代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

中国の集団所有制度の利点について

2007年06月18日 | 自分の研究のことなど
 私の最近の研究を紹介させていただきます。興味のない方スキップして下さい。近頃、私も編著者の一人である、『Decentralisation and State-Sponsered Community Forestry in Asia』というワーキングペーパーが出ました。ウェブ上で公開しており、ここから全文ダウンロードできます。
 この本の内容は多岐にわたるのですが、私たちが力をこめて書いた論点を一つ紹介させていただきます。それは「中国の森林の集団所有制を評価する必要がある」という論点です。
 私たちが比較検討したのは、インド、ネパール、カンボジア、フィリピン、タイ、ベトナム、中国の七カ国です。この七カ国の地方分権政策と、地域の森林の管理に地域住民がどれだけ参加可能かというコミュニティ・フォレストリーの実施状況を比較検討したのが、この本の内容です。
 私たちは本のExecutive Summaryで次のように書きました(本のページ)。(英語が苦手な方は読み飛ばしてください。後で要約します)

(8)
Fundamental differences exist in the approaches taken by the non-socialist and socialist countries to encouradge local participation in forest management. The non-socialist countries have generally established nationwide community forestry programmes supported by regulatory frameworks and accompanying guidelines. Paradoxically, the socialist countries, which were formerly associated with centrally planned economies, may have devised a wider variety of social arrangements for local people to participate in forestry. Viet Nam and China support forest management not only by communal bodies, but also by individual households. The seemingly more flexible approach adopted by China and Viet Nam to promote participation in forest management could provide instruction to other countries.

(9)
Commonly, community forestry programmes are characterised by co-management involving the forest department and local communities, renewable long-term lease agreements that define management and use rights, and some form of benefit sharing between the state and communities. It is rare for the state to transfer land ownership to communities and property rights are usually restricted to the ownership of trees and forest products. China, where collectives own over half of the nation's forest land, is an exception.

 検討した七カ国の中で、中国を除く六カ国において森林資源は国家所有と法的に規定されています。中国のみは全森林面積の中で国有林は4割ほどであり、残りの6割は村が集団的に所有権を持つ集団所有林となっています。森林資源に関しては非社会主義国の方でむしろ国家の権限が強く、社会主義の中国の方が法的には地域住民の権限が強いという皮肉な結果になっています。

 アジアの非社会主義国の森林国家所有というのは、一見すると社会主義のようですが、じつは資本主義的な資源収奪を実行する上で非常に好都合なシステムでした。つまり、大資本が外部不経済を考慮しないまま森林資源を収奪するために非常に都合のよいシステムでもありました。東南アジア諸国では、国家が、非常に安価に伐採権を企業に売り渡し、企業は森林経営の持続可能性を考慮せずに切りたいだけ切って、伐採跡地を国家の手に返還すればよかったのです。
 
 近年、アジアの非社会主義国においても地方分権とコミュニティ・フォレストリーが始まりましたが、これらの諸国は基本的に森林の国家所有体制を維持し、国家が統一的な基準のガイドラインを設定し、それに基づいて住民組織を外部から組織化し、森林管理を担わせています。私たちは、これは本当のコミュニティ・フォレストリーではないと結論しました。というのも、森林管理のルールは各地域の自然や文化や市場の条件、さらに人口密度など多くの条件に規定されつつ、下から自己組織的に創出されるべきものであり、国家が一律にガイドラインを定めるような性質のものではないからです。

 逆説的にも社会主義国の中国とベトナムの方が、住民が柔軟に森林管理の方法を選択することが可能であると判断されます。中国では、村落周辺の林野は通常は村が集団的な所有権を持っています。これは日本の「入会林」に近い形態のものです。
 森林をどう管理するかは、村が独自のルールを決めて実行することになっています。村の判断で、集団的に管理してもよいし、請負経営権を各世帯に割り振って世帯管理に移行させてもよい、森林を企業に貸し出して経営を委託してもよいし、基本的に村が自主判断できます。各地域の固有の条件に規定されて、それに合致した管理システムを自律的に創出しやすいのです。

 日本でも最近、資源を集団的に管理するという「コモンズ」に関心を持つ人々が増えていますが、その文脈で中国の集団所有制に関心を持つ人はあまりいません。中国のシステムは、コモンズ論の観点からも注目される必要があると思います。

中国の戸籍差別と失地農民について
 
 ここまで書いたついでに、紹介した本の内容ではありませんが、中国の農村問題にもう一言。農村の戸籍問題と失地農民の問題についてです。
 中国では、森林のみならず、農村では農地も集団所有です。1978年の農地請負制の開始以来、農地は世帯ごとに分割され、世帯経営が行われていますが、集団所有地であることに変わりはありません。村が集団所有権を持ちながら、経営は個別に行われているという、世界的にも非常にユニークな土地制度です。私は、この制度のメリットを評価する必要があると思います。

 最近の中国では、農村と都市の戸籍差別が大きな問題になっています。戸籍差別が悪いというのはそのとおりです。しかし戸籍制度を撤廃せよという一見すると「正義」に見える主張に安易に乗っかると非常に多くの問題を生み出すでしょう。失地農民が激増し、中国も、例えばフィリピンのように都市スラムが膨張する国になると予想されるのです。

 中国では、農村と都市で戸籍がなぜ違うのでしょうか。中国では都市部の土地は国家所有であり、農村部の土地は集団所有です。農村に住み農村戸籍を持つ者は、所属する村の集団所有地の中から、請負農地を受け取る権利を持ちます。つまり農村の土地集団所有制が維持される限り、原理的には「失地農民」というものは発生し得ないのです。
 中国の農民は一度、都市へ出て工場労働者になっても、また村へ帰れば再び請負農地を分配される権利を持ちます。これが農村戸籍を所持する者の社会的なセーフティ・ネットなのです。
 中国のシステムであれば、他の発展途上国のように土地を失った農民が大量に都市に滞留してスラムが膨張するということはあり得ないはずなのです。

 では、今、大きな社会問題になっている「失地農民」はどのようにして発生しているのでしょうか? 中国では都市圏の膨張に伴い、昨日まで「農村」であった村々が「都市」に転換されています。この際、農民の戸籍も、「農村戸籍」から「都市戸籍」へと転換されるのです。しかしここに落とし穴があります。都市と定義された土地は、もはや村の集団所有地ではなく、農民は請負農地の分配を受ける権利も失うのです。こうして、農民は土地を失い、失地農民になっていきます。

 「都市と農村の戸籍差別を撤廃せよ」という主張の正義に隠された危険性がお分かりでしょうか? そう主張する勢力は、農村の集団所有制を解体し、農民から土地使用権を奪った上で、企業農園を拡張し、農村の労働力を大量に都市に流入させて低賃金労働力を確保しようという市場原理主義的な考えに基づいていると思われるのです。
 
 中国の請負経営権は、完全な所有権ではないと米国人などはよく批判しますが、土地に完全な所有権を与えることの弊害は日本人がよく経験しているとおりです。つまり土地転がしによるバブルの発生、公共的なオープン・スペースが創出しにくくなる点、公共事業が割高になる点などの諸弊害です。
ジャンル:
海外
キーワード
社会主義国 フォレスト フィリピン 市場原理主義 発展途上国 外部不経済 持続可能性 セーフティ・ネット
コメント (8) |  トラックバック (0) |  この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加 mixiチェック
« 松岡大臣のご冥福をお祈りします | トップ | 地球温暖化とアジアの森林 »
最近の画像もっと見る

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
コモンズ (みーぽん)
2007-06-27 00:38:14
関さん、たいへん興味深く読ませていただきました。国有地であれば無責任体制になりやすく、村による集団所有はコモンズ的にも評価されるべき、なるほどと思いました。

私も中国の都市と地方の戸籍の問題は単純に「アンフェアだ」と思っており、農村戸籍がセーフティーネットだとは知りませんでした。中国の市場原理主義の振り子はどこら辺で戻ってくるのか(それとも行ったきりになってしまうのか?)興味がもたれます。


みーぽん様 (関)
2007-06-28 14:48:57
 こんな記事にわざわざコメント下さってありがとうございます。
 農村戸籍と都市戸籍のアンフェアな点は、農村戸籍所持者が都市で生活している際に都市において教育や福祉、医療の基本的サービスを受けられない点があります。農村住民が、都市に在住している最中は、都市住民並みの行政サービスを受けられるよう改革していくことが大事だと思います。
 その上で、農地の請負経営権というセーフティ・ネットを享受する権利は守らねばならないと思います。
 
 「万物に私的所有権を与え、商品化する」ことが、近代だというアメリカ的バイアスの持ち主から見て、とかく中国のシステムは何でも「遅れたもの」に見えるのでしょうが、「国家所有」でもなく「私的所有」でもない、「集団所有」というシステムは、ポスト近代社会を考える上で、すごく参考にすべきものだと思います。

 あ、それからみーぽんさんのブログ、ブックマーックさせていただきました。迷惑でなければよろしくお願いいたします。
Unknown (鈴木康夫)
2007-06-30 23:54:19
 関さま、ご無沙汰しております。今後のご活躍、武勇伝を期待しております。

 もともと、国家成立以前は、集団原理オンリーだと思います。つまり、国家も個人もなく、ましてや、自分達が生かされている環境に対して、所有するという概念すらなかったはずです。日本は、市場社会に邁進してきましたが、一方で、元々の集団原理を多方面にわたって残す輻輳した状況にあると思います。まさに国家次元にまで統合しなければならない圧力構造こそ変えていかなければならない問題ですね。
Unknown (デルタ)
2007-07-03 23:51:56
社会集団を介して人を土地にくくりつける、ということとが、その社会集団が土地を集団所有する理論的根拠になる、という点、私にはどうも釈然としないのですが、
実態として、セイフティーネットになっていること、はじめて知りました、ありがとうございます。

中国のシステムでの唯一の怖さは、自然災害や偏った状態へ「村民経済」が走った場合などへの「保険」……全滅を避けるシステムがどうもなさそう、という点でしょうか。
近江・湖南地方の江戸時代の森林所有もよく似たシステムだったはずですが、
麓で、商品作物が特になかったため、和ロウソクをつくるようになり、入会林で灌木を採取しすぎて、丸裸にまでなった……というイキサツを思い出すのです。

別項に、私の頭に浮かぶ次善の案をもう書いてしまいましたので、繰り返しませんけど(苦笑)

(追記)
うぅぅ……。
>「万物に私的所有権を与え、商品化する」
これ、キツスギマスって(苦笑)。
私有は認めても、別に商品化することを強いるシステムではありません。売りたくないものは売らなくていいのですから(その判断が、所有者にしかできないシステムだからこそ、「私的」所有権……)。
全ての私有物が商品化してしまう理由は、むしろ、買わねばならないもの(市場を通して調達しなければならないもの)が増えた、逆にいえば個人が「専門化した生産者」になったこと、もしくは、純粋な「消費者」が増えたことにおおもとがあります。
鈴木康夫さま (関)
2007-07-06 22:01:30
 ご無沙汰しております。

>国家成立以前は、集団原理オンリーだと思います。

 これに関しては、一口に原始社会と言っても、狩猟採取文明、牧畜文明、稲作農耕文明、根菜農耕文明などで社会の中の人間関係は多様な形態が存在するので、いちがいにはいえないとは思います・・・。

 また資源の管理を集団的に行うようになったのは、資源の希少化によって管理する必要性が高まってからのようです(国家成立以前は、資源量が豊富だったので集団的に管理する必要性は低かった)。たとえば日本の集団的森林管理のシステムが成立したのは、資源危機が発生した江戸時代に入ってからのようです。(場所にもよりますが・・・・)
 
デルタ様 (関)
2007-07-06 22:19:10
>社会集団を介して人を土地にくくりつける、という
>こととが、その社会集団が土地を集団所有する理論
>的根拠になる、という点、私にはどうも釈然としな
>いのですが、

 もちろん人の移動は自由に行われるべきだと思います。都市住民になりたい農家が都市住民になる自由はあるべきです。
 しかし、都市雇用はとかく不安定で、いつ仕事がなくなるかもわかりませんし、経済危機で大失業が発生するかもわかりません。農地の集団所有制は、都市で失業した元農家が再び村に帰ってきたとき、農地を配分される権利を保障するものなのです。
 日本なんか、都市のサラリーマンが定年退職後に農業やりたいと思っても、簡単に農地を手に入れられないです。

 「私的所有権」の付与の対象でなかったものに私的所有権が付与され、次々に商品化されるプロセスが資本主義の歴史だと思います。新古典派経済学は端的にそれを支持しています。
 会社が商品、農地が商品、森が商品、労働が商品・・・というのは社会をゆがめると思います。
 
Unknown (鈴木康夫)
2007-07-07 23:53:07
 レスありがとうございます。
集団原理という概念にズレがあったかもしれません。

 初期の都市国家から、その統合原理は勝者による支配、あるいは服属によって民を束ねる原理を国家原理とするならば、それ以前、つまり、資源の掠奪を巡る闘争が発生する以前は、生産様式がどうであっても、集団原理としての合議制や自主性などが基本であったはずです。そこには、権力という強制力もなく、まして、個人レベルの所有という概念すらなかったようです。資源の掠奪=エゴ意識が発生して以降、玉突き的に国家闘争にまきこまれていったのではないかと思います。

 例えば、武力闘争の制覇力となった鉄の生産のためには、膨大な火力が必要で、その結果、大量の伐採により禿山となってしまったような事例は、国家発生以降激増しただろうと思います。集団原理ではこういう無理は起こらなかっただろうと・・・

 日本のようにものが溢れかえってしまって、ようやく私的所有権という概念自体、溶解しはじめたのかもしれません。環境問題を解決するには、まず、貧困の圧力からいかに離脱するのかが課題です。それを市場原理には委ねられませんね。
鈴木様 (関)
2007-07-10 21:25:29
>生産様式がどうであっても、集団原理としての合議制や自主性などが基本であったはずです。

 こういうことなら了解です。

>ようやく私的所有権という概念自体、溶解しはじめたのかもしれません。 

 私もそう思います。循環型社会を作るためには、一般に言われている3R運動だけでは不十分だと思います。
 財の私的所有という概念そのものを止揚せねばならないと、私も思います。つまり全ての財は、地球から借りて、地球の浄化能力・資源循環能力の範囲内で消費せなばならないものなのですから、所有する個人が何をやってもよいのだという傲慢は、もう許してはならないと思います。

 

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL