写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う
山形の過去、現在、未来
十二年ぶりの信州訪問(8) 海野宿

美しい連子格子がついている窓だが、暑い夏の夜など部屋に灯りをつければ、部屋の様子は外から丸見えだからプライバシーも覗かれるなんぞと思うと、現代的発想になってしまう。
二階の上の煙抜きの小屋根、和風の街灯柱、街路樹・・・いずれもこの街並みを美しくしている。
海野宿の入口の白鳥神社の巨木がいよいよ近づいた。そろそろお別れ。

白鳥神社の前から海野宿の優美で落ち着いた街並みを振り返って見つめる。さようなら。また訪れたいなあ。

しなの鉄道から降りて軽井沢駅で東京行きの長野新幹線を待つ。軽井沢駅はさすがに高原の駅、海野宿の街路ではまったく見られなかった雪がここではびっしり。だが、これでも山形県内での駅構内ほどの積雪ではない。
十二年ぶりの信州訪問(7) 海野宿
海野宿のことを小生は「日本のローテンブルグ」と呼んだが(過去記事参照)、それでもここには人が住んでおり、「生きている街」である。ガラス貼りの窓や戸はむろん近代以降のものであり、この建物の場合はむしろ戦後にしつらえたもののようだ。それでも建物の構造自体は伝統型だから、これを「近代和風建築」というのであろう。
むろん「人が住む街」であり「生きている街」はよいが、やはりこの上の写真のようにクルマの駐車スペースの確保のために街並みが「抜け歯が多い歯並び」のようになっては景観が低下してしまう。そしてクルマの疾走は「音景観」をも台無しにしてしまう。

間口の広い町屋が多く、往時の繁栄ぶりが偲ばれる。

海野宿の入口としての白鳥神社の巨木が見える。
いよいよ次回が最終回になりそう。
十二年ぶりの信州訪問(6) 海野宿

山形が主題のブログのはずなのに、すっかり長野県、とりわけ海野宿の紹介のような内容のブログになってしまった。
それだけ海野宿は魅力的であり、山形など東北地方には伝統的建造物群の地域が少ないので、少々羨ましく思えているということの裏返しと考えていただいてよい。
ともかくも、もう2回ほどこのシリーズを続けてみたい。

惚れ惚れするほどの美しい街並み。でも疾走するクルマには戸惑う。

この水路がさらに潤い景観を向上させている。

この連子格子の多い町屋の並びの美観にうっとり

ここにも「卯達」が。「卯達」が上がっていない町屋でもちっぽけな建物は少ない。それだけ、この街は栄えたのであろう。

またまた、うっとりさせられてしまった。
十二年ぶりの信州訪問(5) 海野宿

歴史的建造物が見事に連なっている景観により、まさしく「日本のローテンブルグ」といえそうだが、晩冬の雨模様ということもあり、まことに淋しい雰囲気であった。
わずかにアメリカ人観光客を伴った3名の姿だけが視野に入った。

このような建築様式でなければ、土地の人は「うだつが上がらない」人物と陰口されたのかもしれない。つまり、逆にこの建物の建て主は「うだつを上げられた」わけである。
「うだつ」を漢字で記せば「卯達」となり、一階の屋根の両側の袖壁のことで、防火壁の役割を担っていた。それも次第に豪華な意匠を伴うようになり、富者の象徴と化していた。

海野宿には個性的な建物が多く、どれ一つとして同じ様式と外観の建物はない。
左の建物は資料館だが、やはりシーズンオフのためか休館中であった。
右隣にはごく現代的な住宅があり、建物の前には駐車スペースまで設けられていた。景観阻害かどうかは議論が分かれるところであろう。

[左上]幸いにも開店していた蕎麦屋の座敷の格子窓から通りを眺めた[右上]ここにも現代的様相 侍が現れるような景観の中に真っ赤なクルマが疾走 いくらシーズンオフとはいえ徐行が望まれる[左下]伝統の連子格子を壊さずに窓は現代化[右下]ごく平凡な現代住宅と伝統的住宅が“共存” でも、ここでは圧倒的に伝統型が優勢
十二年ぶりの信州訪問(4)

前日の駒ケ根観光は昼過ぎまではまあまあの好天であったが、夕刻近くからは雨天になり、翌朝に駒ケ根を離れる頃も雨天のまま長野県内を北上することになった。
伊那市あたりからはうっすらとした雪模様となり、岡谷・松本で乗り換えて篠ノ井に向かう車窓からの景色は完全に雪景色になっていた。
それは単に北に向かっているだけでなく、標高も高く、山岳地帯を走っているからでもある。
松本は盆地ながら一応は平地なのだが、松本駅を過ぎてしばらくするとかなりの高地に入っていたのである。

あの「姨捨山」の伝承で名高い「姨捨」駅に近づくと絶景が現れる。
千曲川を中心とした平地がパノラマのように見下ろされる。
それほどの高地なのだ。
だから昔々、村びとはこんな高い山地を目指して老いた父母を背負って運んだということになる。まさしく「姨捨」駅は日本で最も眺望に優れた鉄道駅と言えそうだ。
篠ノ井で「しなの鉄道」に乗り換え、上田、小諸を過ぎて間もない「田中」駅で降車し、20分ほど歩く。
ここは「東御市」という山形県人には馴染みが薄い都市名だが、今回の信州旅行の主たる訪問先の「海野宿」がある都市である。

上の写真説明になるが、「左上」海野宿に至る遊歩道の入口「右上」海野宿の入口に鎮座する白鳥神社「左下」白鳥神社境内に立つこの地が木曽義仲が挙兵したことを示す説明板「右下」いよいよここから数百メートルが海野宿

まるで「日本のローテンブルグ」。決して時代劇映画のロケ用セットではない。でも、まだシーズン・オフのためか観光客の姿はまばら。
次回に続く。
十二年ぶりの信州訪問(3)

先に訪れた郷土資料館と名主邸を後にして約十数分の山道(と言ってもクルマも通れる舗装道路)を下ると、やや平地状になり、土産店や蕎麦屋、旅館などが点在している脇にかなり大きな寺院の甍が見えてくる。
土産店の前の駐車場にはひっきりなしに観光バスが出入りし、多くの観光客が乗り降りするのだから、この寺はかなり名高い観光スポットになっているようだ。

その寺の名は「光前寺」。この駒ケ根を訪れようとする前まではこの寺の存在も名前もまったく知らなかったし、長野県にある有名寺院と言えば「善光寺」くらいしか知らないでいたから、観光客や参詣者がかなり多いので驚いた次第である。

訪れる前に駒ケ根市街地のホテルでパンフレットでこの光前寺の写真を見たものの、たぶん訪れる者は自分一人くらいでしかない物寂しい中で熊との遭遇すら覚悟していたほどであるが、参道にはひっきりなしに観光客が行き来していた。写真はできるだけ人影が写らないように撮影するので、観光客・参詣者の姿はさほど多くはないように感じられようが、実際はかなりの数であった。

↑ 本堂前にて 山形の山寺立石寺や高畠町の文殊堂と似た感じの奥深い寺だ。

木立の中にたたずむ三重塔。木立の陰には伝説の犬の墓もある。円内はその犬「早太郎」にちなんだ御神籤を入れた人形ならぬ犬形。あまり愛苦しいので、いい年をして買い求めた。
十二年ぶりの信州訪問(2)
長野県は山国で、都市部さえ高原のような高い標高地にあるから、ましてや山岳リゾート地ならばかなり雪が多いだろうと思っていたら、バスででかけた「駒ケ根高原」においてさえも積雪は少なく、充分に短靴で散策できることがおおかった。
バスを降りれば幾つかの宿泊施設や温泉施設、飲食店、土産物店などが点在している所を遡ると前方に天竜川に注ぐ支流の上流(川の名前は地図を見ても不記載)を跨ぐ橋を渡って川の対岸をしばらく歩くと吊り橋にさしかかる。

この吊り橋を歩きながらの川の上流の眺めは壮観そのものであり、いかにも中央アルプスの山懐に在ることが実感できる。

吊り橋を渡り終えると先のバス停の所に戻り、南に向かって数分歩くと「駒ケ池」が迎えてくれるが、池の大部分は凍結して白いビニールが敷き詰められたようになっていた。

更に10分ほど、やや山道状の道路を曲がりくねって歩くと元の駒ケ根市役所(それ以前は赤穂町役場、さらにそれ以前は赤穂村役場)の旧庁舎の一部を移築した郷土資料館が出迎えてくれた。
大正時代の建造だが、村役場の建物としては日本でも最も大規模で瀟洒な意匠の洋風建造物だったようだ。

この資料館を入館するために管理人の高齢婦人が扉を開けてくれたが、管理人棟(ごく普通の住宅に見えた)の庇の下で猫がうたた寝していたが、捨て猫らしい。それを管理人さんが大切に保護しているようだ。

これは郷土資料館の隣地に移築された豪農宅(名主宅)で、元は駒ケ根市の中心市街地の東南方の天竜川の近くの農村地帯に在った。
ここで「洋」と「和」の代表的な歴史的建造物を見ることができた。
大震災一か月
十二年ぶりの信州訪問(1)

昨年前半のNHK朝ドラマは安曇野が舞台であったから、テレビ画面では信州(長野県、信濃の国)の風景を見ることができたが、最近は実際に信州を訪れる機会があった。
新宿から高速バスに乗り込み、南信(南信濃)の駒ケ根市が最初の訪問地であった。
相模湖あたりから大月市を過ぎるあたりまでは山深い中に集落というよりは市街地のような人家の密集が数多く見られた。
途中、山梨県甲府市の西のサービスエリアで一休み。展望塔からは南に富士山を望むことができた(写真↑)。

そして北西方面には冠雪の峨々たる山並みが見えたので、何という山かと思っていたら、どうやら八ヶ岳連峰であった(↑)。
昔、「高原列車が往く」という歌謡曲が流行ったことがあったが、そのモデルの小海線はここを迂回して長野県佐久地方にたどり着く。

乗馬クラブで有名な小淵沢を過ぎれば長野県に入るが、列車ではないが、この道路も歴然とした高原高速道路だから、高原列車ならぬ高原バスということになる。
長野県に入ると瞬く間に諏訪湖が眼前に入る(↑)。
諏訪湖を後にするといかにも山国長野県らしく道路の両側には屏風のような山並みが押し迫る。
伊那市に入ると確かに平地が東西に広がるが、平地といってもやはり傾斜のきつい平地である。だから伊那市の市街地も南北に短冊のように伸びている。
だから、このあたり一帯は「伊那谷」と言われている。
この伊那谷の中心を南北に流れているのが天竜川である。
そして天竜川を横切って東に向かって伊那谷の隣の小盆地に入れば桜の名所で保科正之公(徳川家光の異母弟)が山形城主になる前の任地だった高遠である。しかし、今回は時間はないので訪れることは見合わせた。
伊那市からはバスは高速道路を下りて一般道路に入る。
終点の駒ケ根バスターミナルに到着したのは予定より10分早い5時10分だったから、新宿からは3時間40分のバス乗車の長旅であったが、山形からはたったの一日行程である。
ちなみにこの駒ケ根は山形生まれの伯母の嫁ぎ先。80年以上も昔のことだから、当時は外国に嫁いだも同じような遠国であったと言える。
翌朝もまあまあの天候。
豪雪の山形県と異なり、山形県以上に山国で都市部も標高が高い長野県は新潟県境近くを除けば今年は意外に雪が少ないようで、駒ケ根市街地の道路もほとんど雪がなく、楽に歩けた。でも、さすがに西に聳える中央アルプスの駒ケ岳連峰は冠雪が朝日に輝いていた(↓駒ケ根駅前より)


昼前にバスでリゾート地の駒ケ根高原を訪れた。
駒ケ岳は上高地のような迫力ある威容を見せてくれた(↑)。
◆次回に続く。乞うご期待!
残された村役場、壊された村役場

先日長野県の駒ケ根高原を訪れた。
もう少し奥に行くとスキー場があり、温泉施設や宿泊施設が点在し、吊り橋の架かる中央アルプスから流れ下る河川からやや離れた山道のそばに突如として大正ロマンの香りが漂うレトロ建築が目の前に現れた。
これは昭和40年頃まで村役場、町役場そして市役所として使われた建物で、その正面部分が駒ケ根市の中心市街地から現在地に移築されたものであり、現在は郷土資料館として使用されている。
大正時代の村役場としてこれほどデザイン的に斬新で美しく、しかも大がかりに建造された例は全国的にも特異であるらしい。

片や、こちらはつい最近壊されてしまった村役場である。
ところがこの「旧黄金村役場」は作家の故藤沢周平氏が旧制夜間中学生時代に昼間働いたことがある建物としても知られていたが、「子どもたちの安全安心」の声に押された鶴岡市役所の手により解体されてしまった。
廃材の一部は近くの神社の資料館の建材として再利用されることになったものの、藤沢氏を偲ぶことができた古き良き時代の村役場の建物
をこの地で見ることはもう不可能になってしまった。
今やこの跡地全体はすぐ近くの保育園の保育士や児童の父母たちのクルマの駐車場と化しているに違いない。
彼女たちの言い分は、子どもたちが今にも倒壊しそうな古い木造建造物の下敷きにでもなりはしないかと心配でならないということであったようだ。
それなら、せいぜい子どもたちを同乗させてのクルマの運転には充分に気をつけなさいと言うしかない。
ところが、解体直前のこの旧村役場を見た友人夫妻によれば、わずかの補強だけで充分に安全は確保できたはずだということである。


