(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 最終章 今日これまでも、今日これからも 二十一

2014-12-20 21:09:00 | 新転地はお化け屋敷
「重要?」
 栞が尋ねます。軽く首を傾げてみせてもいる辺り、それは単に話を続けるよう促したというだけではなく、僕と似たような疑問を持ったということなのでしょう。
 そんな栞に、高次さんは苦笑しつつこんなふうにも。
「といってもあれだけどね。友人の中でも特別だとか、そういう意味じゃないんだけど」
 それはなんとなくながらも察していますし、そして恐らく栞も同じだと思われます。が、とはいえ高次さんからすれば、やはり念押ししておきたくなるところでもあるのでしょう。
 特別ってことならご自身がその筆頭でしょうに――とまあ、そういうのとはまた別の話だと分かっていながらそんなふうにも思ってみるのですが、それはともかく。高次さん、「日向さん達なら伝わると思うけど」と。
「楓って、誰かと関わることが人一倍好きなところあるでしょ?」
『そうですね』
 ……ばっちり伝わり過ぎて返事が被ってしまい、ついでにそれを高次さんから笑われてもしまいましたが、まあ、まあ。
「全部とは言わないけど一部、それは彼のおかげなんじゃないかなってね」
 それについては、返事が被ることはありませんでした。なんせお互い返事をできないでいましたしね――と、それはそれで「被っている」ということになるのかもしれませんけど。
 口にしようと思える話ではありませんが、逆ならまだ分かりますけど、とすら。
 人と関わることが好きになった理由、ということであれば自然、それはそうではなかった頃からそうなった頃への移行期の話ということになります。
 家守さんの場合、その時期というのは……もちろん僕に細かいところまで把握できているわけもなく、なので大雑把な推測でしかないのですが、椛さんの性格を写し取ろうとしていた頃なのではないか、と。
 であればそれは、推測を立てるまでもなく大変な時期でもあります。今ならともかく、そんな頃に彼のあの刺のある言葉に中てられたりしたら、人との関わりを好きになるどころか――と、そんなふうに思ってしまうのですが。
 高次さんは、少し笑うようにしてからこう続けました。
「楓がしてしまったことは許せないけど、それでもまだ友達ではある、っていうのが彼のスタンスでしょ?――って当たり前みたいに言っちゃったけど、日向くん達、その辺は?」
「ああ、はい」
「知ってます」
「はっは、さすが」
 口巧みにそれを訊き出したというならともかく、殆どは横から聞いていただけだったので、そんなふうに言ってもらうような話ではなかったりします。いやそもそも、もしそうだったとしても僕達の何を指して「さすが」なのかって話でもあるんですけど。
 と、まあしかし。僕達の話は今どうでもいいとして、家守さんの話です。
 許せないけどまだ友達ではある。それがそのまま「彼が家守さんにとって重要な人である」という話の根拠だと言いたいのだとすると……理屈は分かりますが、しかしそこは先程の話です。今ならともかくその時期に、という。
 けれど、高次さんは言いました。
「楓がよく言う『人付き合いは面倒で面白い』ってやつそのものだしね。そういう、単純な好き嫌いだけじゃない関わり方もあるっていうのは」
 ……続けて、「もちろんそういうの抜きで有難い話だっていうのもあったろうけどさ」とも仰る高次さんでしたが、もし、もしも家守さんが本当にそういう認識でいるのだとしたら、
「強いですね、家守さんは」
「うん。強いよ、うちの嫁さんは」
 高次さんは迷いなく、どころか僕がそう言ってくるのを予め見越していたかのように、あっさりと頷いてみせるのでした。
「自分では全くそんなふうに思ってない、いや思ってなかった、かな? そんな感じではあるんだけどね。だから普段、そんな振舞いもしないし」
 続けて、笑みを浮かべながらそんなふうにも。
「日向くん達から見てどう? その逆――弱々しく見えてるもんかな、やっぱり」
「いや、弱々しいだなんてことは」
「私は……」
 慌てて否定する僕だったのですが、しかし一方で栞は、即座には返事が用意できないでいるのでした。
「ごめんね、意地の悪い質問だったかな」
 答えられないでいる栞に高次さんがそんなふうに声を掛けますが、しかしそれに対しては栞、首を横に振りながら「いえ」と。
「分からなかっただけです。私の中の楓さんって、ただただひたすら格好良いって、それだけだったので……強いとか弱いとか、そういうのは発想自体持たなかったっていうか」
「はっは、そっか。ありがとう、それ聞いたら楓も喜ぶよ」
「あ、聞かせちゃいます? うーん、ちょっと恥ずかしいような」
 そう言って笑い合う二人。
 家守さんも喜ぶ、と高次さんはそう言いましたが、しかし僕としては、いま高次さんが笑ってくれていることが嬉しいのでした。栞の気持ちを知っていて、そのうえそれを信頼してくれていたってことですしね。ここで笑える、ということは。
 しかし当然、それは僕以上に栞が喜ぶ話。そしてそうともなれば、その口調は軽なってもくるわけです。
「でも、じゃあ高次さんは楓さんの強いところと、あとその弱々しく見えるっていうところも、ちゃんと見てあげてるんですね」
「はっは、まあ旦那なんだし、やっぱりそれくらいはね。……いや、それはちょっと格好付け過ぎかな?」
「格好付けなかったらどうなります?」
「旦那どころか、恋人になる前の話になってくるかな。そこが気に入って付き合い始めた、みたいなところはあるし。あ、いやもちろん、付き合い始める前から楓が抱えてる事情を全部知ってたわけじゃないんだけどね? だからこう雰囲気的なものというか、なんとなく、でしかなかったんだけど」
 二人が知り合ってからお付き合いを始めるまでにどれくらいの期間を挟んだのかは存じませんが、そりゃまた随分と遡るお話で。
 というようなことを考えていたところ、すると栞はここで朗らかだった表情に少々、固さ真面目さを含ませるのでした。
「その頃からそこまで見てたって、凄いですね」
 もしかしたらそこには、多少の嫉妬なんかも含まれているのかもしれません。別にそれを可笑しいというつもりはないですけどね、少なくとも僕は。
 その栞の表情の変化は、最も近しい間柄である僕だけが気付くというようなものではなく――と、そうは思うものの、しかし高次さんは、まるで何も気付いていないかのように表情も口調もそのまま、返事をし始めるのでした。
「付き合う前からそこまで見透かしに掛かられるっていうのは、人によっては気分の良いことじゃないかもしれないけどね。でもやっぱり、そうしなきゃいけない立場ではあったし」
「立場? 霊能者、ですか?」
 首を傾げながらそう尋ねる栞でしたが、しかしそうだとしたらそもそも家守さんだって霊能者なわけです。仕事が切っ掛けで知り合ったって言ってましたし、じゃあその頃には既に、ってことになりますしね。
 というわけで案の定、高次さんは首を横に振りました。
 そしてその後、もう何度目になるでしょうか? 周囲をくるりと見渡したりも。
「次男坊とはいえ、こんなゴツい家の縁者にさせてしまうわけだしね。それを負わせて大丈夫な人かっていうのと、あと俺自身、そうさせてまでその人と一緒になりたいかっていうのもあるし。実際、家守さんのところに具体的な被害も出ちゃったわけで」
 …………。
 何と言うか……いや、何も言えないんですけど……。
「楓さんはそれ、合格だったんですね?」
「うん、見事にね。俺自身がどうだって話はもう、恥ずかしいけど完全にベタ惚れだったからねえ。振られるならともかくこっちから振るなんてとてもとても」
「じゃあ、楓さんが大丈夫かっていうのは――」
「今言った『具体的な被害』を乗り越えてくれたっていうのもあるね。しかも楓個人の話じゃなくて一家丸ごと……もちろん、後に残るものが何もなかったってわけじゃないし、それについては申し訳ないとしか言いようがないんだけど」
 具体的な被害。それが何かは既に知っている僕と栞ですが、ならばその後に残るものについては具体的に何なのか、というのは、しかし当然ながらこちらから訊き出そうとするようなものではないでしょう。高次さんから話題に上げることがないのでなければ、それについてはここまでです。
「あと、大金に慣れてるってのもあるかなあ」
「お金に?」
「そりゃまあ飽くまで個人のレベルではあるけど、すっごい金持ちだよ楓は。こないだも買っちゃってたでしょ、車。思い付きでポンっと」
『ああ……』
 ここまで質問していたのは栞だったというのに、ついつい一緒になって口を開いてしまう僕なのでした。いやはや、一般人もいいところです。
 と、こちらがそんな馬鹿みたいなことを考えていたところ、
「それに見合うだけの実力があったからね、霊能者として」
 そう続けた高次さんは、ここで急に声のトーンを落としてもいたのでした。
 その実力を以って家守さんがかつて何をしたか――何をしてしまったか、ということなのでしょう。
 しかしその落ちたトーンはすぐに修正され、
「でも、稼ぎの割には金に執着がない。二人から見てもそんな感じなんじゃない?」
「まあ……」
「そうだよね、言われてみれば」
 あまり大きな声では言えませんが、そもそもからして住居としているのがあのあまくに荘です。今年からの新大学生が初めて一人暮らしをする部屋として選ぶような、リーズナブルなお家賃のアパートです。それ以外にも壁が薄く、耳の良い人が困ってしまうことがあるような――と、一応は人間が住むための施設に対して猫の聴力を持ち出すのは、さすがに酷な話なのかもしれませんが。
 ……住まわせてもらっている場所の話ばかりするのもアレなので家守さん自身の話もしておこうと思いますが、家守さん、遊びに出掛けたいだとか家でゆっくりしたいだとか、そんなふうに気分で仕事を休みにしてしまったりしますしね。そんなのどう見たって稼ぎに拘っている人の行いではない、といったところでしょう。
 なんせ一般人の視点であるのでそれらの話は家守さんの印象を良くするものなわけですが、ならば果たして高次さんからはどうなのか――なんて思っていたところ、
「嫌な話だけど、どう見ても金目当てでしょアナタっていう人も、やっぱりね」
 経験がある、ということなのでしょう。それこそ心底嫌そうな顔をしながら言う高次さんなのでした。
 そしてだからこそ、今度は心底嬉しそうにこんなふうにも。
「俺も救われてるんだよ、楓には。本人は一方的に救ってもらってるつもりかもしれないけど、そうは問屋が卸さないってね」
 救ってもらわないといけないような事情を抱えている、ということについては良い話とは言えないわけですが、とはいえやはり、それは釣られて良い顔をしてしまいそうな話ではあります。
 であればやはり、それは栞も同じこと、といったふうではあったのですが、
「孝さんはどう?」
 どうやら、良い顔の裏にあるものについては僕と少々異なっていたようで。
「私から救ってあげられてるところ、実はあったりする?」
「ないと思ってたの?」
「あはは、そこまで断言はしないけどさ」
 消極的ながらもないと思っていたらしい栞ですが、もちろんそんなもの、こちらからすれば何を仰るやらという話です。
 が、しかしこの場で話せるものとしてはどれを挙げるべきなのか、なんて。高次さんがいるわけですしね、やっぱり。
「うーん、じゃあ料理とか」
「え? お料理って、それは私がどうのこうのってことはないような」
「作るのはそうだけど、食べるのはね。毎回喜んでくれるし」
 しかもそれが恋中、果ては夫婦にまでなる相手だっていうんだからそりゃもう。というのは、後付けになってしまうのでここでは言わないでおきますけど。
 ――当たり前ながらこれは、お母さんとのことが関わってくる話です。同時に、高次さんを意識して挙げないでおいた話でもあるわけですが。
 お母さんの策略にまんまと嵌り、不満を抱え込みながらも料理にのめり込んでいった僕。お母さん以外の相手にそれを披露する場が全くなかったということはありませんが、しかし継続的に、しかも今言ったように毎回喜んで食べてくれる人というのは、栞が初めてということにはなるのです。
 それを言うなら家守さんも同時だろう、ということにもなりはするのですが、それくらいの扱いの差はあってもいいでしょう。いいと思います。
 要するに栞は、料理を召し上がっていただく相手として、そしてお母さんとのわだかまりを解消させるにあたっての二度、僕を救ってくれているわけです。――いや、後者はもちろん前者についても、これがもう大真面目な話として。
「一人暮らしを始める前、というか実家に住んでた頃っていうのは、まあ何だかんだ言っても作れば食べてくれる人がいたんだよ」
 その「何だかんだ言っても」こそが問題だったりもしたわけですが、それはともかく。
「でも一人暮らしを始めたら、普通はそれすらなくなるわけでしょ? それだと続けられてたかなあ、とかね。趣味としてやってるからこそというか」
 初めからただ食べること、食費を浮かせることを目的としていたなら、そこで立ち止まるようなこともないでしょう。しかし料理をするに際して食べてくれる人のリアクションを求めている身としては――そこまで行ってもまだ求めてしまう身としては、それが期待できないということになってしまうと、頭を抱えざるを得ないところではあるのです。
 というようなことを今更になって考えてしまうというのは、今食べてくれている人のリアクションが素晴らし過ぎるから、ということだったりするのかもしれませんが。
 というわけでその素晴らし過ぎる人ですが、
「あー……ああ、うん、何となく分からないでもないかも」
 何とか分かってくれたようでした。まあそうでなかったとしても、最低限分かろうとはしてくれる人です。結果が違っていたとして不満を持つようなところではないんですけどね、初めから。
「そういうことなので、毎日美味しそうに食べてくれてありがとうございます」
「いえいえどう致しまして」
 料理に関してはもう何度繰り返した遣り取りなのか見当も付きませんが、今回もやはりそう締め括る僕と栞なのでした。いいものです、やはり。
「お料理しなくなっちゃった孝さんかあ……」
「寂しそうにされるとそれはそれで困るんだけどね?」
 料理に関して高い評価を頂けるのは有難いことこの上ないのですが、欲を言わせてもらうのであれば、他の部分についても評価をして頂きたいところです。……と、これもまあ、栞に対してするような心配ではないんでしょうけどね。と、自分で言うような話ではないんでしょうけどね。
 さてそこで今度は高次さん、何やら栞と同様に気難しい顔をしつつ、
「うーん、うちの料理長も日向くんくらい親しみ易かったら良いんだけどな……」
 と。ごめんなさい大門さん、とんだとばっちりを。
「いや、でもいい人でしたよ?」
 でもとか言っちゃってますが、ともあれ栞がそんなふうに。光栄なことに、以前お話やら何やらさせて頂く機会があったんですよね。
「はっは、それはまあそうなんだけどね。義春くんも懐いてたりするし」
 僕達ですら把握できていることを高次さんができていないわけもなく、栞の言い分についてはあっさり同意してみせるのでした。が、
「ただそれは長い付き合いがあって――か、長くなくても日向さん達みたいにしっかり話し込むようなことがあって、だしねやっぱり。……話し込んだんだよね? 勝手な想像だけど」
 勝手な想像で出てくるような情報かどうかは悩ましいところですし、話し込む、という表現がどの辺りから適用されるものなのかという話もないではないのですが、
「まあ」
「ね」
 互いに相手の反応を窺うようにしながらも、頷き合う僕と栞なのでした。
 とはいえそれでもあまり自信がないというのに変わりはなく、なので続けてこんなふうにも。
「話し込んだっていうよりは、焼き飯と味噌汁作って食べてもらったってほうが正確かもしれませんけど……しかも食べたの大門さんじゃなくて、お弟子さん達でしたし」
「なるほど、言葉ではなく料理を介して語り合ったわけだ」
 えらい格好良いことしてたんですね僕達。いや、そうだとしたら僕達はあの時、食べてもらう側でこそあったものの食べる側には立たなかったので、語り「合う」ということにはならないような気がしますけど。
 ……と、照れていても仕方がない。いやそもそも照れる場面じゃないような気も。
 どんな顔をしているかは分かりませんが、そんな僕の顔を見て短く笑った後、高次さんはこう続けました。
「『分かったつもりで適当言ってる』、なんてさっき話に出てきたけどさ。分かったつもりになれるほど関わってる時点で結構好きだよね、その相手のこと」
 というのは当然、今の大門さんの話からの流れで、ということなのでしょう。
 そしてなるほど、それは確かに一理あるのかもしれません。
「嫌いだからっていうのもあったりしませんかね。嫌な話ですけど」
「大丈夫。その場合、分かったつもりになってもまず自分から話し掛けないし」
 ……これまたなるほど。適当なことを言う機会がまずない、というかむしろ避けようとすると。考えてみたらそうなりますよね、確かに。
 嫌いな人に自分からちょっかい出しに行く、というのもなくはないのかもしれませんが、それはその人の性格が悪いだけですしね――と、そんな理由で除外していいものなのかどうかは判断に迷うところですけど。あと、あんまりそっち方面に話を進めるのも気が引けるので、口にはしないでおきますけど。
「というわけで結局、この話を初めに言った人はその『相手』のことが好きってわけだよね。初めの人もその相手も誰かは知らないんだけどさ、俺」
 最初その話になった時は「誰が言ったか大体見当が付く」なんて言っていたのに、ここでそんなふうにとぼけてみせる高次さんでした。ううむ、この場合はお茶目と取るべきか優しいと取るべきか――いや、どっちもですかね。家守さんならそう言いそうな気がしますし。
 というようなことを考えていたところ、
「それが誰なのか知らない以上、日向くんも日向さんもその候補には上がってくるわけでね」
 高次さん、そんなふうにも。
 それはつまり、今度は僕と栞についてお茶目なことを言おうとしてらっしゃるのでしょうか、なんて予想を立ててもみたのですがしかし、結論から言ってそれは、完全に勘違いなのでした。
「俺からお願いするようなことじゃないけど、これからも宜しくしてやってね。楓のこと」
 それが誰なのか知らない、なんて前提を無理矢理に作っても、家守さんをそこから外せはしなかったらしい高次さん。優しいですよね、本当に。
「はい」
「もちろんです」
 家守さん本人に対する親しみはもちろん、そんな高次さんの気持ちに触れたこともあって、僕と栞は揃って気持ちよく頷いてみせることができたのでした。
「じゃあ、私達はそろそろ」
 切りのいいところで、ということなのでしょう、栞がそんなふうに。
 タイミングについてはもちろん高次さんがここで家守さんの帰りを待つということを考えても、その時までには僕と栞はここから移動していた方がいいのでしょう。であれば、僕としても異論はありません。
「そう? ごめんね、一息吐いてたところに押し掛けてこんな」
「いえ、一息ならちょうど吐き終わってたところですし。ね、孝さん」
「うん」
 と言った直後、残り僅かながらも未だ手元に残っていたジュースに気付きもした僕は、ここでそれを一気に飲み干してみせました。ええ、すっかり忘れてましたとも。
「吐き終わりました」
「はっは、どうもありがとうございます」
「どういたしまして」
 当初の予定通りでなかったというのは確かにそうですが、とはいえこれはこれで良い時間を過ごさせて頂いたわけですしね。
「それじゃあ高次さん、楓さんが戻ってきたらうんと優しくしてあげてくださいね。って、私から言うようなことでもないんでしょうけど」
 未練がましい、ということになるのでしょうか? 席を立ち、いよいよここを離れようとしたところで、栞はそんなふうに言い残そうとするのでした。
 が、言い残そうとした、ということで、そこで綺麗に終わりにできたというわけではなく。
「そのつもりだけど、どうだろうねえ。日向さんが考えてるようなことはちょっと無理かも」
「あれ、何でですか?」
「だって、五人全員で家の方に行ったんだよね? だったら楓、一人だけで帰ってくるわけじゃないだろうし」
「あっ」
 どうやら栞、人前でするのは躊躇われるような「優しくする」を想定していたらしいのでした。そしてそれを、見事なまでに見透かされてもいたようで。
 ……人目がなかったとしてもここ、玄関ロビーなんですけど。大胆なことをするには大胆過ぎる場所だと思うんですけど。誰かに見られさえしなければ問題ないとか、そういうことでいいんでしょうか?
 そしてそんなことを言っているのが我が妻ということで、ならばいずれその魔手が夫であるこの僕にも向けられたり――などと要らぬ想像を働かせてしまい始めたところ、
「あっ、いや、そういうのを考えてたわけじゃないんですけどね?」
 今更になってそんなことを言い始める我が妻なのでした。
「さすがに手遅れだよ栞」
「うう」
 と、まあそういうわけで。
「それじゃあ高次さん、家守さんを宜しく――じゃなくて、家守さんに宜しく」
「はっは、もちろん。まあここで待ってたって時点で、俺から宜しくするまでもなく二人の話になるとは思うけどね」
 言われてみれば確かにそうなりそうです。高次さんがここで自分を待っていたというのは、家守さんからすればどう見たって「高次さんが僕達に何か聞かされたから」ってことになってくるんでしょうしね。
 ……しかしそうなってくると逆に、無理に僕達の話をしなくてもいいですよ、なんて言いたくなってしまうのは何なんでしょうか? 家守さんに宜しく、なんて今言ったばかりだというのに。
 まあそういう面倒臭いのも家守さんが好きな「人と人との関わり」なんだろうな、などと自分の面倒臭さを誤魔化すように話をそちらへ移しつつ、そして先程の遣り取りからすっかり照れ入ってしまっている栞を先導しながら、高次さんと一旦のお別れをすることになりました。

「ああ恥ずかしかった」
「自分で言ったことだったのに」
「そうだけどさあ」
 ロビーを出て廊下へ入ったところ、つまり高次さんの視界から逃れたところで、詰まっていた息が解放されたかのように言葉を吐き出す栞なのでした。そういう話を好むというところだけでなく、打たれ弱いところまで家守さんに影響されているということなんでしょうか?……いやそもそも、家守さんに影響されているのか元々そういう性格だったのか、という疑問がないわけではないのですが。
 そしてそのどちらだったとしても、僕は喜ぶわけですが。
「ふふ、でもよかった」
「え、なに? 急に変な趣味に目覚めちゃった?」
「――そんなわけないでしょ?」
 …………。
 真面目に叱られてしまいました。なるほど、こういう方向性はNGと。覚えておきます。
 そんなふうに内心で話を逸らそうとしつつ、けれど逸らし切れずに委縮してもいたところ、ふう、とやや大きめな溜息を吐いてみせた栞は、すると即座に微笑を浮かべてもくるのでした。
 どうやら今の憤りはもちろん、さっきまで恥ずかしがっていたのもそれと一緒に飲み込んでしまったようです。ううむ、これはまんまと器の広さを見せ付けられてしまった形でしょうか。
 とまあ、それは別に夫婦で張り合うようなものではないでしょうし、ならばここは素直にその器の広さへ感謝を捧げておきましょう。


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