(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第四十九章 この恋路の終着点 一

2012-08-08 20:54:07 | 新転地はお化け屋敷
 おはようございます。怒橋家長女、怒橋庄子です。
「おごあっ!」
 お目覚め一番軽く腰を捻ってみたところ、盛大にボゴッという音が。
 音の方はともかくなんだか女子にあるまじき声を出してしまったような気がしますが、まあ、いいとしておきましょう。誰に聞かれたというわけでもなし。……聞かれてたらどうしよう、なんて、この場にいるわけがない人の顔が浮かんでしまったりもしましたが。
 さて。
 大体の人はそうなんでしょうけど、目が覚めた直後というのはいろいろやることがあるものです。身嗜みを整えるだとか、務め先に出向く準備だとか、朝ごはんだとか、あたしはしないですけど人によっては軽くシャワーを浴びてみたりだとか。
 夏に寝汗が酷い時なんかはあたしもたまにやりますけどね――というのはともかく、目が覚めたなら行動です。

「さて……」
 洗面台の前に立ち、眠気の抜け切らないややたるんだ顔の自分と向き合います。これから歯を磨いて顔を洗って、とそれなりに忙しくなるわけですが、それらは最早意識しなくても身体が勝手にやってくれます。ならばここであたしは何を意識しているのかというと、
「今日は一本か二本か……」
 ポニーテールかツインテールか、という話です。どちらに決めるかは完全に気分でしかなく、なのでこんなふうに鏡と向かい合って悩む必要なんか全くないわけですけど、それでも多少の気休めとして、毎朝この場で悩んでいるわけです。
 髪型一つ決めることに何の気休めが必要なんだと思われるかもしれませんが、えー、その、なんというか……誰に見せるための髪型なんだって話なんですよね、要するに。そりゃそうもなるというもの、なんせそもそもその人のことをみんなに相談した結果がこの二択なんですから。それまではツインテール一本でやってきたのに……って、別に拘りがあったとかそういうわけじゃないですけど。あとツインテール一本ってなんかややこしいですね。
 ――恥ずかしながらこの年で、ということになるのかどうかは正直ちょっと分からないのですが、あたしはおしゃれというものにあまり馴染みがありません。こんなものをお洒落と呼んでいいのかどうかは分かりませんが(化粧とかしてる同級生もいますし。……化粧とか!)、今のところこの髪型の選択があたし唯一の「おしゃれ」だったりします。
 これは想像なのですが、多分、髪型で悩むなんてことは洗面所ですることではないんじゃないでしょうか。手鏡、もしくはそれに類するもの片手に自分の部屋で……いえもちろん、あたしはそんな可愛らしいものは持ってさえいないんですけど。
 で。
「よし」
 今日は一本にしておきました。いつもと同じくこれといった理由があるわけではないのですが、敢えて言うなら起きた直後のあの奇声でしょうか。女の子っぽくないよなあと。
 いえ、もちろん一本の方だって結局は女子の髪型なわけですが、一応あたしはこれを「大人っぽい髪型」として伝授してもらったわけなのです。……「おごあっ!」が大人っぽいのかと言われたら、間違いなく違いますけど。
「あら、今日はそっちなの」
「ひゃあっ!」
 おっ、今の悲鳴は女の子っぽいぞ。
 なんて感想を持つべき場面ではもちろんなく。
「お、お母さん! 急に声掛けないでよ!」
 背後からなら鏡に映って気付けたでしょうに、横から登場したお母さんなのでした。廊下との繋がり的にそうならざるを得なくはあるんですけど。
「洗面所占領しておいて急も何もないでしょうに」
「ぐぐ……」
 確かにそれはそうなんだけど。
「見られて嫌なら自分の部屋でなさい」
「あたし鏡とか持ってないし――ああいやいや、そもそも、別にそこまで嫌ってほどじゃ」
 口にしてみると鏡を買ってくれとねだっているように聞こえたので、慌てて訂正。あと、嫌ってほどじゃないっていうのも本当のことですし。多分。
「お母さんのでよければあげようか? 手鏡」
「い、いいっていいってそんな」
「なら声掛けられたぐらいで大騒ぎしないで頂戴」
「ういー……」
 声掛けられると驚いて、そのくせ手鏡をくれるという話は断って。
 なんでこう、合理的になれないんだろうか。別にお母さんが何をどうしたからって、この髪型をどう思われるか、というところには何一つ関係しないっていうのに。
 ……はあ。女の子っぽくないうえ、大人にも成り切れないんだよなあ。

 女の子っぽくないうえ、大人にも成り切れない。
 自分で頭に浮かべたその言葉が再び頭をよぎったのは、制服に着替えようと寝巻を脱ぎ去り、ふと視線を胸元に落とした時でした。
 いや、別に取り立てて残念がるほどでもないんですけどね? 平均的というか、ちょっと強気になってみるなら平均ちょい上というか。……ただ、知り合いに極端に「ある」人と極端に「ない」人がいて、しかもそのどちらもがすっごい綺麗な人だったりするので、そこに先の台詞もあって、こう、つい自分と比べてしまったわけです。さすがに着替えるたんびにこんなこと考えてるわけじゃないですけど。
「いやいや、そもそもの話だよ」
 と、独り言。
 …………。
 虚しさを紛らわせるためだったのにより一層虚しさが増してしまったような気がしますが、気のせいということにしておいて。
 そもそもの話、極端でなくとも綺麗な人だっているわけです。家守さん成美さんに挟まれてても別に見劣りなんかしませんもんね、栞さん。……うーむ。無闇やたらに偏差値高くないかなあ、あまくに荘。そりゃ三人とも結婚だってしちゃうわ。なんて。
 栞さんが綺麗だからといってそれが自分に結び付くわけではありませんが、それでもなんとか勇気付けられたことにしておいて、その勇気が必要な身体を学校の制服に通しました。
 そもそも。
 という言葉はさっき使ったばかりですが、しかし再びそもそも、なんでいま胸の大きさだけ取り上げたんでしょうかあたしは。他にもいろいろあるでしょうに。
 ――ところで今の話とは全く関係ないのですが、女子の制服にもズボンという選択肢を、なんてことをたまに思ったりしないでもないあたしだったりします。そっちのほうが好きなのです、なんとなく。体操着が短パンだったりするんだから別にいいと思うんだけどなあ。
「庄子ー、ご飯できたわよー」
「はーい」
 朝の身支度の最後の一つ、朝食にお呼ばれしました。
 さて、これから採る栄養は身体の何処へ行き渡ることやら。

 で、学校。の、自分が在籍するクラス。
「おはよー」
 と声をかければ、一方は同じく「おはよー」、もう一方は同じからず「うぇ~い」と。
 前者はさっちん、後者はみっちゃん。あたしを含めてこれがいつもの三人組です。
「みっちゃん、今日は一段とふにゃけてるね……」
「そ~お~? 自分では別に普通だけど~」
 机に突っ伏した状態が普通って、それだけで既に駄目な気がするよみっちゃん。
「わたしが背筋をまっすぐにするのは~、手が動いてる時だけなんだよね~」
 もし仮にそうだとしたら、あたしが今言った『今日は一段と』が間違いになってしまいます。それはなんだか悔しい(というのも可笑しな話ですが)ので、手を使って強引にみっちゃんの背筋をまっすぐにさせるあたしなのでした。
「見てると真似したくなっちゃうからしゃんとしてて」
「真似すりゃあいいのに~」
 と不満を垂らしつつ、けれど結局のところしゃんとしてくれるみっちゃんなのでした。さすが文芸部部長、後輩に慕われるだけのことはあるというもの。
 ……まあみっちゃんの場合、しゃんとする、という話であるなら、背筋だけしゃんとさせても焼け石に水のような気がするけど。というかたったこれだけのことで「さすが」とか思われちゃう時点でどうなんだろうかっていう。
「いや~さ~、さっちんがアンニュ~イな感じだったからさ~、わたしもそれに乗じてみたというか~、漂う空気に身を任せてみたというか~」
「さっちんが? アンニュ~イ?」
 ……いかん、また釣られてしまった。
 というのはともかく。
「さっちん、どうかしたの?」
「いやー、あはは……」
「教えてくれるならわたしがとっくに訊き出してるって~」
 ふむ。それもそうだし、今の笑いもおのろけ元気娘ことさっちんにしては弱々しい。ならばまあ、アンニュイ(よし、釣られなかったぞ)というのは確かな話なのでしょう。
 おのろけ元気娘ことさっちん。少し前まではただの「元気娘」だったんですけど、最近彼氏ができてからはその頭に「おのろけ」が追加されることになりました。
 ちなみに「元気娘」のほうの由来は、その明るい性格に加えて陸上部であることも加味してのものだったりします。それだけで元気娘というのは言い過ぎなのかもしれませんが、まあ、その肩書きを作ったあたしとみっちゃんが帰宅部と文化部だったからというだけの話です。自分達と比較してっていう。
「はやいこと立ち直っておくれよ~? わたしの中学生活最後の作品はさっちんの惚気話に掛かってるんだからさ~」
「へ!? あ、あの話、本気だったの?」
 励ましになってないような気もするみっちゃんの励ましの言葉に、さっちんは目を丸くします。あたしもしました。
 肩書き通りに惚気話を連発してくるさっちんに対し、「それネタに一本書いてみるのも面白いかもね~」とか言ってたのは覚えてますけど……。しかも中学生活最後とか、変にスケールアップしてるし。そりゃああたしら三年だし、時期的にはそうなるのかもしれない――って、帰宅部だからよく分かんないんですけど。
「わたしが本気じゃない時なんてあったかね~?」
 常にそうだったような。
「本気出し過ぎて恋愛小説のつもりが官能小説になっちまったりしてね~」
「なっちまったら発行許可下りないよ絶対」
「ていうか恋愛小説でもきついのに官能小説の元ネタにされるとか死ねるぞ私」
「はっは~、さすがにそこは冗談だけどね~。話に聞く彼氏にも悪いし~」
 冗談が本気過ぎるよみっちゃん。

 とまあ、朝の段階では冗談で済ませていたんですけど。
「話、聞いてもらっていい?」
 さっちんがおずおずとそう切り出してきたのは、昼休みのことでした。話というのは、そりゃあやっぱり今日ずっとヘコんでいる理由についてなのでしょう。
 もちろん気になってはいたものの、朝からこれまであたしもみっちゃんも一切触れてこなかったので、それは唐突と言っていい展開なのでした。
「そりゃ~ま~そう言われて断るわけないよね~」
「まあね」
 友達だしね。
 とだけ言っておけば聞こえはいいのでしょうが、でもまあ、やっぱりそこには好奇心も含まれていたりするのです。触れてこなかったとはいえ想像ぐらいはするわけで、彼氏と喧嘩でもしたのかなとか、そんなことを考えたりしなかったわけではなく。
 そういえば勝手に彼氏絡みの話に限定してしまっていますが、どうなんでしょうかそこのところ。
「でもその前に~、場所はここでいいのかね~?」
 言われて気が付きましたが、あたし達はいま教室にいます。昼食を終えてお腹が膨れ、少々気持ちよくなってきた辺りです――というのはどうでもいいとして、そりゃそうだと。あたし達にすら今まで言えなかった話を、こんな大勢の只中で言えたもんだろうかと。
 ……思慮が足りんなあ、あたしは。
「道江にしちゃあ気が利くね」
 ちょっとだけ元気さを取り戻したさっちんが、軽口交じりにそう返しました。
 するとみっちゃん、何やら得意げな顔をして更にこう返します。
「小説なら場面変えるシーンだろうってね~」
 さすが、と言うべきなのでしょう。二重の意味で。
「都合よく教室に誰もいないとか~、そういうのあんまり好きじゃないんだよね~。漫画なら背景絵で済むけど~、小説ってそういうの全部文字で表現しなきゃならないからわざとらし過ぎるっていうか~」
「はいはい、話逸れちゃうから」
「という照れ隠しでした~」
 逸れてなかったのか……。

 というわけで場所を変え、中庭。人がいそうで意外にいないというのは、落ち葉が払われてすらいないベンチを見れば一目瞭然でした。葉が落ちる季節ならともかく、春にこれはちょっと、むしろ人通りなさ過ぎじゃないでしょうか。
 ともあれベンチの上の落ち葉を払い除け、みっちゃんを真ん中に三人並んで腰掛けます。せめて昼食が給食でなく各自持参だったらここで弁当を広げるというのも悪くなさそうなんだけどなあ、なんて、なかなか悪くない座り心地にそんなことを考えてしまったり。
「多分二人の想像通りなんだろうけど、まあ、話っていうのは彼氏とのことでさ」
「ほほ~」
「け、喧嘩しちゃったとか……?」
 想像通りではありましたが、でも実際そういうことになってみると、ついさっきまで冗談半分にしていた筈の想像で不安を書き立てられてしまうのでした。肩書きに「おのろけ」なんて付けられるほど嬉しそうに惚気話をしていたさっちんなので、そうなると聞かされるこっちまで辛いものがあります。
「あ、いや、あはは、そういうわけじゃないんだけどさ」
 ――が、そういうわけではないようでした。よかったよかった。
 いや、どのみちさっちんはヘコんでいるわけで、だったらよくはないんでしょうけど。
「えーと、その……。信用してないとかそういうわけじゃないんだけどさ。茶化さないって、約束してくれる?」
「もちろん」
「おっけ~」
 そこはさすがにあたしもみっちゃんも即答です。これについては、友達だしね、とだけ言っておきます。
 さっちんは「ありがとう」と笑顔を見せてくれましたが、しかしそこから話の内容に入るまでには、少々の間を必要としたようでした。ここまできてまだそうなるというなら、これは「喧嘩じゃなくてよかった」なんて言ってられないような話なのかもしれません。
 そうしてあたしはあたしで緊張を高めていたところ、ついにさっちんの口が開きました。
「胸をね」
「触られたの!?」
「こ、声でっかいって庄子!」
「はっ、ご、ごめん」
 何をやってんだあたしは……。
 きょろきょろと周囲を窺うさっちんに肩身を狭くしていると、呆れのような慰めのような、どっちともつかない声でさっちんは続けます。
「触られたっちゃあ触られたけど、ちゃんと合意の上だよ。しかも服の上からだったし、それ以上のことを考えてたわけでもないし」
 という話を聞いてみても、「そっか、そういうことなら」というふうには思えませんでした。だからといってそれを悪いと思うわけでもなくて、じゃあ何なのかというと、ただただ顔が熱くなるだけなのでした。
 男子に胸を触られた。触らせた。
 同級生が。友人が。
 いいとか悪いとかそういう意味を抜きにして、というかそういう段階をすっ飛ばして、ずがんと頭を打たれたような気分なのでした。
「それ以上のことを考えてたわけじゃないっていうのはさ~、そりゃ彼氏の方もかね~?」
「そう言ってたし、信じたよ。じゃなきゃ怖くて無理だってあんなこと」
 ショックを受けているあたしの隣で、みっちゃんさっちんはそんな遣り取り。取り残されてるなあ、なんて。
 しかしそんなふうに重ねてショックを受けている場合ではありません。――と言ってもこれは別にショックを振り払うために無理して口を開いたというわけではなく、ごく普通にぽんと浮かんだ疑問だったのですが。
「怖くて無理って、怖かったの?」
「ああ――ああ、うん。そこなんだけどね。あはは、先にネタバレしちゃったか」
 ネタバレ? と、いうことはさっちん、怖かったということは最後に話すつもりだったということなんでしょうか?
「触るって言っても別にぐにぐにされたとかじゃなくてこう、ぽんって手を置かれただけなんだけどさ」
 言いつつ、自分の手で実演してみせるさっちん。なるほど確かにそれは置かれただけで、ぐにぐに――えー、要は揉むということなんでしょう。そんなことはもちろんなく、さすったりということでもなく、本当にただ「ぽん」と、そこに触れさせているだけなのでした。
 そうかそうかその程度だったのか、と間違いなく筋を違えた安堵をしてみるあたしなのですが、しかし。
「まあ、それだけで済んじゃったのは私のせいかもなんだけど……」
 そう言って表情を暗くするさっちんなのでした。
 それに対してはあたしもみっちゃんも揃って何も言わず、さっちんから続けて離してくれるのを待っていました。
「泣きそうな顔してるって、言われちゃってさ」
「……彼氏に?」
「うん。それで手も引っ込められて、ごめんとか言われちゃって」
「…………」
 あたしはついさっき、「怖かったの?」という質問をしました。そういう疑問を持った以上、あたしとしては「そこは怖がるところじゃない」と思っていたわけで、だから今、あたしは何も言えませんでした。もう、完全にあたしが知らない世界の話だったのです。
「身体が硬くなってるのは私だって分かってたんだけどね? 恥ずかしくて、緊張して、そういうことからそうなってるんだって、自分では思ってた。でも泣きそうな顔してたって、だったらそれってもうそういうことじゃないよね? 恥ずかしいとかじゃなくて、怖がってたってことだよね?」
「どうどう~、一旦落ち着こうぜさっち~ん」
 徐々に口の周りが早くなり始めたさっちんを、みっちゃんが止めに入りました。
 そういう役は適任もいいところ、ということになるでしょう。さっちんは大きく息を吐いてから、ごめん、と落ち着かせた口調で謝罪……というよりはお礼でしょう、この場合。そんな言葉を口にするのでした。
「いい悪いの話はこの際後回しにしてさ~、何がどう怖かったのかとか~、それ以外でもその時どんなこと考えたとか~、そういう細かいとこ聞いてみたいかな~」
 という提案と同時に、こちらへ同意を求めるような視線を送ってくるみっちゃん。ならばあたしは、こくこくと小刻みに首を縦に振るばかりなのでした。
 こっちはこんななのに、みっちゃんはどうしてこう落ち着いているんだろうか、なんて――まさか、みっちゃんも彼氏いるとか?……いやいやいかんいかん、今はそんな移り気になってる場合じゃないぞあたし。
「細かいとこ、ねえ。その時何を思ったかなんて、今からはっきり思い出せるかどうか怪しいけど……分かった、ちょっと頑張ってみる」
 そう言って俯いたさっちんは、目を細めるのでした。思い出すだけであっても、やっぱりあんまり気分は良くないんでしょう。良くなかったことだからこそ、こうしてあたしとみっちゃんに相談を持ち掛けてきたわけですし。
 程なくして、さっちんの顔が上がりました。
「今から思うとって話なんだけど」
 そう注釈を加え、更に念を押すかのように左右のあたしとみっちゃんへ一度ずつ視線を送り、そうして最後にはまた俯きながら言いました。
「落差かな、何が怖かったっていうの。好きに人に身体を触られるって、もっとこう――なんて言うのかな。照れたりするのは別として、無条件にものすっごい嬉しい気分になるものだと思ってた」
 好きな人に身体を触られる。そんな話には、当然と言えば当然なんでしょうけど、自分の好きな人の顔が浮かぶのでした。そしてこれまた当然、その人に身体を触られるという想像だって――。
 そりゃあ、好きな人です。恋をしている相手です。別にこれが初めてでなく、そういう想像をしたことは、一度と言わず何度かありました。もちろんのこと、想像だけに留めてはいますけど。
 そしてそういった経験の中で――ただの想像を経験扱いしていいものかどうか、という話ではありますけど――あたしとしても、さっちんと同じように考えていたのでした。いえ、「いた」というか、今だってそう思っています。だって話が進んでみてもやっぱり、これが「あたしが知らない世界の話」であることに変わりはなかったんですから。知らないし、分からないんですから。いやいやそんなの嬉しいに決まってるじゃんかと、そんなふうに思ってしまうんですから。
「思ってたほど嬉しくなくて~、じゃあどんな感じだった~?」
「手が触れる瞬間までは、ね。想像してた通りっていうか、嬉し恥ずかし? そんな感じだったんだけど、触れた瞬間になんか――そういうのがサッって引いちゃってさ」
「恥ずかし過ぎてってこと?」
 分からないなりに想像を働かせて尋ねてみたあたしですが、でもさっちんは「ううん」と首を横に振りました。
「嬉しいのも恥ずかしいのも、どっちも引いちゃったんだよね。頭がからっぽになった――いや、それとはちょっと違うのかな。その時私、多分だけど、これ以上ないってくらい冷静だったと思う」
「冷静?」
 場にそぐわないその単語を繰り返してみたところ、さっちんは「うん」と。
「そのすぐ後にそんな自分に気がついて、それが怖かったってことなんだろうけど――冷静だったと思う。彼氏の手の感触とか、その時視線がどこ向いてたとか、ものすっごいはっきり覚えてるし。明らかに『観察してる』んだよね。それって、今思うと」
 という話をそれこそ冷静に、怖いくらい落ち着いた口調で話すさっちんでしたが、けれどその直後には「まあ一瞬だけの話なんだけどね、そうは言っても」とおどけたような口調でそう続けるのでした。それに気付いて怖くなったという話なんですから、まあ、一瞬なんでしょう。
「観察ねえ~」
 一方でみっちゃんは、冷静という言葉でなくそちらを取り上げていました。
「な、なんか分かることある?」
 声を詰まらせながらも尋ねるさっちん。聞きたいけど怖くもある、ということなんでしょう。
「あ~、いやいや~、今更だけどわたしに分かることなんていっこもないよ~。これから何言うにしても~、それぜ~んぶ想像で言ってるだけだから~」
 それはつまり、みっちゃんにはそういう経験がないと、そういうことになるのでしょうか。いやその、だからどうしたって話なんですけど。
 なのでそれはともかく、それはつまり、これから何か言うということなんでしょう。
「……聞かせて欲しい、想像でも」
「きっつい内容になるかもしんないけど~、いいかね~?」
「うん」
「おっけ~」
 というわけで、みっちゃんの想像上の話です。普段なら、どんな突拍子もない話が出てくるのか、なんて呆れ交じりに期待を寄せたりする場面ですが、けれど今回は話題が話題なので、さっちんでなくとも少々不安を覚えてしまうのでした。
「それ以上のことは考えてないって言ってたけどさ~、でもやっぱ胸触るって『そういう行為』なわけじゃん~。だからみっちゃんが彼氏観察してたっていうのもさ~、そういう行為を受けて態勢が整っちゃったっていうか~」
「態勢? なんの? 何に対する?」
「あ~、いわゆるひとつのセックスってやつですな~」
 ――――。
 ちょっ。
「エッチって言い方のほうがよかったかね~? それとも~」
「そこは何でも大して変わんないと思う……」
 この熱さ、顔が赤くなるぐらいはしているのでしょう。けれどあたしはまだみっちゃんのほうを見ていられたのに対し、さっちんはやはり赤くなった顔を俯かせ、地面を見下ろしていたのでした。
「うわー」
 しかも加えて顔を手で覆ってしまいました。するとそんなさっちんにみっちゃんは、「飽くまでも想像だからね~?」と、普段あまり表情が変わらない彼女にしては珍しく、心配そうな顔で。
 しかし、
「いや、多分、そういうことだったんだと思う。ストンってきた、ストンって」
 顔を覆う手はそのままに、さっちんはみっちゃんにそう告げるのでした。そして更に続けて、しかしこちらは独り言に近かったのではないでしょうか、
「そら怖くもなるわ……」
 と。
 どう声を掛けていいのか全く分からず、でも放っておくことも出来なかったあたしは、俯いたことで丸くなったさっちんの背中を軽く撫でることにしました。
 撫でてあげた、なんて言い方ができるほど、それは余裕のある行動ではありませんでした。
「ありがと、庄子」
 お礼の言葉を言われてみてもやっぱり余裕はないままで、だからあたしは、口から出ない返事の代わりに微笑んでみせるくらいしかできなかったのでした。


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