日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~関東・東北の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【新宿駅から甲州道中を歩く その4】幡ヶ谷~笹塚の地形を楽しむ

2017-10-06 20:13:15 | 歴史探訪
 旗洗池で八幡太郎と東郷平八郎閣下とのコラボを実見しましたが、その折に、旗洗池の湧水が神田川に注いでいたということを話しました。

 明治時代の地図で確認すると、往時の様子が想像できますね。



 それではつづいて、近辺の面白地形をもっと歩いてみましょう。

 まずは「本町一丁目」交差点あたりの地形からです。



 交差点を南側に渡り、南東方向へ伸びる道路を見てみましょう。



 落ちているのが分かりますか?

 落ちているというのは、地形が低くなっていっているということです。

 この部分をさきほどの地図で確認してみてください。



 本町一丁目交差点あたりがちょうど谷頭となっており、代々木本村と書かれている台地と代々木八幡の乗っかている台地の間に水の流れがあるのが分かりますね。

 この図の範囲だけで、代々木八幡の台地をはじめ3つの舌状台地が見えますが、これらの舌状台地は中世城郭マニアからすると、城を築きたくてウズウズする地形じゃないでしょうか。

 代々木八幡へ行ったことがある方は分かると思いますが、周囲は結構急な崖だったと思います。

 かなりの要害性を誇っているんですね。

 台地上にある代々木八幡へ登る石段はこの通り。



 登って振り返ると結構高い。



 そして社地の東側の切り通しもご覧の通り。



 ただ、代々木八幡の台地は城郭を築くには幅が狭いですね。

 それならば、代々木本村の台地の方がちょうど良いように思えます。

 私の手元には多分15年くらい前の仕業かと思いますが、地形図上の城館跡にシールが貼られており、代々木本村の台地にも貼られてるんですよね。

 これは私が貼ったのに違いないのですが、なんでここに貼ったのか思い出せないのです。

 城郭の伝承とかあったっけなあ・・・

 でも地形を見ると自然の形で本丸・二の丸・三の丸というふうに区切れるんですよね・・・

 さて、話を戻します。

 ここからは玉川上水跡を歩いてみましょう。



 上水跡はずーっと帯状の公園になっているようです。

 新台(しんだい)橋。



 こちらのお宅の木が立派で気になる・・・



 お、猫ちん。



 スレンダーだねえ。

 幡ヶ谷駅の近くまで来ました。



 ここには玉川上水について書かれた説明板があります。



 西原通り。



 ひきつづき上水跡を歩きますよ。

 美寿々橋。



 代々幡橋。



 この辺りには、戦前には井村病院という精神病院があったのですが、戦災で被害を受けたまま閉院してしまったそうです。

 分かれ道。



 これ以上上水跡を歩いて行くと、甲州道中からだいぶ離れてしまうので、右手の道を行きたいですが、ちょっとだけ上水跡を歩いて地形が落ちているのを望見してみましょう。

 ふふふ・・・、落ちてる・・・



 さきほどの分かれ道に戻り、右手の道を行きます。



 明治時代の地図を見るとこの辺りには阪川乳牛場があるので、牧場があったのかもしれません。

 こちらの道もやはり少しずつ落ちて行きます。

 というのも、笹塚駅へ向かいたいので中野通りへ出ようとしているのですが、中野通りの道筋は谷底だからです。



 中野通りとの十字路に出ました。

 北の笹塚駅方面を見ます。



 京王線が見えますが、京王線の高架は勾配を登っていますね。

 南側を見ます。



 これが谷底の道です。

 ここでまたまた地図を見ましょう。



 左側の「牛窪地蔵尊」と書かれている辺りを見てください。

 現在地はそこのすぐ南側です。

 さきほどの本町一丁目を谷頭とした谷は南の渋谷方面へ向かって流れていましたが、こちらの谷は北の神田川方面に向けて流れていますね。

 そして面白いのは玉川上水です。

 この辺りでは大きく「U字」を描いていますが、谷を避けて台地上の尾根筋のような箇所に構築していますね。

 あ、そろそろ甲州道中歩きに戻りましょうか。


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【新宿駅から甲州道中を歩く その3】旗洗池跡【幡ヶ谷の地名の由来は八幡太郎だったのね】

2017-10-06 18:23:47 | 歴史探訪
 荘厳寺(幡ヶ谷不動)の前の道は「ふどう通り」と呼ばれ、商店街になっています。



 時刻はまだ8時なので、もちろんお店は閉まっており、通勤する男女が早足で駅へ向かって歩いて行きます。

 住宅街の中をニョロニョロと歩いて行くと、私がお目当てにしているらしきものが見えました。

 多分、あれだろうな・・・



 おー、ありました!



 これです。



 説明を読んでいただけば分かるのですが、幡ヶ谷の地名の由来が書かれていますね。

 源氏の白旗伝説は都内各所に残っており、ここもその一つです。

 後三年の役というのは、今では「後三年合戦」と呼ばれることの多い、古代奥羽での戦乱のことで、11世紀後半に奥羽の広い範囲を治めていた清原氏という豪族が、源義家(八幡太郎)に滅ぼされた戦いです。

 と、簡単に言うとそんな感じなんですが、清原氏が滅亡したことにより藤原清衡という人が奥羽で台頭してきて、彼が奥州平泉藤原氏4代の祖となります。

 ここの石碑は道路側から見ると何も刻されていませんが、確認のために反対側へ回ってみましょう。



 お、ありましたね。

 これは説明板にも書かれている通り、東郷平八郎の筆ですよ。

 それと、説明板には神田川に注ぐ湧水とありますが、明治時代の地図で確認すると、確かに小笠原邸の裏は谷地となっており、北西方向に流れて神田川と合流しています。



 さて、私は地形マニアでもありますので、ここからはこの近辺の地形の面白ポイントを探ってみたいと思います。



 ※渋谷金王八幡神社(2001年1月6日撮影)


 ⇒このつづきはこちら


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【新宿駅から甲州道中を歩く その2】荘厳寺(幡ヶ谷不動)

2017-10-06 17:38:48 | 歴史探訪
 正春寺を出て甲州道中を南西へ向けて歩き、初台の交差点まで来ました。

 ここでは甲州街道と山手通りがクロスしています。

 ここからは甲州道中を離れ、山手通りを行きますよ。

 山手通りというと椎名林檎を思い出しちゃうなあ。

 左手にオペラシティを見ながら歩き、西新宿4丁目の交差点に来ました。



 前回の記事でチラッと浄水場の話をしました。

 浄水場があった時代に玉川上水の代田橋の少し西側から「新上水」というのを分けて浄水場に接続していたのですが、水道通りはその跡に作られた道路です。



 各地域でも異様にまっすぐな道路のルーツを探るとかつて水道だったということがたまにありますよ。

 水道通りを渡ってすぐ、左手に古風な感じの路地が伸びています。



 「ふどう通り」。

 いい道ですねえ。

 幡ヶ谷不動へ向かう道に違いありません。

 明治の地図にもこの道は載っていますよ。

 お、ありました!

 幡ヶ谷不動、荘厳寺(しょうごんじ)です。



 荘厳寺は光明山真言院と号する新義真言宗室生寺派の寺院で、本尊は薬師如来です。

 創建は永禄4年(1561)ということなので、後北条氏の支配が安定してきた頃の創建ですね。

 『小田原衆所領役帳』を参照すると、江戸衆の遠山藤六が幡ヶ谷に11貫文とあります。
 
 説明板がありますよ。





 『江戸名所図会』によると、幡ヶ谷不動尊(不動明王像)は三井寺を創建した時に智証大師(円珍)が彫刻したと伝わり、平将門の乱(939~940)の鎮定を命じられた平貞盛や藤原秀郷が陣中の護りとして奉持し、見事将門を討ち取ったあとは、下野国小山郷へ遷しました。

 ところがその後、戦国時代に武田信玄が奪い、さらに北条氏政が奪い返し、相模の筑井(旧津久井町か)の寺へ遷し、後北条氏が滅亡した天正18年(1590)に多摩郡宅部村(東村山市)の三光院へ遷されました。



 当地へは延享4年(1747)に遷されてきて、成田山・高幡不動とともに江戸期から尊崇されてきたそうです。



 何度も遷されて仏さまも落ち着かなかったでしょうね。

 つづいて山門をくぐります。



 あれ、この山門の左右にいるのは狛犬ですね。

 面白いなあ。

 これが説明板に書いてあった常夜燈ですね。



 今はこのように境内にありますが、説明板に書いてある通りかつてはさきほど歩いてきた初台の交差点あたりにあったそうです。

 本堂。



 近世の頃、幡ヶ谷村の鎮守は幡ヶ谷氷川神社でしたが、荘厳寺はその別当寺を任されていました。







 それでは、つぎは幡ヶ谷の地名の元となった場所へ行ってみますよ。


 ⇒このつづきはこちら


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【新宿駅から甲州道中を歩く その1】京王線新町駅跡・箒銀杏天満宮・正春寺

2017-10-06 16:47:02 | 歴史探訪
 明日はクラブツーリズムが催行する甲州道中歩きのうちの、内藤新宿~高井戸間をガイドします。

 その区間は車ではたまに走りますが、歩いたことはありません。

 さすがにガイドをするなら下見に行かないと不味いですよね。

 でも、下見の時間を確保するのが難しく、結局苦肉の策で、休日に出勤する代わりの休みを今日いただいて、チョロッと歩いてきました。

 本日はその模様をごく簡単にご紹介します。

*     *     *


 天気予報では今日は午後から雨が降るらしいので、雨雲に襲撃される前に下見を済ませるべく、5時53分高尾発の京王線で新宿へ向かいます。

 電車に乗ると、資料を読むまでもなくすぐに睡魔に襲われ、気づくともう明大前でした。

 眠っていると一瞬ですね。

 新宿で下車し、明日の出発地点と同じく、まずはJRの南口改札前へ向かいます。

 おや、今日もクラツーのツアーが出ているんですね。

 旗を持った方が立っていらっしゃいます。

 時刻は6時55分。

 それでは歩き始めますよ。



 いやー、今日は寒い・・・

 昨日の日中はポカポカ陽気の掃除・洗濯日和だったのに、こう差が激しいと体調を崩しそうです。



 さて、クラツーの「街道歩き」ツアーではあらかじめお客さんに告知している「絶対探訪ポイント」が決まっており、そこは必ず訪れないとなりません。

 でも、それ以外の場所はガイドする人の裁量で、時間配分をきちんと考えたうえで自由に決めることができます。

 ただ、今回のルートはそれほど先生によって差は出ないんじゃないかと思います。

 駅を出てすぐに甲州街道を反対側へ渡り、「西新宿一丁目」交差点からいきなり脱線。

 あれ、やっぱり私は普通の道はイヤみたいです。

 甲州道中から一本南の玉川上水の跡を歩いてみたい。



 ここは「葵(あおい)通り」と呼ばれ、玉川上水に架かっていた「葵橋」の跡があります。



 新宿から高井戸の区間は玉川上水がほぼ並走しているので、明日の本番では玉川上水も大きくフィーチャーしますよ!

 葵通りは250mほどで呆気なく終わってしまうのですが、その先の玉川上水跡も公園となり残っています。



 でもここで一旦国道20号線に戻りますよ。

 するとこんな場所があります。



 ここにはかつて、京王線の新町駅がありました。

 つまり、ここは廃線跡なのだ!

 見づらいかもしれませんが、こちらは昭和6年発行の地図です。



 この当時の京王線は新宿三丁目あたりに始発駅があり、そこを出発した京王線は省線(現JR)の新宿駅を飛び越えて甲州街道の上を走ってきました。

 地図を見ると新町駅から先は線路を示す線の種類が変わっているのが分かると思いますが、ここから先は普通の電車のような専用軌道となっていたのです。

 それと、かつて広大な範囲を占めていた浄水場の敷地がここの近くまで及んでいたのが分かりますね。

 さて、そのまま歩道を歩いて行くと、文化服装学院の前に出ますが、いつのまにかまた玉川上水跡を歩いています。

 なお、かつて地上を走っていた京王線は、今ではちょうどこの玉川上水跡の地下を走っているんですよ。

 またもや橋の跡です。



 天神橋跡です。

 なぜ天神なのかというと、すぐ近くの甲州道中側に箒銀杏天満宮があるからだといわれています。

 箒を逆さにしたようなイチョウがシンボルの箒銀杏天満宮です。



 あー、でも、このイチョウは枝葉を自由に伸ばすことを許されていないんですね。

 敷地の問題か、枝が切られています。



 可哀想だ・・・



 箒銀杏天満宮の由緒については、代々木八幡宮の境内にある説明板に書かれています。





 ※代々木八幡宮(2017年3月19日撮影)

 箒銀杏天満宮は代々木八幡の末社になっていたんですね。

 小さな神社ですが、玉川上水の流れはなくなっても、神様はいまなおこの地を守っています。



 もしかしたら地下を走っている京王線をお守りしているのかもしれませんよ。

 しかし、掃除屋さんの私としては本日の探訪の最初が「箒」の名を冠した神社というのは何かの縁を感じます。

 さて、ここからは国道20号線を歩きます。

 正春寺を探しましょう。

 こちらかな?



 諦聴寺?

 あれ、違うようですね。



 あ、隣にありました。



 正春寺(しょうしゅんじ)は、柴山安養院と号する浄土真宗東本願寺派のお寺です。



 当初は、徳川2代将軍秀忠の乳母・初台局が元和6年(1620)に天台宗湯島専西寺を当地に移して湯島山専西寺として創建し、その2年後に初台局が没すると、その娘梅園局(德川家光の乳母)が引き継ぎ、寛永4年(1627)には浄土真宗に改めました。

 そして、寛永10年(1633)には湯島山安養院専西寺と改称し、さらに正保2年(1646)に柴山専西寺と改めたといいます。

 慶安4年(1651)には梅園局が没し、元禄5年(1692)に現在の正春寺と改めました。

 なお、安養院というのは初台局の院号で、初台局の夫は古河藩主土井利勝の弟昌勝であり、正春寺は土井一族の菩提寺となっています。



 ※茨城県古河市の古河城跡の土塁(2016年12月30日撮影)

 それでは次は、幡ヶ谷不動(荘厳寺)を目指します。


 ⇒このつづきはこちら


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