日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~関東・東北の古代・中世史探訪~

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第20回 アテルイの類まれな軍略

2011-08-31 18:37:08 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第20回 アテルイの類まれな軍略

延暦7年(788)3月28日には、蝦夷征討軍は衣川を渡って3箇所に陣営を置きました。しかし、その後征討軍は1ヶ月動きません。桓武天皇は使者を発して叱責しました。

桓武の叱責の後、朝廷軍は重い腰を上げましたが、結果は惨憺たる内容でした。6月3日の紀古佐美の報告によると、戦いは以下のとおりです。

副将軍入間宿禰広成と左中軍別将池田朝臣真枚が、前軍別将安倍猨島臣墨縄らと謀議して、三軍(前・中・後)で力をあわせ北上川を西岸から東岸に渡って賊を討つことにしました。そこで中軍と後軍から2000人を選んで河を渡ったところ、アテルイの居所近くで蝦夷300人と合戦になりました。蝦夷は敗走します。敗走する蝦夷を追って巣伏村に至ったところ、別の道から合流するはずだった前軍が蝦夷に阻まれ河を渡ることができず、中・後軍は孤立してしまいました。そこに蝦夷軍800人が攻撃を仕掛けてきて、中・後軍は勢いに負け後退します。更に東の山から蝦夷軍400人が駆け下ってきて、中・後軍の背後を塞いでしまいました。中・後軍は挟み撃ちにされ、別将の丈部善理、進士高田道成・会津壮麻呂・安宿戸吉足・大伴五百継ほか25人が戦死、負傷245人、北上川で溺死1036人、裸で逃れてきた者1257人という損害です。一方、蝦夷側の戦死者は89人でした。

これは征討軍側の報告なので、征討軍に有利に述べている点があると思いますが、その点を差し引いても、これはもう完全なるアテルイの勝利です。

アテルイは桓武天皇の軍隊を打ち破ったのです。

その報告に対する桓武の詔によると、征討軍の合戦は上級幹部級が指揮を取っておらず、下級幹部に任せきりだったのが敗因のようです。桓武はそのように指摘します。

その詔に対して古佐美は、「食料の運搬が困難だから」と言い訳をして、既に蝦夷は農耕の時期を失ったので、「待っていても滅びるので討伐軍を解散する」と言ってきました。

それに対して桓武は、「将軍らはうわべだけを飾った言葉で、罪や過失を巧みに逃れようとしているのである。臣の道にそむくことこれ以上のものはない」と相当のご立腹です。

7月10日、また桓武の元に古佐美からの奏状が到達して、それに対して17日、桓武は古佐美らに対して、「今回の奏状と先月の奏状とを見比べて、戦果を上げたというのは、ほとんど虚飾である。恥ずかしいとは思わないのか」と切り捨てています。

散々な目にあった古佐美らは9月8日帰京して、節刀を返しました。

9月19日、古佐美らの聴取が行われました。取り調べる側には、蝦夷討伐の経験者である藤原継縄や藤原小黒麻呂が出席しました。古佐美や副将軍入間広成・鎮守副将軍池田真枚・安倍墨縄らは敗戦の責任を認めます。総責任者の古佐美は罪を問わず許されましたが、墨縄らは斬刑のところを官職・位階の剥奪、真枚は河に溺れた兵士を助けたので、官職のみの剥奪となりました。総責任者の古佐美が処罰されていないのはおかしな話です。

このようにして、桓武の第一次蝦夷征討は終わりました。

艦隊これくしょん

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第19回 桓武の第一次蝦夷征討とアテルイ

2011-08-28 20:54:14 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
来年7月で手持ちの携帯電話が使えなくなるということで、無料交換をしてもらいに家族でauに行ってきました。

私は昔から携帯電話は使いこなしたことがありません。

通話とCメールができればそれで満足なので、最新機種に変えても猫に小判です。

それにしても思うのは、窓口のお姉さんですが、よく上手に説明ができますよね。

人には向き不向きがあって、多分私にはできない仕事だと思います。

auのあとは、妻子を伴って、あ、いや、妻子に「付き添われて」市営プールに行きました。

去年も秋に通っていたのですが、冬になって寒いので行かなくなり、春になったら今度は地震の影響でしばらく閉鎖となっており、今年は初めてのプールとなります。

今日は結構混んでました。

娘には「なんか丸い物体がいる」と言われました。

最初、娘は行くのを嫌がっていたのですが、来てみると意外と楽しいみたいで、「延長しよう」と言ってきました。

というわけで、久しぶりの全身運動をして、心地よい疲労感が来ています。

今日は夜食を食べなくても眠れそうです。

『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第19回 桓武の第一次蝦夷征討とアテルイ

延暦元年(782)6月17日、春宮大夫大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)に陸奥按察使と鎮守将軍を兼任させ、入間宿禰広成(いるまのすくねひろなり)を陸奥守に、安倍猨島臣墨縄(あべのさしまのおみすみただ)を鎮守権副将軍に任じました。広成は武蔵国入間郡物部直出身で、天平宝字8年(764)9月の藤原仲麻呂の乱で愛発駅に入ろうとした仲麻呂を撃退するという功を挙げた人物です。墨縄も武蔵国出身です。

翌延暦2年(783)11月12日、常陸介大伴宿禰弟麻呂に征東副将軍を兼任させました。

桓武天皇は延暦3年(784)6月10日から現在の京都府向日市・長岡京市・京都市西京区の地に新しい首都長岡京の造営を開始しました。

陸奥での蝦夷と朝廷の戦いは断続的に行われていたらしく、延暦4年2月7日は蝦夷征討に参戦したとして、小田郡の大領丸子部勝麻呂が外従五位下を授かりました。

5月20日、百済王英孫が陸奥鎮守権副将軍に任じられました。英孫は9月29日には出羽守に転じます。

11月25日、坂上大宿禰田村麻呂が従五位下を授けられました。後にアテルイらと戦う田村麻呂が歴史上に名前を見せるのはこれが初めてです。田村麻呂の歴史上への登場と重なるようにして、翌延暦5年(786)正月7日、父の苅田麻呂が死去します。

延暦5年(786)8月8日、蝦夷討伐の準備が開始され、兵の検閲と武具の点検がなされました。

翌延暦6年(787)閏5月5日、陸奥の鎮守将軍の百済王俊哲がある事件に連座して、日向権介に左遷されました。ある事件とは、どのような事件だったのでしょうか。盛田稔は、同年発令の狄馬の密売を禁じる太政官符にそむいたからではないかと推測しています。あるいは俊哲が密売したせいで禁令が出されたのかもしれないともしています。

翌延暦7年(788)2月28日、陸奥按察使兼陸奥守多治比真人宇美に鎮守将軍を兼任させ、安倍猨島臣墨縄を鎮守副将軍に任じました。

12月7日、桓武の蝦夷討伐が開始されました。参議左大弁兼東宮大夫中衛中将の紀朝臣古佐美が征東大将軍に任命され、節刀を与えられたのです。古佐美率いる軍勢は、翌延暦8年(789)3月9日、多賀城から賊地へ攻め入りました。「賊地」とは現在の胆沢地方と考えられます。この頃胆沢地方にはまだ郡や柵などは置かれていなかったので、征討軍からすると完全なる敵地です。一方の朝廷軍に対抗する胆沢地方の蝦夷の指導者はアテルイとモレだったと考えられます。「必ず城柵を侵略しよう」と宣告したウクハウや、伊治城で叛乱を起こしたアザマロも参戦していたかもしれません。

艦隊これくしょん

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第18回 狡猾な藤原小黒麻呂

2011-08-27 20:47:54 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
数日前、天武天皇の正体について書きましたが、私と同じ「天武=貞慧」説を唱えているらしき人に、西野凡夫という人がいて、『新説 日本古代史』という本を出していたので購入しました。

初期天皇からずっと書かれていて、「神武天皇は複数いた」など、なかなかエグイ内容なので、後日ご紹介したいと思いますが、ふと、なにげなく本の奥付を見てみると、発行者が「韮澤潤一郎」となっているじゃないですか。

韮澤潤一郎って、あの韮澤さん?と思い、Webで調べたところ、やっぱりあのUFOの韮澤さんでした。

その本の出版社は文芸社ですが、韮澤さんは文芸社の取締役をやっていたようです(現在やっているかどうかは分かりません)。

こんなところで、韮澤さんに遭遇するとは思いませんでした。

テレヴィでの韮澤さんのUFOに関するコメントはいつも興味深く聴いております。

なお、その本には、「天皇は宇宙人だった」とかそういうことは書かれていませんよ。

『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第18回 狡猾な藤原小黒麻呂

結局、征東大使藤原継縄率いる討伐軍はなんら戦果をあげることができず、9月23日には藤原朝臣小黒麻呂が持節征東大使に任命されました。事実上の継縄の更迭です。

しかし、数万余を集めた小黒麻呂率いる征討軍も駐留して動きません。まったく戦意が無いようです。10月29日には光仁天皇が、「伊治城はいつになったら回復するのか」と、強い語調で勅しました。

12月10日、久しぶりに征東使からやる気のある奏上がありました。それによると、2000の兵を遣わして、鷲座・楯座・石沢・大菅屋・柳沢などの五道を攻め取り堅固な砦を造り、蝦夷の要害を断つ作戦だといいます。12月27日には、陸奥鎮守副将軍の百済王俊哲から、「賊に囲まれて窮地に立ったときに、桃生や白河などの郡の神11社に祈ったところ囲みを破ることができたので、その11社を幣社に加えられるように」と申請があったので、10日の奏上のあと、実際に作戦が行われたようです。

翌天応元年(781)正月10日、右衛士督兼常陸守藤原朝臣小黒麻呂に陸奥按察使を兼任させました。

2月30日、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸などから穀10万石を陸奥の軍営に運ばせました。

奥羽への遠征が継続される最中の天応元年(781)4月3日、光仁天皇が退位し、桓武天皇が即位しました。光仁の跡を継いだ子の桓武も引き続き征夷を繰り返し、蝦夷に強硬な姿勢を貫くことになります。なお桓武は、皇太子時代に坂上苅田麻呂の娘(田村麻呂の姉妹)又子を夫人としています。

5月7日、小黒麻呂に兵部卿を兼任させ、5月27日、大伴宿禰益立が任じられていた陸奥守に紀朝臣古佐美が任命されました。

6月1日に桓武が小黒麻呂に勅した内容によると、「蝦夷の伊佐西古(いさせこ)・諸絞(しょこう)・八十島(やそしま)・乙代(おとしろ)らは賊の首領で、一人で千人に匹敵する。小黒麻呂らは彼ら4000余人に対して討ち取った首級は70余人で、軍隊は解散してしまった。副使の内蔵忌寸全成か多朝臣犬養を上京させ報告させろ」とあります。伊佐西古というのは、3年前の宝亀9年(778)に蝦夷討伐の軍功により位を賜った吉弥候伊佐西古のことで、アザマロと同様に叛乱したのです。そして驚くべきは征討軍が現地で解散してしまったことで、まったく異例なことです。

7月10日、小黒麻呂は民部卿に転じ、陸奥按察使はそのままでした。

8月25日、小黒麻呂が帰京しました。さきに征討軍が現地解散したことも驚きましたが、もっと驚いたことは、ほとんど何の成果も出せなかった小黒麻呂の位が正四位下から正三位に上がったことです。また、小黒麻呂の前に征東大使に任じられていて更迭された藤原継縄も9月3日には正三位に上がっています。朝廷の人事評価はいったいどうなっているのでしょうか。

6月1日の桓武の勅に名前の出ていた内蔵忌寸全成が9月8日、陸奥守に任じられました。また、6月1日の勅のときには小黒麻呂はほとんど成果を出していないと責められましたが、9月26日にはどういうわけか、「小黒麻呂は到着するとすぐに軍隊を進めて奪われた諸々の城塞を回復した」といわれ、進軍しなかった大伴益立が従四位下の位を剥奪されています。これはどうやら、戦果が出なかった責めをすべて益立の責任にして泥をかぶらせたことのようです。小黒麻呂の狡猾振りが伺えます。なお、小黒麻呂は藤原北家の祖房前の孫で、娘の上子は桓武の後宮に入っています。

12月1日、内蔵全成が鎮守副将軍を兼任しました。

翌延暦元年(782)5月にも陸奥で兵乱がありました。

艦隊これくしょん

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第17回 アザマロの叛乱

2011-08-26 20:22:54 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第17回 アザマロの叛乱

またもや大事件が発生しました。宝亀11年(780)3月22日、先に外従五位下に叙任されていた伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が決起し、按察使兼参議で従四位下の紀朝臣広純を殺害したのです。アザマロは俘囚の子孫です。初め事情があって広純を嫌っていましたが、わざと広純に媚び仕えて信任を勝ち得ていました。アザマロは広純とともに道嶋大楯に対しても恨みを抱いていました。大楯は同じ蝦夷出身にも関わらず、常日頃から呰麻呂を差別していたのです。広純が覚鱉城(かくべつじょう)築城のために伊治城に入ったとき、大楯と呰麻呂も付き従っていました。アザマロはかねてからの計画通り、その機会に蝦夷の兵らの協力を得て、まず大楯を殺害し、ついで広純を殺害しました。このときアザマロは、大伴宿禰真綱(おおとものすくねまつな。3年前に陸奥介になっていた)を城外に放ちましたが、多賀城に帰った真綱は掾の石川浄足とともに城から脱走し、城にいた兵も散り散りになり多賀城は無人と化してしまいました。数日後、何者かの集団が多賀城に攻め込み、略奪放火をしたあと、いずこへともなく立ち去りました。おそらくアザマロでしょう。その後のアザマロの行方はわかっていませんが、もしかするとアテルイなどの蝦夷の有力者のもとに逃亡して匿われたのかもしれません。多賀城の発掘調査の結果、このときの火災の跡とみられる痕跡がみつかっています。

「アザマロ叛乱する」の報を受けた朝廷は、3月28日、中納言で従三位の藤原朝臣継縄(ふじわらのあそんつぐただ)を征東大使に、正五位上の大伴宿禰益立(おおとものすくねますたて)と従五位上の紀朝臣古佐美(きのあそんこさみ)を征東副使に任じ、翌29日、多賀城から逃げた従五位下の大伴宿禰真綱を陸奥鎮守副将軍に、従五位上の安倍朝臣家麻呂(あべのあそんやかまろ)を出羽鎮狄将軍に任じ、益立に陸奥守を兼任させました。

5月8日、平城京や諸国にある甲600領を出羽の鎮狄将軍のもとに送ることにし、光仁天皇は、11日には出羽国に「渡嶋の蝦夷を懐柔するように」と、14日には坂東諸国や能登・越中・越後に「兵糧の準備をするように」と勅しました。

6月8日、出陣中の討伐軍に人事異動が発令され、百済王俊哲を陸奥鎮守副将軍に、多治比真人宇佐美を陸奥介に任じました。おそらく3月28日に大伴真綱が陸奥鎮守副将軍に任命されたときはまだ多賀城から逃げたことが知られておらず、その後それが明るみになって更迭されたと考えられます。

討伐軍は5月下旬に陸奥国府に進み、蝦夷を粉砕する予定でしたが、2ヶ月経っても侵攻せずに、将軍らは光仁に叱責されています。

征東使は、7月21日に甲1000領を請求し、22日には綿入りの上着4000領を請求したので急いで送らせました。

同じ22日には坂東の兵士を徴発して9月5日までに多賀城に集結させることと、兵糧を8月20日までに軍営まで運ばせることを光仁が勅しました。

出羽国鎮狄将軍の安倍家麻呂らが言上するに、夷狄の志良須(しらす)や俘囚の宇奈古(うなこ)らが、秋田城が永久に放棄されるのか不安になっているといいます。それに対して朝廷は、俘囚が離反しないように多少の軍士を遣わして鎮守に当たらせ、また由理柵(由利柵)にも兵士を遣わして、互いに助け合って防御させるようにと伝えました。なお、由利柵の遺跡は発見されていません。

艦隊これくしょん

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第16回 蝦夷を討った蝦夷アザマロ

2011-08-25 21:30:04 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
今日はお出かけしようと朝から張り切っていたのですが、朝食を食べながらテレヴィの天気予報を見てみると、日中は雨が降るということだったので、お外に出るのをやめました。

案の定、午前中雨が降りました。

明日も明後日もあまり天候がよろしくないようなので、お出かけは来週に持ち越しになるでしょう。

そのお出かけの内容ですが、一応、都心の神社をめぐってみようと考えています。

一口に都心と言っても、調べてみるとかなりの数の神社があります。

そのなかで、比較的古い神社(新しくても中世末期)を狙ってうろついてこようと思っています。

『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第16回 蝦夷を討った蝦夷アザマロ

宝亀7年(776)2月6日、陸奥国から、「来る4月上旬に兵士2万人を発動させて、山海二道の賊を討ちたい」との言上があり、出羽国の兵4000人を動員させ、雄勝の道から陸奥の西辺の蝦夷を討ちました。ところが、出羽国志波村の蝦夷は反逆して、朝廷軍は苦戦におちいり、5月2日には、下総・下野・常陸などの国の騎兵を発動して討たせます。志波村は現在の岩手県紫波町近辺ですが、この当時は出羽国の管轄と考えられていたようです。志波村はこの当時としては陸奥方面のもっとも深い部分にあたります。

9月13日、陸奥国の俘囚395人を大宰府管内(九州)の諸国に分配し、11月29日にも出羽国の俘囚358人を大宰府管内や讃岐(香川)に分配し、そのうち78人は貴族などに与えられ賤民(奴隷)とされました。

11月26日、陸奥国の軍3000人を発動して、胆沢(岩手県奥州市)の蝦夷を討伐させました。胆沢といえば、アテルイやモレらの統治下ですが、時代的に考えて、このときは彼らの父親たちが胆沢の指導者をしていたかもしれません。

翌宝亀8年(777)3月、陸奥の蝦夷が多く投降しました。

5月25日、相模・武蔵・下総・下野・越後から甲200領を出羽国の砦や兵営に送らせました。

12月14日、陸奥国鎮守将軍紀広純が、「出羽軍が志波村の蝦夷と戦い敗れて退却した」と言上したので、佐伯宿禰久良麻呂を鎮守権副将軍に任じて出羽国を鎮圧させました。

翌宝亀9年(778)6月25日、蝦夷討伐に軍功のあった、紀朝臣広純・佐伯宿禰久良麻呂・吉弥候伊佐西古(きみこのいさせこ)・伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)・百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)以下2267人に位を賜りました。ここで初めてアザマロの名が見えますが、アザマロは蝦夷です。朝廷に協力したアザマロは、栗原郡の蝦夷を率いて、一旦出羽方面へ出て、そこから北上、志波村の西側から奥羽山脈を越えて志波村の蝦夷と戦ったのでしょう。もしかすると、アザマロのこういった実戦の経験が、のちにアテルイらに引き継がれることになるのかもしれません。

12月26日、陸奥・出羽国の蝦夷20人を、唐客(中国からの使節)が来たときの儀丈兵にするために召しました。

宝亀11年(780)2月2日、陸奥国が、「雪の融けた時期に賊地に進軍して、覚鱉城(かくべつじょう)を築きたい」と言上しました。それに対して光仁天皇は「覚鱉城を作って胆沢の地を獲得せよ」と勅を下しました。また11日には、「去る正月26日に、蝦夷が長岡(宮城県古川市長岡)で放火を働いたので討伐したい」と言上し、許可されました。覚鱉城跡の現在地は確定していませんが、工藤雅樹は、宮城県大崎市の宮沢遺跡である可能性があるとしています。

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第15回 「三十八年戦争」の勃発

2011-08-23 18:55:10 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第15回 「三十八年戦争」の勃発

約半世紀の平穏を破って、また奥羽が合戦に巻き込まれることになりました。宝亀5年(774)7月23日、光仁天皇が河内守紀朝臣広純(かわちのかみきのあそんひろずみ)に鎮守副将軍を兼任させ、陸奥国按察使兼陸奥守兼鎮守将軍大伴宿禰駿河麻呂(むつのくにあぜちけんむつのかみけんちんじゅしょうぐんおおとものすくねするがまろ)に、「すみやかに蝦夷を討ち滅ぼせ」と勅したのです。

その命から2日後の25日、陸奥国から「海道の蝦夷が桃生城を襲撃して、西郭を破った」との報告が入りました。機先を制して蝦夷が攻撃を仕掛けてきたのです。4年前に「同族を率いて必ず城柵を侵略しよう」と宣言した宇屈波宇(ウクハウ)の攻撃に違いありません。この襲撃事件を契機として、後の世に「三十八年戦争」と呼ばれる戦乱が続くことになります。なお、桃生城はその後再建されていません。

桃生城襲撃のあと戦火は拡大し、8月2日に光仁は坂東八国に救援部隊の出撃を命じました。

8月24日には、鎮守将軍大伴駿河麻呂から朝廷に、「今は草が茂っており蝦夷に有利なので出撃は見合わせたい」と報告があり、それに対し光仁は、「以前は合戦をするといい、今度はしたくないと言ってきて計画に首尾一貫性を欠いている」と、深くとがめました。駿河麻呂は出撃したもののあまりにも蝦夷の勢いが強く、怖気づいたと考えられます。しかし、駿河麻呂はその後、光仁から叱咤されたことにより奮い立ち、遠山村(宮城県登米市か)に侵攻し、蝦夷を降伏させました。朝廷軍が遠山村に侵攻したということは、桃生城を攻撃したのは、遠山村に本拠地をもつ蝦夷であり、ウクハウの本拠地が遠山村だったと考えられなくもないですが、ここでウクハウの名前が出ていないこともあり、むしろ駿河麻呂は朝廷へ良い申告をするために一番手短で攻略しやすそうな場所である遠山村を選んで攻撃したとも考えられます。そうするとウクハウの本拠地はもっと奥地ということになります。駿河麻呂の狙い通り、10月4日には光仁は使者を送り、駿河麻呂を表彰しました。

11月10日、陸奥国に大宰府と同様、漏尅(水時計)が置かれました。

翌宝亀6年(775)になっても陸奥・出羽方面の蝦夷は騒動を繰り返します。

9月13日、鎮守副将軍紀広純が陸奥介(陸奥国の次官)を兼任し、27日には駿河麻呂が参議に任じられました。

10月13日には出羽国から、「蝦夷との戦いは継続されており、援兵を依頼し、国府を遷したい」との言上があり、光仁は相模・武蔵・上野・下野から兵を送りました。出羽地方の蝦夷の勢いが余りにも強いので、現在の秋田市にあった出羽国府は庄内地方と考えられる河辺城に後退します。

昨年の蝦夷討伐で抜群の功績を挙げたとして、駿河麻呂以下1790余人に位階が授けられ、駿河麻呂は正四位・勲三等に、広純は正五位・勲五等となりました。なお、駿河麻呂は翌宝亀7年(776)7月7日に死去します。

艦隊これくしょん

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第14回 伊治城の完成とウクハウの不気味な宣告

2011-08-21 20:31:51 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第14回 伊治城の完成とウクハウの不気味な宣告

神護景雲元年(767)10月15日の称徳天皇の勅によると、伊治城(これはりのき)が完成しました。伊治城は現在の栗原市の一迫川と二迫川に挟まれた河岸段丘上に位置し、山道(陸奥国府から玉造・栗原、さらに北上川流域に延びた道)の蝦夷に備えるために造られた城です。これにより、出羽方面は秋田城(出羽柵)・雄勝城の線が、陸奥方面は伊治城・桃生城の線が日本の北方の最前線となりました。

11月8日、出羽国の雄勝城下の俘囚400人余りが申し出て城に服属することを願い許可されました。今まで朝廷に帰順した蝦夷は大勢いましたが、「俘囚」という言葉が『続日本紀』に現れるのはこれが初めてです。

この月、陸奥国に栗原郡が設置されました。「栗原」と「伊治」は同じ場所を指しており、先月城が完成したのを受けて建郡したのでしょう。これによって、現在の宮城県の最北部まで日本の領土となりました。ただし、登米方面はまだです。

神護景雲3年(769)3月13日、2年前の12月8日に陸奥国の大国造(陸奥国だけの特例)に任じられていた道嶋宿禰嶋足の申請によって、陸奥国の多くの人々が姓を賜りました。また、4月7日にも陸奥国行方郡の下毛野公田主(しもつけののきみたぬし)ら4人に朝臣の姓を賜りました。

11月25日、陸奥国牡鹿郡の俘囚(帰順した蝦夷)大伴部押人(おおともべのおしひと)が、「先祖は紀伊国の人だが陸奥国小田郡嶋田村に住み着き、その後蝦夷の捕虜となり数代を経て俘囚となったので、もとの公民に戻りたい」と言上し許可されました。このようにもともと日本人だった者がいつのまにか蝦夷として扱われてしまうことがあったのです。同様の例は、翌宝亀元年(770)4月1日にもあり、このときは黒川・賀美など11郡3920人の俘囚が申請をして許可されています。

ところで、強硬な対蝦夷政策は、蝦夷に懸念の意を生じさせており、宝亀元年(770)8月10日には、蝦夷宇漢米公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)が一族を率いて朝廷の支配下に入っていない本拠地に逃亡しました。使者を遣わして呼び戻そうとしましたが、ウクハウは「同族を率いて必ず城柵を侵略しよう」と不気味な宣告をして戻りませんでした。そこで朝廷は近衛中将兼相模守の道嶋宿禰嶋足を派遣して調査させました。しかし、この事件がその後どうなったかは判っていません。この頃の海道地方の蝦夷は、嶋足の絶大なる影響下に入っており、もしかするとウクハウは「反嶋足」を標榜する蝦夷であり、それの意思表示のために朝廷から離反したのかもしれません。つまり、蝦夷内での派閥争いです。なお、嶋足は延暦2年(783)正月8日に病死します。

同じ年の9月16日、坂上苅田麻呂が陸奥鎮守将軍に任命されました。苅田麻呂は後に征夷大将軍となる田村麻呂の父です。苅田麻呂の鎮守将軍在任期間は半年ほどですが、少年時代の田村麻呂が父について陸奥に来ていた可能性も否定できません。後に田村麻呂と戦うアテルイやモレも田村麻呂と同世代だと考えられるので、想像を逞しくすると田村麻呂とアテルイらの少年時代の交流を思い描いてしまいます。

翌宝亀2年(771)6月27日、渤海国の使節で青綬大夫の壱万福らが出羽国の賊地の野代湊(秋田県能代市)に着きました。ここでは能代を賊地としていますが、斉明4年(658)4月の阿倍比羅夫の北国遠征の際に既に、渟代(能代)の蝦夷は帰順しているので、その後朝廷の統制が緩んで、再び蝦夷の独立状態になっていたのかもしれません。4年後の宝亀6年(775)には出羽の国府は南に移り、出羽国の領域は縮小されます。

10月27日、太政官の申請により、武蔵国が東山道から東海道に所属が変わりました。

11月11日、陸奥国桃生郡の牡鹿連猪手に道嶋宿禰の氏姓を賜り、翌宝亀3年(772)正月1日には、陸奥・出羽国の蝦夷が朝賀に参列し、7月17日には今度は、陸奥国安積郡の丈部継守ら13人に阿倍安積臣の氏姓を賜りました。

この頃、各地で不都合な事をした者が陸奥国に逃げ込んでそのまま陸奥国の戸籍に編入されてしまうということが起きていたらしく、10月11日、下野国が朝廷に取り締まり強化を言上しました。

翌宝亀4年(773)正月1日、昨年に続いて、陸奥・出羽国の蝦夷が朝賀に参列し、郷里に帰る際、地位に応じて位を授かり物を賜りました。

翌宝亀5年(774)正月16日、出羽の蝦夷と俘囚が朝堂で饗応されました。陸奥国の蝦夷は参加していない模様ですが、その陸奥方面ではこの年、蝦夷との間に深刻な亀裂が生じることになります。本拠地に帰ったウクハウの動静も気になるところです。

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第13回

2011-08-19 14:10:28 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
第8回で、和銅2年(709)の蝦夷征討について述べましたが、征討をした理由について、元明天皇の思惑が主な理由だと推測しました。

ところがです。重要な人物を忘れていました。

その時点での政界のドンは、藤原不比等(ふじわらのふひと。鎌足の次男)だったのです。

朝廷が初めて国家的軍事力を発動して蝦夷を討った理由は、不比等が自らの権力を政界に誇示するためだったのでしょう。

きっとそうに違いありません。

巨勢麻呂も佐伯石湯も不比等の子分だったのでしょう。

この件についてはまた後日よく考えてみようと思います。

『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第13回 奈良時代中期の蝦夷情勢

この頃聖武天皇は、奈良東大寺の大仏を造立していましたが、表面に塗る金をどう工面するか困っていました。ところが、天平勝宝元年(749)2月22日、陸奥国小田郡(宮城県遠田郡涌谷町)からはじめて黄金が貢進されたのです。国内初の産金です。聖武は、内心では必ず金が手に入ると念じていたので、金がみつかったときの喜びは限りありませんでした。しかし、陸奥で金が発見されたことにより、朝廷の北への領土拡張欲が増幅されたものと想像できるので、蝦夷からするとありがたいことではなかったでしょう。

天平勝宝5年(753)6月8日、陸奥国牡鹿郡の丸子牛麻呂(まるこのうしまろ)や丸子豊嶋(とよしま)ら24人に牡鹿連の氏姓を賜り、8月25日には、陸奥国の丸子嶋足(まるこのしまたり)にも牡鹿連の氏姓を賜りました。嶋足は後に道嶋宿禰の氏姓を賜ります。

天平宝字元年(757)4月4日、孝謙天皇は「不孝・不恭・不友・不順の者は陸奥の桃生や出羽の小勝(雄勝)に配属し矯正させ辺境を防衛させよ」と勅しました。また、6月28日に発覚した橘朝臣奈良麻呂の謀反のときも、「陰謀に加わった人民らが都の土を踏むのは汚らわしいので、出羽国小勝村の柵戸に移住させる」と述べました。このように東北の最前線は流刑の地としての意味合いも持つようになります。

翌天平宝字2年(758)6月11日、陸奥国が、昨年8月以来に帰順した1690余人の蝦夷を水田を耕作できるようにして辺境の軍にも充てたいと申請し、許可されました。

8月24日、帰化した新羅人の僧などを武蔵国の未開発地に移住させ、新羅郡を建てました。後の新座郡、現在の埼玉県新座市周辺です。2年後の天平宝字4年(760)4月28日にも新羅人131人が武蔵国に定住させられます。

10月25日、陸奥国の浮浪人を徴発して、現在の石巻市北部の丘陵上に桃生城を造営させました。徴発された者たちはそのまま定住させ、浮浪の徒は柵戸に編入させよとあります。12月8日にも桃生城を造営したという記事があります。また同日には、出羽の雄物川流域に小勝柵(雄勝城)を造営しました。しかし、翌天平宝字3年(759)9月26日時点で、両城はまだ造営の途中ということがわかります。

同日、出羽国の雄勝・平鹿二郡および玉野・避翼・平戈・横河・雄勝・助河ならびに陸奥国嶺基などに駅家(うまや)を置きました。『続日本紀』では上述の通り、雄勝が2度出てきますが、その意味は分かりません。

翌27日、坂東八国と越前・能登(石川)・越中・越後の浮浪人2000人を雄勝の柵戸としました。また相模・上総・下総・常陸・上野・武蔵・下野から送られてきた武器を雄勝・桃生の二城に貯えました。

蝦夷で「君」の姓を授かった者は多いですが、10月8日、それを「公」の字に変えることになりました。

かねてより造営中だった雄勝城ですが、翌天平宝字4年(760)正月の淳仁天皇の勅によると、陸奥国の按察使兼鎮守将軍藤原恵美朝臣朝狩(ふじわらのえみのあそんあさかり)らは、荒蝦夷を教え導いて、一戦も交えることなく完成させました。一方桃生城も完成したということです。なお、雄勝城の場所については、現在でもどこであったか分かっておらず、高橋富雄は払田柵(ほったのき。秋田県大仙市・美郷町)がそうではないかと述べましたが、その後の技術の進歩による年輪年代法により、払田柵はそれよりも後の時代の城柵であることが分かっています。ただし、雄勝城はある時期移転したと考えられており、移転後の雄勝城が払田柵ではないかという説があります。

3月10日、謀反などの罪で賎民とされた233人の奴(男の奴隷)と277人の婢(女の奴隷)が雄勝柵に移され、奴隷身分から解放されました。また、天平宝字6年(762)12月13日には、乞策児(ほがいびと。乞食)100人を陸奥国に土地を与えて定住させました。このように東北の地は、転落した人たちにとって新たなる人生の出発点ともなったのです。

天平宝字8年(764)9月11日、大師の藤原恵美朝臣押勝(ふじわらのえみのあそんおしかつ)が謀反を企てていることがはっきりと漏れてきました。押勝と朝廷の間で戦闘がおこり、淳仁天皇は授刀少尉坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)と授刀将曹牡鹿嶋足を遣わせて、押勝の息子の訓儒麻呂らを射殺させました。

天平神護2年(766)11月7日、陸奥国の磐城・宮城二郡の籾米殻16400余石を貧民に与え救済しました。これがどの程度の効果があったかは分かりませんが、古代から国家の貧民救済は行われていたのです。

12月30日、陸奥国の名取公竜麻呂に名取朝臣の姓を賜りました。

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継体天皇はスーパースターか?

2011-08-17 19:27:11 | 歴史の謎
武烈天皇が崩じた後、武烈の近親の皇族男子が死に絶えてしまったということで、継体天皇は、応神天皇の5世の子孫というかなり遠い親戚でしたが、天皇に迎え入れられました。

というのが正史が述べるところです。

ところが、継体の出自に関しては、本当に応神の子孫かどうか分からないのが事実で、実は地方の有力な豪族の出身で、天皇家を簒奪したという説を唱える人も多いようです。

そうすると、今上天皇につながる天皇家の祖と位置付けられるわけです。

そんなスーパースターを予感させられる継体ですが、冷静になってその経歴を見てみると、興味深い事実が分かります。

まず、天皇になったのが遅い。

『日本書紀』では、58歳ということになっています。

当時の感覚からすると、もう寿命という時期になって天皇になっているということです。

本当に、このような高齢者に自分たちの未来をかける家臣や氏族が結集していたのでしょうか。

それから在位中の25年間ですが、何をしたかというと、以下の2点だけです。

・百済に朝鮮の領土(任那四県)を割譲した

・北九州の磐井の反乱を平定した

一つ目は、非常に不名誉な事績です。

二つ目は、地方の統御もままならなかったことを示しています。

ようするに、58歳で天皇家を乗っ取ったのは良かったですが、朝鮮にまでは手がまわらず、列島内の地方豪族を抑えるので精一杯、あたふたしている間に一生を終えたということです。

もちろん、人間の一生をこんなに軽く表現することは可哀想ですし、実際には様々なドラマがあったのだと思いますが、政治的な内容に括ってしまうと以上のようなことになってしまいます。

事実上の天皇家の先祖にしては、あまりにも寂しい事績なので、これはどういうことかというと、『日本書紀』を作った、当時の天皇家と権力者藤原氏から、継体は軽く見られていたということです。

そうなると、私が最近気にかけている、天智や天武、持統などの謎に関わってくるということです。

ところで、『古事記』では、継体の享年は43歳ということになっています。

意外とこれが事実で、継体は「本当に何もしなかった」天皇かもしれませんよ。

天皇でもなかったりして・・・。

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第12回

2011-08-16 20:07:07 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第12回 奥羽直通路の開削

これまで、出羽国の最前線である出羽柵は、現在の山形県庄内地方にありましたが、天平5年(733)12月26日に、秋田村の高清水岡(秋田市)に移転させられ、出羽国の範囲が北に拡充されました。また、雄勝村に郡を建て、民を居住させました。なお、出羽柵は天平宝字元年(757)頃から秋田城と呼ばれるようになります。

天平8年(736)4月29日、陸奥・出羽で功労のあった郡司と帰順している蝦夷27人に爵位が授けられました。

天平9年(737)には、陸奥按察使大野朝臣東人が、陸奥と出羽の直通路を貫通させたいと言上し、持節大使兵部卿藤原朝臣麻呂(藤原四家のひとつ京家の祖)と、副使佐伯宿禰豊人・常陸守坂本朝臣宇頭麻佐らを陸奥国に進発させました。麻呂らは2月29日に多賀柵に到着し、東人と協議し常陸・上総・下総・武蔵・上野・下野の兵1000人を動員し工事を行います。ところが、それを知った蝦夷が疑いと恐れを抱いたので、蝦夷で遠田郡の郡領遠田君雄人(とおだのきみおひと)を海沿いの道に遣わし、蝦夷和我君計安塁(わがのきみけあるい)を山中の道に遣わし、蝦夷に説諭させました。そして勇敢な蝦夷を196人選んで東人に委ね、459人を玉造などの五つの柵に配します。麻呂らは残りの345人を率いて多賀柵を守り、宇頭麻佐は玉造柵(たまつくりのき。大崎市)を守り、大伴宿禰美濃麻呂は新田柵(にいだのき。大崎市田尻八幡)を守り、大掾日下部宿禰大麻呂は牡鹿柵(おじかのき。東松島市赤井の赤井遺跡)を守りました。

2月25日、東人は多賀柵を進発し、3月1日には配下の紀朝臣武良士らと兵や蝦夷を率いて色麻柵(しかまのき。宮城県色麻町近辺か)を発し、その日のうちに出羽国大室駅(山形県尾花沢市)に到着しました。そこで出羽国守田辺史難波と合流し、賊地に入り、道を開拓しながら進みます。加美郡(色麻)から玉野(大室駅)までは160里、そこから先の比羅保許山(ひらほこやま)までは80里です。東人が進んだのはここまででしたが、さらに雄勝村までの50里は二つの河を渡るといいます。

今まで岩手県の内陸部に日本の影響力が及んだ形跡は、古墳時代(5世紀後半)の角塚古墳の築造以降しばらくありませんでしたが、ここで和我君計安塁の名前が現れることから、この時点で和賀方面(岩手県北上市)まで朝廷の影響下に入っていたことがわかります。北上川の中流域もまだら模様に、朝廷に属する蝦夷とそうでない蝦夷が存在し始めたということです。また、前述の通り、宮城県の北部には、この時点で玉造柵・新田柵・牡鹿柵・色麻柵があったことも確認できました。

天平14年(742)正月23日、陸奥国から黒川郡以北の11郡に赤い雪が降り、平地で2寸つもったという報告がありました。

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第11回

2011-08-15 20:05:13 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第11回 大掾佐伯児屋麻呂殺害と多賀城築城

また大きな事件が起こりました。神亀元年(724)3月25日に朝廷に届いた陸奥国からの知らせによると、海道(大崎から桃生・牡鹿を経て三陸方面に伸びた道)方面の蝦夷が反乱を起こし、大掾(国の三等官)で従六位上の佐伯宿禰児屋麻呂(さえきのすくねこやまろ)を殺害したのです。さきの上毛野広人の殺害から4年しか経っていません。朝廷は4月3日、殉職した児屋麻呂に従五位下を追贈するとともに、7日、式部卿で正四位上の藤原朝臣宇合(ふじわらのあそんうまかい。藤原四家のひとつ式家の祖)を大将軍に、宮内大輔で従五位上の高橋朝臣安麻呂を副将軍に任じ、海道の蝦夷を討伐する準備を始めました。14日には坂東(関東)9ヶ国の兵士3万人に乗馬や射術を教習させ、布陣の仕方を訓練し、陸奥の鎮所に物資を運び込みます。

さきの上毛野広人殺害の際は、朝廷は報告が入った翌日に将軍らを任じて節刀を預けるという超迅速な対応をしましたが、もしかすると朝廷は討伐の準備はすでに整えたうえで、蝦夷を挑発的態度で誘っておいて、いつでも蝦夷を討てるようにしていたのかもしれません。そうだとすると、可哀想なのは広人ですが、広人の犠牲をもって蝦夷がおとなしくなったと踏んだのは朝廷だけで、むしろ討伐を受けたことにより、蝦夷の不満はより一層高まり、今回の児屋麻呂殺害が起こってしまったのでしょう。つまり、今回のことは朝廷にとっては想定外であり、そのため殺害事件が起きてしばらく経ってから準備を始めるという遅い対応になってしまったと考えられます。

出羽方面でも蝦夷が騒動を起こし、5月24日、従五位上の小野朝臣牛養が鎮狄将軍に任じられ、蝦狄鎮圧を命じられました。

宇合や牛養らは11月29日に帰京しました。このときもどのような戦いが展開したかはまったく不明ですが、陸奥と出羽の蝦夷はとりあえず鎮圧された模様です。今回の件もさきの上毛野広人殺害の件と同様に首謀者の蝦夷の名前が伝わっていません。もしかすると首謀者は討たれたり逮捕されたりするこがなく逃げおおせたのかもしれません。

さて、この年には、大野朝臣東人(おおののあそんあずまびと)が多賀柵(多賀城)を現在の宮城県多賀城市に築城し、陸奥の国府が移されました。それ以前の国府は前述の郡山遺跡(仙台市太白区郡山)だったとみられています。若干の北進です。多賀柵には鎮守府という軍政機関も置かれ、鎮兵と呼ばれる常備兵も配備されました。なお、多賀柵の築城時期に関しては『続日本紀』には記述がなく、多賀城跡に残る石碑によって、この年(神亀元年(724))に大野東人によって築城されたことがわかります。

翌神亀2年(725)の春には、陸奥国の蝦夷の捕虜144人を伊予(愛媛県)に、578人を筑紫(福岡県)に、15人を和泉監(大阪府)に配置しました。こうして蝦夷は全国に散らばっていきます。

正月22日、藤原宇合は従三位・勲二等、大野東人は従四位下・勲四等、高橋安麻呂は正五位下・勲五等を授かりました。

神亀4年(727)、渤海国(中国北部からロシア沿海州にかけて建国された新しい国)からの使者が来日しましたが、使節は出羽に漂着し、寧遠将軍高仁義以下16人が蝦夷に殺害され、生き残った首領高斉徳ら8人が来朝しました。

翌神亀5年(728)4月11日、陸奥国が新たに白河軍団を設けることと、丹取軍団を玉作軍団と改称することを申請し、許可されました。玉作軍団は、全国に置かれた軍団のうち、もっとも北に位置する軍団です。

天平2年(730)正月26日、陸奥国が管轄下の田夷村の蝦夷が従順なので郡家を作りたいと申請し、許可されました。田夷というのは山夷に対して平地に住む蝦夷のことですが、ここでいっている村の場所は分かっていません。

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第10回

2011-08-13 20:01:20 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
本論とは関係無いですが、最近ずっと気になっている天皇がいます。

天智天皇と天武天皇の兄弟です。

天武は、当時の天皇の中では珍しく生年が不明です。なので、兄の天智と何歳違いだったか分からないです。

天智は天武に4人もの娘を嫁がせています。

娘を4人も弟の嫁に出すというのは、異常な事態ではないでしょうか。

天智と天武の関係は兄弟としては気味が悪いです。

やはり、天武は天智の弟ではなかったのではないでしょうか。

では天武の出自は?と問われても、今のところ私も答えることができません。

この件については、もう少し考えるとして、それでは本論に行きます。

『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第10回 按察使上毛野広人殺害

養老4年(720)9月28日、陸奥国から元正女帝の朝廷に驚くべき報告が上がりました。蝦夷が反乱して陸奥国按察使(あぜち)で正五位上の上毛野朝臣広人(かみつけののあそんひろひと)を殺害したというのです。さきの蝦夷征討は和銅2年(709)なので、それから11年にして重大な事件が発生したわけです。按察使は国司を監察する地方の高官です。全国に按察使が置かれたのは前年の7月13日なので、設置後早くも殺害される者が出現したということです。

今まで中央から派遣された名のある官吏で蝦夷の叛乱によって殺害された者はおらず、広人は蝦夷に殺害された最初の高官となりました。また、今まで蝦夷は征討は受けていたものの、そのきっかけは蝦夷側の積極的な策動というより朝廷側の言いがかりのように見えていましたが、今回広人を殺害したことにより、初めて蝦夷が自らを自らの責任で退っ引きならない事態に追い込んだことになります。

しかし、報告の翌日には朝廷は早速征討の人事を発表し、節刀を授けたことから、朝廷はこの殺人をあらかじめ予知していた、つまり、殺人が起こるように仕向けていたと考えることも可能です。なお、残念ながら広人を殺害した蝦夷の名は伝わっていません。

今回の征討軍は、持節征夷将軍に播磨の按察使で正四位下の多治比真人県守(たじひのまひとあがたもり)、副将軍に左京亮で従五位下の下毛野朝臣石代(しもつけののあそんいわしろ)、持節鎮狄将軍に従五位上の阿倍朝臣駿河(あべのあそんするが)という面々です。なお、県守は霊亀2年(716)8月20日、遣唐使の最高責任者である遣唐押使に任命され、唐に渡り、養老2年(718)12月13日、無事に任務を果たし帰京しています。また、養老3年(719)7月13日には相模・上野・下野を管轄する按察使に任じられています。

惜しいことに、陸奥国でどのような戦いが行われたかはまったく伝わっていませんが、合戦の最中の翌養老5年(721)正月5日に県守が正四位上を授かったので、この時点で戦局は朝廷側に有利に運んでいたと考えられます。しかし、合戦はその後もしばらく続いたらしく、県守らは出陣から7ヶ月経った4月29日にやっと帰還したので、正月以降になると征討軍は鎮圧に手こずったようです。なお、去年の2月に発生した隼人の叛乱もこの時点ではまだ鎮定できず、元正女帝の朝廷は二正面作戦という大変厳しい戦いを経験したことになります。

6月26日、県守は中務卿に任じられました。しかし石代と駿河にはすぐに昇進の話はなかったようなので、今回の征討は結果的にはあまり成功ではなかったのかもしれません。

8月19日、按察使の管轄が改定され、出羽国は陸奥国の按察使に属されることになりました。

10月14日、陸奥国の柴田郡の二郷を分離して苅田郡を設置されました。

養老6年(722)4月16日、さきの蝦夷討伐に功のあった将軍以下の官人や蝦夷・通訳たちが位を授かりました。随分と対応が遅いように感じますが、「蝦夷討伐に功のあった蝦夷」が存在したということは、ついに蝦夷の中で朝廷軍の手先になって他の蝦夷を攻める部族が現れたことを表しています。「夷を以て夷を制す」というわけです。

8月29日、諸国から柵戸とすべき者1000人を選び陸奥の鎮所に配置しました。

養老7年(723)9月17日、出羽国司多治比真人家主(たじひのまひとやかぬし)の言上により、さきの征討に功績があったにも関わらずまだ褒章を受けていない蝦夷52人が褒美と位を授かりました。

神亀元年(724)2月25日、陸奥国鎮守の軍卒たちが、自分たちの本籍をこの地に移して、父母妻子を呼んで一緒に生活したいと願い、許可されました。陸奥に兵役で来ていた各地の兵たちのなかで、陸奥に定住したいと思う者が出てきたということです。

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第9回

2011-08-12 20:19:50 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第9回 出羽国の建置と住民の移住

和銅元年(708)、朝廷は越後国内に出羽郡を設置しましたが、それが発展し、和銅5年(712)9月23日、太政官の奏上により出羽国を置くことを許可しました。そして10月1日には、陸奥国から最上・置賜二郡を割いて出羽国に附けます。3年前の佐伯石湯らの出羽方面の征討の結果、出羽方面の経営は安定し、建置へとつながったのでしょう。

和銅6年(713)12月2日、陸奥国に丹取郡を置きました。現在の大崎市附近です。さきに信太郡の存在について触れましたが、信太郡のさらに北に丹取郡を置いたことにより、当該地域の支配が一層進んだことがわかります。

和銅7年(714)10月2日、尾張(愛知県)・上野(群馬県)・信濃(長野県)・越後(新潟県)などの200戸を出羽の柵戸に移住させました。当時の1戸は20人から25人なので、4000人から5000人の移住になります。さらに、翌霊亀元年(715)5月30日には、相模(神奈川県)・上総(千葉県)・常陸(茨城県)・上野(群馬県)・下野(栃木県)の富裕な民1000戸を陸奥に移住させました。今回は2万人以上というかなり大規模な移住です。

霊亀元年(715)正月15日、蝦夷と南嶋の人々77人に位階を授けました。

10月29日、陸奥の蝦夷邑良志別君宇蘇弥奈(おらしわけのきみうそみな)が、「親族が死んで子孫が数人しかおらず、狄徒に侵略されるおそれがあるので、香河村に郡家を設けて編戸に入れと欲しい」と申請しました。また、蝦夷須賀君古麻比留(すがのきみこまひる)は、「先祖以来定期的に陸奥国府に昆布を納めているが、国府が遠くて難儀しているので閇村に郡家を建てて欲しい」と申請し、朝廷は両者の申請を許可しました。

香河村の位置は、谷川健一によると、現在の奥州市で後に胆沢城が築城される場所の近くであるといいます。そして、宮城県登米市の遠流志別石神社は、邑良志別君の祖神を祀る神社だということです。また、閇村は、現在の閉伊郡ですが、閉伊郡の当初の中心は現在の岩手県宮古市であると考えられます。閉伊地方に郡家が建てられたということは、この時点で東北地方太平洋側の海沿いは、岩手県中部の閉伊地方にまで、点々と湊ごとに日本の支配が及ぶことになったといえます。ただし岩手県域の内陸部への進出はまだ後のことです。

以前より朝鮮半島の人々の関東への移住は国家の政策のもと促進されてきましたが、翌霊亀2年(716)5月16日には、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の高麗人1799人を武蔵へ移住させ高麗郡を置きました。高麗郡は現在の埼玉県南部中央域です。

和銅2年(709)の陸奥方面の蝦夷討伐に派遣された巨勢朝臣麻呂が、霊亀2年(716)9月23日に「出羽国を建てて数年経ったがまだ人民が少なく狄徒も馴れていないので、近くの住民を出羽に移し、狂暴な狄を教え諭し、地を利したい」と言上しました。それにより、陸奥国置賜・最上二郡および信濃・上野・越前・越後の百姓各100戸を出羽国に移住させました。ここでは、「陸奥国置賜・最上二郡」といっていますが、両郡は既に出羽国に移管されているので、置賜・最上方面から日本海側への移住と理解します。また、翌養老元年(717)2月26日にも、信濃・上野・越前・越後の民100戸を出羽の柵戸に配置し、養老3年(719)7月9日には、東海・東山・北陸の民200戸を出羽柵に入植させました。

養老2年(718)5月2日、上総国の平群・安房・朝夷・長狭の四郡を分離して安房国を建て、陸奥国の岩城・標葉・行方・宇太・亘理・常陸国の菊田の六郡を割いて岩城国を建て、さらに白川・石背・会津・安積・信夫の五郡に、常陸国の多珂郡の郷210戸を菊多郡としたものを合わせて石背国を建てました。なお、岩城国と石背国は数年後元に戻り(陸奥国に合併され)消滅します。

8月14日、出羽と渡嶋の蝦夷87人が1000頭の馬を貢納して位を授かりました。1000頭という数はとてつもないので、数については疑わしいですが、都の人が驚くような相当な数の馬が納められたのでしょう。

養老4年(720)正月23日、渡島の津軽の津司(つのつかさ)である諸君鞍男(もろきみのくらお)ら6人を靺鞨(まつかつ)国(中国東北部から沿海州の地域に居た複数の民族)に遣わして、その風俗を視察させました。

2月29日には、九州の太宰府から奏言があり、それによると、隼人が叛乱を起こして、大隅(鹿児島県)国守の陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)を殺害したということです。朝廷は3月4日に隼人征伐軍の人事を発表します。隼人の蜂起は次回述べる奥州で発生した大事件とともに、元正天皇の朝廷に、そして何よりも一般の民衆に対し重い負担をかける事件でしたが、叛乱を起こした隼人側が一方的に悪ではないことは、いわずもがなことでしょう。

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第8回

2011-08-10 20:28:44 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第8回 巨勢麻呂の蝦夷討伐

元明天皇の和銅2年(709)3月5日、陸奥・越後の蝦夷が、「野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を加える」ということで、遠江(静岡県)・駿河(同)・甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)・越前(福井県)・越中(富山県)などから兵を動員し、左大弁巨勢朝臣麻呂(こせのあそんまろ)を陸奥鎮東将軍に、民部大輔佐伯宿禰石湯(さえきのすくねいわゆ)を征越後蝦夷将軍に、内蔵頭紀朝臣諸人(きのあそんもろひと)を副将軍に任じ、節刀(天皇が合戦指揮と生殺与奪を委任するために与える刀)と軍令を授けました。舒明天皇9年(637)の上毛野君形名による征伐以来、東北地方に他の地方の軍勢が攻め込むことはなかったようですが(阿倍臣の遠征では蝦夷とは合戦をしていない模様なので)、72年ぶりに蝦夷は侵攻を許すことになり、また平和が破られたのです。

元明は何故、ここにきて急に蝦夷討伐を思い立ったのでしょうか。朝廷が各地の兵士を動員して蝦夷を討つのはこれが初めてです。元明が蝦夷討伐を思い立った理由として、昨年の出羽郡建置によって現地に派遣された官吏と現地住民(蝦夷)とのあいだで軋轢が生じ、それが騒乱に発展し討伐されることになったことが想像できますが、それは日本海側の話で、今回の軍事行動は太平洋側でも行われています。元明は、子の文武の跡を受けて即位した中継ぎの女帝ですが、即位して3年目に、家臣たちに舐められないように自らの権力を誇示する気持ちがあったように思えます。また、平城京への遷都を目前にして、家臣たちの結束を固めるという意図もあったのかもしれません。

4月16日には陸奥守の上毛野朝臣小足が没し、7月1日には上毛野朝臣安麻呂が陸奥守に任じられました。今まで上毛野氏は蝦夷と積極的に関わってきましたが、去年の3月13日に陸奥守になったばかりの小足は、この年の蝦夷征討には主役として活躍せずに没したことになります。しかし、後任も上毛野氏であるので、まだ奥州での上毛野氏の地位は保たれています。また同日には、蝦夷を討つために諸国に命じて兵器を出羽柵に運ばせました。これにより、この時点で出羽柵が存在したことが分かり、その場所は庄内地方だと思われます。征越後蝦夷将軍佐伯石湯以下の討伐軍は、おそらく庄内平野からさらに北上して現在の秋田県域に侵攻したものと考えられます。

7月13日には、越前・越中・越後・佐渡の船100艘を征狄所に送らせました。石湯への応援です。

8月25日、石湯と諸人が征討を終えて帰還し入朝しました。二人は元明に招かれ手厚い恩寵を与えられました。一方、東山道方面を進んで陸奥に入った陸奥鎮東将軍巨勢麻呂のほうは、いつ帰還したかは分かっていませんが、麻呂は2年後に正四位下から正四位上に一階上がっています。

翌和銅3年(710)3月10日、元明は藤原京から平城京(奈良)に遷都しました。日本史の時代区分ではこれより奈良時代となります。

4月21日、陸奥の蝦夷らが君の姓を賜り、編戸(50戸で1里を成す戸籍に入ること)の数に入り、公民の扱いを受けたいと申請し許可されました。昨年の巨勢麻呂の軍事行動の結果、帰順してきたものと思われますが、平和な話だけではありません。というのは、後で述べる通り、陸奥方面では蝦夷側の不満は頂点に達していき、やがて爆発することになるからです。

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『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』第7回

2011-08-09 17:34:02 | エミシの群像 英雄アテルイとその先人たち
『エミシの群像 -英雄アテルイとその先人たち-』

第7回 紛争前夜

阿倍臣の北国遠征の後の斉明天皇6年(660)には朝鮮半島で大きな事件が起こりました。倭国と懇意にしていた百済が滅亡してしまったのです。そして百済滅亡から3年後の天智天皇2年(663)、倭国は比羅夫らを半島に派遣し、百済の残存勢力とともに白村江で唐・新羅の連合軍と戦いました。しかし倭国はその戦に敗れ、朝鮮半島での足場を失い、東アジア世界(当時は世界全体と言ってよい)で孤立してしまいました。そのため倭国は唐・新羅からの侵略の危機にさらされ、地方分権体制から中央集権体制への移行を強化する必要が生じました。なお、「白村江の戦い」には上野(群馬県)の将軍上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)も参加しています。今まで述べたとおり、上毛野氏は蝦夷との因縁が深い一族です。

倭国は、急ぎ律令国家としての体裁を整え始め、天智天皇9年(670)頃(諸説あり)に国号を「日本」と改め、その指導者を「天皇(すめらみこと)」と呼ぶことにしました。

天武天皇元年(672)、天智天皇の弟大海人皇子(おおあまのみこ)が、天智の子大友皇子(おおとものみこ)から政権を奪取しました。「壬申の乱」です。古代最大規模の内乱ともいえる壬申の乱ですが、この内乱で蝦夷がどのような行動を取ったかは知られていません。

天武天皇11年(682)4月22日、越の蝦夷伊高岐那(いこきな)らが浮人70戸をもって一郡としたいと申請し許可されました。浮人とは俘囚(ふしゅう。朝廷に帰順した蝦夷)のことです。蝦夷が建てた郡であるので正式な郡ではなく、その場所も伝わっていませんが、後の和銅元年(708)に最上川の河口付近の庄内地方に建てられる出羽郡の前身でしょうか。

持統天皇3年(689)正月3日、務大肆陸奥国優耆曇郡(むのだいしみちのくのくにうきたまのこおり。置賜郡)の城養の蝦夷脂利古(しりこ)の子麻呂と鉄折(かなおり)が出家を願い出て許され、7月1日には陸奥国の蝦夷の僧自得が仏像等を授けられました。仏教が日本に公伝して百数十年で、仏教の影響は蝦夷にまで及んでいたのでした。

翌持統天皇4年(690)8月11日、帰化した新羅人が下毛野国に移住させられました。24年前にも百済の遺民2000人が関東に移住しましたが、関東地方に多数の朝鮮半島の人々が国家の政策のもと、組織的に移住していたことがわかります。朝鮮から移住した人びとの足跡はそれぞれの地域に深く刻まれることになります。

持統天皇8年(694)正月23日、粛慎2人に位が授けられ、持統天皇10年(696)3月12日には、越の渡島の蝦夷伊奈利武志(いなりむし)と粛慎の志良寸叡草(しらすえそう)に衣類などを賜りました。粛慎は先の阿倍臣の遠征の際に敵対しましたが、この頃には粛慎の中でも朝廷に帰順する者が出てきたということです。なお、これが『日本書紀』に蝦夷ならびに粛慎が登場する最後の記述です。

『日本書紀』に続く日本の正史である『続日本紀』によると、翌文武天皇元年(697)10月19日に陸奥の蝦夷が、その地の産物を献上し、12月18日には越後の蝦狄(えみし)に地位に応じて物を与え、さらにその翌文武天皇2年(698)6月14日には、越後国の蝦狄がそれぞれ土地の産物を献上しました。『続日本紀』では、書き始めの頃に限って、東北地方のエミシを「蝦夷」と表記し、新潟方面のエミシを「蝦狄」と表記しています。中国が異民族を呼ぶときの「北狄・東夷・南蛮・西戎」の影響です。

慶雲4年(707)5月26日、さきの天智天皇2年(663)に行われた「白村江の戦い」で唐軍の捕虜になっていた陸奥国信太郡の壬生五百足(みぶいおたり)らが解放され帰国し、朝廷から衣類などを賜りました。朝鮮半島での戦いに遠く陸奥からも兵士が動員されていたのです。またこの記事から、この時点で陸奥国の大崎平野には信太郡が既に存在していたことがわかり、既述したように古川市大崎の名生館遺跡も最古のものは7世紀後半と推定されているので、これらの事実によって当時の日本の太平洋側最北端の領域が大崎平野だったことがわかります。

これまで東北地方の太平洋側は陸奥国(前身である道奥国の建置は7世紀ごろか)として区画され、日本海側は越後国の管轄にありました。翌和銅元年(708)9月28日、その越後国から朝廷に対して新たに出羽郡を建てたいという申請があり、朝廷はそれを許可しました。先の天武天皇11年に蝦夷の建議によって建てられた仮の郡(権郡)である最上川の河口付近の庄内地方が、今回正式の郡に昇格したと考えられます。

さて、今回見てきたとおり、新生「日本」は、蝦夷からの要請もありますが、蝦夷の居住地域内に新たな郡を建て領地化していきます。蝦夷の全員が朝廷に対して従順であれば問題は起こらないのでしょうが、蝦夷にも矜持があり、朝廷の政策を許せないと思う人びとがいてもおかしくありません。そういう軋轢が有って、日本が奈良時代に入る前年の和銅2年(709)、ついに朝廷が蝦夷に対して恐るべき強硬な態度に出ます。それはまた次回お話したいと思います。

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