豪雪の中の山形老舗料亭群を訪ね歩く

 
 前回の記事の二つの写真の場所の回答は下記の通りである。

 上の写真については、霞城セントラル・ビルの展望室から眺めた長谷堂城跡と白鷹丘陵方面である。むろん、手前は山形市の市街地西南部である。
 下の写真は山形駅前大通りであり、右手のビルは十字屋デパートである。

 さて、前回の記事の以前は一か月ほど駒ケ根市や海野宿などの長野県の探訪記となったが、その前後の一月から三月にかけて毎月一回ずつ山形市内の老舗料亭を順次探訪した。
 こんなことを申すと、自他共に「貧乏性」を認めるブログ主が珍しくも豪遊を繰り返したと思われそうであるが、いずれの場合も昼食の時間帯であったので、さほど「すっからかん」になったわけではない。
 山形は明治以降料亭文化が花開いた土地柄であり、それゆえ建造物や庭園などに格式の高さが偲ばれる。しかし、この三軒の老舗料亭はいずれも互いに近距離にあり、近い将来に道路の拡幅計画により風雅な建物や樹木を大きく削り取られることが懸念されている。
 そこで貴重な山形の歴史的遺産を愛するグループの仲間たちにより昼食会を兼ねた老舗料亭の見学会を3回に分けて実施した次第である。
 ところがブログ主は3回ともカメラ持参を怠り、解像度の低い携帯電話機による撮影しかできなかった。冒頭の雪景色の写真(千歳館)と下の同じく雪景色の写真(四山楼)がそれである。二月の「のゝ村」での撮影は失敗であった。

 それぞれの料亭の写真と解説についてはグループの下記ホームページによりご覧いただきたい。
http://www.retorokan.org/contents/history20120115.htm
 ↑ 1月15日 千歳館
http://www.retorokan.org/contents/history20120219.htm
 ↑ 2月19日 のゝ村
http://www.retorokan.org/contents/history20120311.htm
 ↑ 3月11日 四山楼
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残された村役場、壊された村役場


 先日長野県の駒ケ根高原を訪れた。
 もう少し奥に行くとスキー場があり、温泉施設や宿泊施設が点在し、吊り橋の架かる中央アルプスから流れ下る河川からやや離れた山道のそばに突如として大正ロマンの香りが漂うレトロ建築が目の前に現れた。
 これは昭和40年頃まで村役場、町役場そして市役所として使われた建物で、その正面部分が駒ケ根市の中心市街地から現在地に移築されたものであり、現在は郷土資料館として使用されている。
 大正時代の村役場としてこれほどデザイン的に斬新で美しく、しかも大がかりに建造された例は全国的にも特異であるらしい。

 片や、こちらはつい最近壊されてしまった村役場である。
 ところがこの「旧黄金村役場」は作家の故藤沢周平氏が旧制夜間中学生時代に昼間働いたことがある建物としても知られていたが、「子どもたちの安全安心」の声に押された鶴岡市役所の手により解体されてしまった。
 廃材の一部は近くの神社の資料館の建材として再利用されることになったものの、藤沢氏を偲ぶことができた古き良き時代の村役場の建物
をこの地で見ることはもう不可能になってしまった。
 今やこの跡地全体はすぐ近くの保育園の保育士や児童の父母たちのクルマの駐車場と化しているに違いない。
 彼女たちの言い分は、子どもたちが今にも倒壊しそうな古い木造建造物の下敷きにでもなりはしないかと心配でならないということであったようだ。
 それなら、せいぜい子どもたちを同乗させてのクルマの運転には充分に気をつけなさいと言うしかない。
 ところが、解体直前のこの旧村役場を見た友人夫妻によれば、わずかの補強だけで充分に安全は確保できたはずだということである。
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ここを「新しい国づくり構想」の拠点に

 今朝の山形市街地は今冬の最低気温だったが、日中は積雪ゼロ。
 夕刻になってようやくわずかな積雪があった。

でも、ここは蔵王。ただし写真は今月の10日だから、さほどの積雪ではなかったものの、サンタクロースがソリすべりするには都合のよい雪景色である。
 それにしても、だいぶ大きな意味の表題を掲げたが、その「心」は如何に?
 また、この蔵王の建物と「国づくり」との関連は如何に?

 ヒントは見出し写真の建物と8月22日の記事の内容だが、むろん、この二つだけでは「心」の奥底までは不可解のままであろう。
    http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20110822
 今後の記事により徐々に除幕していきたい。
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グレゴリオ聖歌が聴こえてくるようだ


 ここは某工場の倉庫内。
 以前は工場そのものの建物であったようで、現在は倉庫となっている。
 たまたまそんな所に入る機会があった。
 ところが、入ってみて、ここが単なる工場や倉庫ではないように思えてならなかった。
 クリスマスが近いせいか、なんだか聖歌が聴こえてくるような雰囲気であった。
 つまり、ここがそのままキリスト教会の大聖堂にもなりうるようなのだ。
 ガラス窓を彩色すれば、ステンドグラスのようになるだろう。
 
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藤沢周平氏は2度死ぬのか?

 鶴岡市の中心部には作家の故藤沢周平氏を記念する施設がある。[※注:この見出し写真の建物ではない]
 むろん藤沢氏の小説の人気は高いが、それ以上に彼の時代小説を題材にした映画により彼の知名度は高くなっているようだ。
 その記念館もその藤沢人気にあやかって近年建設されたわけだが、彼が若い時代に働いていた職場の方は消滅の危機にさらされている。

 彼はむろん現在の鶴岡市の出身だが、出身地自体は中心市街地からだいぶ郊外の村落であり、少年期は農村の環境の中で育った。だから、彼にとっての鶴岡の原風景は鶴岡の中心市街地ではなく、当然庄内平野が見渡せる農村風景であった。
 だが、彼が作家として大成し、帰郷して大きな衝撃を受け、怒りに震えたたことがあったが、それは庄内平野の広大な眺めを遮る高速道路(東北横断山形道)を伴う景観であった。
 そして今度は彼が夜間高校生の時に働いていたことのある旧黄金村役場の建物が解体されるというニュースが飛び込んできた。
 しかも草場の陰の彼をより悲しませるのは、鶴岡市役所に解体を申し入れているのはこの建物の周辺住民、すなわち彼の郷里の人たちだということである。
 つまり、老朽化のために倒壊の恐れがあり、地域住民、とりわけすぐ近くの保育園の幼児たちの安全・安心のためにも1日も早い解体をと迫ったようである。
 それでも鶴岡市役所は藤沢ファンのことを気遣ってか、解体後の建材はしばらく保存して「移築」などを希望する人(たぶん個人では無理であろう)に無償で供与するとという。しかし、移築よりはやはり現在地に在ってこそこの建物の価値があるのだ。
 藤沢人気で街起こしを企図している鶴岡市が一方で藤沢氏ゆかりの建物を解体するという矛盾に複雑な思いをするのはむろん私だけではない。
 立て、万国の藤沢ファン!

[参考記事]当ブログ2010年5月10日の記事より

 昨日宿泊した農家民宿「知憩軒」からほど近い金峯山の麓に昔懐かしい村役場の建物が庄内平野を見渡しているかのようにたたずんでいる。
 ここには4年ほど前にも知人とともに訪れ、空き家同然で地域の人たちにもほとんど使用されているようにも見えず、保存状態も決して良好にも思えないので、来年再び訪れた時には既に壊されているかもしれないなどと心配しながら山形へ戻った記憶がある。
 でも最近、保存活用の動きもあるとかの報道もあり、まだ“健在”であることが確認できたので是非再訪したいと思った次第である。
 この建物は昭和11年に建てられた旧黄金村(現在は鶴岡市)の役場で、昭和17年に近くの集落出身で鶴岡中学(現在の鶴岡南高)の夜間部に通学していた藤沢周平氏が書記補として勤務していたことで少しは知られている。
 鶴岡市との合併後には支所となり、やがて公民館となったが、近くにコミュニティセンターが新設されるに伴い次第に「空き家」化し、もし倒壊でもしたら隣の保育園の児童の安全が脅かされるからすぐにでも解体すへげきだという声が高い時期もあったようだ。
 でも藤沢文学や映画化された藤沢作品のファンにとってはたまらない魅力的な“史跡”であることは疑いなかろう。
 
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[予告] 山寺ホテルで虚無僧姿の尺八演奏

 先日は旧山寺ホテルで琵琶の演奏会があったが、今度は(と言っても明日の3日のことだが)なんと虚無僧姿の方がたによる尺八の演奏が行われる。
 しかも建物の中だけでなく、同所での演奏会の前に山寺駅前から同所まで尺八を演奏しながら(むろん虚無僧姿)で練り歩くということである。
 写真のように山寺駅(写真左)も旧山寺ホテル(写真右)も「和風」が基調で、歴史的名勝の山寺の景観にふさわしい。[※ただし山寺駅の写真は冬季での撮影であり、虚無僧の写真は関連HPの写真の加工によるもの]
 むろん和風の2つの建物の間での虚無僧姿の行進も和風であり、これを見る市民や観光客は時代劇のロケのような気分に浸れることになろう。そしてまさしく「文化の日」にふさわしいイベントであると言える。
 開始は3日13時から14時30分まで、旧山寺ホテルでの鑑賞は無料である。
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「歴史ある旅館」旧敷地内へ復原すれば


 前回記事を参照していただきたい。

 前回記事のタイトルは「歴史ある旅館・・・」である。
 その山形市中心市街地にかつて在りし元の歴史ある旅館の玄関屋根の部分だけが蔵王国定公園内の古美術館的観光施設に移築されたことを前回記事で紹介した。
 そして、今回はその「歴史ある旅館」があった場所の現在の姿が下の写真である。

 なんとも僅かなりとも「歴史性」を感じさせる景観とは言い難い写真であり、真っ正直に言うなら、まことに殺風景で無骨きわまりない、そして無味乾燥な景観でしかない。
 それでもこの景観に対して敢えて「歴史」を語るなら、真ん中の小さな建物は銀行のATMとして何年間働いていたが、銀行の都合で現在はその業務を停止し、単なる空き箱と変貌したことくらいである。
 そして周囲は駐車施設としての機能がますます強化されているが、だからといってこれが将来「世界遺産」になるようなことは間違ってもありえないであろう。
 さて、その現在は蔵王国定公園内にある玄関の破風屋根の部分はかつて現在の銀行ATM建屋があるあたりに在ったのだから、「里帰り」の姿を空想してみた。 ↓
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歴史ある旅館の玄関屋根がクニサダ公園内で再利用

 中心市街地の今は殺風景きわまりない露天駐車場と化した歴史ある和風旅館(名称はクイズ)の中でもとりわけ破風屋根がついた玄関のたたずまいは印象的であった。
 そしてその玄関部分だけがどこかで再利用されるということが市民の間でかなりの話題になっていた。
 ところが再利用された場所が市街地とは環境が大きく異なる山岳地帯である。
 そこは蔵王国定公園(こくてい、くにさだ公園)内である。
 むろん建物の本体は旧旅館を移築したものではない。 
 河北町の旧紅花豪商宅内の土蔵を移築したものである。
 その破風のある玄関をくぐり抜けて旧土蔵の内部に入れば、それはそれはまことに見事な歴史美術館であり、展示物のすべてををマジメに観賞すれば(できればむろんそうしたいのだが)それこそ丸一日がかりになりそうだ。
 だが、ここではこの旧土蔵だけが展示館ではない。
 民家や天皇ゆかりの建物(近日の過去記事参照)などの数棟の歴史的建造物からなる美術館的観光施設である。 

 それではいよいよクイズに移ろう。

1.今は亡き「歴史ある和風旅館」の名称は?
   ※ヒント 歴史的人物の名がそのまま旅館名となっていた。

2.その美術館的観光施設の名と、その名の由来は?

※ 回答は次回の記事の後部
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本来は平地の豪商民家

 9月も中旬に入りながら真夏日が続いている。
 ところが、8月も下旬入りの22日は一日中の降雨があり、夕刻近くになるほど辺り一面が濃霧に包まれるほどの悪天候になった。
 まあ、ここは地理的には山岳観光地だから、なおさら悪天候がこたえたのであるが、それにしても今年は気候的に「想定外」の逆転現象が目立っている。
 ともかく、この山岳地帯の霧の中に浮かび建つ豪壮な民家は木組みも美しく迫力満点だが、この建物は本来は下界の平地にあったものを、観光施設の一部として現在地に移築したものである。
 でも、これほど豪壮で形体も独特(合掌造り風)な商家が山形市の近郊に在ったとは気づかないでいた。
 ともかく、在郷町にもかなり裕福で豪壮な民家が軒を連ねていたということは、どんな小さな町であってもクルマ社会の到来以前はそれなりの賑わいを見せていた証左でもある。

前回記事の設問回答
・山形市大字漆山(出羽地区) JR奥羽線漆山駅の近く
 ・山形市童子平(蔵王地区、蔵王温泉の手前、北は西蔵王高原)
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明治天皇さまの目も映したガラス窓

 いつしか当ブログはクイズブログに変貌したみたいだ。
 前回の記事もクイズ形式で、今回の記事の後部に前回での設問の回答が掲載されることになっているから、今回の設問の回答はいつのことになるのだろうか。
 まずは、以下の設問を読んでいただきたい。

 むろん、今回の冒頭の写真時代が設問であるが、訪れたことのある人でなければ、まったく何処にある建物の内部なのかわからないであろう。
 もし、この建物がメジャーな観光地の建物ならば、たとえ訪れたことがなくとも旅行ガイド本やテレビの旅番組、あるいワイドショーの中の地方の話題などにも結構登場するから、かなりの人たちもここが何処の建物の内部なのか判断できるのであろう。
 でも、この建物は現在は決して超有名(メジャー)な建物ではないものの、歴史的価値、建築的価値は超一級ものなのである。
 なんで、これほどまでに素晴らしい建物がメジャーにならないでいたのかは山形県と山形市の観光行政及び文化財行政の長年にわたる怠慢と無知・無関心によるものと申しても過言ではない。
 この建物はタイトルにもあるように明治天皇が立ち寄って休憩された建物なのである。
 だが、この建物の現在地は山岳地帯であるが、もともとはずっと下界の平地に在った。
 いわば、平野部の豪農の屋敷内に天皇が山形県内を巡幸されるということで、急遽建造されたものであるが、それだけに建造には建屋はむろん建具に至るまでそれこそ念入りに造られた。
 だからこの写真のガラス窓付きの障子窓も百数十年経った現在もほとんど狂いは見られない。
 ところが、当の豪農屋敷のある周辺はそれ以降は、特に戦後は観光的にはまったく陽が当てられることはなく、文化財としても歴史的価値としてもないがしろにされてきたも同然であった。
 それゆえ、この建物(天皇が休息されたということで行在所と呼ばれてきた)もいつしか荒廃の一途を辿ることになった。
 だが、同じ山形市内の篤志家が山形周辺に残る他の数件の民家などの歴史的建造物を某山岳観光地の一角に集めて「山形版民家園」を開設してくれた。
 こうして現在は我々一般庶民も天皇さまになった気分に浸ることができるようになった。

 さて、この行在所の建物が以前在った所の地名は何という(最寄りのJRの駅名と同じ)のであろうか。
 そして、現在地は何処なのであろうか。
    ⇒ 回答は次回の記事の後部

◆前回の記事内の設問に対する回答
  白洲次郎 1902年生まれ、1985年(昭和60年)死亡 妻は白洲正子
  蔵王スキー場上の台ゲレンデ西北脇の山荘敷地内
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