日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~関東・東北の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説最終回:海の底にも都はござりましょう

2012-12-23 22:36:28 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第50回「遊びをせんとや生まれけむ」では、清盛が死し、そしてその後の平家滅亡、義経の自害、頼朝の上洛までが綴られました。

 清盛は治承5年(1181)閏2月4日、九条河原口の平盛国の屋敷で没しました。

 享年64歳。

 もう清盛の一生に関してはあらためて詳しく振り返ることはしませんが、四位の中級貴族の家から身を起こし、公卿に列せられ、臣下としては最高位の太政大臣まで昇り、史上初の武家政権を確立した人生は、晩年は少し行動に翳りが見えたものの、やるべきことはやりぬいた、充実した一生であったと思われます。

 清盛の開いた武家政権は、頼朝の鎌倉幕府に引き継がれ、ついで足利尊氏の室町幕府、そして徳川家康の江戸幕府と続き、大政奉還まで700年もの長きに渡って展開しました。

 巨人、清盛。

 ドラマが終わってもしばらくの間は清盛のことが頭から離れそうもありません。

 さて、そういうわけで本日で一点解説も終わりです。

 思えばこのコーナーは、ドラマの第1回を見終わった時に思いつきでやってみようと思い始めました。

 まったくの無計画です。

 しかも、もっと恐ろしいことは、私は清盛の時代についてほとんど知識が無かったことです。

 ほとんど何も知らないのに、解説を書いてみようと思ったのです。

 それから20冊の本を買い集め、勉強をしながら解説を書いていました。

 そのため、まったく見当違いなことを書いたこともあったかもしれません。

 しかし、何とか50回すべて解説を書くことができました。

 中には見る方によっては、こんなの解説じゃないよ、というような回もあったと思いますが、私個人のことにフォーカスすれば、重要なのは中身ではなく、50回続けたことにあります。

 解説くらい俺にでも書ける、と思っている方もおられると思いますが、思っていても行動しないとそれは価値が無いのです。意味が無いのです。

 そういうわけで、一点解説はほぼ私の自己満足に終わりましたが、少しでもあなたのお役に立てたなら、私の自己満足も浮かばれます。

 何も知識もない段階から始めて、お陰さまで1年間のうちにだいぶ12世紀の畿内の歴史を知ることができました。

 今後、清盛の時代に関して、「読書」のレベルから「研究」のレベルに行くかどうかは分かりませんが、清盛の時代が私が好きな時代の一つになったことは事実です。

 1年間お付き合いいただき、ありがとうございました。

 とくに貴重なコメントを書いていただいた方々には重ねて感謝致します。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第49回:清盛の最後の政策

2012-12-17 14:58:26 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第49回「双六が終わるとき」では、後白河法皇(松田翔太)に最後の双六勝負を挑んだ清盛(松山ケンイチ)が後白河に打ち勝ち、これからは武士と武士とが戦う世の中になり、武士はもはや王家の犬ではないと言い、もう双六もこれでおしまいにして欲しいと頼みました。そして、清盛は熱病で倒れます。

 南都焼き討ちのあと、清盛が倒れるまでに最後にやったことは、新たな軍制の構築です。

 東国では頼朝(岡田将生)が政権をつくり、御家人を組織して強大な軍事力を保持し始めたので、それに対抗するために清盛も畿内近国の軍隊を率いる惣官を設けました。

 それは天平3年(731)に新田部親王が任じられた官職に習って作られ、五畿内ならびに伊賀・伊勢・近江・丹波が管轄内でした。

 すでに東国は頼朝の支配下になっており、九州でも叛乱が起こっていたので、清盛の威令が届く範囲は、畿内と西日本の一部になっていたのです。

 それでも清盛はできる範囲内で軍制を新たにし、頼朝に対抗しようとしました。

 清盛はまた、奥州平泉の鎮守府将軍・藤原秀衡(京本政樹)と越後国住人の平助長に頼朝追討の宣旨を与えました。東の秀衡、北の助長、西の平家で頼朝を挟みうちにする戦略です。

 鎮守府将軍の秀衡はよいとしても、国司でもない一介の地方武士である助長に追討の宣旨を与えるなどは今まで例がありませんでした。清盛はすでに体面にこだわっている余裕はなかったのです。

 結局、奥州で強大な軍事力を誇る秀衡は動きませんでした。秀衡はその武力を背景にして、中立を維持したのです。

 もし秀衡が動いていれば、のちの鎌倉幕府滅亡後の北畠顕家の軍勢のように、物凄い勢いで関東を席巻していたかもしれません。

 あとあと頼朝に平泉藤原氏が滅ぼされることを考えれば、平家と秀衡の挟撃作戦を見てみたかったような気もします。

 さて、大河ドラマ「平清盛」もいよいよ来週で最終回です。

 第1回から毎回解説を書いてきて、番組が終了するのが寂しい気もしますが、始まりがあれば終わりがあるものです。

 それでは、「一点解説」をあと一回宜しくお願いします。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第48回:清盛の失敗と頼朝の成功

2012-12-10 16:27:29 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第48回「幻の都」では、福原に遷都して半年で、清盛(松山ケインチ)は世の中の非難をかわしきれず、平安京に都を戻しました。

 やはり清盛の権力をもってしても、400年近い伝統を持つ平安京に対して皇族や貴族たちが感じている愛着を無視しての自分の都合のよい土地への遷都は長続きしなかったのです。

 さて、治承4年(1180)11月、宗盛(石黒英雄)は皆の意見を聴いた結果、還都することを清盛に進言しました。それに反対したのは時忠(森田剛)だけで、皆還都に賛成でした。

 清盛はその後、11月11日に新造した内裏への行幸を行い、13日に万機の旬、15日に五節と行事を行い、それが済むと還都を決めました。清盛も一族や貴族のほぼ全員が還都を願っていることに対して、ついに自我を通すことができなくなったのです。

 23日に還都すべく福原を発つと、逐電する家臣が出たり、東国に出陣すると称して暇を請う武士たちが続出し、福原には2000騎しか残らなかったといいます。

 貴族たちの心はすでに清盛から離れており、30日に高倉上皇(千葉雄大)の御所で東国にどう対処するか評定を開いたところ、藤原長方は、後白河法皇(松田翔太)の院政の復活と、藤原基房(細川茂樹)の帰京を主張して人びとを驚かせました。ついに貴族の中には正面切って清盛の政治に対して異議を唱える者が出てきたのです。

 いったい、ここまで事態が悪くなったのは、清盛のどこがいけなかったのでしょうか。

 清盛は白河法皇(伊東四朗)の御落胤とされていますが、事実上、武士である伊勢平氏の息子です。

 家柄が絶対であった当時の貴族社会において、清盛の家は位階では四位の中級貴族であり、本来であればそれ以上出世してはだめで、貴族のほぼ全員は清盛の出世に対して不快に思っていました。

 そういう不快に思う人びとを武力で従わせようとしたのが清盛です。

 清盛は朝廷を利用しようとしたのではなく、そういう不快に思う人びとを内包したまま朝廷そのものになろうとしたのです。

 清盛は完全に中央志向なので、中央の貴族の中において力をつけて、貴族たちのトップに立つことで政権を確立しました。出身は武士であっても、ドラマの中で伊藤忠清(藤本隆宏)がいみじくも言っていた通り、もはや武士ではなくなっていたのです。

 一方の頼朝(岡田将生)は敢えて、京都ではなく、京都から離れた鎌倉で政権を確立しました。そして京都の朝廷を潰すことはしませんでした。

 頼朝がなぜ京都の朝廷を潰さなかったのかは、もっと考察をしてみないと分かりませんが、頼朝は朝廷はそのままにしておいて、離れたところで朝廷を利用しながら政治を行うという手法を考えつきました。

 清盛は、福原に拠点を移してまだ後白河法皇が院政を行っていた時点では、頼朝のさきがけともいえる手法を取っていました。朝廷から離れたところで政治をみるという方法です。

 しかし清盛はさらに一歩進めて、自分の身内になった天皇も巻き込んで朝廷を自分の根拠地に移そうとして失敗したのです。

 頼朝はそれが分かっていたので、清盛と同じ失敗はしませんでした。

 清盛も福原に拠点を移すまでは良かったのですが、そこで朝廷とは別個の、本当の意味での武士による武士のための政権を確立できれば良かったのです。

 しかし繰り返しますが、清盛は中央志向なので、やはり武士とはいっても中級貴族の出身であり、貴族の発想から逃れることはできなかったのではないでしょうか。

 その清盛の失敗のお陰で、頼朝の鎌倉幕府はうまくいきます。

 人はやはり、歴史の積み重ねの中で、過去の成功例や失敗例から勉強して、そして次なる成功を目指していくのだと思います。

 歴史の勉強が重要な理由はまさにその点にあります。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第47回:頼朝の鎌倉入りを阻んだ者は?

2012-12-03 15:33:13 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第47回「宿命の敗北」では、頼朝(岡田将生)が率いる関東の軍勢と清盛(松山ケンイチ)から派遣された維盛(井之脇海)率いる平家軍が富士川を挟んで対陣し、水鳥が飛び立つ音を敵の攻撃と勘違いした平家軍は自壊し、頼朝軍が勝利を収めました。

 平家軍の総大将・維盛は今は亡き重盛(窪田正孝)の嫡男で、このとき23歳でした。

 さて、富士川の戦いの前に頼朝は鎌倉に入りましたが、ドラマでは下総で上総広常(高杉亘)の二千騎の援軍を得てから、すんなり鎌倉に入っていました。

 しかし関東の地理をご存知の方は、千葉県から鎌倉に行くのに陸地を通っていくとしたら、その間の東京都内(武蔵国)で何も特記すべき事件は起こらなかったのかな?と思うかもしれません。

 実は頼朝は下総から鎌倉にすんなり入れたわけではなかったのです。

 頼朝軍は、治承4年(1180)9月17日に下総国府に到着しました。現在の千葉県市川市です。

 そこから太井川(現在の江戸川)と隅田川を渡れば武蔵国です。

 しかし頼朝軍は渡河することができませんでした。

 それはなぜかというと、川を渡ったすぐ先の江戸には、江戸氏という強豪が盤踞していて、当主重長は平家側に付いていたからです。

 江戸氏は桓武平氏で清盛と同祖であり、桓武平氏の流れの秩父平氏に属しています。

 江戸氏の居館は現在の皇居内のどこかにあったはずですが、今のところそれらしき遺跡は発見されていません。

 『義経記』によると、江戸太郎の名は、「(関東)八箇国の大福長者」として近隣に鳴り響いていました。

 その江戸重長が敵対していたので、頼朝はすぐに武蔵に入れませんでした。

 頼朝は重長の参陣を促しましたが、それに応じないので、江戸氏と同族の豊島清元やその子の葛西清重が頼朝軍に参加していたことから、頼朝は清重に対して、重長を誘いこんで殺せと命じました。

 しかし清重が動いた形跡はありません。

 とうとうしびれを切らした頼朝は10月2日、強引に武蔵に押し入ります。

 おそらく下総国府に到着して2週間も経ったこの時期になって、重長が参陣してきそうな気配があったのでしょう。

 頼朝の読みの通り、清重の説得もあってようやく4日になって重長は頼朝軍に参陣しました。このとき、同族の畠山重忠や河越重頼も参じています。

 それにより頼朝は無事に鎌倉に入ることができました。

 重長が当初参陣を渋ったのは、重長は平家側の武将として三浦義明(菅田俊)を攻め滅ぼす戦いに参加しており、その義明の子義澄が頼朝の陣営にいたからと、武蔵国在庁官人(武蔵国の役人)を指揮する畠山重忠と歩調を合わせる必要があったからだと考えられます。

 ドラマではストーリー上、重要でない事件は省かれますが、頼朝の鎌倉入りの過程で、上記のような江戸氏との駆け引きがあったのです。

 実は中世の全期間(平安末期から戦国時代まで)に渡って東京出身の武将でメジャーな人物はいないのですが、そのなかでも平安末期から鎌倉初期では江戸重長・豊島清元・葛西清重の3人の名前は是非記憶にとどめておいていただきたいです。

 彼らは中世東京の繁栄の礎を築いた武将達です。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第46回:以仁王と源頼政の戦い

2012-11-26 09:38:58 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第46回「頼朝挙兵」では、以仁王(柿澤勇人)や頼政(宇梶剛士)の挙兵に続いて、頼朝(岡田将生)がついに挙兵して、暗闇の中を彷徨っていた清盛(松山ケンイチ)が頼朝挙兵のショックから正気に戻りました。

 以仁王が平家打倒の令旨をばらまいているということが分かったことにより、清盛は治承4年(1180)5月10日に上京し、処置を宗盛(石黒英雄)に指示したあと福原に帰っています。

 15日には、以仁王は皇族の地位を剥奪され、源以光と改名された上で土佐に配流されることに決まりました。そしてその夜、検非違使が以仁逮捕に向かいましたが、以仁はすでに邸宅を脱出しており、園城寺(滋賀県大津市)に向かっていました。

 翌16日には以仁王は園城寺で匿われていることが明らかになります。近江の源氏や興福寺(奈良県奈良市)との連携も噂される始末です。

 乱は畿内地方を大きく揺るがす規模に発展する構えを見せていました。

 平家側は園城寺の攻撃を決定しましたが、ここでまた思わぬ事態が発生します。

 源三位頼政が園城寺側に寝返ったのです。

 頼政はすでに出家しており、平家のお陰で三位に叙せられていたことから、周りの人びとはよもや頼政が謀反を起こすなどとは考えていなかったに違いありません。

 しかし頼政は、源氏の再興をかけて77歳の老骨に鞭打って挙兵したのです。

 以仁王の養母であり、以仁王を庇護していた八条院子(あきこ。佐藤仁美)は、鳥羽法皇(三上博史)と美福門院得子(松雪泰子)の子らのなかの最後の生き残りです。鳥羽は美福門院の子が正統な跡継ぎであると考えていたので、八条院の弟近衛天皇が久寿2年(1155)に崩じた後は、八条院が女帝として立つ案もありました。

 結局八条院は女帝にはならなかったものの、鳥羽と美福門院の持っていた広大な荘園の大半を継承し、それは八条院領と呼ばれます。

 八条院からすると清盛が作りだした、高倉・安徳の王権は、非正統であり、簒奪によって強引に作られた王権に見えたので、正統な後継者である八条院がその猶子である以仁王を皇位につけるという考えも、ある意味では一本筋が通ったものと考えて良いでしょう。

 しかし結果は以仁王の敗北でした。

 以仁王や頼政らは園城寺を脱出して、26日に今度は興福寺に向かいましたが、宇治川で防衛する際に頼政らが自害、以仁王も奈良を目前にして討ち取られました。

 かくして、以仁王の挙兵は短時間で鎮定されましたが、この事件が頼朝挙兵に与えたインパクトは大変強かったと考えてよいと思います。

 それにしても権力を上りつめた先から見える景色は暗闇だけだというのは、あまりにも悲しい話ではないでしょうか。

 なんのためにここまで頑張ってきたのか、なんのために出世したのか、その努力の行きつく先が暗闇というのは、結局欲望というものは際限がなく、欲望を満たすことで幸せにはなれないということを示唆しているものと思われます。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第45回:以仁決起

2012-11-19 06:36:59 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第45回「以仁王の令旨」では、ついに以仁王(柿澤勇人)の令旨が日本国中にばらまかれ、各地の反平家勢力に決起を促しました。

 以仁王は後白河法皇(松田翔太)の第3皇子でしたが、その才知を建春門院滋子(成海璃子)に疎まれ親王宣下もされずに(つまり跡取りと認められる可能性はなし)不遇をかこっていました。

 以仁王は八条院子(あきこ。佐藤仁美)の猶子(養子のようなもの)になっており、以仁王にとって八条院が最大の庇護勢力でありました。

 八条院は鳥羽法皇(三上博史)と美福門院得子(松雪泰子)の間の子で、八条院領という膨大な荘園を保持しており、その経済力は大きなものがありました。

 八条院からすると、自分が近衛天皇(同母弟)の次の正当な後継者であると考えていたと思われ、そうすると次の天皇は自分が猶子としている以仁こそが次期天皇にふさわしいと考えてもおかしくありません。実際、八条院はそう考えていたのでしょう。

 以仁王の決起は、以仁王サイドからすれば、王権の正式な継承者を自負しているので、なんら後ろめたい物はなかったのです。

 以仁王の令旨(命令書)は源行家(頼朝の叔父)によって伊豆に届けられました。

 頼朝の周囲も抜き差しならぬ状況に追い込まれました。

 そして来週、ついに頼朝は行動を起こします。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第44回:平家を刺激し続ける後白河

2012-11-12 06:05:26 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第44回「そこからの眺め」では、父清盛(松山ケンイチ)と、主君後白河法皇(松田翔太)の間を調整していた重盛(窪田正孝)が没しました。

 重盛に先だって、同じ年の治承3年(1179)6月17日には清盛の娘で藤原基実の後家である盛子(八木のぞみ)が没しました。

 基実(村杉蝉之介)は24歳で没しましたが、妻の盛子も享年24歳でした。9歳で嫁いできて、翌々年には夫に先立たれ、それから13年間後家として過ごして夫と同じ年での死去でした。なんて薄幸な人生なのでしょうか。

 基実が没した時も、その膨大な摂関家領をどうするかで問題がおき、結局後家の盛子が見ることになって、それが平家の大事な財源になりました。

 そして今回もその摂関家領の継承の問題が浮上しました。

 平家の力を削ぎたいと考えている後白河や藤原基房(細川茂樹)は摂関家領を後白河に吸収することに成功します。いずれは基房の系統に帰してしまおうという目論みです。

 重盛が没したあとも後白河の平家外しは続きます。空席になっていた権中納言の地位に基実の子ですでに20歳を迎えていた基通ではなく、基房の子で8歳の師家が補任されたのです。後白河とすれば、反平家の筆頭である基房の系統を引き立てたかったのです。

 そしてドラマでも清盛の怒りが頂点に達していたのが、重盛が知行していた越前国を後白河が取り上げたことです。本来なら重盛の子維盛が継ぐべきです。

 知行国というのは、都の公卿が国の知行国主となって、国司を任命して統治させ(国司も目代を現地に派遣して治める)、そこから上がってくる膨大な収入を得ることができるものです。

 平家は一門を挙げて各国の知行国主になることを目指していたので、この後白河の仕打ちには大層腹を立てたことでしょう。

 後白河法皇は、長年忠勤を励んできた重盛の死の直後、石清水八幡宮に御幸して遊覧を行い、まったく嘆きの色を見せなかったといいます。

 いつもドラマを見ていて思うのは、後白河の性格の不可解さです。

 もともと天皇になる予定のない皇子だったので、帝王学は見についていなくて当たり前ですが、それにしてもやることなすことが平家を刺激して、結果的にはいつも悪い方向にいってしまいます。

 そして今回の治承3年のクーデター事件に行くつくわけです。

 それらの所業が、後年頼朝から「日本一の大天狗」と叱責される所以でしょうね。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第43回:期待の皇子誕生

2012-11-05 06:42:01 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第43回「忠と孝のはざまで」では、父清盛(松山ケンイチ)への孝と、主君後白河法皇(松田翔太)への忠との狭間で、重盛(窪田正孝)がまさに進退きわまる状況で苦しみました。

 そのような重盛の苦悩をよそに、清盛は自分の孫にあたる皇子の誕生に喜び入っていました。

 古来から天皇の外祖父(母方の祖父)は、物凄い権力を有しており、清盛はまさにその地位に就くことが目前に見えてきたのです。

 最初、高倉天皇(千葉雄大)の中宮・徳子(二階堂ふみ)にはなかなか懐妊の兆しがありませんでした。

 そのため時子(深田恭子)が日吉社に百日の祈りを行いましたが、一向に験がありません。

 それを見た清盛が「俺に任せろ」と言って、厳島神社に月詣を始めたところ、60日ほどで徳子は懐妊しました。

 そして治承2年(1178)11月12日に生まれた皇子は清盛の要請もあって皇太子に立てられることになります。

 前例では2歳あるいは3歳で立太子した皇子はいずれも即位前に亡くなっていたことから、生まれた年(1歳)で立太子させようという案が出ました。4歳までは清盛も待てなかったからです。

 そこで1歳で立太子したのですが、1歳で立太子したのは、清和・冷泉・鳥羽・近衛についで5人目です。

 皇太子の後見人ともいうべき、東宮傅(とうぐうふ)には左大臣の藤原経宗(有薗芳記)が任じられました。

 藤原兼実(相島一之)は自分が任じられるとばかり思っていたことから、経宗が任じられたことに対して、「面縛の人(前科者)が傅になるのは未曾有のことだ」と不満を日記に記しています。

 さて、皇子誕生のあと、摂津源氏の源頼政(宇梶剛士)が従三位に叙せられました。

 頼政はこのとき75歳。清和源氏が従三位に叙せられることは前例がありませんでした。

 頼政の摂津源氏と頼朝の河内源氏の関係系図は以下のようになります。

清和天皇(あるいは陽成天皇)――○――源経基――満仲―+―頼光――――――+
                           |(摂津源氏)   |
                           |         |
                           +―頼親      |
                           |(大和源氏)   |
                           |         |
                           +―頼信―――+  |
                            (河内源氏)|  |
                                  |  |
 +――――――――――――――――――――――――――――――――+  |
 |                                   |
 |  +――――――――――――――――――――――――――――――――+
 |  |
 |  +―頼国―――頼綱――――仲政――頼政
 |
 |
 |
 +――――頼義―+―義家――――義親――為義―+―義朝―+―義平
         |(八幡太郎)        |    |
         |              +―義賢 +―頼朝
         +―義綱           |    |
         |(賀茂次郎)        +―為朝 +―義経
         |
         +―義光
          (新羅三郎)

 この高齢の頼政はこのまま朽ち果ててしまうのでしょうか。それとも死ぬ前に一華咲かせることができるのでしょうか。それはまた今後放映されると思います。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説番外編:清盛以前:最終回:忠盛の華麗なデビュー

2012-11-02 12:37:32 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 前回の記事はこちら

 正盛(中村敦夫)の嫡男忠盛(中井貴一)は、父正盛が白河院の近臣となっていたことから、出仕したときから白河法皇(伊東四朗)に近いポジションにおり、白河院非蔵人も務めました(永久元年(1113)以前)。非蔵人とは六位になっている者のうちから選んで院御所の昇殿が許され、院蔵人(秘書のような役割)を助ける職です。

 永久元年(1113)10月1日には、正盛と白河の仲を取り持ってくれた祇園女御(松田聖子)が、正盛が建てた六波羅蜜堂(のちの六波羅蜜寺)で一切経を供養しています。

 さて、義親追討完了の年、忠盛は13歳であったので、まだ元服前で合戦には参加していないと考えられますが、それから5年後の天永4年(1113)3月、盗賊夏焼大夫が内裏蘭林坊の御蔵を破り宝物を盗み取るという事件が発生しました。

 最初、検非違使左衛門尉中原明兼が追補に行きましたが取り逃がし、次に登場した同じく検非違使の忠盛が、郎等二人が瀕死の重傷を負ったことと引き換えに、見事夏焼大夫の捕縛に成功しました。そしてこの件により忠盛は一躍従五位下に叙せられ、大夫尉と呼ばれるようになります。

 永久5年(1117)12月13日に17歳の藤原璋子(ふじわらのたまこ。檀れい)が15歳の鳥羽天皇(三上博史)のもとに入内したときには、璋子の政所別当に任じられています。その後は、越前守に任じられ、右馬権頭を兼務していました。

 そして元永元年(1118)正月18日、清盛の誕生となります。忠盛は23歳でした。

艦隊これくしょん

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NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説番外編:清盛以前:第11回:正盛の源義親追討(二)

2012-11-01 10:24:21 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 前回の記事はこちら

 当時は反乱事件が起こると、その周辺の国守が追討に任命されるのが常であったので、それが理由で出雲の隣のさらに隣の因幡の国守の正盛(中村敦夫)が選ばれたように見えますが、正盛が選ばれたのは白河法皇(伊東四朗)が正盛を引き立てようとしたからであると考えられます。

 正盛は嘉承2年(1107)12月19日、摂政藤原忠実(國村隼)から馬を贈られ出陣し、都の義親邸に三度鏑矢を射こんでから颯爽と戦地へ赴いて行きました。正盛と摂関家との関係は父の正衡の代から継続しており、正盛は院に仕えるとともに摂関家にも仕えていたのです。

 出陣した正盛は、私兵を率いるとともに、職権によって出雲周辺の国々(出雲・因幡・伯耆・石見・隠岐)の国衙に仕える武士を招集して戦いました。そして戦いはあっけなく幕切れを迎えます。

 翌年の正月19日には、朝廷に対して正盛から「去る6日に出雲に到着して義親とその従類を討ち取った」との報告が入りました。正盛の武名が上がった瞬間です。

 義親は蜘戸(くもと)の岩屋と称される要害の地に立て籠もって戦いました。蜘戸の岩屋とは『[増補改訂]清盛以前』によると、雲津浦のことで、出雲国衙の北東約20キロの島根半島の先端にある美保関の北側に位置します。義親は、海上交通の要衝を押さえて活動していたことになります。

 さて、天下第一の武勇の士・八幡太郎義家の息子である義親があっけなく討ち死にしたことに対して、世の中の人びとは怪訝に思いました。のちに義親は実は生きていたという噂が流れ、義親と名乗る人物が蠢動する事件が頻発することになります。

 正盛は、帰京を待たずに一等国の但馬守に遷任されました。それまで侍品(六位どまり)のなかでも最下品として世間から蔑まれていた正盛が一等国の国守になったことで貴族たちから妬まれたことも事実です。

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NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説番外編:清盛以前:第10回:正盛の源義親追討(一)

2012-10-31 10:36:03 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
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 正盛(中村敦夫)はここまでは、武勇を発揮するという武士本来の姿としては目立った働きはしていませんでしたが、その正盛に武功を挙げるチャンスが巡ってきました。河内源氏の嫡流・源義親が国家への反逆事件を起こし、それを正盛が追討することになったのです。

 義親は、陸奥北部(岩手県)での前九年合戦(1051~62)や出羽北部(秋田県)での後三年合戦(1083~87)で勇名を轟かせた、八幡太郎義家の次男です。兄義宗の早世により義家の跡を継ぎました。

 その義親が対馬守在任中の康和3年(1101)、官物を横領し人民を殺害したとして、大宰権帥(だざいごんのそち。大宰府の副官)大江匡房に告訴されました。それ対し朝廷は義家の腹心であり、義親の子為義(小日向文世)の乳母夫(めのと。乳母の夫)でもある豊後権守藤原資通を説得・召喚に当たらせました。しかしその資通も翌康和4年、義親と一緒になって官吏を殺害してしまったのです。今度こそ義親は逮捕され(おそらく父のコネで許されることを見越して自首したのでしょう)、隠岐国に配流された(ただし、隠岐に渡らずに出雲国にとどまったともいわれます)。

 この時点では、義家は生きていたので、義親にも父のコネで復帰する道があったのですが、義親にとっては残念なことに嘉承元年(1106)7月頃義家は病没してしまいました。

 義親もおとなしくしていればまだ復帰できたかもしれませんが、短気を起こして翌年に出雲守である藤原家保の目代を殺害してしまいました。しかも近隣諸国には義親に与同する動きもみられます。

 朝廷は義親追討を決め、そこで選ばれたのが因幡守の正盛でした。

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第42回:ぶり返す崇徳上皇の怨念

2012-10-29 14:06:03 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第42回「鹿ヶ谷の陰謀」では、後白河法皇(松田翔太)・西光(加藤虎ノ介)・藤原成親(吉沢悠)らが平家打倒の陰謀をめぐらせましたが、直前に露見しました。

 事が露見したことにより、後白河法皇は大変な目に会うことになりますが、それはまた次回以降放映されると思います。

 さて、ドラマではやりませんでしたが、鹿ヶ谷の陰謀が発覚した安元3年(1177)6月1日より少し前の4月28日、都では樋口富小路辺を出火元にした大火事が発生しました。

 火はおりからの南東の風にあおられ、東は富小路、南は樋口、西は朱雀、北は二条までの180町の広範囲を舐めつくしました。

 京都の町のおよそ3分の1が灰燼と化し、死者は1000人に及んだと言われています。

 貴族たちにとってさらにショックだったことは大内裏も焼け、大極殿以下、八省院が残らず焼失したことです。

 この火事を「太郎焼亡」と呼ぶのですが、世の中の人びとは、この大火事や鹿ヶ谷の陰謀を「保元の乱」の怨霊のせいだと考えました。

 とくに崇徳上皇の怨霊を一番恐れたのは後白河法皇です。

 そこで、当時「讃岐院」と呼ばれていた崇徳上皇(井浦新)に「崇徳院」の諡号(しごう)を贈り、「保元の乱」で命を落とした左大臣藤原頼長(山本耕史)に正一位太政大臣を贈り、そして保元元年閏9月の宣命等を焼却し、ついで8月4日、治承に改元し、22日から26にまでの間には、崇徳の御願寺・成勝寺で崇徳院供養の法華八講を行いました。

 このような崇徳上皇と頼長の怨霊を鎮める行為が行われたにもかかわらず、世の中の人びとは崇徳上皇と頼長の怨霊が鎮まったとは思いませんでした。

 少し後のことになりますが、寿永元年(1182)6月の『吉記』(吉田経房の日記)には、二条(冨浦智嗣)・六条・高倉(千葉雄大)三帝の早世、建春門院滋子(成海璃子)、六条天皇の摂政藤原基実(村杉蝉之介)の死去などは、みな頼長の怨霊の仕業であると記されています。

 そして同3年4月には、崇徳上皇と頼長を「神霊」とする霊社を「保元の乱」の古戦場である春日河原の御所跡に造り、崇徳上皇と頼長の霊を慰めようとしました。この社はのちの粟田宮です。

 果たしてこれで崇徳と頼長の怨霊は本当に鎮められたのでしょうか。

 その後の歴史を見ると、崇徳の怨霊はまだまだ活躍(?)しているので、効き目はあまりなかったようです。

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NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説番外編:清盛以前:第9回:受領とはなにか?

2012-10-25 11:25:05 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
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 さきに国司には四等あると述べましたが、そのなかの最上位である守(親王任国の場合は介)が受領(ずりょう)と呼ばれます。現在で言えば都道府県知事のようなものですが、国司は国内の軍事・警察や宗教にも携わります。

 受領は非常に旨味のある職で、国の住民から税を取ったら、国家に収めた規定分の残りを全て自分のものにすることができました。

 受領を何度か経験すると大変富裕になります。そしてその財力でもって宮殿の造営や宮廷の行事、あるいは寺社の造築などを請け負い、その功によってまた受領にしてもらえるようにしていました(これを成功(じょうごう)といいます)。

 受領の強欲さを表す有名な話として『今昔物語集』には以下の話が載っています。

 藤原陳忠(のぶただ)は、信濃守の任期を終えて帰京する途中、谷底へ乗馬もろとも転落してしまった。郎等が心配していると、谷底から「かごに縄をつけて降ろせ」という声が上がってきたのでその通りにすると、かごにヒラタケが満載され戻ってきた。やがて陣忠自身も這い上がってきたのだが、手にはヒラタケを一杯抱えていた。あきれる郎等たちに向って陳忠は「受領は倒るるところに土をもつかめ、というではないか」と言い放った。

 こういった強欲な受領が多かったのです。

 受領になるのは低い位の貴族であり、公卿になった人の出世のコースとしては、若い時(位が低い時)に受領を何回も歴任して、巨万の富を上げておいて、それから公卿に上るというケースが見受けられます。なお、公卿というのは上級貴族で、太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議といった役職に任じられた者がそう呼ばれ、国政の最高会議である太政官での議政に参加します。公卿は総勢十数名から20名ほどいました。

 受領は遥任(ようにん)といって、本人は現地に赴かず、配下の者(縁者か手下)を現地に向かわせて遠隔統治をしましたが、受領の候補は、五位に昇ったら自分より目上である受領のもとに手伝いに出て、現地の支配を助けて地方統治のスキルを身に付けました。

 正盛(中村敦夫)も最初の受領である隠岐守になる以前は、遥任で在京する受領の要請で現地に下向し、地方統治の実務経験を得ながら来たる受領任命に備え下積み生活を送っていたのです。

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NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説番外編:清盛以前:第8回:正盛が世に出たきっかけはなにか?(二)

2012-10-24 10:55:35 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
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 白河法皇(伊東四朗)がこの件だけで心が完全に癒されたとは到底思えないにしても、正盛(中村敦夫)の行動に白河はきっと感じ入ったことでしょう。ただの所領寄進ではなく、白河の本当に大切な故人の御堂に寄進することは、うがった見方をすると、人の気持ちを見透かした賢い投資です。

 これにより正盛は院近臣の道を歩むことになり、白河に大いに気に入られたことにより、寄進の翌年から康和3年(1101)9月までのどこかの時点であまり旨みのない隠岐守からはるかに実入りの大きい若狭守に遷任され、ついで若狭守を重任(二期つづけて国司を務める)したあと因幡守に転じ、そしてこの先の項で述べる源義親追討に抜擢されることになります。

 なお、それまで正盛は白河に対して何のコネクションも持っていなかったようであり、その正盛がどうして白河に近づけたかというと、それには祇園女御(松田聖子)や院近臣の藤原為房(優秀な実務官僚で大江匡房・藤原伊房と共に「前の三房」と称された)、あるいは同じく院近臣の藤原顕季(白河の乳母の子。すなわち白河とは乳兄弟)とすでに縁があり、その縁を頼って白河に所領の寄進をしたと考えられています。正盛は為房が加賀守だったときに検非違所に補され、また顕季が播磨守だったときに厩別当を務めているのです。

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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第41回:乙前(祇園女御)は100歳

2012-10-22 11:10:41 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第41回「賽の目の行方」では、清盛(松山ケンイチ)の陰謀により、西光(加藤虎ノ介)の二人の息子が流罪になり、後白河法皇(松田翔太)をおびえさせました。

 清盛は後白河の側近の西光を陥れるため、加賀にある比叡山の系列の宇河寺に対して、西光の息子加賀守藤原師高とわざとトラブルを起こさせ、比叡山との強訴に発展させ、強訴の要求を後白河が退けられなかったことにより師高らを流罪にさせたのです。

 この陰謀の手口はよくあるパターンで、ターゲットとなる人物に直接手を出すことが難しい場合は、ターゲットの手足となる人物で隙のある人物に対して攻撃を加え、ターゲットを牽制するという手段です。

 ターゲットがそのことにより、「次は俺にくるかもしれない」と思い、震え上がることも計算済みです。

 それと今回は、乙前(松田聖子)が出てきましたね。

 乙前は憶えているかと思いますが、もと祇園女御で、白河法皇(伊東四朗)の妃でした。

 祇園女御という女性は謎の人物ですが、角田文衞氏は『待賢門院璋子の生涯 椒庭秘抄』のなかで、祇園女御は藤原顕季(白河の乳母の子)の縁者で、三河守源惟清(これきよ)の妻であったらしいと述べています。

 惟清は当初は法皇に目をかけてもらっていましたが、のちに法皇を呪詛した罪で流罪になっています。

 法皇を呪詛したというのは実は冤罪で、法皇が惟清を流罪にした理由は、法皇が惟清と妻との間を引き裂き、惟清妻(祇園女御)を我がものとして、禍根を残さないようにするためであったと推測されます。

 なお、「女御」というのは天皇の後宮における公式な身分の一つで皇后・中宮に次ぐ身分ですが、祇園女御の場合は正式に女御に任命されたわけではありませんでした。

 祇園女御は、だいたい11世紀の末から12世紀の初めころに法皇の妃になったということなので、そうすると今回登場した乙前は、なんと100歳くらいの年齢になります。

 100歳であの若さ。

 若さの秘訣をお伺いしたい。

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