日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~関東・東北の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

日本にホモ・サピエンス以外の人類はいたか?

2011-06-30 17:52:47 | 歴史コラム:原始
我々現生人類は、ホモ・サピエンスと呼ばれ、生物としては哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属(ホモ属)に分類されます。そして、現在生きているヒト属は我々ホモ・サピエンスの一種類だけです。

なので、街に出て我々と似ている人を見て「あの人、ホモ・サピエンスかもしれない」と思ったら、その予想は100%的中するというわけです。

我々の先祖が、チンパンジーとの共通の先祖から分かれた後、最初に二足歩行をした可能性が有るのは700万年前です。サヘラントロプス・チャデンシスと呼ばれ、中央アフリカのチャドで発見されたそれが最初の人類とされます。

420万年前には、アウストラロピテクス属が現れ、350万年前にはアウストラロピテクス・アファレンシスが直立二足歩行をしていたことを示す足跡の化石が東アフリカのタンザニアでみつかっています。

250万年前頃、我々と同じホモ属のホモ・ハビリスがタンザニアに登場しました。ホモ属は登場と同じ頃石器の製作方法を編み出し、本格的に肉食を開始します。人類はそれ以前から死肉をあさったりしていたと思いますが、石器を利用することにより、遺体から肉を削ぎ落すのも楽になり、好物であったと思われる骨髄を食べるために骨を割るのも容易になったことでしょう(なお、石器を作れるということは、槍などの狩猟道具が作れるようになったと想像できますが、狩猟自体の痕跡を示す槍の発見はもっと新しく、40万年前のものです。ただし、木製品は遺物としての残り具合がよくないので、実際はもっと古くから狩猟はしていたかもしれません)。

さて、肉を多く食べるようになった人類は、脳の容量も増加させ、より賢くなりました。

そしてついに180万年前には人類はアフリカを出てアジアやヨーロッパを目指しました。ところが、早くて150万年前、遅くて35万年前には火を自由に扱えるようになった彼らでしたが、世界に散った彼らの子孫は我々の先祖になることなく、絶滅してしまいます。

(以上、『人類進化の700万年』(三井誠著)を参照。)

その絶滅する運命の人類がまだ世界のあちらこちらで生きていた20万~15万年前、我々ホモ・サピエンスが東アフリカで発生して、10万年前ころからアフリカを出て世界に散らばり、日本列島にも4万年ほど前から随時やってきました。しかし、現在の学問では、最初に述べた700万年前のサヘラントロプス・チャデンシスから現在のホモ・サピエンスにつながる系譜はどのようになるか確実なことは分かっていません。

さて、以上のように日本には4万年ほど前から随時ホモ・サピエンスが渡って来たことが分かっていますが、なぜそれが分かるかというと、当時の人骨が残っているわけでは無く、各地で発掘される石器を調べた結果、そうであると推定されているわけです。

ところがです。実は4万年以上前の石器の可能性が有るものも国内では発見されているのです。

例えば、島根県出雲市の砂原遺跡出土の石器は12万年前、岩手県遠野市の金取遺跡出土の石器は9~8万年前のものといわれています。

ただし、両遺跡とも、考古学者の一部が認めているだけであり、もしかすると石器ではなく、自然の石かもしれません。

しかしもし、それらが本当に石器だとすると、その時代、人間が日本に住んでいたということになります。

そして、それらの石器を作り使用していた人は、我々ホモ・サピエンスではないということになります。

島根県や岩手県に住んでいたそれらの人々は我々ホモ・サピエンスと遭遇すること無く絶滅してしまったのでしょうか。

それとも、その後日本に渡って来たホモ・サピエンスと出会い、愛し合い、我々日本人の間にもその血が流れているのでしょうか。

この件に関しては、手に入る資料では詳しいことは分からないので、専門家の先生たちが研究を進展させるのを待つしかありません。

今はただただ、イメージだけが膨らんでいきます。

※この話の続きがこちらのページにあります。

艦隊これくしょん

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蝦夷(エミシ)そしてアイヌとは?-蝦夷の歴史解説-

2011-06-29 18:39:23 | 歴史の謎
我々「現生人類」の先祖は、4万年くらい前からユーラシア大陸東部を発し、北あるいは南のルートで何度も日本に渡ってきていましたが、現在の私の考えでは、エミシというのは、後期旧石器時代から縄文時代にかけて渡ってきて土着した、初期の日本人の末裔であり、弥生時代以降の列島西側からの文化の流入を拒んだ結果、北東北に浮き上がってしまった人びとであると思っています。

ヤマト朝廷の人民も同じく、後期旧石器時代から縄文時代にかけて土着した人たちの末裔ですが、こちらはそれに加え、弥生時代のより新しい大陸人の血が入っていると思います。

古墳時代における前方後円墳の分布から、6世紀ごろの東北太平洋側では宮城と岩手南部に「まだら模様」に、ヤマト朝廷に納税をする民とヤマト朝廷の統治を受けない民(エミシ)が共存していたように思えます。

ヤマト朝廷の統治を受けない民は、9世紀までの律令国家の北進によって、殺されたり、同化させられたりして、結局「エミシ」は国家という態をなす以前に消滅させられてしまいました。

ただし、このエミシは国家により全国に散らされているので、日本中にエミシの血を受けた子孫は残っているでしょう。

もちろん、地元である東北は一番多いと思います。

独特なイントネーションである東北弁には、エミシが話していた言葉の名残があるのかもしれません。

結局、蝦夷(エミシ)というのは、律令国家が中国の華夷思想の影響を受けて、当時の辺境(北東北)に設けた、人為的なカテゴリーだと思います(南の隼人もそう)。

ある時期、ある地域に、たまたまいた「日本人」が、律令化を目指す国家によってそうカテゴライズされてしまったというわけです。

さて、エミシに関してはだいたい上記のような感想をもっているのですが、それではアイヌとは何か、ということが次に問題になります。

私は以下のような時間的な遷移を考えています。

・北東北

後期旧石器時代・縄文時代に日本に渡って来た人 → エミシとカテゴライズされた人 → 西側の日本人(律令国家人)と同化して消滅

・北海道

後期旧石器時代・縄文時代に日本に渡って来た人 → 北海道人 → 北海道アイヌ

上記の「北海道人」という表現は微妙ですが、律令国家になったころの日本の地理感覚では、まだ北海道のことはよく分かっておらず、北海道に対しては明確にエミシの土地という認識はなかったと思います。

というのは、倭国が唐に使者を送った時、使いと皇帝との会話の中で蝦夷の話が出てきますが、そこには、3種類の蝦夷が出てきて、遠いものを都加留(津軽)と名づけ、次を麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、一番近いものを熟蝦夷(にきえみし)と名付けていると言ったからです。

一番遠くても、北海道では無く、津軽というわけですが、当時津軽と北海道の違いが分かっていたかも不明です。

たまに、アイヌはエミシの子孫だという意見も見られますが、私はエミシの子孫は律令国家人(日本人)と同化してしまったので、エミシからアイヌになったとは思っていません。

でも、アイヌとエミシの先祖は、後期旧石器時代あるいは縄文時代において、かなり近縁な種類の人々であったと思っています。

そして、同じ「蝦夷」でも中世以降の北海道人は「エミシ」ではなく「エゾ」であり、「エゾ」の子孫はアイヌだと思います。「エミシ」と「エゾ」は違います。

まとめますと、北東北の古代に存在した「エミシ」は、国家がカテゴライズした日本人の一部であり、古代末期(あるいは中世初期)にそれは同化・消滅して、それとは別に北海道にいた人たちが、北海道アイヌとなったというのが私の推測です。

私自身、血の4分の1は青森県人なので、蝦夷(エミシ)には親近感があるし、ロマンを感じます。

古代のエミシについて、もっと知りたいですねえ。



※エミシについては、2015年夏以降に最新の研究成果をこちらに掲載していきます。




↓は、NHKドラマ「火怨・北の英雄 アテルイ伝」で、時代考証をしている熊谷公男氏の著作です。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)
熊谷 公男
吉川弘文館


私が読んだ蝦夷関係の本の中でもトップクラスの面白さです。



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蝦夷(エミシ)も共有していた江別文化

2011-06-28 17:38:51 | 歴史の謎
蝦夷(エミシ)が北海道の石狩平野に発する江別文化の影響を受けていたという話を知って、『新北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化』(野村崇・宇田川洋編)を注文していましたが、今日それが届き、早速読んでみました。

該書に所収の高橋正勝著の「江別文化の成立と発展」によると、江別文化は、北は南樺太から南千島、南は本州の東北地方や上越までの範囲を誇る『北の覇者』とも言うべき文化であったといいます。

縄文時代終末の道央部は、タンネトウL式、大狩部式、東歌別式などと呼ばれる勢力の弱い土着の土器文化があり、続縄文時代に入り、西側の渡島半島の恵山文化の影響を受けます。

それが4世紀を過ぎると、江別式土器を使用する江別文化が発生します。初期の江別式土器は、帯状と縞状の縄文をベースとして上半部に平行や鋸歯状の沈線文を描いたデザインの恵山式土器と、ボタン状の粘土塊や粘土紐模様が付いた東側の興津式土器が融合したデザインをしていました。

その後、江別式土器は発展をし、「坊主山4式」という形式の土器は、仙台平野や新潟県の南赤坂遺跡でも発見されています。

江別文化の代表的な遺構は墓で、直径1~2メートルの円形で深さ1メートルという構造をしており、それが多数並び墓域を形成しています。

遺体は仰臥屈葬で、赤いベンガラなどの顔料が振りかけられる例も多いということです。

さて、そのような江別文化でしたが、南東北・越後方面にまで進出したのも束の間、律令国家を目指す倭国(日本)の北東北進出が始まります。

ヤマト朝廷が北東北(岩手・青森・秋田)の「領土化」を積極的に推し進めるのは、大化の改新(645年)から後です。

ヤマト朝廷が北東北進出を推し進める中、江別文化の本拠地であった北海道は擦文文化に移行し、北東北の江別文化も消滅してしまいます。

以上、江別文化の概要は該書により掴むことができましたが、疑問はそもそも「蝦夷(エミシ)って何者?」ということでした。

エミシって我々日本人とは違うの?

異民族なの?

それはまた次回。

艦隊これくしょん

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