日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~関東・東北の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

神社はお願い事をするところではない

2011-10-20 20:48:58 | 民俗コラム
「東京の古代中世を行く」コーナーを見て、「この人はなんでこんなに神社ばかり行っているのだろうか?」「何をお願いしているのだろうか?」と思われた方もいるかもしれません。

神社巡りをして何をお願いしているのか?

そう思うのも不思議ではないですが、その発想は誤りです。

というのは、神社はお願い事をする場所ではないからです。

日本の現代の風習では、神社の神様に対しては、商売繁盛だったり、無病息災だったり、こちら側から目的を持ってお願いをしますが、私はそれに違和感を覚えます。

神様はこちらから個別のお願いをしなくても、その存在を尊重すれば、全体的なバランスのとれた社会にしてくれると思うのです。

ところで、幸せは個人主義だけではだめです。個人の幸せを願いながら、同時に世界の幸せを願わないといけません。トンネルを両側から掘るイメージです。

神社に行かなくても、普段から個人の幸せと世界の幸せを願うことは可能です。

そういうわけで、私は神社の神様に個人的なお願いはしていません。

ただ神様が健やかに気持ち良くあって欲しいと念じているだけです。




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人を神に祀る風習とはどういうものか?

2011-10-18 22:11:23 | 民俗コラム
日本人は縄文の昔、いや、もしかすると旧石器時代からかもしれませんが、自然の物、例えば太陽、月、星、雲、風、雨、雷などに対し人智の及ばない超越的な存在、すなわち神の存在を想像していました。

そういう自然の物に対しては現代においても畏敬の念を感じますので、古代人の気持ちも良く分かります。

私はそういった信仰にも大変興味が有るのですが、それと並んで最近ずっと気になっているのは、死んだ人間を神とする風習です。

柳田國男は、『人を神に祀る風習』で、以下のように述べています。

「遺念余念というものが、死後においてもなお想像せられ、従ってしばしばタタリと称する方式をもって、怒りや喜びの強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることになるのであった」

おそらくこれは古代末期から中世・近世の事象が想定されており、良くないことが起きた時に、神がかりになった人が「誰彼の霊のせいだから祀れ」と言い出したのが発端だと思われます。

私が今、非常に興味を持っているのは、柳田國男が想定している時代よりももっと昔の話です。

例えば、ヤマトタケル。

この人物は多くの研究者は架空の人物だと言っていますが、架空説を唱える人でも、過去の複数の人びとの実績をまとめた人物であるとする場合があります。

ヤマトタケルは実在か架空かの問題はここでは触れませんが、現実に存在するのは、「ヤマトタケルの高徳を慕って祀った」という各地に残る神社の伝承です。

現在のところ私が知る範囲では(東京23区内に限定してしまいますが)、ヤマトタケルの「祟り」を鎮めるために祀ったという話は無いです。

みんな、後世になって「あの方は良い方だったなあ」という「思い出」で祀っているというイメージを受けます。

でも、そういうホンワカした感傷で神に祀るということは、実際にあるのでしょうか。

そこのところが分からない。

今のところ、そういう伝承のある神社に対しては、いつの時代にヤマトタケルを祀ったのか調査できていないので今後調査を進めていきます。

いつ、どういった理由でヤマトタケルを祀ったのか、本当のところを知りたい。

ところで、神社に祀られる神様も、時代によってブームがあります。

そういう世相を反映して、もっというなら体制側に迎合して祀られることになったとしたら、ヤマトタケルの場合は大化改新(645年)以後のヤマト朝廷の東北進出の時代です。

ヤマトタケルは蝦夷(エミシ)を征討しましたが、大化改新以後のヤマト朝廷が東北に侵攻した時期にヤマトタケルは東北侵攻のシンボルとして祀られたかもしれないです。

対エミシ政策以外に考えられるのは、天候不順や天災などを契機とした場合ですが、ヤマトタケルの性格は災害から地域を守ることに関してあまりふさわしくないように感じます。

さて、今回は話がヤマトタケルだけになってしまいましたが、個別事例だけでなく、一般論として初期の神社で「人を神に祀る風習」とはどのようなものだったのかについても、もっと詳しく調べてみようと思います。





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民俗学の定義に当てはまらないとすると、一体それは何と呼べばよいか?

2011-10-14 20:21:41 | 民俗コラム
『図解雑学 こんなに面白い民俗学』によると、民俗学の研究対象となりうる時代は明治から昭和にかけてであるといいます。どんなに古くても中世末頃までと見なすそうです。

しかしこの定義には疑問があります。

というのは、現在の私がライフワークとしている古い時代(古代・中世)の「伝承」を追いかける行為は、民俗学でないとすると、一体何なのかと思うからです。

それは、歴史学でないことは確かです。

なぜならば、歴史学というものは「伝承」を切り捨てるからです。

「史料」にないものは信じないという姿勢です。

そういう歴史学の姿勢に疑問を感じた私は、歴史学に「伝承」を加味し、それを「歴史学と民俗学の中間」と称しているのですが、上述のとおり、古代・中世の「伝承」を追いかけることが民俗学でないとすると、一体何という学問になるのか、分からなくなります。

もちろん、学問に「定義」などは必要ではなく、もっと本質的なことを考える必要があるとも考えられますが、他人に対して自分の学問の内容を簡潔に伝えるにあたり、民俗学という言葉が使えなくなると、代わりに何と称すればよいのでしょうか。

一般的ではないかもしれませんが、「神社伝承学」という言葉もあります。でも私の場合は、神社以外にも、地域に残る「言い伝え」を掘り起こしていきたいと思っています。

本当のことを言うと、歴史をやっていると良く分かることで、「歴史学」と「伝承を調べること」は、あまり相性が良くないのです。くっつきが悪い。

そこを敢えて私はやっているというわけです。

しかし考え方を変えると、私は歴史学でも民俗学でもない、新たな学問をやっているのかもしれません。

私と同様な考え(歴史学に伝承をプラスする)を持っている人は大勢いると思います。

真実の追求も大事だと思いますが、私はもっと「心」の問題を大事にしたいと思います。

人びとが古代・中世以来、先祖代々育んできた「心」。

それを大切にするのが重要なのではないでしょうか。




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東京の神はどこに降臨するのか?

2011-10-13 20:18:20 | 民俗コラム
日本の民俗学がいうところによると、神社ができるもっと前から、日本人は自分の住む土地から見える秀麗な山に神が降りるとし、それを崇めてきました。

山に降りた神は、春の田植えには里、そして田へとやってきて地域を見守り、秋の収穫の後にはまた山へ帰っていくと考えられています。

この「山」、「里」、「田」という日本の原風景ともいってよい景色ですが、これについて私は非常に違和感を覚えます。

というのは、私の生まれ育った千葉県北西部は、関東平野の中にあり、山といえば、晴れた日に北方の遠くに見える筑波山か、これまた西の超遠くに小さく見える富士山しかないのです。

生活の場から仰ぎ見られる神奈備と呼ばれるような身近な山は存在しません。

私が今研究している東京23区もそれに近い状況です。

そのような神が降りてくる山が無い地域の人びとは、古代、いったいどのような宗教観念を持っていたのでしょうか。

私は東京23区内の場合は、「山」ではなく、「川」に神が降りてきたのではないかと思っています。また、東京湾の沿岸部は東京湾に神は降り立ったのだと思います。

そう思って、東京23区と川の神に関する資料を探し始めました。

民俗学の方面で、もしそのようなテーマについて書かれた本をご存知の方がいればご教示ください。

東京の川に関しては以前から非常に興味があります。

山が無いのだから、神は川や海や池(23区のあちこちに池はまだ残っている)に降臨したに違いありません。

また、海に関しては、地方によっては神は海の彼方からやってくるという伝承が残っていますが、東京湾の場合は、反対側(東京からすると千葉側)が見えてしまっているので、水平線の彼方からやってくるというイメージではないと思います。

東京の神について、もっと知りたいです。



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東京23区内の古代・中世に創建された神社にはどのような伝承があるか?

2011-10-08 21:21:58 | 民俗コラム
今日も武州は良い秋晴れでした。

そんな出かけたくなる日よりの下、部屋の中でシコシコと神社の調査をしていました。

先日、古代・中世に創建された東京23区の神社は約350と言いましたが、『東京都神社名鑑』その他を参考にして数え直した結果、338社ありました。

338社のなかには、どのようなルーツのある神社が含まれているかというと、ヤマトタケルの伝承を持っている神社と平将門の乱に関係している神社がそれぞれ16社ずつありました。

もちろん上記資料で調べられる範囲なので、実際はもう少し多いかもしれません。

あと、源氏(源頼信・頼義・義家・頼朝、足利尊氏、新田義貞、世田谷吉良氏など)に関連がある神社と八幡神社の合計は、91社に上りました。

91社というのは相当多いように思えます。

八幡神社は全てが源氏に関連するかどうかは分かりませんが、かなりの確率で源氏が関わっているようです。

いかに源氏の影響が東京23区に及んでいたかが分かりますね。

それと、中世の東京といえば太田道灌ですが、道灌の関連している(勧請したとか再建したとか)神社は、42社ありました。

聞いたところによると、道灌に結びつける神社の中には、後世になってから話を結びつけた神社もあるとのことですが、それでもやはり42社というのは道灌がスーパースターであったことの証左となります。

他にも、良文流平氏の豊島・葛西・江戸氏関連の神社や、中世流行った熊野神社、江戸にやたらと多い稲荷神社、23区北部に多い氷川神社など、様々な神社があります。

さて、そういうわけで、本日までの調査結果をもとに、今後参拝する神社を決めていこうと思います。

今後はただ単に参拝するだけでなく、「プラスアルファ」をしてみようと思っています。

「プラスアルファ」の内容とは何か?

やがてそれが明らかになる時が来ますので、それまでお待ちください。





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座敷童子とニアミス

2011-09-13 21:07:08 | 民俗コラム
2004年のGW、糠部地方(岩手県北部・青森県東部)の城館跡の調査に行った時のことです。岩手県二戸市の旅館「R荘」に一泊しました。

テレヴィでもやっているところを見たことがあるのですが、R荘の「槐(えんじゅ)の間」は、座敷童子が出現することがあり、もし座敷童子と会えた場合は、出世すること間違いなしといわれています。

原敬も総理大臣になる前に槐の間で座敷童子に出会っているといわれています。

槐の間は、そのような経緯から2~3年先まで予約が一杯で、私が泊ったのは別の部屋でした。

さて、広間で夕食を終えて自室に戻ろうとした私は、旅館の人に「槐の間を見てみますか?」と声をかけられました。

槐の間の客がまだ食事中だということで、その隙に見せてもらえるとのことです。

是非見たいと思った私は、急いで自室に戻ってカメラをとってきて、槐の間に入れさせてもらいました。

そこではテレヴィで見たとおり、泊り客が座敷童子のために置いていったオモチャ(ぬいぐるみ)がずらーっと並んでいました。



テレヴィで見た時は、夜中に誰も触っていないのに、音の出るオモチャのスイッチが入り音が鳴り出したり、オーブと呼ばれる発光体が画面に映ったりしていました。

「ふーん、この部屋か」と眺めていた、その時です。

触ってもいないのに、いきなりオモチャが鳴り出しました。

「おーっ、テレヴィと一緒だ!」

宿の人は、「今遊びに来てますよ。お客さんよかったですね」と言いました。

私は宿の人がリモコンで操作しているのではないかと疑ったりもしましたが、もしかしたら何かが写るかもしれないと思い、写真や動画を撮ってみました。しかし、何も写っていませんでした。

あまり長居もできないので部屋を出て自室へ戻ります。

座敷童子は一人ではなく、どの部屋にでも遊びに来る可能性があるということなので、自室でも写真を何枚か撮ってみましたが、やはり何も写りません。

夜中にやってくるかな?とも思ったのですが、消灯後は疲労のためすぐにグッスリ眠りにつき、結局座敷童子との遭遇はありませんでした。

というわけで、座敷童子とニアミスした私ですが、あれから7年、まったく出世していません。

出世しないどころか、会社からは追放されてしまいました。

そして驚いたことに、その後「R荘」は火事で全焼したということです。





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中尊寺の月見坂に霊はいるか?

2011-09-11 18:55:45 | 民俗コラム
デジカメで撮った写真のデータを見ると、その日は2003年4月28日、娘は3歳でした。

GWに妻の実家の岩手県北上市に帰省していた我々家族は、義父に平泉に連れて行ってもらいました。

そのとき、中尊寺に向かう時だと思いますが、娘がぐずって歩きたがらなくなり、重たいのを義父がおんぶしてくれました。

そして確か帰る時でしたが、月見坂を歩いているときに、異変が発生しました。

娘の「ぐずり」がひどくなり、泣きわめき始めたのです。

そして、泣きながら、手に持った紙(パンフレットか何かでしたが)をブンブン振り回して、「切らせて~、切らせて~」と泣き叫びました。

私が義父に背負われた娘に近づくと、娘は手に持った紙の断面で私の首の後ろを叩き、刀で首を切り落とす動作をしました。

それから続いて、妻と母の首を切り落とす動作をし、それが済むと落ち着いたみたいで安心した表情になり泣きやみました。

3歳の娘が刀で首を切る動作を行ったのはなぜでしょうか。

もちろん演技とは考えられません。

私は娘に一時的に平泉の合戦で討ち死にした武士の霊が憑りついたのではないかと思っています。

友人にこの話をしたところ、月見坂は心霊スポットらしいです。

中尊寺の月見坂は不思議な空間でした。




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日光戦場ヶ原

2011-08-07 20:17:53 | 民俗コラム
先月、小6の娘が修学旅行で日光に行ってきましたが、私も小6のとき、やはり修学旅行で日光に行きました。

そのとき、戦場ヶ原で休憩をしたのですが、日本史を勉強し始めた当時の私は「何で戦場ヶ原というのだろうか?古戦場だったのかな?」と思い、それ以来心の片隅にずっと疑問を感じていたのですが、それが最近『日本の神々(11)』の群馬の赤城神社の項を読んでいたら、戦場ヶ原について出てきました。長いですが引用します。

昔、二荒山と赤城山の神が、中禅寺湖を下野国のものだ、上野国のものだと言い合い、ついに戦いになってしまった。はじめは赤城の神側が優勢であったが、二荒の神は鹿島の神の助言によって小野猿麻呂という弓の名人の加勢を得、反撃に転じた。二荒の神は蛇の姿になり、赤城の神はムカデに姿を変えて戦ったが、赤城の神は猿麻呂に左目を射抜かれて、ほうほうのていで逃げ帰った。この戦場が今の日光中禅寺湖畔の戦場ヶ原であり、赤城の神が負った手傷をいやした湯が老神温泉であるという。

そうだったのか!

ひとつ謎が解けて良かったです。

しかし上記の話はまたまた色々な謎を内包しています。

下野(栃木県)と上野(群馬県)は同族のはずです。

それが女性を巡って戦ったのでしょうか。

下野に鹿島の神が助言しているのも気になります。

鹿島の神は、天皇家(の先祖)に忠実な武神タケミカヅチです。

これは何かあるに違いない・・・。




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ややこしい大物主(オオモノヌシ)・大己貴(オオナムチ)・大国主(オオクニヌシ)

2011-07-25 20:45:11 | 民俗コラム
古代史の本を読んでいると、いろいろな神様が出てきますが、そのなかで、

・大物主(オオモノヌシ)
・大己貴(オオナムチ)
・大国主(オオクニヌシ)

は名前が似ていて混乱します。

本を読んでいて混乱しないためにも、少し整理してみたいと思います。

『日本書紀』(神代 上)によると、大己貴神はスサノオの子です。そして、ある書ではスサノオの6代あとが大国主神、また別の書ではスサノオの6代あとが大己貴命だといい、さらに別の書では、大国主神は大物主神とも国作大己貴命とも言っています。

ある説では、三柱は同一神ということなのですね。

その説を採ってしまえば疑問が解決なわけですが、そうとも言ってはいられません。

さらに『日本書紀』(神代 上)の続きを見ます。

大己貴神が国を作り終わると、不思議な光が海の中からやってきて、それが大己貴の「幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)」で、日本国(やまとのくに)の三諸山に住み、大三輪の神となったといいます。

大三輪(の神)とは、奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)のことですが、大神神社のホームページによると、祭神は、大物主大神、配祀が大己貴神と少彦名神で、大己貴神は大国主神と同じ神であるといいます。

ここで、

大己貴(オオナムチ)=大国主(オオクニヌシ)

となりました。

『日本書紀』(神代 下)では、大己貴神は、葦原中国の主で、ある書では、大己貴神が国を譲って退去した後、大物主神と事代主神が天孫に帰順したといいます。

大国主(=大己貴)も大物主も、天皇家の先祖が天下を取る前に栄えた勢力ということになります。

大国主(=大己貴)は、島根県出雲市の出雲大社の祭神です。

ここまでは一般的な話で、エグイ話になると以下の通りです。

『消された大王 饒速日』(神一行著)によると、福井県小浜市の弥和(みわ)神社の祭神は大歳彦明神で、それはスサノオの子オオトシであるとし、大物主はオオトシであると同時にニギハヤヒであるとします。

つまり、ニギハヤヒはスサノオの子ということです。

大物主=オオトシ=ニギハヤヒ

という説はもう少し調べてみようと思います。





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アラハバキは土着の神か?外来の神か?

2011-07-24 18:47:32 | 民俗コラム
『隠された古代 -アラハバキ神の謎-』(近江雅和著)では、アラハバキはスサノオが祀っていた神で、スサノオは辰韓(のちの新羅)出身の「韓鍛冶」の一団の首領としています。

スサノオの一団は、当時まだ開発がされていなかった出雲西部に入植し、高志(越)のヤマタノオロチの襲来を退け、出雲東部の首長の娘クシナダ姫を娶り、つづいて出雲東部を乗っ取り、出雲を平定したといいます。

近江氏は、埼玉県さいたま市大宮の氷川神社の摂社門客人社がかつて「荒脛巾神社」と言われたことから、出雲大社の門客人社もアラハバキだと思っているようですが、同じ「門客人社」でも、「門客人」というのは一般的な名詞かもしれません。つまり表現は同じ「門客人社」であっても、中身は違う可能性が有ります。

近江氏は、アラハバキはスサノオが朝鮮半島から持ってきた神なので、その時期は弥生時代だとしていますが、私はどうもアラハバキは縄文時代からの日本古来の神であるような気がしてなりません。しかも、出雲や西国とは関係なく、関東・東北地方の神だと思います。

大宮の氷川神社は出雲大社からの分かれだという話と、武蔵の国造(国の支配者層)が出雲国造と同族の可能性が有るという話は気になりますが、むしろ、大宮には大昔からアラハバキを主祭とする神社の原型のようなものがあって、そこにヤマト朝廷が東国に進出するに当たって、重臣だった出雲系の人びとによって氷川神社が形成され、アラハバキは端に追いやられてしまったと考えるのはいかがでしょうか。

今後もアラハバキの動向には注視していこうと思います。




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山本勘助と一つ目小僧

2011-07-21 21:24:31 | 民俗コラム
歴代のNHK大河ドラマのなかで、私が一番好きなのは、2007年度の「風林火山」です。

「風林火山」の主役は、戦国時代の甲州武田家の軍師・山本勘助で、勘助は片目が見えず、くわえて片足が不自由だったにも関わらず、信玄の軍師として縦横の活躍をしたといわれています。

さて、私は柳田國男の『一目小僧その他』所収「一目小僧」を読み始めたのですが、日本の各地で残っている一つ目小僧の伝説では、一つ目小僧は足も一本であったという話が多いそうです。

それを読みながら私は、一つ目で、一本足、これはまさしく山本勘助がそうではないかと、ハッとしました。

そして、そのまま読み続けていると、やはり柳田も山本勘助に着目していました。

しかし、残念ながら少々触れるにとどまっています。

柳田の推測では、全国に残る、一つ目、一本足の「お化け」の伝説の元は、神への生贄の儀式の名残で、来年度の祭りで神と交信をする役が決定した村人を、あらかじめ片目をつぶし、片足を折っておいたことが由来ではないかといいます。

その件と山本勘助がどういう関係にあるのか?

それとも、両者は関係ないのか?

今日もまた謎がひとつ増えてしまいました。

ところで、私の近所の八王子城の落城伝説のひとつに、こういう話があります。

城を守る武将に景信という人がいて、落城の際逃げるときに藤蔓にひっかかり転倒、川に落ちて死亡しました。

景信はそのとき片目を怪我していましたが、それ以来、その川のヤマメはすべて片目になりました。

柳田によるとこれに類似した話は日本全国にあるそうです。

この伝説についても今後は留意していこうと思います。




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民俗学にも片足突っ込んでしまった

2011-07-19 18:27:30 | 民俗コラム
柳田國男著『石神問答』を読み終えても、石神あるいはシャグジに対する謎は深まるばかりで、それどころか、より一層、民俗学の面白さの深みにはまってしまったという感じです。

今日は午前中出かけたので、そのついでに午後は図書館に寄って読書をしていたのですが、『新多摩石仏散歩』(多摩石仏の会著)によると、東京都三鷹市にある真福寺というお寺に「釈宮氏(シャクジン)」と呼ぶ板碑型の石碑があるそうです。

真福寺は、十数年前私が住んでいたアパートの大家さんの菩提寺だったにも関わらず、その石碑は私は未見でした。

というか、十数年前はそういった石碑に興味が無かった・・・。

石碑といえば、『道祖神を考える』(石川博司著)によれば、私の住む多摩地方には、1300基の庚申塔があるそうです。

庚申塔も今までノーマークでした。

そういった石神・石仏もそうですが、各所に残る「塚」にも興味が出てきて、気をつけると、塚はそこらじゅうにあることが分かりました。

「塚」といえば、先日から話題にしている「十三塚」ですが、我が家の比較的近所にもある(あった?)そうで、『武蔵野の民話と伝説』(原田重久著)によれば、東京都稲城市大丸の十三塚は、鎌倉幕府が滅亡する時の分倍河原合戦で、新田氏に敗れた北条氏の武士を葬った塚だそうです。

そこを発掘した人は発掘直後急死したので、祟りにあったと言われています。

あと、「一つ目小僧」も気になりだしたら、東京の武蔵野地域にも一つ目小僧の伝説が残っているということを知りました(『武蔵野の民話と伝説』)。

もともとは歴史学が好きで、それに考古学、宗教学、神話学、人類学と、いろいろな学問を少しずつ加味してきて、それに新たに民俗学が加わった形です。

それだけ手広くやって、結果はいつ出るんでしょうかねえ。




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斬り殺された13人の武士を葬った十三塚

2011-07-17 20:28:32 | 民俗コラム
柳田國男の『石神問答』を読み進めていくと、「石神」と「シャグジ」が別の物であると述べられていました。

石神は、『延喜式』の時代(10世紀初頭)の記録に既に見られるといい、多くは「イシカミ」、「イワガミ」と呼び全国にありますが、サグジ(シャグジ)と混同しているようだといいます。関東では「シャグジン」と呼ぶ場合があります。

サグジ(シャグジ)は、東国にあり、西国や奥羽ではみつからないといいます。駿河等では杓子が転じてオシャモジとなりますが、オシャモジとシャグジと同神であるといいます。

さて、柳田は『石神問答』で、シャグジなどとともに「十三塚」にこだわります。

十三塚は、文字通り、13個の塚が並んでいるものですが、一つが大きくてあとの12個が小さい場合や、13個無くても十三塚と呼ぶことがあります。

伝承としては、戦国時代に討ち死にした武士を葬ったという類の話が多いようで、私も数年前に北東北の城館跡を巡った時に「十三塚」という地名に遭遇しています。

岩手県久慈市の宇部館跡がある場所の字は「十三塚」といい、その由来は、天正19年(1591)の九戸政実の乱の際に、政実弟の久慈備前守政則の家臣13人が乱入し、切り伏せられたのを葬ったことによるということでした(『岩手県中世城館跡分布調査報告書』)。

私が該地を訪れた時は、十三塚には興味がなかったので、塚を探すことはしませんでした。今となっては、せっかく行ったのにもったいないことをしたと思います。

柳田は『石神問答』とは別に『十三塚』という文章も書いています。一時は柳田があまりにも「十三塚、十三塚」というので、「十三塚男」、「十三翁」と考古学方面から言われたらしいです。




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柳田國男著『石神問答』

2011-07-16 21:11:47 | 民俗コラム
東京都練馬区に西武新宿線の上石神井(かみしゃくじい)という駅があります。

石神井川という川も流れ、中世の頃は石神井城という城もありました。

その地名の一部の「石神」(しゃくじ)って何だろうか?石の神様なのかな?と以前から気になっていたのですが、先日、『遠野物語』で有名な民俗学者の柳田國男が、『石神問答』という文章を書いていることを知りました。

早速、古本で取り寄せて読み始めたのですが、該書は、「石神」やその他の民俗学的な事柄をめぐって、柳田が知人との間で交換した手紙を編集した本です。

それによると、シャクジ(シャグジ・サグジ・サゴジ)という神は関東や中部などに分布し、「石神」と書き、その名の通り御神体が石であることが多いそうです。

御神体が石の場合は、石棒であることもあるので、その場合は男根信仰(性器信仰)との関係が想像できます。

男根信仰は現在でもとくに東北地方に残っており(駒形神社や金精(こんせい)様)、縄文時代の遺跡からも石棒が出土することから、縄文時代から受け継がれている信仰のようです。

ちなみに男根を拝んで何の御利益を得るかと言うと、それは良縁や懐妊、安産などです。

冒頭述べた、練馬の石神井でもその地で出土した石棒が御神体になっているそうです。

また、杓子と表し、オシャモジサマと呼んでいるのも何か関係がありそうだと柳田は睨んでいます。

柳田は当初は、シャグジを石神と書くのは当て字で、シャグジという言葉は本来別の意味が有ったのではないかと想像し、アイヌ語を疑ったり(後でそれは誤りでやはり日本語であると理解している)、また「十三」がついた地名が全国に沢山あり、十三塚の上にシャグジが祀ってあることがあるらしいとから、十三との関連も探っています。

シャグジの正体は何か?

もう少し『石神問答』を読んでみます。

ところで、シャグジとはあまり関係がないと思いますが、柳田が「我が皇祖神は日神にませども 直ちに日輪を崇祀することは古史に聞かざる所なり 武蔵の日奉氏は国津神の末なるかと覚ゆ」と書いているのが気になりました。

日奉(ひまつり)氏は、武蔵七党のひとつ西党の氏族で、東京都日野市周辺に盤踞していましたが、それより昔は、朝廷内において太陽を祀る日奉部(ひまつりべ)であったといいます。

その日奉氏が「国津神」(天皇家が日本を支配する前に、日本列島内で勢力を持っていた一族)の後裔ではないかというのです。

太陽を祀ることは古い歴史で聴いたことがないと言っていますが、日奉部がそれに該当するのではないでしょうか。私は日奉部について詳しいことを知らないので、日奉部とは何か?というところから疑問が生じてしまいました。

この件についてはもっと詳しく知りたいのですが、『石神問答』には上述の言葉がさらりと書かれているだけでそれ以上のことは分かりません。

柳田国男全集〈15〉 (ちくま文庫)
柳田 国男
筑摩書房

(「石神問答」が収められた『柳田国男全集〈15〉』は↑から購入できます)
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結局、白鳥信仰とは何か?【谷川健一著『白鳥伝説』を読む】

2011-07-14 16:13:42 | 民俗コラム
ここ何日か頻繁に参照している谷川健一著『白鳥伝説』ですが、そもそも読むきっかけになったのは、「白鳥信仰って何だろう?」という謎でした。

該書はそのタイトルとは裏腹に、なかなか白鳥伝説に関することが出て来ず、下巻の後半になって、ようやく主題に移ったかのように見えます。

先日、和賀郡(岩手県北上市周辺)の中世領主和賀氏に白鳥信仰があると書きましたが、和賀氏は和賀郡に下向する前は、刈田郡(宮城県南部の白石市近辺)にいました。

該書によると、刈田郡には熱狂的な白鳥信仰があり、蔵王町宮の刈田嶺神社は、俗に白鳥大明神と称しています。

刈田嶺神社はヤマトタケルを祀っていて、それはヤマトタケルが死後、白鳥になって空に飛び立ったことから白鳥信仰が発生したように思えますが、それなら全国の他の場所でも白鳥信仰が発生していてもおかしくありません。

しかし、該書を読む限りでは、刈田郡にしか「信仰」と呼べるものはないという印象を受けました。

ただし、該書では出てきませんが、既述した通り和賀郡にも白鳥信仰はあります。

和賀氏はもともと武蔵七党の横山氏で、現在の東京都八王子市近辺にいて、ついで埼玉県熊谷市に移り中条氏を名乗り、源頼朝の平泉攻略(文治5年(1189))のあと、刈田郡を賜りました。その後、和賀郡に移ったわけですが、和賀郡に所領を得た時期は史料上で確認することはできません。しかしそれは、仁治4年(1243)より前です。つまり刈田郡から和賀郡への移動は、半世紀ほどの時間しか経っておらず、和賀氏(苅田氏)が、白鳥信仰を奉ずるようになったのは、半世紀の期間の中です。

短期間で和賀氏(苅田氏)が信奉するようになった白鳥信仰ですが、そのルーツははっきりしません。谷川氏は縄文時代にさかのぼる「東」の白鳥信仰が、「西」から来た物部氏の白鳥信仰と合体したと自論を述べています。

谷川氏は、「白鳥」という地名については各地を調べたようですが、信仰に関する調査はそれほどできなかったようです。地名に関しては、物部氏との関連を執拗に迫ってきます。そして、物部氏は白鳥信仰があったと、以前は推測だったのが、該書の終わりの方では断定となっています。

物部氏が白鳥信仰を奉じていたという根拠については非常に散漫な関連性となっており、該書を良く読んでも納得できるものではありませんでした。

結局該書を読み終わっても、「白鳥信仰って何だろう?」という謎は深まる一方ということになってしまいました。

さて少しネガティヴな感想となってしまいましたが、該書はここ数日参照してきたとおり、総合するととても面白い本なので、上下巻の内容を別のテーマでまとめて、タイトルを変えて出せばもっと良かったのではないかと思いました。

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