日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~関東・東北の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

降伏した斯波家の武将たち:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第25回

2012-12-25 09:07:00 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 『紫波町史』によると、高水寺城に入城した南部信直は、簗田大学と岩清水右京義教を謁見し、それぞれ1000石を知行しました。また降伏した十日市・越田・山王海・鱒沢・宮手・小屋敷・伝法寺・太田・中島・煙山・藤沢・飯岡・彦部・大巻・長岡・江柄・栃内・手代森・乙部・大萱生・猪去・鵜飼・大釜・雫石・星川・川村・氏家・多田・達曽部・松原・猪藤・玉井・鮫島等の諸氏に対しては本領を安堵しました。そして中野修理亮(九戸政実弟)は第一の殊勲者として、片寄村に3000石を賜りました。なお、高水寺城の落城は8月2日か3日と推定されています。

 『南部藩参考諸家系図』によれば、高水寺落城のときの簗田家の当主は大学影光(勝泰)の父中務詮泰でした。簗田氏の先祖は越前の人で代々斯波氏に仕えてきたといいます。大学影光の妻は厨川豊前光勝の女で、光勝のもうひとりの女は斯波右京の妻です。

 厨川氏の先祖は源頼朝の平泉藤原泰衡征伐に功を立てた工藤行光で、行光は『吾妻鏡』文治5年(1189)12月24日の条で奥州に発向しているのが確認できます。

 岩清水氏の先祖は山城(京都)男山石清水の人で、志和郡に来て代々斯波氏に仕えたといいます。

 大釜彦次郎(薩摩)も先祖代々斯波氏に仕え、大釜村を領してその館(滝沢村大釜字白山)に住し、信直に本領安堵された知行高は500石でした。彦次郎の妻は川口源之丞秀影の女です。

 中嶋内膳(源内)も代々斯波氏に仕え、信直から300石を賜ったとあります。

 星川左馬介(あるいは右馬介)も先祖代々斯波家の家臣であり、氏家弥右衛門義方もやはり先祖代々斯波氏の家臣で、信直から60石を賜ったとあります。

 達曽部氏は、阿曽沼領と稗貫領の間で半独立的な動きを見せていましたが、弥三郎綱保の代に斯波氏に属し、その子孫右衛門忠綱(始め清定)の代に、斯波氏の没落に会い降伏し、旧領によって達曽部村一円を賜ったといいます。この達曽部氏の系図も錯綜していて、忠綱の曽祖父の妹が遠野孫三郎広里(阿曽沼広郷のことを言っている)の妻となったとありますが、それは時代が合いません。綱保の弟綱実は、宮手彦三郎と称し、斯波氏に仕えましたが一本には稗貫氏に仕えていたとあります。やはり、達曽部一族は阿曽沼・稗貫・それに斯波氏の間で揺れ動いていたのでしょう。綱実の子彦右衛門英清のとき斯波氏の没落に会い、旧領によって300石を賜ったとありますが、一本には稗貫大和守に仕えて稗貫郡宮手村を領したとあり、こちらは誤りであると記してあります。

 以上のように、斯波氏の旧臣たちの多くは信直の家臣にスライドしているので、後世に伝わっている、斯波氏滅亡直前に家臣たちの心が斯波家から離れていたという話の裏付けになると思われます。

 信直が斯波氏を滅ぼしたのは明らかに「惣無事令」の違反です。しかし南部氏が処罰されることはありませんでした。それはなぜかというと、いくら法令を作ったとしても、結局は処罰されるかどうかは秀吉の胸三寸で決まるものだったからでしょう。

 次回の記事はこちらです。

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説最終回:海の底にも都はござりましょう

2012-12-23 22:36:28 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第50回「遊びをせんとや生まれけむ」では、清盛が死し、そしてその後の平家滅亡、義経の自害、頼朝の上洛までが綴られました。

 清盛は治承5年(1181)閏2月4日、九条河原口の平盛国の屋敷で没しました。

 享年64歳。

 もう清盛の一生に関してはあらためて詳しく振り返ることはしませんが、四位の中級貴族の家から身を起こし、公卿に列せられ、臣下としては最高位の太政大臣まで昇り、史上初の武家政権を確立した人生は、晩年は少し行動に翳りが見えたものの、やるべきことはやりぬいた、充実した一生であったと思われます。

 清盛の開いた武家政権は、頼朝の鎌倉幕府に引き継がれ、ついで足利尊氏の室町幕府、そして徳川家康の江戸幕府と続き、大政奉還まで700年もの長きに渡って展開しました。

 巨人、清盛。

 ドラマが終わってもしばらくの間は清盛のことが頭から離れそうもありません。

 さて、そういうわけで本日で一点解説も終わりです。

 思えばこのコーナーは、ドラマの第1回を見終わった時に思いつきでやってみようと思い始めました。

 まったくの無計画です。

 しかも、もっと恐ろしいことは、私は清盛の時代についてほとんど知識が無かったことです。

 ほとんど何も知らないのに、解説を書いてみようと思ったのです。

 それから20冊の本を買い集め、勉強をしながら解説を書いていました。

 そのため、まったく見当違いなことを書いたこともあったかもしれません。

 しかし、何とか50回すべて解説を書くことができました。

 中には見る方によっては、こんなの解説じゃないよ、というような回もあったと思いますが、私個人のことにフォーカスすれば、重要なのは中身ではなく、50回続けたことにあります。

 解説くらい俺にでも書ける、と思っている方もおられると思いますが、思っていても行動しないとそれは価値が無いのです。意味が無いのです。

 そういうわけで、一点解説はほぼ私の自己満足に終わりましたが、少しでもあなたのお役に立てたなら、私の自己満足も浮かばれます。

 何も知識もない段階から始めて、お陰さまで1年間のうちにだいぶ12世紀の畿内の歴史を知ることができました。

 今後、清盛の時代に関して、「読書」のレベルから「研究」のレベルに行くかどうかは分かりませんが、清盛の時代が私が好きな時代の一つになったことは事実です。

 1年間お付き合いいただき、ありがとうございました。

 とくに貴重なコメントを書いていただいた方々には重ねて感謝致します。

艦隊これくしょん

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高水寺斯波氏の滅亡:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第24回

2012-12-18 20:36:58 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 信直の家臣となり中野修理亮と名を改めた高田吉兵衛は、信直のために抜群の働きをします。

 修理亮は斯波氏家臣に対して調略を行い、簗田中務詮泰や岩清水右京義教らは、それに応じる手はずとなりました。

 斯波家当主詮直は、細川長門・稲藤大炊・岩清水肥後義長らの諌めを聞かず驕りふけったため、家臣の心は詮直から離れていきます。岩清水義長は寝返ろうとする弟義教を説得しましたが、それに応じないため機先を制して、三百余人で岩清水館を攻めました。そのとき岩清水館には小屋敷・宮手・伝法寺・煙山氏がいましたが、騎馬武者十三騎を合わせても五十名しかいません。『紫波町史』では、義教が最初挙兵して、それに対して追手が向けられたように書かれていますが、義教ら叛乱与党が集まって謀議をしているところを斯波勢が急襲したのかもしれません。

 さて、攻められた岩清水館でしたが、館は三方を深田に囲まれた要害の地にあったので、攻め手は苦戦して総崩れとなりました。一方、簗田中務はこのことをすぐに中野修理亮に伝え、修理亮は援軍を派遣します。

 それを知った詮直は全軍出撃を命じましたが、一人の武将も応じなかったので、やむなく自ら三百余人を率いて岩清水館を攻撃しました。義教らは館を脱出し、煙山主殿の館に逃れましたが、詮直が続いて煙山館を攻撃すると、義教らは不来方に走りました。

 一旦高水寺城に帰った詮直は、犬吠森弥三郎や草刈藤助らの諌めも聞かず、再び三百余を率いて出陣し、まず日戸内膳の見前館を落としました。そして北上川西岸に陣を張りましたが、対する中野・不来方勢は東岸に陣を張りました。詮直は全軍渡河の命を下します。ところが、誰もついて来ず、詮直は渡河を諦めました。

 斯波氏挙兵の報を得た三戸の信直は、斯波攻撃軍を編成し、自ら兵を率いて三戸を出発しました。そしてそれを聴いた日戸内膳・岩清水義教・煙山主殿は、自らの館を奪回します。詮直は高水寺城に立て籠もりましたが、手兵はわずか五十名でした。詮直がもっとも頼りとしていた長岡館の長岡八右衛門詮尹も、そのとき江柄式部や栃内丹後の攻撃を受けて交戦中であったため、高水寺に救援に行けませんでした。七百余騎を率いた信直は、陣ヶ岡に陣取ります。陣ヶ岡は源頼朝など歴史上著名な人びとが陣地とした場所です。


陣ヶ岡から高水寺城跡を望む

 詮直は抗戦をあきらめ、稲藤大炊左衛門・草刈藤助・桜町越前・日詰某らわずかの家臣に守られ、夜半に高水寺城を脱出し、一旦稲荷別当成就院に行きましたが、次いで山王海(紫波町の奥羽山脈側)へ逃亡します。信直は主の居なくなった高水寺城にほぼ無血入城しました。「ほぼ」と言ったのは、『奥南落穂集』に岩清水肥後守義長・工藤雅楽茂道・永井八郎延明が抗戦して戦死したとあるからです。若干の戦闘があったのでしょう。工藤雅楽允茂道(茂興・兼興)の討ち死には『南部藩参考諸家系図』にも記載があります。また、中嶋一覚斉は譜代の家臣でしたが、没落し花巻に隠れたといい、大川甚之丞基房も一旦は浪人となりましたが、その後利直に取り立てられています。

 次回の記事はこちらです。

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第49回:清盛の最後の政策

2012-12-17 14:58:26 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第49回「双六が終わるとき」では、後白河法皇(松田翔太)に最後の双六勝負を挑んだ清盛(松山ケンイチ)が後白河に打ち勝ち、これからは武士と武士とが戦う世の中になり、武士はもはや王家の犬ではないと言い、もう双六もこれでおしまいにして欲しいと頼みました。そして、清盛は熱病で倒れます。

 南都焼き討ちのあと、清盛が倒れるまでに最後にやったことは、新たな軍制の構築です。

 東国では頼朝(岡田将生)が政権をつくり、御家人を組織して強大な軍事力を保持し始めたので、それに対抗するために清盛も畿内近国の軍隊を率いる惣官を設けました。

 それは天平3年(731)に新田部親王が任じられた官職に習って作られ、五畿内ならびに伊賀・伊勢・近江・丹波が管轄内でした。

 すでに東国は頼朝の支配下になっており、九州でも叛乱が起こっていたので、清盛の威令が届く範囲は、畿内と西日本の一部になっていたのです。

 それでも清盛はできる範囲内で軍制を新たにし、頼朝に対抗しようとしました。

 清盛はまた、奥州平泉の鎮守府将軍・藤原秀衡(京本政樹)と越後国住人の平助長に頼朝追討の宣旨を与えました。東の秀衡、北の助長、西の平家で頼朝を挟みうちにする戦略です。

 鎮守府将軍の秀衡はよいとしても、国司でもない一介の地方武士である助長に追討の宣旨を与えるなどは今まで例がありませんでした。清盛はすでに体面にこだわっている余裕はなかったのです。

 結局、奥州で強大な軍事力を誇る秀衡は動きませんでした。秀衡はその武力を背景にして、中立を維持したのです。

 もし秀衡が動いていれば、のちの鎌倉幕府滅亡後の北畠顕家の軍勢のように、物凄い勢いで関東を席巻していたかもしれません。

 あとあと頼朝に平泉藤原氏が滅ぼされることを考えれば、平家と秀衡の挟撃作戦を見てみたかったような気もします。

 さて、大河ドラマ「平清盛」もいよいよ来週で最終回です。

 第1回から毎回解説を書いてきて、番組が終了するのが寂しい気もしますが、始まりがあれば終わりがあるものです。

 それでは、「一点解説」をあと一回宜しくお願いします。

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Wordに画像を挿入した時に本来の画像のサイズより大きく表示されてしまう問題が解決した

2012-12-11 22:12:40 | 雑談
 今日は電子書籍用の家系図を作りました。

 しかしいきなりトラブルです。

 Illustratorで作った家系図をWordに挿入すると、どういうわけか、画像サイズ(縦横)が大きくなって表示されてしまうのです。

 大きくなった分、画質が悪くなります。

 実は以前もこういう症状が出たことがあったのですが、そのときは追及しませんでした。

 しかし今日はこのままじゃまずいので、Webで調べてみたところ、どうやら72dpiのJPEGファイルだとそうなるみたいで、96dpiでないとダメみたいです。

 そこで、Illustratorでは、「データの書き出し」でJPEGファイルを作っていたのですが、「Web用に保存」でJPEGファイルを作るようにしたら、Wordで正常に等倍で表示されました。

 ファイルのプロパティを見たら96dpiになっています。

 一件落着。

 解決して良かったです。

 そんな感じで、必要な家系図7枚を書いたので、今日の目標は達成です。

 明日は出掛ける用事があるので、午後に帰ってきたら文章のブラッシュアップをします。

 ブラッシュアップは木曜日の夜中まで時間をとってあるので、明日と明後日、できる限り、最後にあがいてみようと思います。

艦隊これくしょん

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高田吉兵衛の寝返り:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第23回

2012-12-11 11:59:01 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 津軽の回復が事実上不可能だと悟った南部信直は、南の斯波氏への圧迫を強めます。室町幕府はすでに元亀4年(1573)7月に滅びており、幕府足利氏の同族であり、幕府の権威をバックに持っていた斯波氏もいくどとなく行われた南部との合戦で勢力を減じており、一時は雫石河畔にまで伸ばした版図も、天正年間には矢巾町あたりが北限となっていました。

 『南部藩参考諸家系図』によると、天正11年(1583)、大ヶ生で合戦が起き、長牛正道の弟彦六が討ち死にしていますが、これは南部氏と斯波氏との合戦でしょう。

 『紫波町史』によると、天正16年(1588)5月28日付けの志和稲荷社本殿建立の棟札には「源朝臣志和孫三郎詮直」と記されていて、この日付は斯波氏滅亡2ヶ月前なので詮直が最後の当主と考えられ、詮直は詮基とも称したといいます。


高水寺城跡

 高水寺斯波氏没落に拍車をかけたのは、九戸政実の弟で斯波家に婿に入っていた高田吉兵衛の寝返りです。『紫波町史』によると、吉兵衛の家臣が民部大輔の家臣を殺害したので、民部大輔は吉兵衛に害意を持ちました。危険を察した吉兵衛は三戸の信直の元に脱出します。

 吉兵衛が実家の九戸ではなく、三戸を頼ったの何故でしょうか。

 恐らく兄政実の命で、九戸家存続のためのリスク分散を図ったものと考えられます。

 政実は中央の豊臣政権と繋がろうとした気配がなく、伊達政宗と懇意にしていました。

 政宗は豊臣の世になることが分かっていても独立心を失っていません。政実も政宗に同調して、糠部において独立を保とうとしました。

 しかしそれがもし失敗したらどうなるのでしょうか。

 九戸家は滅亡してしまいます。

 そのため政実はそういう事態も考慮し、弟吉兵衛を三戸の家臣とさせて九戸家が存続できる道を用意しておいたのでしょう。

 なお、吉兵衛は『祐清私記』によると大変な力持ちで、三戸城の石垣普請の際、上から落ちてきそうになった石を普段から持っている鉄の入った竹の杖で抑えたと言います。その石は30人がかりで引くような巨石でした。吉兵衛は後の活躍でも分かる通り大変知謀の高い武将でしたが、それに加えて大力の持ち主という大変な逸材だったのです。

 さて、信直は吉兵衛を中野館(盛岡市茶畑)に配して、吉兵衛は中野修理亮と改名しました。

 吉兵衛の出奔を知った民部大輔は、稲藤大炊左衛門と長岡八左衛門に300騎を付けて、見前に展開させます。二人は二方から中野館を攻めましたが、負けてしまい手代森館に立てこもりました。しかし、手代森館主は不来方の福士伊勢の勧告に応じ、弟の乙部右衛門を質に出して帰順してしまったので、稲藤大炊左衛門らは高水寺に撤退します。ここで例のごとく、稗貫孫次郎広忠が調停を買って出たため、ひとまず停戦となりました。

 次回の記事はこちらです。

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第48回:清盛の失敗と頼朝の成功

2012-12-10 16:27:29 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第48回「幻の都」では、福原に遷都して半年で、清盛(松山ケインチ)は世の中の非難をかわしきれず、平安京に都を戻しました。

 やはり清盛の権力をもってしても、400年近い伝統を持つ平安京に対して皇族や貴族たちが感じている愛着を無視しての自分の都合のよい土地への遷都は長続きしなかったのです。

 さて、治承4年(1180)11月、宗盛(石黒英雄)は皆の意見を聴いた結果、還都することを清盛に進言しました。それに反対したのは時忠(森田剛)だけで、皆還都に賛成でした。

 清盛はその後、11月11日に新造した内裏への行幸を行い、13日に万機の旬、15日に五節と行事を行い、それが済むと還都を決めました。清盛も一族や貴族のほぼ全員が還都を願っていることに対して、ついに自我を通すことができなくなったのです。

 23日に還都すべく福原を発つと、逐電する家臣が出たり、東国に出陣すると称して暇を請う武士たちが続出し、福原には2000騎しか残らなかったといいます。

 貴族たちの心はすでに清盛から離れており、30日に高倉上皇(千葉雄大)の御所で東国にどう対処するか評定を開いたところ、藤原長方は、後白河法皇(松田翔太)の院政の復活と、藤原基房(細川茂樹)の帰京を主張して人びとを驚かせました。ついに貴族の中には正面切って清盛の政治に対して異議を唱える者が出てきたのです。

 いったい、ここまで事態が悪くなったのは、清盛のどこがいけなかったのでしょうか。

 清盛は白河法皇(伊東四朗)の御落胤とされていますが、事実上、武士である伊勢平氏の息子です。

 家柄が絶対であった当時の貴族社会において、清盛の家は位階では四位の中級貴族であり、本来であればそれ以上出世してはだめで、貴族のほぼ全員は清盛の出世に対して不快に思っていました。

 そういう不快に思う人びとを武力で従わせようとしたのが清盛です。

 清盛は朝廷を利用しようとしたのではなく、そういう不快に思う人びとを内包したまま朝廷そのものになろうとしたのです。

 清盛は完全に中央志向なので、中央の貴族の中において力をつけて、貴族たちのトップに立つことで政権を確立しました。出身は武士であっても、ドラマの中で伊藤忠清(藤本隆宏)がいみじくも言っていた通り、もはや武士ではなくなっていたのです。

 一方の頼朝(岡田将生)は敢えて、京都ではなく、京都から離れた鎌倉で政権を確立しました。そして京都の朝廷を潰すことはしませんでした。

 頼朝がなぜ京都の朝廷を潰さなかったのかは、もっと考察をしてみないと分かりませんが、頼朝は朝廷はそのままにしておいて、離れたところで朝廷を利用しながら政治を行うという手法を考えつきました。

 清盛は、福原に拠点を移してまだ後白河法皇が院政を行っていた時点では、頼朝のさきがけともいえる手法を取っていました。朝廷から離れたところで政治をみるという方法です。

 しかし清盛はさらに一歩進めて、自分の身内になった天皇も巻き込んで朝廷を自分の根拠地に移そうとして失敗したのです。

 頼朝はそれが分かっていたので、清盛と同じ失敗はしませんでした。

 清盛も福原に拠点を移すまでは良かったのですが、そこで朝廷とは別個の、本当の意味での武士による武士のための政権を確立できれば良かったのです。

 しかし繰り返しますが、清盛は中央志向なので、やはり武士とはいっても中級貴族の出身であり、貴族の発想から逃れることはできなかったのではないでしょうか。

 その清盛の失敗のお陰で、頼朝の鎌倉幕府はうまくいきます。

 人はやはり、歴史の積み重ねの中で、過去の成功例や失敗例から勉強して、そして次なる成功を目指していくのだと思います。

 歴史の勉強が重要な理由はまさにその点にあります。

艦隊これくしょん

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「惣無事令」令達さる:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第22回

2012-12-04 16:15:20 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 羽柴秀吉が関白となる少し前の天正13年(1585)春、南部信直は北出羽の覇者・秋田実季と講和を結び、一方津軽では大浦(のちの津軽)為信の統一戦が続いていました。

 『津軽一統志』によると、天正13年3月には、為信は油川城(青森市)を攻めましたが、城主の奥瀬善九郎は「天然ノ質大臆病」で、船を出して逃げてしまいました。それに対して信直も名久井日向(東政勝か)を八甲田越えで津軽に向かわせましたが、日向は敗退してしまいます。

 これで為信の勢力は津軽湾陸奥湾にまで及んだわけですが、津軽の中ほどで為信に抗している者がいました。田舎館城(田舎館村田舎館)の千徳掃部です。『封内事実秘苑』によれば、為信は何度か降伏勧告の使者を送りましたが結局掃部の心は翻さず、5月19日には田舎館城を攻め、翌日掃部は自害して果てました。

 『奥羽・津軽一族』によれば、天正16年(1588)6月の飯詰高楯城(五所川原市)に拠っていた旧浪岡御所の属将朝日左衛門尉を攻めて自害させたことにより、為信の津軽統一はほぼ完了しました。『奥羽仕置と豊臣政権』によれば、翌天正17年8月20日の時点では、津軽は豊臣による処分の対象となっていましたが、為信はその後秀吉に二度にわたって鷹を贈り、結果的には秀吉は為信が切り取った領地の領有を認めました。為信が使った音信筋は増田長盛と木村清久でした。

 為信が津軽の統一を進めている頃、信直は中央と結びつこうと画策していました。

 天正14年(1586)夏には信直は秀吉に対して、鷹・太刀・馬を贈り、その仲介に前田利家が当たることになりました(『盛岡南部文書』天正14年比定8月12日付け「豊臣秀吉朱印状」)。北信愛も利家に対して手紙を書いています(『盛岡南部文書』天正14年比定8月22日付け「前田利家書状」)。

 そのころ中央政界では、すでに天正13年(1585)9月9日に秀吉が豊臣の姓を許可され、その後太政大臣になり豊臣政権が誕生していました。『奥南旧指録』によると、天正15年2月10日、信愛が利家の居る金沢を目指して三戸を発ちました。信愛はようやく4月2日に金沢に着き、6日に利家に対面します。無事任務を果たした信愛は、8月末には三戸に帰ってきました。このとき南部家は利家から、「関白様へ御取り次ぎの儀、毛頭粗略あるまじき候」という血判入りの起請文を取りつけています(『盛岡南部文書』天正15年6月29日付け「前田利家起請文」)。

 秀吉はこの年(天正15年)の3月に自ら九州に出陣し、九州を平定しました。そして『奥羽仕置と豊臣政権』によれば、この年の冬、秀吉は家康を介して、関東と奥州に「惣無事令」を令達します。これにより、関東と奥州では原則として各勢力同士の合戦はできなくなりました。もし合戦をした場合は、それは豊臣政権への反抗とされ処罰されることになります。しかし、ようやく長く続いた戦国時代が終わり、日本国中が平和になろうというこのときに至っても、「惣無事令」令達に反して奥州ではまだ合戦が続くことになります。奥州には秀吉の威令はまだ行き届かなかったのです。

 次回の記事はこちらです。

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第47回:頼朝の鎌倉入りを阻んだ者は?

2012-12-03 15:33:13 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第47回「宿命の敗北」では、頼朝(岡田将生)が率いる関東の軍勢と清盛(松山ケンイチ)から派遣された維盛(井之脇海)率いる平家軍が富士川を挟んで対陣し、水鳥が飛び立つ音を敵の攻撃と勘違いした平家軍は自壊し、頼朝軍が勝利を収めました。

 平家軍の総大将・維盛は今は亡き重盛(窪田正孝)の嫡男で、このとき23歳でした。

 さて、富士川の戦いの前に頼朝は鎌倉に入りましたが、ドラマでは下総で上総広常(高杉亘)の二千騎の援軍を得てから、すんなり鎌倉に入っていました。

 しかし関東の地理をご存知の方は、千葉県から鎌倉に行くのに陸地を通っていくとしたら、その間の東京都内(武蔵国)で何も特記すべき事件は起こらなかったのかな?と思うかもしれません。

 実は頼朝は下総から鎌倉にすんなり入れたわけではなかったのです。

 頼朝軍は、治承4年(1180)9月17日に下総国府に到着しました。現在の千葉県市川市です。

 そこから太井川(現在の江戸川)と隅田川を渡れば武蔵国です。

 しかし頼朝軍は渡河することができませんでした。

 それはなぜかというと、川を渡ったすぐ先の江戸には、江戸氏という強豪が盤踞していて、当主重長は平家側に付いていたからです。

 江戸氏は桓武平氏で清盛と同祖であり、桓武平氏の流れの秩父平氏に属しています。

 江戸氏の居館は現在の皇居内のどこかにあったはずですが、今のところそれらしき遺跡は発見されていません。

 『義経記』によると、江戸太郎の名は、「(関東)八箇国の大福長者」として近隣に鳴り響いていました。

 その江戸重長が敵対していたので、頼朝はすぐに武蔵に入れませんでした。

 頼朝は重長の参陣を促しましたが、それに応じないので、江戸氏と同族の豊島清元やその子の葛西清重が頼朝軍に参加していたことから、頼朝は清重に対して、重長を誘いこんで殺せと命じました。

 しかし清重が動いた形跡はありません。

 とうとうしびれを切らした頼朝は10月2日、強引に武蔵に押し入ります。

 おそらく下総国府に到着して2週間も経ったこの時期になって、重長が参陣してきそうな気配があったのでしょう。

 頼朝の読みの通り、清重の説得もあってようやく4日になって重長は頼朝軍に参陣しました。このとき、同族の畠山重忠や河越重頼も参じています。

 それにより頼朝は無事に鎌倉に入ることができました。

 重長が当初参陣を渋ったのは、重長は平家側の武将として三浦義明(菅田俊)を攻め滅ぼす戦いに参加しており、その義明の子義澄が頼朝の陣営にいたからと、武蔵国在庁官人(武蔵国の役人)を指揮する畠山重忠と歩調を合わせる必要があったからだと考えられます。

 ドラマではストーリー上、重要でない事件は省かれますが、頼朝の鎌倉入りの過程で、上記のような江戸氏との駆け引きがあったのです。

 実は中世の全期間(平安末期から戦国時代まで)に渡って東京出身の武将でメジャーな人物はいないのですが、そのなかでも平安末期から鎌倉初期では江戸重長・豊島清元・葛西清重の3人の名前は是非記憶にとどめておいていただきたいです。

 彼らは中世東京の繁栄の礎を築いた武将達です。

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