日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~関東・東北の古代・中世史探訪~

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【筑紫の国&火の国歴史探訪その5】吉野ヶ里遺跡<中編:北内郭>【吉野ヶ里遺跡は邪馬台国か?】

2017-07-17 08:33:00 | 歴史探訪
 吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里歴史公園)はとても広大なので、前回の記事ですべてを紹介することができませんでした。

 なので今回はその続きをご報告します。

 ところで、今日も早朝からひとしきり歴史をしたので、日中は家の掃除をしようと思っています。

 2階のリヴィングにあるPanasonicの自動お掃除機能付きエアコンをやりますが、寝室のノーマルエアコンもやりたいと思っているものの、そっちは本体の取りつけ歪んできており、若干水漏れがしています。

 私はエアコンの掃除はできても再取り付けをすることはできず、どうしようか思案中です。

 あとはお風呂をやって、さらにキッチンのガス台の頑固な油汚れは妻には手に負えないので私の出番ですね。

 そういえばさっき、私の部屋の壁をかなり大きなムカデさんが歩いていました。

 この家に住んで13年ですが、今までほとんどムカデさんは見たことがなかったものの、つい先日も見つけてしまい、その時は仕方なくゴキブリ用の殺虫剤で殺害しました。

 息を引き取るまでかなりもがいていたため、なんだか可哀想に思えたこともあり、さっきのムカデさんは捕獲して外に逃がそうと思ったのですが捕獲に失敗しました。

 なので私の部屋のどこかに潜伏していると思いますが、かなり大きいので妻や母が見たら驚愕すると思いますし、私も再び驚愕すると思います。

*     *     *


 南内郭を出て北内郭を目指します。

 ちなみに南内郭の北側の出入口から外に出ましたが、そこは入園者が歩きやすいように作られた出入口で、当時のものではないです。

 説明板があります。



 おや、環濠に降りれるですと?



 中世の城郭が好きな人は堀を見ると降りたくなるんですよね。

 ではお言葉に甘えて。



 ここは堀の断面がV字ですが、場所によっては台形もあります。

 堀底でほくそ笑み、戻ります。

 北内郭の西側にある「中のムラ」に来ました。

 お、酒造りの家。





 中のムラから古墳のような北墳丘墓が見えますが、まずは北内郭を見てからです。



 北内郭のゲートの前に来ましたよ。



 かなり厳重になっています。





 北内郭はこの説明の通り、吉野ヶ里のムラだけでなく、このムラを盟主とあおぐ吉野ヶ里の「クニ」にとっても最もコアなゾーンです。

 なので普通の人は出入りすることはできず、警備も特別に厳重なのです。

 北内郭の堀は二重で、入口は中近世の城郭のように枡形状を呈していますよ。

 郭中に入ると非常に閉鎖された雰囲気を醸し出しており、巨大な祭殿が復元されているのに圧倒されます。





 でも現在、北内郭の建物は修復作業中らしく足場が組まれている建物もあります。

 ※7月8日にクラツーでご案内した時は、このように主祭殿が足場とシートで囲まれていました。



 主祭殿は3階建てになっており(正確には高床式の2階建てか?)、当時こんな立派な建物が本当に建っていたのかなあと疑問に思う人もいるようですが、きっとこういう建物があったのでしょう!

 ではお邪魔しまーす。

 おっとスミマセン、会議中でしたか。



 今ちょうど、吉野ヶ里のクニの王や各ムラのリーダーたちが集まって重要な会議をしているところでした。

 中央に南面しているのが王です。

 そして王から見て右側に居流れているのが、各ムラから集まってきたそのムラの代表者と従者たち。

 3列目には会議の後の打上げで演奏をするミュージシャンが座っています。

 左手の赤い服を着ている人たちが、このムラの中での幹部級の人たち。



 赤い服の人たちは男女交互に座っていますが、夫婦とか兄妹とかではなく、この頃は女性もリーダーになれたことを表現しています。

 たまたま男女がペアのように並んでいるだけです。

 ちなみに、仮にここが邪馬台国だったとすると、今の説明は少し違ってきますね。

 すなわち、王は卑弥呼の弟となり、右手の人たちは伊都国や奴国などから集まってきた各国の王たちで、左手の人たちが邪馬台国の直轄地内のリーダーたちという説明になります。

 果たして真実はどちらかな?

 さて、それはそうとして本日の議題なんですが、王の前に稲穂が置かれていますよね。

 つまり稲の実り具合を見て、刈り取りの日取りを決定するための会議が行われているわけです。

 一応、「俗」の世界である王たちが話し合って決めるわけですが、判断に迷う場合やもっと確証が欲しい場合はこの上の階にて、「聖」の世界にいる巫女(ふじょ。シャーマン)が決断を下してくれるのです。

 では、上の階へ行きましょう。



 北面して神に祈りをささげているのが巫女です。

 この方が卑弥呼かどうか。

 それについては本人にご確認ください。



 巫女は神がかりするわけですが、それを聴いて俗世の人たちとの通訳に当たるのが審神者(さにわ)と呼ばれる人です。

 巫女の右手にいる「従者」と説明書きされているのが審神者でしょうか。

 そして左手には琴を弾いている人がいますが、交霊するときは琴の音色を流します。

 審神者が琴を弾くこともあります。

 この巫女・審神者・演奏者の3名のキャストは1800年経った現代も変わらず、霊能者の方はよくご存知かと思います。



 では、稲刈りの日取りが無事に決まったようなので、私も安心して主祭殿を後にしますよ。

 ちなみに、この図を見てください。



 建物を作る際には現代でも方位を気にしますよね。

 縄文時代にはすでに信仰の面から方位というのは気にされていました。

 ここ北内郭の独特な”A”のような平面プランの主軸に線を引くと、ちょうど冬至の日入と夏至の日出を結ぶラインになるのです。

 そしてもう一点、主祭殿とこれから訪れる北墳丘墓の主軸を結ぶラインを南へ辿って行くと、ちょうど雲仙岳にぶつかるわけです。

 北内郭を造る上では、こういったことを計算した上で造っているわけですね。

 さて、先ほど主祭殿の議場でいみじくも「吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だったら」という仮の話をしました。

 邪馬台国の場所はいまだに決着しておらず、世の中的には奈良纒向に持って行くようなマスコミ報道とか国家お抱えの学者さんとかの解説がありますが、国家は何を企んでいるか分かりませんし、奈良に決めるのは個人的には早計ではないかと思っています。

 吉野ヶ里が邪馬台国であるという説はこの遺跡の凄さが露わになった30年近く前からあるのですが、その根拠の一つがこの北内郭の独特な構造です。

 邪馬台国の卑弥呼は「親魏倭王」に叙せられ、つまり中国の魏という国家の傘下となったわけですが、そうであれば邪馬台国はかなり中国チックなクニ(あるいは都市)であったと考えられるわけです。

 北内郭の平面プランは中国の城郭と同じように、角の部分に櫓を設置するための出っ張りを設けたり、直線部分にも膨らみを設けてそこに櫓を設けたりして非常に似ていることから中国チックですね。

 でも、こんな平面プランの環濠集落なんてどこにでもあるんじゃないの?と思われるかもしれませんが、実は吉野ヶ里を中心とした佐賀平野に濃厚で、他の地域にはほとんど無いのです。

 こういったことが、吉野ヶ里が邪馬台国であったというときの根拠の一つとなっていますので、どうぞご参考までに。

 ※もっと詳しく知りたい方は、この本をお薦めします!

邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」115)
七田 忠昭
新泉社


 それでは続いて北墳丘墓へ行ってみましょう。

 ※今回もだいぶページが重くなったので、北墳丘墓は別の記事としてアップします。
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