山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

国際ドキュメンタリー映画祭まであと1週間

2011-09-29 21:32:33 | イベント
 映画の都やまがた
 山形国際ドキュメンタリー映画祭2011もあと1週間で開幕となった。
 上のタイトル写真(左が今回のポスター)で見てもわかるとおり、右側は戦前の山形市内の映画館街の様子だが、このとおり大勢の人通りで賑わっている。
 だから、山形は昔から映画が盛んな街であり、昔も今も「映画の都」と申しても過言ではないようだ。
 この映画祭も今年で第12回目となり、22年の歴史を有するが、特に今年は内容が盛りだくさんで、わずか1週間という限られた期間でどの映画を選んで見るべきか取捨選択に困るほどである。
 このように映画の数もきわめて多いが、山形を訪れる人もかなり多くなりそうである。
 むろん文字通り訪れる人たちの顔ぶれもそれこそ国際色豊かで、たぶんこの山形が大震災と原発事故の被災県の隣県であるとは思えない雰囲気にさせてくれるであろう。
 ともかくその1週間、無事かつ盛会であってほしい。

 開催期間 10月6日(木)~13(木) 初日は開会式
 ◇会場 山形市中央公民館、山形市民会館、フォーラム、山形まなび館、
     山形美術館、やまがた芸術学舎
 ◇部門など インターナショナル・コンペティションアジア千波万波
     シマ/島、いまーキューバから・が・に・を 見る
     ニュー・ドックス・ジャパン、公開講座:わたしのテレビジョン青春編
     ヤマガタ映画批評ワークショップ、やまがたと映画、
     回到一圏:日台ドキュメンタリーの12年後
     特別上映作品、YIDFFネットワーク企画上映
     東日本大震災復興支援上映プロジェクト
     おやこ・映画とアニメのワンダーランド
     アート・ドキュメンタリー・プログラム
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今も天国から政官界を監視してるぞ

2011-09-27 21:55:09 | Weblog



 当ブログ主家の往年の最高実力者たる吾輩がこの世とおさらばしたのが丁度昨年の今日、すなわち2010年9月27日のことであった。
 約18年の人生、否、猫生をこの家で過ごしたが、まあ、家庭的雰囲気の中で可愛がられるだけでなく、結構わがままもさせてもらったから、悔いを残すこともなく別離もできたといえる。
 吾輩も結構使用人たるブログ主に感化されて新聞に目を通すことも日常?であった。
 上の写真では新聞の1面に「天下りあっせん結局存続」との見出しがあり、下の写真では「小沢氏秘書を起訴」とある。
 いずれも吾輩がまだ元気な頃のことで、約2年半ほど前の新聞紙面である。
 そして、今日、天国から本日ブログ主宅に配達された新聞の第1面を眺めてみたら、なんと「小沢氏元3秘書有罪」との大見出しがあるのを見てしまった。
 むろん、吾輩は政官界の動向だけでなく、大震災と原発事故の以降のことにも関心を向けないではいられず、天国からブログ主の家族(かつては全員が吾輩の使用人であった)の安寧だけでなく日本と世界の猫族の幸福をも祈り続けている。

※追記 今しがた、ブログ主は帰宅したばかりの家族から「昨年の今日お亡くなりになった元最高実力者様は天国から政官界を監視しているだけでなく、この家の中がきれいに片付いているかどうかも監視しているんだよ」と言われ、はっとしたところである。
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「歴史ある旅館」旧敷地内へ復原すれば

2011-09-23 23:15:20 | 建物

 前回記事を参照していただきたい。

 前回記事のタイトルは「歴史ある旅館・・・」である。
 その山形市中心市街地にかつて在りし元の歴史ある旅館の玄関屋根の部分だけが蔵王国定公園内の古美術館的観光施設に移築されたことを前回記事で紹介した。
 そして、今回はその「歴史ある旅館」があった場所の現在の姿が下の写真である。

 なんとも僅かなりとも「歴史性」を感じさせる景観とは言い難い写真であり、真っ正直に言うなら、まことに殺風景で無骨きわまりない、そして無味乾燥な景観でしかない。
 それでもこの景観に対して敢えて「歴史」を語るなら、真ん中の小さな建物は銀行のATMとして何年間働いていたが、銀行の都合で現在はその業務を停止し、単なる空き箱と変貌したことくらいである。
 そして周囲は駐車施設としての機能がますます強化されているが、だからといってこれが将来「世界遺産」になるようなことは間違ってもありえないであろう。
 さて、その現在は蔵王国定公園内にある玄関の破風屋根の部分はかつて現在の銀行ATM建屋があるあたりに在ったのだから、「里帰り」の姿を空想してみた。 ↓
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歴史ある旅館の玄関屋根がクニサダ公園内で再利用

2011-09-16 08:58:34 | 建物
 中心市街地の今は殺風景きわまりない露天駐車場と化した歴史ある和風旅館(名称はクイズ)の中でもとりわけ破風屋根がついた玄関のたたずまいは印象的であった。
 そしてその玄関部分だけがどこかで再利用されるということが市民の間でかなりの話題になっていた。
 ところが再利用された場所が市街地とは環境が大きく異なる山岳地帯である。
 そこは蔵王国定公園(こくてい、くにさだ公園)内である。
 むろん建物の本体は旧旅館を移築したものではない。 
 河北町の旧紅花豪商宅内の土蔵を移築したものである。
 その破風のある玄関をくぐり抜けて旧土蔵の内部に入れば、それはそれはまことに見事な歴史美術館であり、展示物のすべてををマジメに観賞すれば(できればむろんそうしたいのだが)それこそ丸一日がかりになりそうだ。
 だが、ここではこの旧土蔵だけが展示館ではない。
 民家や天皇ゆかりの建物(近日の過去記事参照)などの数棟の歴史的建造物からなる美術館的観光施設である。 

 それではいよいよクイズに移ろう。

1.今は亡き「歴史ある和風旅館」の名称は?
   ※ヒント 歴史的人物の名がそのまま旅館名となっていた。

2.その美術館的観光施設の名と、その名の由来は?

※ 回答は次回の記事の後部
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本来は平地の豪商民家

2011-09-13 22:01:55 | 建物
 9月も中旬に入りながら真夏日が続いている。
 ところが、8月も下旬入りの22日は一日中の降雨があり、夕刻近くになるほど辺り一面が濃霧に包まれるほどの悪天候になった。
 まあ、ここは地理的には山岳観光地だから、なおさら悪天候がこたえたのであるが、それにしても今年は気候的に「想定外」の逆転現象が目立っている。
 ともかく、この山岳地帯の霧の中に浮かび建つ豪壮な民家は木組みも美しく迫力満点だが、この建物は本来は下界の平地にあったものを、観光施設の一部として現在地に移築したものである。
 でも、これほど豪壮で形体も独特(合掌造り風)な商家が山形市の近郊に在ったとは気づかないでいた。
 ともかく、在郷町にもかなり裕福で豪壮な民家が軒を連ねていたということは、どんな小さな町であってもクルマ社会の到来以前はそれなりの賑わいを見せていた証左でもある。

前回記事の設問回答
・山形市大字漆山(出羽地区) JR奥羽線漆山駅の近く
 ・山形市童子平(蔵王地区、蔵王温泉の手前、北は西蔵王高原)
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明治天皇さまの目も映したガラス窓

2011-09-10 23:17:31 | 建物
 いつしか当ブログはクイズブログに変貌したみたいだ。
 前回の記事もクイズ形式で、今回の記事の後部に前回での設問の回答が掲載されることになっているから、今回の設問の回答はいつのことになるのだろうか。
 まずは、以下の設問を読んでいただきたい。

 むろん、今回の冒頭の写真時代が設問であるが、訪れたことのある人でなければ、まったく何処にある建物の内部なのかわからないであろう。
 もし、この建物がメジャーな観光地の建物ならば、たとえ訪れたことがなくとも旅行ガイド本やテレビの旅番組、あるいワイドショーの中の地方の話題などにも結構登場するから、かなりの人たちもここが何処の建物の内部なのか判断できるのであろう。
 でも、この建物は現在は決して超有名(メジャー)な建物ではないものの、歴史的価値、建築的価値は超一級ものなのである。
 なんで、これほどまでに素晴らしい建物がメジャーにならないでいたのかは山形県と山形市の観光行政及び文化財行政の長年にわたる怠慢と無知・無関心によるものと申しても過言ではない。
 この建物はタイトルにもあるように明治天皇が立ち寄って休憩された建物なのである。
 だが、この建物の現在地は山岳地帯であるが、もともとはずっと下界の平地に在った。
 いわば、平野部の豪農の屋敷内に天皇が山形県内を巡幸されるということで、急遽建造されたものであるが、それだけに建造には建屋はむろん建具に至るまでそれこそ念入りに造られた。
 だからこの写真のガラス窓付きの障子窓も百数十年経った現在もほとんど狂いは見られない。
 ところが、当の豪農屋敷のある周辺はそれ以降は、特に戦後は観光的にはまったく陽が当てられることはなく、文化財としても歴史的価値としてもないがしろにされてきたも同然であった。
 それゆえ、この建物(天皇が休息されたということで行在所と呼ばれてきた)もいつしか荒廃の一途を辿ることになった。
 だが、同じ山形市内の篤志家が山形周辺に残る他の数件の民家などの歴史的建造物を某山岳観光地の一角に集めて「山形版民家園」を開設してくれた。
 こうして現在は我々一般庶民も天皇さまになった気分に浸ることができるようになった。

 さて、この行在所の建物が以前在った所の地名は何という(最寄りのJRの駅名と同じ)のであろうか。
 そして、現在地は何処なのであろうか。
    ⇒ 回答は次回の記事の後部

◆前回の記事内の設問に対する回答
  白洲次郎 1902年生まれ、1985年(昭和60年)死亡 妻は白洲正子
  蔵王スキー場上の台ゲレンデ西北脇の山荘敷地内
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世界遺産級の“名言”がここ山形にあり

2011-09-08 15:31:52 | Weblog
 当ブログ史上、最小、最細長のタイトル写真。
 でも、写真にしては文字ばかりで、どうにもお色気に欠ける。
 色彩らしきものは紫色の帯状の部分だけだ。

 それにしてもこの文字列が示す文面を見て、「ああ、その通りかもしれない。」「私たちもそうすべきかもしれない。」と早速合点を決め込んだご夫妻が増えるのかもしれない。
 ともかく、この“名言”を吐いた人士はいつの時代の何処のどなたなのであろうか?
 そして、この“名言”が刻まれているプレートは山形の何処にあるのだろうか?

 ヒントは下記のとおりである。
1.これが刻まれているプレートが山形の何処かにあるということは、この“名言”の主が山形にゆかりのある人士であるということである。
2.彼は既に歴史上の人物に数えられるようになったが、決してそれほど昔の人間ではない。
3.彼も原子力発電推進の提唱者の一人であったが、彼が仕事の上で時々山形を訪れていた頃は原発建設に直接手を出す環境にはなかった。
4.彼もかなりの有名人であったが、彼の妻もむしろ彼以上の有名人で、しっかりした彼女自身の世界を持つ女性であった。
5.彼については当ブログの8月後半の記事の中に登場する。

 回答は次回以降の記事の中に潜り込ませようと思う。
コメント (1)
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のどかな濁流の光景  4年前のどこか

2011-09-06 21:53:19 | Weblog
 不思議な写真である。
 荒れ狂う濁流とそれを見物しているかのような犬を連れた市民の姿の取り合わせ。
 これは決して合成写真ではない。
 この大暴れの濁流はどうも津波ではなさそうだ。
 だとすればこの度の紀伊半島南部の大水害?
 それにしても住民が平然と犬と同伴で散歩する余裕などないはず。

 なんと、この写真は丁度4年前の山形市内の写真である。
 この日も確か全国的に随所で豪雨があり、山形市街地の東北部を流れる馬見ゲ崎川も濁流で溢れようとしていたが、夕刻近くになると雨足もだいぶ弱まっていた。
 それゆえ「もう安心!」とばかりすぐそばまで近づいて眺める市民も現れ始めていたのであろう。

 災害が少ない山形ではあるが、時にはこんな恐ろしげな光景を目にすることもあるのだ。用心! 用心!
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唐破風がトレードマークの和風観光ホテル

2011-09-02 11:31:27 | 建物

 国の名勝、山寺で開催中の「祈りの芸術際」(あえて「際」の字を使用しているようだ)も今日を含めてあとわずか三日間だけである。
 その中でも常設イベントはこの旧観光ホテルにおける美術展のみである。

[上左]二階大広間で絵画、沖縄織布の展示 [上右]大広間と二階廊下 [下左]窓からは宝珠山と堂宇、巨岩が望める [下右]旧客室で現代絵画の展示

 前回の記事はクイズ方式で、どこの何という名の宿泊施設であるかを尋ねたが、回答はまさしく旧「山寺ホテル」である。
 東北地方でも有数の観光地である山寺にも以前はここの他にも数件の宿泊施設があったが、ここはあたら近くに天童温泉があったり、現代的ホテルが多い山形市街地が控えているために、ここで宿泊しようとする観光客はごく希なために、廃業が相次ぎ、現在ではわずかに1、2軒を残すのみである。
 それでも、この旧山寺ホテルは多くの県外観光客が乗降する山寺駅の真正面に在り、しかも門前町にふさわしい唐破風の玄関屋根の背後には立石寺境内を覆い包んでいる南画に描かれたような宝珠山が望める。
 だから、もし、この建物がやむなく解体されたとしたら、その後の山寺の景観がどうなるのか、かなり気がかりになる。
 例えば、駐車場と化したり、超現代的な建物が新築されるということも考えられる。
 ともかくも、山寺駅から出た直後に望まれる唐破風の旧ホテルを前景とした宝珠山との“初対面”が山寺に対する第一印象をきわめて感動的なものにしてきたことは確かである。
 望むらくは、この景観ができるだけ永続的なものであってほしい。
 たとえこの旧ホテルが宿泊施設として復活しなくとも、存在するだけで充分に山寺の観光にきわめて有益と言える。
 それでもできれば内部の何らかの利活用も考えるべきであろう。
 例えば、今回のような展示施設や二階の窓から宝珠山を眺められる「お休み処」のような活用も可能ではないか。
 むろん、補修工事も不可欠であるが、所有者だけに費用を担わせることは酷であり、地元観光関連業務関係者や行政の支援も必要であることは言うまでもない。
コメント (3)
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