代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

真田丸 第41回「入城」第42回「味方」感想

2016年10月29日 | 真田戦記 その深層
 「真田丸」の感想をサボっていました。第41回および第42回の感想を簡潔に書いておきます。

第41回「入城」

 真田幸村の九度山脱出は諸説あるので、一体どうするのだろうと興味あるところでした。村人を呼んで宴会を開いて、酔いつぶれたところで脱出するという従来からある説をベースにしつつ、じつは村長の長兵衛が脱出計画を先刻承知であり、浅野家の監視をわざと違う方向に誘導して、幸村の脱出を助けるというものでした。長兵衛がどういう立場なのか視聴者にはわからない描き方をしていましたので、最後までスリリングな展開でした。真田紐で築いた長兵衛との絆は太く強固なものに育っていたわけです。
 雁金踊りを踊りながら一人づつ消えていくというのは、ネットで、映画サウンド・オブ・ミュージックでトラップ一家がナチスから逃れてスイスに亡命するシーンみたいだと話題になっていました。言われてみて、「まさに」でした。遠い昔に見た記憶が蘇ってきました。とにかく春やきりの表情がよくて、印象に深く刻みこまれたシーンでした。この雁金踊り脱出劇は、ちょっと大河史に残りそうな名シーンになりそうですね。

 その後の、「服部半蔵VS佐助」は、視聴者サービスのシリアス殺陣が展開されるのかと思いきや、蓋を開ければコメディ・パートでした。笑わせるための仕掛けだったわけですが、これは本当に笑えました。第5回の徳川伊賀越えは、大河史に残るであろう名シーンでしたが、そのときの服部半蔵がここで再現されるとは・・・・・。

 さらに、大坂に入城すると、14年ぶりに再会した秀頼の前で「(第一次上田合戦も第二次上田合戦も)すべて私がやりました。父はただみていただけです」とハッタリをかます幸村。なんだかんだ言いながら、幸村がだんだん昌幸化してきています。若き信繁が幸村となって、老獪の域に達してきたわけです。

第42回「味方」

 大坂5人衆の個性をお披露目する回でした。家康は、そろそろ晩年の秀吉を思わせるような認知症気味になっています。本多正純から真田が大坂に入城したと報告を受け、「城に入ったのはのは父か子か?」と聞いたというエピソードが伝わっています。これは確かな史料にあるエピソードではないので、つくり話かとも思われます。三谷脚本では、逆にこの話を認知症気味の家康を印象づけるエピソードとしてドラマで使ってきました。
 堀田作兵衛が大坂に入城しようとし、信之と対決するというシーンも描かれました。どう見ても作兵衛の方が強そうですが、信之は日本刀で作兵衛の槍を切り落とすという展開。病気の手の痺れがなければ、作兵衛を本当に切り倒しそうな勢いでした。

 30年前の真田太平記のときの信之を思い出すと、幸村の家来だった向井佐平次が上田から大坂に向かうのを黙認したり、上田の甲冑職人がひそかに幸村の赤備えの甲冑をつくって大坂に送るのも見て見ぬふりをしたり、徳川の豊臣に対する理不尽な仕打ちに憤り、ひそかに幸村をうらやましいと思いながら、仮病で大坂には出陣しないという具合に描かれていたように記憶します(細かいところは定かではないですが・・・・)。今回の信之の描き方は、そのときとはずいぶん違いますね。

 402年前の時点での、本当の信之の感情はどうだったかというと・・・・、これに関しては、真田太平記のときの信之が真に近いような気もします。 

 さて、大坂5人衆の描き方の中でびっくりしたのは、長宗我部盛親。ああいう人物だったという根拠はどこにあるのかよくわかりませんが(今に残る肖像画からは、とてもそのようにイメージできない)、一人一人のキャラがはっきりしているというのは何にせよ面白いです。あの性格なら、そのまま京都で寺子屋をして子供たちと余生を過ごしていた方が楽しかったろうに、何で大坂城に入ったのだろう、と不思議に思ったりします。

 真田丸、いろいろなスピンオフドラマが期待されていますが、関ケ原で浪人して京都で寺子屋を営んでいた長宗我部盛親が、大坂に入城する物語というのも面白そう。
 徳川家康も、宇喜多秀家は最大限の警戒をして八丈島に流した一方、同じ大大名の長宗我部盛親は大坂城からほど近い京都で寺子屋をしていても無警戒だったというのは、放っておいても害なしとノーマークだったってことでしょうか? 不思議な気がします。大坂5人衆の浪人時代のそれぞれのスピンオフ・ドラマを描いても、それぞれ面白そうです。



P.S.信繁直筆書状再発見について 

 さて、最近の大ニュースと言えば、真田信繁が九度山から小山田茂誠に出した手紙の直筆が、100年ぶりに三重県で見つかったというニュース。その手紙の文面は「歯なども欠け、髭も黒くなくなった」というよく知られた文面で、私はその原本が紛失していたという事実そのものを知りませんでしたが、とにもかくにもホンモノが見つかってよかったですね。所有者の方におかれましては、松代の真田宝物館ないし上田市立博物館に売却してくださるとうれしく存じます。
 それにしても驚きなのは大河が歴史研究に与える効果です。今回の大河で、真田家の研究も30年分くらい一気に進んだ感じがします。信繁直筆の書状まで発見されてしまうのだからすごい。
 真田丸のチーフプロデューサーの屋敷陽太郎さんの講演を2015年に聞きにいった折、大河ドラマ篤姫を手掛けた際に、松坂慶子さんが演じた幾島のお墓が大河ドラマ効果で発見されたというエピソードを語り、真田丸でも何か発見があることを期待する発言をしていました。今回の手紙を含め、信繁が秀吉の馬廻りであった史実など、ずいぶんといろいろな発見があったように思えます。

 新しい発見への期待といえば、私は、信繁は大坂入城で実際に幸村に改名したと思っているので、「幸村」と名乗ったことを確証できる史料が何か出てこないかなぁということを一番期待していました。いまのところ何もありませんね。 
 そういえば最近、オランダで、「秀頼が大坂の陣の際、裏切者を摘発して城壁から突き落とした」という新史料が見つかったというニュースがありました。その秀頼像は、ひ弱なイメージを覆すに十分なもので、今回の大河の秀頼像と合致します。これは大発見だと思います。

 秀頼は、大坂が勝てば、キリシタンの信仰の自由を認めると約束していたわけです。だからキリシタンの明石全登などは十字架の旗を掲げて必死になって戦った。スペインとかポルトガルも、ひそかに大坂方が勝って、再び布教活動が自由化されればよいなという期待はあったはず。ならばスペインやポルトガルあるいはヴァチカンあたりに、「Sanada Saemon nosuke Yukimura」などと書かれた同時代文書があってもおかしくないのでは・・・・?
 
 

 
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