道でした。



 この道は町田市と八王子の境界にあたる道で、地図には出ていません。



 道はやがて沢沿いまで下りて行き、しばらく歩いて行くと集落が現れました。



 東京造形大学にほど近い場所のようです。

 大岳山が見えますね。



 今度は普通の道路を進むと、右手に東京造形大学の建物が見えました。



 昔は八王子城跡にキャンパスがあったんですよね。

 そしてまた、山道に入っていきます。



 この道も八王子市と町田市の境界上にある道で、先ほどの道は南北方向でしたが、今度は東西方向の道です。

 10分ほど歩くと看板が現れました。



 横浜線の相原トンネルの上を知らないうちにまたいでいたようです。



 図中にある七国峠を目指しますよ。

 ほどなく絶景ポイントに到着。



 目の前の建物は、地図で見ると日本水産の建物のようです。

 遠くには八王子駅南口のサザンスカイタワー(41階建て)が見えて良い目印になります。

 また歩きだし、広大な東京ゆりかご幼稚園の園庭を見ながら今度もビューポイントに来ました。

 やっぱり大岳山は目立ちますねえ。



 お、私の家の近所にある金色のみころも霊堂も見えます。



 みころも霊堂の裏山は初沢城で、背後には八王子城と高尾山がありますよ。

 そしてここからもサザンスカイタワー。



 サザンスカイタワーの背後に見える低い加住南丘陵上には滝山城がありますが、さすがに分かりません。

 さきほどの看板の場所から40分歩いて、ついに七国峠に到着!



 やったー、ここも念願の地だったのだ。

 尾根は南西方向へ伸びていますが、北方にも古道跡があるということで少しだけ確認に行きます。

 おー、切り通し!



 いいねえ。

 切り通しを抜けると、みなみ野の町が現れました。



 ここがみなみ野の町の南西の角に当たります。



 大船給水所応急給水拠点。



 この建物は、朝歩きだした直後、遠くに見えていました。



 もう一度七国峠に戻り、南西方向の尾根道を進みます。

 今度は出羽三山供養塔が現れました。



 大日堂もあるようなので行ってみようと思いますが階段がすごい・・・



 息切れを起こしながらなんとか頂上まで来ました。

 結構な段数がありますよ。



 頂部には大日堂があります。



 ちゃんと由来も書いてありますね。



 こんにちは。



 別に計算してきたわけではないのですが、ここでちょうどお昼!

 ベンチもあってお弁当を食べるのにちょうどいいですね。

 さて、お弁当を食べながら30分ほど談笑したら歩きを再開しますよ。

 ⇒この続きはこちら
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【杉山峠】上杉謙信も武田信玄も通った峠道なので私たちも通ってみた【御殿峠】

2017-04-23 17:55:47 | 歴史探訪
 昨日(4月22日)はクラブツーリズム主催の「さかのぼって学ぼう 東北の古代史・中世史 第4回」ということで、「建武の新政と奥州小幕府」という講座を喋ってきました。



 ※案内板の「親政」は「新政」の間違いですが、もしかしたら私がクラツーに渡した内容に誤字があったかも知れず、そうだったらスミマセン・・・

 11名様のご参加、ありがとうございました!



 思い入れの深い南北朝時代なので、1時間半でどうやってまとめようか苦しみましたが、逆に珍しく時間が5分余ってしまいました。

 理解しづらい南北朝時代の話でしたが、アンケートを見させていただいた感じでは概ねご満足いただけたようで嬉しかったです。

 また、「回を重ねるにつれて面白くなってくる」というご意見をいただくこともでき、「それなら次回はもっと面白くするぞ!」と気合を入れ直しました。

 次回は5月13日(土)に鎌倉時代の奥羽について話しますよ!

 ※後日註

 2017年はこれ以降も月に1度、東北の古代史・中世史の講座を開催しています。

 詳しくは、下記リンクからどうぞ。


 ⇒クラブツーリズムの公式サイト


 講座が終わった後はクラツーの担当者の方々と打ち合わせをして、私が案内する北九州を一泊二日でめぐる邪馬台国関連ツアーも催行決定ということで、一時は邪馬台国の研究に没頭したこともありますので、これもまた今からとても楽しみです。

 そして、最近あまり妻とゆっくり過ごす時間がなかったため、夜は吉祥寺で一緒にご飯を食べました。













 はい、これで今日の講座でいただいたギャラは全部なくなりました!

 宵越しの銭は持たねえ!

 と、下総出身のおっさんがカッコつけても仕方がありませんが、基本的に人間は食べるために働いていますので、これでいいのです。

 それに、たまには妻に美味しいものを食べさせてあげたいですからね。

 さて、そんなわけで、一夜あけて本日は、八王子市内在住の歴史仲間と比較的近場の歴史歩きをしてきました。

 八王子市は北・西・南の三方を山に囲まれた盆地のような地形なのですが、南側の低い丘陵には、町田市との境に杉山峠(御殿峠)と七国峠という二つの峠があり、両方とも古代からの交通路だったようです。

 私は八王子市民となって15年くらいなりますが、地図を見るたびにずーっとそれらの峠が気になっており、車で近くを通ることは何度かあったものの、なかなか歩いて行く機会に恵まれませんでした。

 ところが、今回嬉しいことに「一緒に歩きませんか?」とお誘いがあったので、本日私は案内をしていただきながら念願の「峠めぐり」をすることができたのです。

 それでは、そのときの模様を簡単にご報告します。


*     *     *


 横浜線の八王子みなみ野駅に9時に集合。

 天気は快晴、風もほとんどなく、歩くには最高のコンディションですね。

 駅を出発し、東側の片倉高校の方向へ歩き、右手の山に登って尾根歩きの開始です。

 道路を挟んで反対側の山には城郭遺構が出ているようですが私はまだ確認していません。



 今日は極力、古道を歩きたいと思います。

 歩いてすぐにチューリップ畑が!



 尾根伝いに南の方角へ歩いていくと、進行方向右側、つまり西側の眺望が開けました。

 富士急行のバスが沢山止まっていて、富士急の社有地になっていますね。



 やがて、片側1車線の道に出たので横断し、そのまま直進します。

 兵衛2丁目ですね。





 おや、これは何でしょう?



 「都立多摩丘陵自然公園」と書かれていますが、周りは全然公園っぽくないですね。

 でも、昔はプールなどがあって大勢の人が来たそうですよ。

 なお、この道は江戸時代から戦後に東京環状ができるまでの幹線道路です。

 さて今日は、中田正光先生の描いた杉山峠の縄張図を持ってきていますので、まずは杉山峠の城郭遺構を調べてみたいと思います。

 向かって左手の崖の上に戦国時代の道があるのですが、ここからは登れません。

 なので、日本閣の駐車場から行ってみましょう。

 どうみても結婚式場に行く人とは思えないコスチュームの私たちですが、厚かましく駐車場へ進入。

 なんか、一里塚のようなものがありますが、何でしょうかねえ?



 ご存じの方がいましたら教えてください!

 お、山への入口だ。



 縄張図と照らし合わせると、この先に堀底の道があるはず。

 ・・・おーーっ!

 あったー。



 うわー、すごい、堀底道だ。

 さっそく堀底へ降ります。



 堀底を歩くのって楽しいな。

 縄張図によると、この先は右に折れて、そこで崖となって終わっています。

 うん、その通りだ。



 堀の左手は土塁状になっており、その先端には見張り台のような平場があるようなので行ってみます。



 なるほど、今はだいぶ破壊されていますが、ここが先端部分ですね。

 この部分から眼下の街道を監視することができたわけです。



 もう一度堀底へ。



 いやー、いいなあ、こういう道は。

 ちなみに、永禄4年(1561)には上杉謙信が、永禄12年(1569)には武田信玄が川越方面から南下してきてこの道を通って小田原へ向かったはずですよ!

 次に西側の斜面を見てみます。

 竪土塁のようなものがありますね。



 3段ほどになっており、不思議な遺構です。

 ついで、中田先生の図だと南側に平場があり、その平場の西側には虎口のようなものが書かれています。

 ところが、現在は藪の中ではっきり分かりません。

戦国の城は民衆の危機を救った―関東王国の平和を求めた八王子城主北条氏照
中田 正光
滝山城跡群自然と歴史を守る会


 ↑杉山峠の縄張図はこの本を参照しました。また、八王子市内の城跡について網羅的に記述してありますので興味のある方はぜひお読みください。

 杉山峠は御殿峠とも言われ、国道16号線の御殿峠はたまに車で通ります。

 でもその西側の尾根上にある、現在私たちが立っている中世の杉山峠には、既述したように今までずっと来てみたかったのにもかかわらず中々その機会に恵まれず、今日、ようやく来ることができたのです。

 念願が叶った形です。

 中田先生がここの縄張図を描いたのは2008年のようで比較的最近ですが、今度お会いした時には現状を報告しようかなと思います。

 ⇒このつづきはこちら

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【常陸国”枢要部”探訪05】太田三楽の次男梶原政景や伊達政宗の叔父国分盛重らの居城【柿岡城跡】

2017-04-18 22:07:33 | 歴史探訪
 太田三楽斎資正が居城した片野城跡については本当はもっと詳細に調べたいのですが、今日は古代史がテーマなのでサラッと流して次へ向かいます。

 といいつつも、次も城跡。

 柿岡城跡です。

 記事のタイトルも「常陸国”枢要部”探訪」とか言っていますが、あんまり枢要部っぽくないですね。

 古代常陸国の枢要部は午後に訪れる予定です。

 柿岡城跡は現在は柿岡小学校になっているそうなので、柿岡小学校をナビにセット。

 ほどなく到着です。



 お、説明板がありますね。



 なるほど、戦国期には先ほど訪れた片野城主太田三楽の次男・梶原政景が城主だったこともあり、国分盛重なんかは伊達晴宗の五男で現在の仙台辺りの領主だった国分氏を継いだ人物で、つまりは政宗の叔父ですよ。

 しかも、志筑城跡に陣屋を構えた本堂氏の先祖である小野成尋(中条義勝)は、八田知家の猶子(養子のようなもの)になっているんです。

 今日訪れた3つの城が繋がりましたね。

 面白い・・・

 城域を拡大!



 なるほど、土塁と空堀を見ることができそうです。

 それではさっそく土塁を見に行きましょう。

 桜はまだ咲いています。



 おや、前方に何やら見えてきましたね。



 きっとあれでしょう。

 思った通り、土塁でした!



 塁上へ上がります。



 この土塁の上から見る塁線の眺めも大好きなんですよね。

 現在残っている土塁の先端まで行くと、今度は空堀が現れました。



 ちょっとこれは堀底を歩くのは難しそう。



 土塁の上を引き返します。









 学校の敷地内には神社がありますね。

 敷地内に入るのは何となく憚られますが、好奇心を押さえることができない・・・



 先ほど歩いた土塁。



 神社は丸の内稲荷です。



 この神社がある場所も土塁の上のように思えますが、説明板の図だとそうではないようです。



 そのまま敷地内を歩き外へ。

 こちらの地域は小学校の敷地内に怪しい人物が入っていも気にしないんですかね?

 私が子供のころは小学校にはいつでも入れたと記憶していますが、現在の東京の小学校は固く門扉を閉じており、気安く校内には入れませんよね。

 長閑でいいですねえ。

 よし、次はいよいよ本日の主題にあった古墳巡りをしますよ!

 ⇒このつづきはこちら
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【常陸国”枢要部”探訪04】流転の猛将・太田三楽斎の居城【片野城跡】

2017-04-18 20:42:28 | 歴史探訪
 志筑城跡で奥州和賀一族本堂氏に思いを馳せたあとは、片野城跡へ向かいます。

 事前に手元にある『日本城郭大系』で調べたところでは、片野城跡は結構広大なので、今日は全部を見ることは不可能でしょう。

 ですから、説明板を探してそれを写真に収め、その周辺をチョロッと見ることを目標にします。

 しかし説明板のある場所がどこなのかも分からず、城跡へ向かうにあたり目標物も特にないので、とりあえず適当に走っていきます。

 大体この辺かなー?と思いつつ、細い道を走行。

 雷電號はコンパクトカーなので決して大きな車ではありませんが、普段運転しているDeathK!Nの軽ワゴンのようにクイクイと狭い場所へ入っていくのにはあまり向いていないですね。

 何となくグルーっと、それらしい場所を回り、ここかな?と思って登った切り通しのような道の右手に標柱らしきものが見えました。

 車を止めて確認するとやはりそうでした。

 片野城跡です。



 説明板もきちんとありますよ。



 ここでスニーカーからトレッキングシューズに履き替えます。

 詳細な探訪はしないつもりですが、城跡を歩くときはやはりそれなりの靴を履きたいです。

 説明板の後ろ側へ行ってみると、郭のようなスペースになっていますね。

 直進して後ろを振り返ります。



 西側の視界は開けていますね。



 おっと、ここは虎口でしょう。

 ここでも振り返ります。



 枡形状にはなっておらず、単純な坂虎口のようにも見えますが、少し屈曲しているようにも見えます。

 この郭は結構広いですね。



 このまま奥まで行きたい衝動に駆られますが、片野城跡探訪は早くもこれで切り上げることにします。

 元来た道へ向かい、さきほどの虎口を内側から見ると土塁の様子が良くわかります。



 土塁の断面は後世切ったのでしょうか。



 説明板の場所まで戻ると、説明板の後ろも土塁であることが分かりました。



 この説明板の場所も虎口のようですね。



 説明板の前のちょっとしたスペースに雷電號を止めています。



 切り通しになっていますよ。



 ※右手がⅣ郭、左手がⅤ郭

 さて、今日は古代史がテーマなので、今回は片野城跡の場所を確認できただけで収穫とし、詳細な踏査はまた後日にしましょう。

 では車へ戻ります。

 上の写真の坂を下ると、すぐ右手に小さな駐車スペースがありました。



 片野城跡を探訪するときはこちらのスペースに車を止めたらいいですね。

 ところで片野城の歴史ですが、上の説明板に書かれている通りです。

 私的には岩付城主の太田三楽斎資正が佐竹氏を頼って落ち延びてきたあとに居城した城というのがグッドです。

 三楽は太田道灌の曾孫の代に当たり(正確な血縁関係は不明)、奥さんは斜陽の扇谷上杉家を支えた松山城主難波田弾正の娘ですよ。

 三楽は関東を転々としながら打倒北条氏を目論み、かなりドラマティックな人生を歩んだので、映画やドラマの主人公に起用してもいいと思います。

 どうも私は各地を転々としながら自分の志を曲げずにタフに生きた武将が好きで、長尾景春なんかは大好きですし、斎藤龍興とか足利義昭などにも興味をそそられます。

 ※この日の午後、ふるさと歴史館に行ったのですが、ちょうどそこで石岡市内の城跡についての展示をやっており、いただいた資料に片野城の縄張図が掲載されていました。それによると、説明板の位置は城内のほぼ真ん中にあたる、Ⅳ郭とⅤ郭の間の堀跡になり、説明板の後ろの土塁はⅣ郭南側の土塁、そしてⅣ郭の先にあったのはⅠ郭、すなわち本丸でした。郭の数は合計10個あります。

 さて次は、もういっちょ城跡を巡ってみましょう。

 ⇒このつづきはこちら
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【常陸国”枢要部”探訪03】奥州和賀一族本堂氏、ついに大名となる【志筑城跡】

2017-04-17 21:37:20 | 歴史探訪
 志筑城跡を見つけようとして場所を間違ったのにもかかわらず、偶然古代の瓦窯跡である松山瓦窯跡を発見していい気分になった後は、今度こそ志筑城跡を探訪します。

 詳細な地図は持っていませんが、カーナビを見ながら慎重に運転し、ニョロッと入った道に看板発見!



 台地上へ登っていくと、元々学校の敷地だったような雰囲気の場所に到着。

 雷電號を適当に止めて徒歩で近接すると、ありました!



 志筑城跡!



 お、意外と広い。



 時計回りに歩いてみましょう。

 これは西側の土塁ですね。



 北側の土塁は一部だいぶ低くなっていますが、形跡は残っています。



 中央には大きなクスノキが立ち、その下にはベンチなどが置いてあって憩いのスペースになっているようです。



 立派な石碑がありますね。



 海軍の有馬大将ってどなたかご存知ですか?



 あ、なんか北側の眺望が見れるみたい。

 おー、素晴らしい。



 しばし散策。



 説明板によると、鎌倉時代に茨城南郡の地頭職を務めた下河辺(しもこうべ)政義の館がルーツのようですね。

 広さ的には当時の居館跡として適当かと思います。



 政義から数えて6代目の国行のとき南朝方に付いて府中城の大掾(だいじょう)高幹と戦い、興国2年(1341)11月に国行は破れ、その後一旦は廃城になりました。

 それからだいぶ経って、江戸時代の初めの慶長7年(1602)、この周辺は本堂茂親の領地となり、正保2年(1645)この場所に陣屋を構えました。

 本堂氏は8500石という石高のため、ギリ大名扱いではなかったのですが、ついに明治になってすぐに1万110石となって念願の大名に列します。

 この、本堂氏が大名になったというのは、実は私にとっては非常に感慨深いことなのです。

 というのも、本堂氏は中世に奥州和賀郡(岩手県北上市周辺)を治めた和賀氏の一族であるのですが、和賀氏は豊臣政権による奥羽仕置によって領地没収となり、徳川大名になることはできませんでした。

 ところが、それから270年後、そのときの無念を一族である本堂氏がついに晴らしたわけなのです。

 和賀氏については、以前岩手に通っていた頃にだいぶ調べたことがあり、それなりに思い入れがありますので、今日は偶然にも本堂氏の陣屋跡に来ることができ、それで感慨を味わっているというわけです。

 さて、時刻は8時。

 今日はまだまだ行けるね。

 次なる目的地である石岡市の片野城跡を目指しますよ。

 さきほど城内から見下した道路から今度は反対に城を見ます。



 今いる城の北側は恋瀬川の河岸で往時は深田だったようです。

 深田は城の西・北・東を囲むようになっているので、この方面から攻めるのは大変でしょう。

 南側には堀があったようですね。

 視点を少し右にずらすと筑波山が見えます。



 よし、再び出発!

 ⇒つづきはこちら
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【常陸国”枢要部”探訪02】城跡に来たと思ったら古代の瓦窯跡だった【松山瓦窯跡】

2017-04-17 20:22:30 | 歴史探訪
 性的な祭祀遺跡かどうかの判断を保留にした千代田の一里塚を出て、同じかすみがうら市内にある志筑(しづく)城跡を目指します。

 ちなみにかすみがうら市は平成の大合併により千代田町と霞ケ浦町が合併して誕生した地方自治体です。

 県によっては平成の大合併でかなりダイナミックに合併をして市町村の数がだいぶ整理されましたが、茨城県ではそれほど大きな合併劇はなかったようですね。

 さて、志筑城跡は志筑小学校の敷地にあるそうなので、カーナビに志筑小学校をセットして巡航を開始します。

 土地勘がまったくないので、自分がいったいどこを走っているのかさっぱり分かりませんが、進行方向右手に何やら小さなマウンドが見えました。



 社がありますね。



 東京ではこの程度の小さなマウンドが古墳であることもあるので、目に入ってしまったら確認しないと気が済まないのです。



 でも古墳だったらこの上の祠を置くと思うので多分違いますね。

 何の神様か分かりません。



 こちらには五輪塔のようなものともう一つ祠が。



 まあ、良く分からないので再出発。

 おー、立派な佇まいのお宅ですね。



 志筑小学校に到着!



 でもなんか城跡っぽい雰囲気の場所ではないですね。

 ちょろっと周囲を回ってみますか。

 反対側に来ました。



 うーん、なんか違うなあ。

 土塁が残っているそうですが、それらしいものは見当たらない・・・

 おや?



 何だろう、あの看板は?

 ええ!!



 古代の瓦窯跡!?

 かすみがうら市指定史跡の松山瓦窯跡(窯跡地区)ですって!

 へー、城跡だと思って来たら古代の遺跡を見つけちゃいました。

 あっち側には工房地区があるんですね。



 あ、そもそもは志筑城跡を探しに来たんだった。

 WWWで志筑城跡を調べます。

 なんだー、ここは最近移転してきた場所で、元々の場所は違うじゃん!

 しかし、間違って来たのに古代の瓦窯跡遺跡を見つけちゃうなんて、やっぱり好きなものは引き寄せるんですねえ。

 こういう偶然が歴史めぐりの楽しいところです。

 それでは、仕切り直しで志筑城跡を目指しましょう!

 ⇒つづきはこちら
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【常陸国”枢要部”探訪01】千代田の一里塚で性的な祭祀遺物を発見!?

2017-04-17 19:30:37 | 歴史探訪
 先日のクラツーの群馬古代史ツアーは、バスで案内するのが初めてだったこともあり、お客さんに楽しんでいただけたかとても気になっていました。

 そうしたところ、アンケートの集計結果の報告があって、24名中、19名の方から「満足」、4名の方から「ほぼ満足」という評価をいただいたのです。

 なので、ひとまず安堵したところなのですが、今後も関東地方の古代史ツアーを続けていくにあたり、面白スポットをもっと開拓しようと思っています。

 というわけで、先週の土曜日(4月15日)は一日空いたため、どこか調査へ赴こうと思ったところ、なんとなく常陸国府があった茨城県石岡市なんかは面白いかもしれないなあと思いつきました。

 そこで一度も訪れたことのない石岡市についてWWWで調べたところ、古代と中世の歴史スポットが結構たくさんあることが分かったので、先週の土曜日は朝4時半に起床し、5時に高尾を出立しました。

 本日はその時の探訪レポートをお届けします。


*     *     *




 つい2週間前の4月2日に同じ時刻の5時に出立した時は普通に夜の暗さでしたが、今日はすでに明るいですよ。



 では、一路常陸国府を目指すべく雷電號を稼働させます。

 先日、圏央道がつくばまで繋がったので、その実走を兼ねて圏央道で行きますよ。

 私の家は圏央道の高尾山ICまで10分くらいの場所にあるので、北へ向かうときはいつもそこから高速に乗るのです。

 昨年の9月25日に雷電號が配備されてから圏央道はもう何度も走行していますが、一番遠くまで行ったのは妻の実家のある茨城県古河市(五霞ICで降りる)までで、そこから先は未知の道となります。

 いえーい、未知の道ーーっ!!

 古河より前にある幸手の手前くらいから、圏央道は何としたことか、方側1車線になるんですよね。



 制限速度も70km/hになるので、ここからは低速度での巡航となります。



 五霞ICを過ぎ、未知の道を進んでいると、その後も2車線になったり1車線になったりで、あまり思うように速く走れません。

 まあ、渋滞していないだけマシではあると思いますが、せっかくこういう道を走っているのに雷電號のポテンシャルが発揮できないのは車が可哀そうです。
 
 やがて坂東太郎を渡河。



 左手にはうすーく、筑波山が見えますね。



 おや、何ですかね、あの特徴的な屋根の建物は。 



 つくばJCTから常磐自動車道へ入り、谷田部東PAで休憩です。



 我が家の方向からすると筑波山の反対側にあるこの場所まで90分で来ちゃいました。

 圏央道は私にとっての「棒道」ですな。

 あ、信玄が作った軍用道路のことです。

 というわけで、本日の一発目のスポットへ向かいます!

 ・・・着きました!



 千代田石岡ICの敷地内にあって、非常に近接し辛い場所にあるこの史跡は何でしょうか?



 何と、江戸期の一里塚です!



 説明板などはないので詳細は分かりませんが、千代田の一里塚は水戸街道の一里塚で、茨城県指定文化財(史跡)になっています。

 もちろん墳頂へ登ります。



 おや、この珍妙なものは何でしょうか?

 どうやらこれは、今ではほとんど絶滅しかかっている「EB」すなわち「エロティック・ブック」ですね。

 ブックではなくマガジンと言った方が実情に即しているかもしれません。

 こういう紙媒体は、私の子供の頃はたまに道端に落ちており、こういう媒体をお店で購入できない小学生や中学生の少年にとっては、まさに埋蔵金を発掘したくらいの価値があったものです。

 それが今ではWWWの普及により衰退の一途をたどっているわけです。

 あれ、女性物のショッキングピンクの下着も落ちてますよ。

 まさか、男性用のショッキングピンクの下着じゃないよね?

 二つの遺物が地表面に現れているこの墳頂で、往古、いったいどのような行為が行われたのでしょうか。

 もしかしたら何らかの性的な祭祀が執り行われたのかも知れず、そうすると千代田の一里塚は祭祀跡の遺跡ということになります。

 私は考古学の専門家ではないので、これはどなたか専門の方に聴いてみたいと思います。

 おっと、ここで詳細な考察をしている暇はないですね。

 車は道端に路駐しているし、さっさと次へ行きましょう。

 ⇒つづきはこちら
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私はいつから古墳に興味をもったんだろう?

2017-04-09 18:39:13 | 歴史探訪
 昨日、クラツーのツアーで古墳を案内していて、ふと、自分はいつから古墳に興味を持ったのだろうかと疑問に思いました。

 私は過去の歴史探訪を結構細かく記録しているのですが、24歳(1996年)で歴史歩きを始めた時は戦国時代&城館跡マニアだったのが、2008年の11月辺りに原始時代や古代史に興味を持ち始めたようです。

 遥か昔の20歳くらいのときに買っていて全然読んでいなかった『日本書紀』の熟読を開始し、東北地方の中世を調べていた経験があることが関係してか、蝦夷(エミシ)への関心が著しく高まり研究を開始しました。

 ただ、まだ古墳を探訪するまでには至らず、翌2009年の夏に本格的な体調不良となり、ついに37歳にしてIT業界を引退し、寝たきり生活となってしまったのです。

 その後、2ヶ月くらい寝っ転がって苦しみ悶えていたのですが、それが少し落ち着いた11月、3年3ヶ月ぶりくらいに歴史探訪に出掛けることにし、11月8日に訪れた八王子市内の船田古墳が小学生の時の遠足を除くと生まれて初めて探訪した古墳となりました。

 記念すべき、大人になってから初めて訪れた古墳!



 えーー、これだけーー?

 って言われそうですが、墳丘も石室もなにも無いのです。



 このときのレポートは「日本史大戦略」に書いてありますので気になった方はお読みください。

 ⇒「日本史大戦略」の船田古墳のページはこちら

 この頃は同じ八王子市内の北大谷古墳に行きたかったのですが、結局一番初めに訪れたのは船田古墳となったのです。

 そして翌々日には、八王子市郷土資料館を訪れました。

 というのも、ちょうど「多摩の古墳」という展示をやっていたからで、資料館で私はその図録を購入、古墳への興味が加速したわけです。

 しかし、その後も結局体調が悪い時期が続き、一時的に良くなった2010年11月には母の故郷である宮崎を家族で訪れ、私は西都市にある西都原古墳群に行き、ここで生まれて初めての「ちゃんとした」古墳めぐりを楽しんだわけです。

 あの時は本当に楽しくて、気分が上がったのを思い出します。



 ※鬼の窟(いわや)古墳

 ただ、その後も経済危機および体調不良が続き、畿内の古墳を見に行くことなんて夢のまた夢で、それなら武蔵国内で行けるところから行ってみようと思い定め、2012年10月26日には大田区から世田谷区にかけて展開している多摩川台古墳群を訪ねてようやく本格的に古墳の研究を始め、翌2013年の5月5日には初めて群馬の古墳を見に行きました。

 そんなこともあり、昨年4月にクラツーと契約して以後、9月17日には武蔵府中熊野神社古墳を案内し、昨日は群馬の古墳を案内し、ようやくお金をいただいて古墳を解説できるところまでたどり着いたのです。

 2012年10月から昨年9月まで4年掛かったんですね。

 とくに体調不良のために自分自身が「棺」に中に入りかけたわけですから、感慨もひとしおなのです。

 しかし古墳やその時代についてはまだまだ知らないことだらけですので、もっともっと勉強が必要なことは言わずもがなことですね。

 そして、せっかく勉強をしても知識を自分の頭の中だけに閉まっておいては単なるマスターベーションですので、知り得たことを元にツアーや著述を通して、今後も歴史仲間の皆さんに楽しみを提供して行けるように積極的に活動して行きます。

 って、何で私は所信表明みたいな記事を書いているんだろう?



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