建武2年(1335)3月23日付けの津軽山辺郡(「津軽郡中名字」によれば、青森市浪岡(旧浪岡町)と黒石市北部周辺)政所宛ての国宣によると、師行は津軽へ出動することになったようだ。史料で見る限りでは、師行が糠部に赴任してから糠部を離れるのは初めてになる。師行が津軽山辺郡に出動した理由は不明だが、この年の5月ごろには「山辺合戦」が起きているので、この頃からすでに山辺郡方面に不穏な動きがあったのかもしれない。
3月24日には、2月30日の国宣に対して返書を出し、その下書きが残っている。差出人は「源師行」となっており、相変わらず無官である。
5月9日付けの師行の花押のある着到状。着到したのは曽我余一太郎貞光(光高から改名)。師行は3月に津軽戦線に出陣した後、この時点でもまだ戦場にいたということになる。「山辺合戦」の詳細は不明だが、これはそのときのものであろう。
和賀郡鬼柳を領していた鬼柳憲義は、5月13日に建武政権から勲功の賞として新堰村(北上市鬼柳町荒堰)を宛がわれた(『鬼柳文書』)。「山辺合戦」は5月ごろと思われるが、この文書からすると、それに先だって津軽方面で合戦が有った可能性があり、憲義はそのときの功を賞されたのかもしれない。
一方、関東でも大きな動きがあった。騒擾たる情勢の中、7月の初め、旧幕府の第14代執権北条高時の遺児時行が、かつての家臣諏訪頼重らに擁立され信濃(長野県)で挙兵、快進撃を続けて鎌倉に迫ったのだ。足利直義は迎撃に出たものの、勝ち目がないと悟り、かねてより尊氏廃滅を企図していて、鎌倉に幽閉されていた護良親王軍を殺害し、成良親王を京に送り還し、自らも西に向かった。時行軍は7月後半には鎌倉に入った。
尊氏は征夷大将軍になることを望んでいたが、その職には8月1日付けで成良親王が任じられた。尊氏は勅許を待たず8月2日京都を立ち、9日には追認という形で征東将軍に補され、三河(静岡県)の矢作で直義軍と合流し、19日には鎌倉を奪還した。尊氏は30日には時行征伐の勲功を賞され、従二位に上がっているので、この時点ではまだ尊氏は後醍醐にとって忠実な臣下と見られていた。なお、北条時行らの挙兵に関する一連の事件を「中先代の乱」と呼ぶ。
3月24日には、2月30日の国宣に対して返書を出し、その下書きが残っている。差出人は「源師行」となっており、相変わらず無官である。
5月9日付けの師行の花押のある着到状。着到したのは曽我余一太郎貞光(光高から改名)。師行は3月に津軽戦線に出陣した後、この時点でもまだ戦場にいたということになる。「山辺合戦」の詳細は不明だが、これはそのときのものであろう。
和賀郡鬼柳を領していた鬼柳憲義は、5月13日に建武政権から勲功の賞として新堰村(北上市鬼柳町荒堰)を宛がわれた(『鬼柳文書』)。「山辺合戦」は5月ごろと思われるが、この文書からすると、それに先だって津軽方面で合戦が有った可能性があり、憲義はそのときの功を賞されたのかもしれない。
一方、関東でも大きな動きがあった。騒擾たる情勢の中、7月の初め、旧幕府の第14代執権北条高時の遺児時行が、かつての家臣諏訪頼重らに擁立され信濃(長野県)で挙兵、快進撃を続けて鎌倉に迫ったのだ。足利直義は迎撃に出たものの、勝ち目がないと悟り、かねてより尊氏廃滅を企図していて、鎌倉に幽閉されていた護良親王軍を殺害し、成良親王を京に送り還し、自らも西に向かった。時行軍は7月後半には鎌倉に入った。
尊氏は征夷大将軍になることを望んでいたが、その職には8月1日付けで成良親王が任じられた。尊氏は勅許を待たず8月2日京都を立ち、9日には追認という形で征東将軍に補され、三河(静岡県)の矢作で直義軍と合流し、19日には鎌倉を奪還した。尊氏は30日には時行征伐の勲功を賞され、従二位に上がっているので、この時点ではまだ尊氏は後醍醐にとって忠実な臣下と見られていた。なお、北条時行らの挙兵に関する一連の事件を「中先代の乱」と呼ぶ。











