Tonton's Miscellany

基本的に日記です。仕事のこと、家族のこと、本やニュースの感想など、ごちゃごちゃつづります。

やったね!!

2006年02月24日 | 【雑言】
やったね!
荒川静香さんの金メダル!!

朝、ダンナのお弁当作りにまったく集中せずにテレビに耳をそばだてる。起きぬけはコンタクトレンズをしていないから、キッチンからだと、ぼんやりとしか見えない。

最初のうちこそ「トリプル何とか、ダブルかんとか」とかアナウンスが聞こえていたけど、1分、2分と進むうちに、アナウンスも沈黙。「アナウンスするな」という苦情でも入ったのか、それともアナウンサー自身、夢中だったのか。

おーい、少しは解説してくれよ~。

聞こえるのはトゥーランドットの曲と拍手ばかり。そのうちに、演技が終わったらしく、アナウンサーの絶賛の声が聞こえてきた。

次の村主章枝の演技も、ほとんど沈黙で放送され、最後にアナウンサーがポツリと

「最高」

わからんじゃん。

でも、皆さん、待ちに待ったメダルで興奮気味。天下の受信料徴収局の名物アナは、現地のスタジオインタビューで、荒川選手の使った曲「トゥーランドット」のことを、

「トーランドゥットゥ」

と、のたもうていました。こういうのもご愛嬌。

あー、でもよかった。その後の放送で見てたら、荒川選手の演技はダントツ。感動しちゃった。やっぱり、曲がいいね。

プッチーニの『トゥーランドット』っていう歌劇は、中国(だと思われる)国にいた男性恐怖症のお姫が、求婚してくる男にナゾナゾを出しては、答えられないと斬首してたが、そのナゾナゾを解いてしまう男が現れて、メデタシメデタシというヘンチクリンな話(ファンの方、すみません)。

開会式で、かのパヴァロッティ様が歌っていた「誰も寝てはならぬ」というアリアの部分が演技の最後の方で使われていたけど、この曲は「あの姫に絶対勝ってやるぞ!!」という挑戦的な内容で、オリンピックには打ってつけ。

話はヘンチクリンだけど、プッチーニの曲は限りなく美しくて、どこを切っても金太郎飴、じゃなくて、プッチーニ節。泣けるんだなあ。

その曲を、荒川選手はよく表現していたと思う。これまでの日本人の演技では、ジャンプとジャンプのつなぎの動きで曲負けしているという感じを持つことが多かったけど、好きな曲というだけあって、もう、プッチーニのメロディの「あや」が
細かい手や足の動きと一体化していて、独自の世界になっていた。それに呼吸を合わせていたら、思わず涙が出てきてしまいました。


今回のオリンピック、「〇〇が成功すれば」とか、「得意技の××が決まれば」とか、ま~、「たられば」が多かったこと。具体的競技名は出しませんが、素人が見たって、ぜーんぜん世界のレベルに追いついてないよーというような競技の「メダル候補」とやらが結局失敗して、オーバーに悔しがったり、あんまり見てて楽しくなかったけど、さすがにフィギュアみたいにきちんとした強化をしているスポーツは違う。

わたし的に一番楽しかったのは「スノーボードクロス」。タイムではなく4人まとめて走るところからが最高でした。

あと、「カーリング女子」は大ヒットですね。顔を覆い隠してやる競技がほとんどの中、カーリングは「素」の顔を、あれだけ長い時間大写しにしているんだから、認知度もあがる。こう言っちゃ悪いけど、中高年のスポーツ?という風貌の他国の選手団と比べ、ただでさえ年若に見える日本のチームは、欧米受けするんじゃないかと思う。

何はともあれ、とにかくメダルゼロという状況は脱してよかったです。次回からは現実をしっかり見ましょ。>マスコミのかたがた

だからといって許されるわけではないけれど。

2006年02月21日 | 【子どもと育つ】
長浜の園児殺害事件。

最初に強調しておくけれど、
だからといって、絶対に人を殺してはいけない。

ただ、今回事件が起きた園で行われている形のグループ送迎というものが親の心にもたらす負担について考えてしまった。
私もやはり「個人送迎させてほしい」と言うかもしれないと思ったからだ。

私だったら、自分の子と人の子どもを一緒に幼稚園に送迎するなんて、多分できない。また逆に、人の子どもと一緒に自分の子どもを送迎してもらうのも、多分できない。まして自分の子を合わせて3人とか4人の子どもに対して1人の大人なんて責任が重すぎる。

「専任」ならまだマシだ。「他人の子を送迎するためだけ」を目的としているのであれば、自分がやるのも、他人がやるのも、(子どもの人数によるけれども)まだ受け入れられる。もしものときの客観的判断が少しは期待できる。だけど「兼任」は難しすぎる。

もしも途中で何かあって、自分の子か他人の子かという選択を迫られたら…私は自分の子を犠牲にして他人の子を助けられるという確固たる自信はない。しかし、その咄嗟の判断で、預かっていた他人の子にもしものことがあったら、私は一生後悔するに違いない。

また逆に、誰かに送迎してもらっている最中に何かあって、もしも自分の子だけが犠牲になったら、送迎してくれていた相手を責めないように自分の心をコントロールするのは、きっと辛いことに違いない。

さらに、送迎してもらっている最中に何かあって、もしも相手の子が犠牲になって自分の子だけが助かったりしたら、その送迎してくれた相手に対して、一生負い目を感じていくことになるだろう。

人の子を預かるって、そんな簡単じゃない。私が自分の子を預けられるのは本当に信頼できる人と場所だけだ。「預けること」が先ではなく「この人なら大丈夫」「ここなら大丈夫」という「信頼」が先だ。最初の時点で、たとえ全幅の信頼にまでは至り得ない状況で選択しなくてはならないとしても、その人や場所を「信頼」した自分の選択に納得できるかどうか。その人や場所に「預けた」という行為に対して、自分で責任を取れるかどうかが大事だ。それがないところで「預けること」だけが先行するのは危険だ。

今回のグループ送迎に対し、園が「親同士のコミュニケーションにもなる」と言っている点が非常に気になる。「コミュニケーションを作り上げること」よりも「近所であること」が先にある。とてもお役所的なのだ。児童館で、たまたま会ったお母さんたちに「子育てグループ」を作らせようとしているのと同じような「紋切り型」施策を感じるのだ。

親同士って、そんなに簡単に打ち解けられるものではないと思う。うわべのコミュニケーションで精一杯な状況下、相手の子を預かって送迎するなんて、できる人はできるだろうけれども、誰にでもできることじゃない。

物理的に送迎できない人の子どもを周りでサポートするシステムは必要だと思うけど、それができるのは「他人の子」を預かるということの責任の重さを自覚できる人たちであって、その責任感は親なら誰でも持ち合わせているわけじゃないと思う。「親であること」によって、多少なりとも経験的要素が加わって「もしも自分の子だったら」という想像が、少しはリアルに働くようになるということはあるだろうけれども、それが「周りの子どもや地域の子どもに対する責任感」というレベルにまで達するには、ある程度の訓練や学習が必要だと思う。

もしも事件が起きた幼稚園が、形式的なグループだけを作って、「自分の子以外の子どもに対する責任」を親の側に任せっぱなしにし、そこへのフォローを何もしていなかったのだとしたら、それはそれで問題があるのではないか。30年来続いてきた制度だというが、「防犯」への要請が強まっている昨今の通園事情を考えたとき、親個人にかかる責任が大きすぎるだろう。

もう一度強調するけど、
だからといって、絶対に人を殺してはいけない。

今年のバレンタインチョコは娘と。

2006年02月14日 | 【子どもと育つ】
今年もバレンタインデーがやってきた。
チョコ売り場を通りかかると、色とりどりの製菓材料が並んでいて、「作れ、作れ」と誘惑してくる。

しかし。
私はチョコの手作りはやったことがない。
そもそも、ココアはともかく、チョコをお菓子作りに使ったことがない。
手作りって言っても、どうせ溶かして固めるだけでしょ。味が変わるわけじゃない。どうせ、そんなにカッコよくできるわけでもない…と思ったし、アソートでいろいろな味が入っている方が楽しそうで、いつも「選ぶ」方に徹していた。

今年もそのつもりだったのだが、娘はそうはいかなかった。
カラースプレーとか、デコレーション用のペンとか、ああいう小細工ものに目が釘付けになってしまった娘は、肝心のチョコはどうでもよくて、そういうデコレーションものを見つけては「作りたい」「作りたい」と言うようになった。

最初、ぜーんぜん乗り気でなかったけれども、最近は「手作りチョコキット」なるものもあって、トリュフなども、そこそこ作れるらしい。ダンナはホワイトチョコが好きだから、そういうのがあればやってみてもいいかなと思い直した。

ちゃーんとしたチョコを使えば、きっとおいしいに違いないけど、やっぱり初めてだけに勇気がなく、「10分でできるトリュフ」なるものと、チョコ・ブラウニーの製菓キットと、カラースプレーとデコ用のペンと、1個1個入れるアルミケースを買ってきた。

あ、あと、失敗したときのために、一応、マキシム・ド・パリのちゃんとしたチョコも…。

写真は「10分でできるトリュフ」を使って、娘が作ったバレンタインチョコ。パックごと湯煎にして、ニョロニョロと出して、ちょっと冷やして丸めただけ。トリュフとは名ばかりで、つまりは白丸チョコだな。これは。

それに娘がデコペンとスプレーとシュガーパウダーであれこれデコレーション。
「パパだいすき」って読めるかな。これを書けば必殺モノでしょう。

さーて、出来上がり、というところで、箱を買ってないのに気づいた。買いに行こうかなあ、面倒だなあ…とひとしきり迷って、結局折り紙で作ることにしたのが大間違い。チョコは10分でできたけど、箱は1時間もかかってしまった。折り紙合計16枚を使った力作(?)。

チョコ・ブラウニーの方は、作ったらあまりに美味しかったので、そのままおやつになってしまった。

ダンナは愛する娘から「パパ~、はい♪」と渡された手作りチョコを見て、もうメロメロ。1個食べてはニタ~ッ。プラセボ効果のようなものに違いないが、とってもおいしいらしい。

保険で買っておいたマキシム・ド・パリの方は、一応私からということにしておいたのだが、ごくフツーのおやつと同じ扱いを受けて、家族3人で食することになった。ありがたみゼロ。

来年以降も手作りだな。

娘が包んだ餃子

2006年02月13日 | 【子どもと育つ】
餃子はたっぷり食べたい。でも作るまで、なかなか腰が上がらない。

結婚して数回作ったけれども、一人で黙々と餃子を包むのは何となく空しくて、特に娘が生まれてからは生協で売っている冷凍餃子に徹していた。でも、冷凍では、そんなに思い切り食べつくすほどの量はない…というか、娘が餃子好きになってしまったので、足りなくなってしまった。

では、作ろう、と思い立って、生協に餃子の皮が企画される度に買うようになり、大量に餃子を作り始めて早数回目。具を混ぜるところと、餃子を包むところに娘を巻き込んだ。

最初は3個ぐらいを、やっと包んで、それでも「ひだ」が出ていなかった娘。今回はびっくりするほどの上達を見せた。

彼女の「ひだ」の出し方は、まず2つ折にしてくっつけてから、2枚まとめて折り曲げていく方法。私は、1枚にしか「ひだ」を入れないので、ちょっと違うけど、見た目は大して変わらない。

そうやって彼女が作った餃子は何と20個(全部で67個作った)。欲張りな私のように具をパンパンに入れないので、ほどよく皮のもっちり感も残っていて、いい感じ。

餃子好きの夫は大感激。「5歳で餃子を作ってくれるなんて思わなかった」と言いながら、バクバク食べた。

次回は、「ママが野菜とか切ってくれたら、包むのは全部やる!」と宣言してくれた。…実は野菜を切るところまでが面倒なんだけど、ま、いいや。お願いします!

私は、次には皮からの手作りを目論んでいる。


娘に懺悔

2006年02月09日 | 【子どもと育つ】
娘の足の小指を、椅子の足で踏んづけてしまった。
「ヒーーーーッ」と声も出ない様子。
なんだろな?と思ったら、私が座っている椅子の下に、彼女の小さい小さい指が挟まってるではありませんか!!!!
ヒャーーーーッ。ど、ど、どうしよー。

すぐに冷やして様子を見るが、痛みは治まりそうになく、先週の腹痛に引き続いての夜間救急探し。先週かかったN大光が丘病院に電話したが、整形外科の先生が当直していないということで、東京消防庁に問い合わせる。すると、意外にも、一番近所の病院に整形外科医が当直しているという情報。ラッキー。3分で着く。

インフルエンザを警戒してマスク装備で行ったが、患者は娘一人。すぐにレントゲンを撮って診察。
よーく見ると「ヒビかな?」というようなスジがあるが、医者も判断がつかないらしい。固定するかどうか迷っているので、とにかく痛いのはかわいそうだから、今日のところは固定していただくようお願いし、包帯でぐるぐる巻きの足になってしまった。

来週末は保育園の発表会。
この日のために、彼女は毎日一生懸命練習してきて、昨日、この件が起きる直前には「声を遠くに飛ばす練習」「お腹から声を出す練習」を一緒にやっていたのに。

出られるかなあ。
出られるかなあ。
当日には間に合っても練習に参加できないかなあ。

劇の中では「花いちもんめ」をやるんだよね。
歩けるのかなあ。

あ、そうそう、舞もやるんだ。細かい動きは大丈夫なんだろうか。
正座してお辞儀なんて、できるかなあ。

痛いよね。
痛いよね。
ごめんね。ごめんね。

我が子の生まれて初めての大怪我を、よりによって、母たる私がさせてしまうなんて、も~、自己嫌悪。

わらべうたサークル@保育園(2月)

2006年02月08日 | 【わらべうた】
始まる前に来年度の打ち合わせ。
何だかいろいろ新しいお仕事を頼まれて、まだ頭の中の整理がつきません状態。

でも嬉しいな。
こんなに理解してくれていたんだ。

「わらべうた、やりませんか」と言い出すのは、ちょっと勇気がいることだった。
言葉を並べて説得するのではなく、自分の歌で理解してもらおうとやってきて、2年半がたった。

今年度に入ってからは、保育士さんたちの姿勢も積極的になってきて、声も変わってきた。少し手応えらしきものが感じられるようになってはいたが、それが期待以上にいい形で発展しようとしている。

プランを出してきた園長さんにも頭が下がる。
「音楽というものをあまりに軽く考えている保育士が多いんです。何とかしたいんです」
娘がお世話になっていたころは、キャピキャピギャルのような保育士だったけど、その人が園長になって、これだけ成長してきた。若い力というのはすごい。

とにかく彼女たちが育てている子どもたちのために、
できる限りのことをやっていこうと思う。
私も一層勉強しなくては。

エレイン・モーガン著『子宮の中のエイリアン』(どうぶつ社、1998、望月弘子訳)

2006年02月07日 | 【書庫】
久々に面白い本を読めた。原作は'The Descent of Child: Human Evolution from a New Perspective'(1994). 筆者のモーガン氏はイギリス生まれ、読み終わってから知ったのだが生物学や考古学の学者ではなく、大学では英文学を修めたということだ。だからこそ、広範の知を駆使して、生物の進化を現代社会の家族関係にまでつなげられたのかもしれない。

直立姿勢、大きく重い脳など、生物の進化上で「人間」を特徴付け、それゆえに人間が独自の文化を発展させることができたと思われているものは、実は大きな代償と引き換えに手に入れられたもので、しかもその代償は「母子ダイアッド(二個群)」だけが多くを支払ってきていた。その後母親と子どもの利益が対立して種の存続が危ぶまれるようになり「赤ん坊を未熟なまま産み落とす」という形での妥協が行われた。
新しい世代を産み育てるのに邪魔になるような身体構造や行動パターンは、自然選択によって排除される、という進化の仕組みがうまく機能するには「交尾すれば必ず子どもが生まれる」という条件と「環境に最も適応した個体だけが生き残る」という条件が守られていることが必要である。しかし人間は環境を操作し、生殖をコントロールすることによって、これら自然選択の働きを壊してしまった。
母子の利益対立は、父母と子どもから成る「核家族」という単位の成立によって先鋭化されない状態が続き、子どもの利益をはかってきたが、現代、この「核家族」すら崩壊の危機にある。では、どうなっていくのか。

幼児虐待、「子どもが子どもを産んだ」など、「親」の問題がクローズアップされる現代。生物学的に考えれば、本来、子どもを育てる能力がない親の子は生き残れなかった。そうやって子どもを育てる能力がない親の遺伝子は自然選択から排除されていた。しかし現代の人間社会は違う。どんな親のもとに生まれた子も生きる権利があり、子孫を残す権利がある。ではそういう子どもたちを、社会はどうやって育てていくべきなのか。

「最初の1年」が大切だと著者は言う。折りしも日本では「幼保一元化」の第一歩が踏み出されようとしている。本当に慈しみが必要な人生最初の1年に、行政はどこまで踏み込めるのだろうか。

そんないろんなことを考えさせられる本であった。

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目次

1.セックスはほんとうに必要か?
2.卵子と精子
3.何人産むのが適当か?
4.反乱
5.ゆっくりとゆっくりと
6.ごく初期のこと
7.四ヵ月まで
8.裸のサル
9.性器と乳房
10.最初のトラブル
11.妥協案
12.絶対に必要な準備のこと
13.生命力にあふれたチビ
14.望まれる子と…
15.望まれない子どもたち
16.生きのびる知恵
17.奪う愛と与える愛
18.それぞれの時代の育て方
19.身ぶりや手ぶりの意味すること
20.なぜ「なぜ?」を繰り返すのか?
21.自分の足で歩くとき
22.遊び仲間
23.過去を読む
24.家族の関係
25.新時代の子どもたち

伊福部 達 『福祉工学の挑戦~身体機能を支援する科学とビジネス』(中公新書、2004)

2006年02月07日 | 【書庫】
「伊福部」という苗字を聞くと、私などはどうしても作曲家の伊福部昭を思い出してしまう。…と思っていたら、なんと、著者は昭氏の甥であるということを本書を読んで知った。そうだったのかー。

そう聞くと、いきなり親近感が増してしまったりして。

音声認識について知りたくて手に取った本であるが、中身は全般的に面白く、難しい話はすべて素人向けにかみくだいてあった。

特に、「福祉工学」という、オーソドックスな工学からは若干外れた位置におかれた学問に携わる著者の迷いや試行錯誤の跡が語られていて、既存の学問体系の「境界」にある学問が抱えるジレンマが伝わってきた。
と同時に、手探りの中で行われた福祉工学研究から、ヒューマン・インターフェースやバーチャル・リアリティ、ロボティクスにつながっていく過程の記述は、素人が読んでもワクワクする話だった。

そしてあと書きに記された著者の「思い」に共感した。

単にニーズを追い求めるばかりではなく、需要は少ないが特色のある産業が生き残れるような制度を作ることも重要であることを付け加えたい。その特色ある技術を多く持っていると、いま流行っている技術のニーズが少なくなったときに出番がくる可能性がある。とくに、従来技術の延長だけでは産業の先行きが不透明になっていることを考えると、近い将来、今までにないところに基盤を置いた技術が求められるであろう。多様で一見して無駄とも思われるような技術を蓄積していることが、時代の流れがかわったときに、その流れに適応しやすくする道の一つである。

今、「ユニバーサルデザイン」が大流行りで、企業はこれをビジネスチャンスととらえている。しかし、利益追求を至上とする企業論理の枠組み内の「ユニバーサルデザイン」だけでは障害者の個々のニーズには対応しきれないという話をよく聞く。

情報保障もそうだ。大きな会場で字幕として出される情報保障は、ユニバーサルデザインの最たる例だろうと思う。しかし、それが一人一人のニーズに合致しているとは必ずしもいえない。本書を読みながら、ユニバーサルデザインとしての情報保障を一方では目指しつつも、もう一方では、個々のニーズを掬い上げるための方策も大切だと改めて感じた。

本書の内容は以下の通り。

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目次

はじめに

【第1章】福祉工学の誕生


人間機械論/生体工学の黎明期/医療工学と福祉工学/福祉工学の芽生え/いくつかの落とし穴/研究者としての迷いと決心
コラム① ひとりごと

【第2章】サイエンスへの道

〔第1節〕 「指で聴く」研究で学んだこと
ベケシーの聴覚理論/「指で聴く」装置/視覚・聴覚・触覚の比較/言葉の理解と感覚の連合/情報バリアフリーにおけるサイエンスの捉え方

〔第2節〕「音声タイプライタ」から学んだこと
音声と文字と言語/言葉を理解する中枢/音声情報の視覚提示/音声認識技術のアプローチ/印刷用音声ワープロ/ベンチャー企業が生まれるまで/音声認識の夢のまた夢/ローテクとハイテク

【第3章】等身大の科学から生まれるもの

〔第1節〕九官鳥音声の謎解きから人工喉頭へ
九官鳥の物まね声の謎解き/種々の代用発声法/抑揚の出せる人工喉頭/インコと腹話術/腹話術発声の秘密
コラム② ドナルドダックの声

〔第2節〕コウモリから「気配」の謎解きへ
コウモリのこだま定位/従来の超音波メガネ/コウモリ型超音波メガネ/障害物近くにおけるこだま定位音の方向感と拡がり/カラーレーションという「音色」/音のバーチャル・リアリティへ

【第4章】電気で伝える人工の耳と目

〔第1節〕人工の耳の夢と現実

聴覚の機能的電気刺激/人工内耳の方法/基礎的な準備/スタンフォード大学へ/人工内耳プロジェクト/プロジェクトでの役割/プロジェクトの消滅/帰国してから/新しい認知心理学
コラム③ 人工の耳

〔第2節〕人工の目の挑戦者たちへ

再び機能的電気刺激/人工のめの原理/人工網膜/人工視覚/人工の目が抱えている問題/それでも挑戦

【第5章】多様はヒューマン・インターフェース

〔第1節〕技術の組み合わせの妙

いろいろなバリア/話速変換型補聴器/スクリーンリーダとタクタイルエイド/触覚ジョグダイアル/複数の感覚チャンネルへの情報の与え方/組み合わせの妙
コラム④「ビウスツキ蝋管」余話

〔第2節〕人間と機械の共同作業

再び音声認識技術/障害者国際会議札幌大会/音声同時字幕システム/ビジネスへ向けて/コミュニケーション欲

【第6章】ビジネスの創出へ向けて

〔第1節〕バーチャル・リアリティ

障害物知覚からバーチャル・リアリティへ/VR刺激の人体影響/MR分室と生体計測/人体影響を自律神経系から探る/人体影響を視機能から探る/VR酔い/VR文化フォーラム/VRの双方向性と福祉応用

〔第2節〕ロボティクス

地下組織「山の会」/アシモ型とアイボ型/ウェルフェア・テクノハウス構想/地域性という特色/生活機能補完型ロボットへの期待

【第7章】安全・安心と経済的繁栄の両立

東京大学先端科学技術研究センターの取り組み/生体機能補完型から生活機能補完型へ/三つの研究フェーズ/支援産業の緊急性/先端研プロジェクトから生まれるもの

おわりに


ルビ振りが実用的になった!

2006年02月05日 | 【情報保障】
パソコン要約筆記で私が使っているソフトはIPtalk(アイピートーク)という。
開発者の絶え間ない研究のおかげで、頻繁にいろいろな機能が追加されているが、今回は待ち望んでいた機能…ルビをつけ、行の分割を行ったときに、「、」「。」を禁則にできる、というもの。これを待っていた。
今日、さっそくその実験を、某所の練習会でやってみた。

詳しい話は思い切り省くとして、小学生、特に学年がばらばらの小学生への情報保障を行うとき、漢字のレベルは毎回大きな悩みになる。
これまでもIPtalkにはルビ振り機能があったが、いろいろ弊害があったり、操作が煩雑だったりして、使うには、ちょいとした勇気が必要だった。
そこで、漢字のレベルをある学年に統一したり、漢字の後ろに( )でつけたりと、いろいろ試行錯誤をしていたが、当然、漢字の上にルビが付くのが、一番読みやすいことは容易に想像できる。

私たちが出す文字情報を子どもは「読めている」か?…それが常に私は気がかりだ。読むのが嫌になるような読みにくい表示は出したくない。そのためにもルビ振りは是非取り入れたい機能だ。

しかし、これまでのルビ振り機能の弊害として、私が一番気になっていたのは、「、」「。」などの禁則処理がきかなくなってしまうことだった。
昨年、いわば実験的に使ってみたとき、リアルタイム入力中に次のような画面が出てしまった。

 --------文-------
 。
 --------文-------
 。
 --------文-------
 。

画面は6行表示。つまり、1行の文が出ては、次の行の頭に「。」
改行して1行文が出て、次の行の頭に「。」
同様にもう1行。それで画面が埋まった。
たまたま1行の文字数ぴったりの文が3つ続いたわけであるが、同時性を重視するリアルタイムの場面で、いちいち文字数を数えて打ってはいられない。こういう偶然もあるのだ。
さすがに恥ずかしくて、さっさと画面をスクロールしてしまいたいのに、次の話が始まらない。この間の数秒は非常に居心地が悪かった。

禁則処理が効くようになれば、上の表示は

 --------文-------。
 --------文-------。
 --------文-------。

こうなるはず。

今回のバージョンアップでは括弧の禁則処理まではカバーされていないが、「。」が行頭に並ばなくなっただけでも大きな前進だと思う。
ルビのつけ方も比較的簡単になったし、小学生への情報保障にはかなり使いやすくなったと思う。

「子どもには絶対にルビをつけてほしい」

と、ある成人利用者に言われた。
足踏みする要因は、ほとんどなくなった。今年は積極的に使えるだろう。
開発者に感謝したい。