そんなふうに思いながらページを更に捲っていくと、写真の中のあの子はすくすくと育っていく。ただでさえ早いであろう成長を場面場面に切り取っているのだから、当たり前と言えば当たり前ではあるのだろうが。
そしてその途中、あの子が「いおり」という形のフェルトを縫い付けられた服を着ている写真があった。ということは、それがあの子の名前なのだろう。漢字にすると、伊織、だろうか? 他に書くとしたらどういう字になるのだろう。
まあ漢字がどうなるかはともかく、それにしても男の子か女の子か判断し辛い名前だった(男の子か女の子かを確認できるような写真もなかった)。それに似た私の名前はどう聞いても女の子のそれなのに、不思議なものだ。
…………。
……似た名前、か。
しおりといおり。どちらか一方からもう一方を想像してしまう、ということは充分に考えられる程度に似た名前ではあるものの、ならば、名前を付ける段階ではどうだったんだろうか? 私の名前を意識して、あの子に「いおり」と名付けたのだろうか?
死んでしまった私を意識して。私が死んでしまったことを意識して。
考え過ぎだろうとは思ったが、しかし本当にそうだったとしても、別に悪い気がしないわけではない。と、思う。むしろ喜ばしいんじゃないだろうか。とも、思う。何かしら意識するというのは、それはそれで不思議ではないのだろうし。なんせ――自分で言うのも変な感じだけど――過去に一人娘が死んでしまっているのだから。
自分には子どもがいない。だからそれがどれだけの重大さなのかは分からないけど、でもだからこそ、私の想像以上に重大なことなのではないだろうか。自分の場合は長い間を病院で過ごしていたとはいえ、人一人まるまる全部の責任を負うというのは、並大抵のことではないだろうし。
というふうに考えられるのは、自分以外の誰かと深い仲になったからなのだろう。「まるまる全部の」とまではやっぱりいかないけど、相手のことについてそれなりに責任を負っているんだし。
「いおりちゃん、か」
弟なのか妹なのかはまだ判明しないあの子の名前を、小さく呟いてみた。あれくらいの年なら、弟だったとしても「ちゃん」で問題ないだろう。
……なんとなく心にぽわんと温かいものが浮かんだように感じられ、そして気付けば私は、くすりと息を漏らしていた。まあ、心のことを言うなら、この家に来てから温まりっ放しではあるのだが。
更にアルバムのページを捲る。ページ数自体はまだまだ残っているのだが、しかし、写真が貼られていないページはすぐにやってきてしまった。あの子――いおりちゃんの年を考えれば、まだまだ「これから埋まっていく」という段階のアルバムだ。それが当り前ではあるのだろう。
私はアルバムを閉じ、そしてその場に放置した。できればちゃんと本棚に戻したかったところだが、もともとこうして置いてあったのだから仕方がない。
いおりちゃんが弟なのか妹なのか。あと、漢字で書く場合はどうなるのか。そんなところが気にはなりつつ、けれどそれだけでなくいい気分にもさせてもらい、私は自分の目的のための行動を続行することにした。
いおりちゃんのアルバムがここにあったのならもしかして私のものも、と思ってみたものの、しかし残念ながらそういうこともないようだった。ううむ、言ってみれば「故人ゆかりの品」ではあるんだし、どこかにそういうものが纏めてあったりするんだろうか?
既に処分されているという、できれば思い付きたくはなかった可能性が頭をよぎったりもしたものの、しかし可能性は可能性だ。あり得るかあり得ないかでいえばあり得ることなので、ならば考慮にいれておくべきなのだろう。ありもしないものをずっと探し続けるわけにもいかないのだし。
結局のところこの部屋でも私に纏わるようなものは見当たらず、ならば次の部屋へと足を進める。まあ次の部屋と言ってもお風呂場とトイレと、あと物置「部屋」ではない単なる物置を除けば、もうそこが最後の部屋だったりもするのだが。
「あっ」
しかしその最後の部屋で私は、恐らくそれ以上ないくらい、私に纏わっているものを見つけた。
いつ撮ったものだろうか、笑っている私の写真があった。そしてその周囲には、金色に光る品々が。私でなくともこの部屋に来た人はまずそれが目に付くであろうというくらい、それは目立っていた。
お仏壇だった。もちろん、私の。
自分の状態を考えれば、それがここにあることになんらの不思議はない。しかし、良いもの悪いものというのは別として、やはり自分のそれを目にするということには、少なからずショックを受けた。
今日この家へ来てから、私は自分に縁のあるものをいくつか見てきた。けれどそれらはこの喜坂家が現在の私をどう捉えているかを表したものではなく、私が自分の思い出に浸っていたものだった。
かつてこの喜坂家の一員だった喜坂栞は、死んでしまった。
これまで見てきたものとは違ってそれを見た私がどう思うまでもなく、今目の前にある仏壇は、その端的な事実を表していた。
もちろん今更になってそれで傷付くようなことはないのだが、ずしん、と胸にくるものがあった。自分が死んでしまっていることはもうわざわざ意識するレベルですらないほどに理解していたが、「喜坂家における喜坂栞の死」についてはどうやらそこまでではなかった、ということなのだろう。普通に考えれば自分が死んでしまえばそういうことになるのは当然だし、私だってそれくらいは分かっていたが……考えなければ自覚できない程度だった、というか。
「でも、安心するべきところだよね」
その言葉はもちろん自分に言い聞かせるためのものだった。今この場で私の声が届くのは、私だけなのだから。
死んでしまった私を、死んでしまったものとして受け止めてくれている。どんなにそれを拒絶しようと私が生き返ったりするわけではないのだから、それが最善なのだ。お父さんとお母さんにとっても、そして当然私にとっても。
仏壇に飾られている写真の中の私は、笑っている。さすがにこの場で笑顔になるのは不自然だろうけど、せめて気持ちの中身くらいはその笑顔と同じにしようと思った。そして同時に、そのためにもう暫くこの部屋に居ようとも。
――そう決めて仏壇の前に座り込み、一分か二分ほど経った頃だろうか? そういえばお母さんが上がったまま降りてきていない二階から、いおりちゃんのものと思われる泣き声が聞こえてきた。目が覚めてしまったということなのだろうが、しかしお母さんが傍にいる割に、なかなか泣きやまない様子だった。
「お腹空いたとか?」
適当に言ってみたが、もちろんそれが当たっている保証があるわけでもなければ、そもそも私がそんなことを呟いても特に意味はない。さて、どうするお母さん。いや、どうにかしたところで私には何をしたのか分からないけど。
分からないことは気になること。というわけで二階に上がりたくなってしまうが、そうもいかないだろう。いくらいおりちゃんの泣き声があるにしても、階段での足音を消すほどのものではないだろうし。
などといおりちゃんに気の毒なことを考えていると、動きがあった。どうして一階にいるままの私に二階で動きがあったことが分かったかというと、その動きというのがお母さんが階段を下りてきたことだからだ。
どうやらいおりちゃんも一緒のようで、家中に響く泣き声も階段を移動している。なのでその後も、わざわざこちらから様子を窺いに行くまでもなくお母さんの足取りが掴めるのだった。
が、しかしどうやらお母さん、こちらへ向かってきているらしい。お腹が空いたのなら台所――もしくは一階に下りてくるまでもなくおっぱいをあげるとか――だろうし、おむつを取り替えるとかだとしても、そういったものがこの部屋に置いてあるようには見えない。お母さんはこの部屋で何をするつもりなのだろうか? そして、その何かでいおりちゃんは泣きやむのだろうか?
気になっている間にもいおりちゃんの泣き声はどんどんこちらへ近付き、そして途中で立ち止まるようなこともなくこの部屋に到着。声を上げて泣いているいおりちゃんと困ったような顔のお母さんを前にすると、なんだか口を開いてはいけないような気分になってしまう。もちろん実際には、そうしたところでどうにもならないのだが。
しかし私はともかく、いま問題とすべきはお母さんがどうするかだ。
お母さんは、このいおりちゃんのご機嫌を取れそうなものが見当たらない部屋で何をどうしたか。
「ほら、お姉ちゃんですよ」
……いおりちゃんを、仏壇に飾られている私の写真に近付けた。まるで想像だにしない展開だった。
けれどやはり母親がすること。突拍子もないことをしながら何の効果もないというわけがなく、というかむしろ効果は抜群で、いおりちゃんはあっさり泣きやんだ挙句にきゃっきゃと笑い始めさえ。
いおりちゃんは赤ちゃんだ。ならばもちろん「お姉ちゃん」という言葉の意味を知っているわけがなく、笑っている私の写真だって、ちゃんと見えているかどうか分かったものではない。けれど現にこうして私の写真で喜んでいるというのは、どういうことなのだろう? 実は写真じゃなくて周りの金色が好きとか?
という身も蓋もないことを即座に考えてしまうのは、照れ隠しなのだろう。
「不思議な子ねえ」
何度もこれと同じことをしているであろうお母さんでも同じような感想らしく(それが照れ隠しであることはともかく)、けれどそうは言いながら、口元には笑みを浮かべていた。
「栞、見えてる?」
笑んだ口元から、そんな言葉が。
「今日もあなたのことが大好きみたいよ、あたなの妹は」
言いながらお母さんは、いおりちゃんの手を私の写真へ向けてぱたぱたと振らせた。でもやっぱりいおりちゃんには意味が分かっていないようで、ぱたぱたと振られる手は、グーの形のままだった。
もちろんそれは今ここにいる私でなく、写真の中の私――つまりは「もういなくなってしまった私」への言葉だ。
「そうみたいだね」
それでも私は、そう一言だけ返事をしておいた。もちろんそれはお母さんにも、そしていおりちゃんにも届きはしないんだけど。
「――あ、妹だったんだ」
こちらは返事でなく単なる呟きだったが、そういうことなんだそうだった。となるといおりちゃんも、私がそうだったようにピンクの服を他の色より多めに買ってもらうことになるんだろうか? おかげで私は別の人に服を買ってもらってもピンクの服ばかり着るほどになったけど、いおりちゃんはどうなるだろうか?
「ふふっ」
そんな想像が可笑しかったのか、それとも幸せだったのか、気が付くと私は小さく笑っていた。
お母さんが私の名前を呼んでくれた。
そこから私は、自分の経験といおりちゃんを関連付けた想像をした。
……どうやら私は、まだこの家に残っているらしかった。今でも喜坂家の一員として、お父さんとお母さんの娘として、いおりちゃんの姉として、この家に。
「あら、また寝ちゃったわ」
お母さん、気の抜けたような声。それはもちろんいおりちゃんの話で、お母さんの腕の中で、ついさっきもそうだったようにすやすやと。まだ寝足りない時に目が覚めてしまった、ということだったのだろう。
「もう少し大きくなったらお姉ちゃんのベッドを使わせてあげられるんだけどね。おやすみ、伊織」
そう言って、お母さんは再び立ち上がった。そして残った私は、今の話について考える。
――私のベッド? でも、確かもう私の部屋から運び出されていたような……? どこかに置かれているにしても、お父さんとお母さんの寝室にはベッドを追加するようなスペースはないだろうし、一階の部屋はもう全部見て回ったし、じゃあどこに?
まだ見ていない部屋は、寝室を除くともう一つしかなかった。その寝室と私の部屋の間にある、物置部屋だ。
今は空き部屋も同然な私の部屋を今後いおりちゃんの部屋にするつもりならば、わざわざベッドを運び出す必要はない筈だ。だったら今ベッドが置いてあるであろうあの物置部屋が、いおりちゃんの部屋になるということだろうか? となると、今の時点でもう「物置部屋」ではないのかもしれない。うむむ、覗いてみるくらいはしておけばよかったか。
…………。
私の部屋にあったものを、いおりちゃんの部屋に移したという話。確認したわけではない以上、まだそれは私の想像でしかないんだけど――。
私の部屋をそのままいおりちゃんの部屋にするのではなく、わざわざ家具を移しまでして私の部屋を「私の部屋」として残してくれていることは、とても嬉しかった。そしてもちろん、私が使っていたものをいおりちゃんに使わせる、ということも同様に。
ついさっきも感じたことではあるけど、私は本当に、まだこの家の家族でいられているらしかった。でもなければ、こんなにも幸福になることはないのだろうから。
…………。
よし、決めた。
家を出た私は、立ち去る前に玄関前から家を振り返った。
私はここで生まれ、ここで育ち、そして死んでしまった。私はそれで「私」が終わってしまったと思い、なのに何も変わらないこの世界に深く嫉妬し、そして呪った。
その後あまくに荘に住むことになり、優しいみんなと知り合って呪いにぶれが生じ、そして最終的にはこうくんから現在における――つまりは「死後の」幸せを沢山貰って、救われた。この世界と、何よりこの幽霊である自分を、受け入れられることができた。
けれど、そもそも「私」は終わってなどいなかったのだ。死んでしまった私はそれでも喜坂家の長女で、お父さんとお母さんの娘で、そして今ではいおりちゃんの姉ですらある。終わるどころか、まだまだ続いているのだ。
こうなってから気付くなんて……いや、こうなったからこそ気付けたのだろう。私はずっと、幸せの中にあったのだ。この家で暮らしていた時も、病院暮らしが始まってしまった時も、自分が死んでしまうという事実に絶望していた時ですら、それでも私を愛してくれる人達に囲まれていたのだ。
家族がいる。生きている間からすればそれは極々当たり前のことで、ならばそれを幸せだなんてわざわざ思ったりしないのだろう。けれど私は今、間違いなく幸せだった。だからこそ、答えを出すこともできた。
「『私』を、ありがとうございました」
私はもう、ここへは戻らない。
「お帰り、喜坂」
あまくに荘に着き、恐らくは集まっているであろうみんなはどの部屋にいるだろうか、と思っていたら、探すまでもなくあちらから声を掛けられた。台所の窓から顔を出したのは成美ちゃん、そしてその部屋は203号室。つまり、午前中と同じというわけだ。
「入れ入れ、皆待っていたぞ」
「あはは、ごめんね。お待たせしました」
やっぱりみんなここに集まっていた。というわけで――いや、そうじゃなくてもお邪魔していたかもしれないけど――私は、みんなと合流することにした。
「お邪魔します。……それで、成美ちゃん」
「ん?」
「耳出してるけど、どこか行ってたの?」
散歩の時は耳を出していなかったので、つまりそれは散歩以外で、ということだ。服を着替えなければならない以上、まさか外でそのまま耳を出すってことはないだろう。裸で歩き回ることになっちゃうし。
「いや、買い物に行くところだったのだ。お前がいつ戻ってくるか分からなかったから、そのまま行ってしまうべきか待つべきかで悩んでいてな」
「あ……」
みんなが待っていたというのは、そういう意味もあったのか。
「ごめんね」
「いやいや。それより、戻ってきてすぐまた行くというのも疲れるだろう? 行くのは少し時間を取ってからにしよう」
「ありがとう」
構わずに行ってくれれば、という返事も思い付かないわけではなかったけど、ここは素直に甘えさせてもらうことにした。なんとなくそういう気分だった、というだけのことだけど。
居間に入ると、みんながそれぞれの言い方で「お帰り」を言ってくれた。いつものことなのに、なんだか妙に嬉しく感じてしまう。
それに返事をした後、私が腰を落ち着けたのは、これもまたいつものことながらこうくんの隣。そしてやっぱりこれもまた、なんだか妙に嬉しい。
「それで、お買い物って?」
特にその嬉しさを表に出すようなことはしないまま、私は成美ちゃんに尋ねた。けど、返事はこうくんからだった。
「ああ、僕の用事なんですけどね。食材の買い出し。でもなんだか、みんなで行くことになって」
「ふふん、なんせ暇だからな」
成美ちゃんは何故か威張るように胸を張っていた。耳を出しているということは、ただ一緒にいくだけでなく何かしら手伝おうというつもりでもあるのだろう。……ああそうそう、それがなくても今日は火曜日だし、
「あとついでに、魚を買いにも行こうと思ってな」
そう、それがあったんだった。
もう少し時間が違えば、さっきお魚屋さんで買い物をした私のお母さんとすれ違うくらいはしたのかな、なんてことを思ったりもしてしまう。もちろんみんなは私のお母さんの顔は知らないわけで、まさか髪の色が同じってだけで私のお母さんだなんて思ったりもしないだろう。でもなんとなく、ちょっとだけ勿体無いような気分になってしまう。
「くくく。今日はこの状態だ、何匹買わなければならないのだろうね」
「まあオレ等、金も余ってるしな。買ってきた後に捌くのは大変だろうけど」
「ああ、それは僕も手伝えるから大丈夫だと思うよ」
「あ、あの、怒橋さん。その、実はネズミが切れてたりするんですけど」
「ん? おお、じゃあそっちも買いに行くか。えーと孝一、別にいいよな?」
「うん。急ぐわけじゃないしね別に」
みんなは私が疲れるだろうということでこうして時間を取ってくれているわけだけど、もしかしたら時間なんて取ってもらわなくても、この中にいるだけで疲れなんて飛んでしまうんじゃないだろうか。そう思ってしまうくらい、なんだか居心地が良かった。
でもそうしてぽわぽわしているうちに、あることに気付いた。
私だってそろそろ戦力に数えてくれても良かったんじゃないだろうか? お刺身作り。もちろん言い出さなかった私も悪いんだけどさ、でも、昨日の夜ご飯の三枚おろしだってちゃんと出来たんだし――ん? あれ、そういえば。
「孝一くん、お昼ご飯は?」
大学から帰ってきて、そのまま散歩に同行したこうくん。その散歩から帰って来てからもここにいたということは、みんなと一緒にお昼ご飯を食べたということでもない限り、まだ食べてないということになるんじゃないだろうか。
「え? ああ、まだです」
やっぱり。ということは?
「もしかして、お昼ご飯用の食材すら残ってないとか? 私が帰ってくるまでに食べる暇くらいはあっただろうし」
「ああいえ、そういうわけじゃないんですけど……」
何やら言い淀むこうくん。じゃあ、どういうわけなんだろう? どういうわけだったら、言い淀むようなことになるんだろう。
するとそんなこうくんに変わって、ナタリーが一言。
「『お帰りなさい』って、言えたら気持ちいいですもんね」
「いやっ……!」
「あれ、違いましたか?」
「……いや、違わない、です、けど」
一瞬で真っ赤になりつつ、不自然な口調でそう返したこうくん、というわけで、ここでみんなと私の帰りを待つことを優先してくれたそうだった。
今更そんなことで赤くならなくても、とは思ったけど、多分それは私へ向けた恥ずかしさではなく、みんなへ向けた恥ずかしさなのだろう。もちろん、私は嬉しくなるばかりだけど。
暫くののち、「お待たせしました」とどこか照れ臭そうに昼食を終えて204号室から202号室に戻ってきたこうくん。それを出発の合図に、私達はお買い物に出掛けることにした。
せっかくだからお昼ご飯もみんなで一緒にと思わないでもなかったけど、それはまあお刺身のほうで、ということで。
「じゃあオレはいつものよーに」
「うむ。頼むぞ大吾」
デパート前。大吾くんはその言葉通り、いつものようにジョンとナタリーと、あとチューズデーと猫さんと一緒に、外のベンチで待つことに。強いていつもと違う点を挙げるなら猫さんがいることくらいだろうけど、しかしそれだけでも、いつもより随分賑やかに見えるものだった。とは言っても、その猫さん自身は全く賑やかではないんだけど。
「では行ってくる」
「ああ」
遣り取り自体は至って普通なものだけど、でもその口調から、成美ちゃんはなんだか張り切っているようだった。多分、こうくんの買い物はなかなか手伝えないから、ということだろうと思う。私達とは違って、こうくんは自分で買うことができるわけだし。
そんな成美ちゃんと違って私はただついていくだけになっちゃうけど、それはともかくお店の中へ。今更気にすることでもないしね。
「食いものを買うんだったな? 他には何もないのか?」
「んー、そうですね。今は特に」
そういえばこうくんってあんまりお金使わないなあ、なんてことを今更ながら。とはいえ料理が趣味である以上、食材へお金を使うのは文字通り趣味と実益を兼ねているわけだから、むしろ人よりお金を使わないのは当然なのかもしれない。私のお買い物に付き合って何か買ったりとか、そういうことはあるにせよ。
「……あの、成美ちゃん」
「なんだ?」
「ええと、置物、見に行ってもいいかな」
私のお買い物、という言葉を思い付いたせいか、不意にそうしたくなってしまった。
「置物?――ああ、陶器のあれか。もちろん全く構わんぞ。わたしではなく日向に言うことのような気もするが」
ああそうか、今ここにいるのはあくまでもこうくんの用事で、なんだった。
「言うまでもないっていうか先に言われちゃってますけど、僕も構いませんよ」
こうくんはそう言って、躊躇いがちな笑みを浮かべていた。
食材を持ちながら歩き回るのも、ということで、本来の用事よりも先に私の頼みが優先されることになった。とはいえお金を持ってきていないので、「見に行ってもいいかな」という言葉通り、本当にただ見るだけだけど。
「あっ」
動物をかたどった陶器の置物。私が幾つか買い集めているそれに、新しい種類のものが増えていた。なにも全ての種類を買いたいということではないんだけど、しかし目にした瞬間、それを欲しいと思ってしまった。
「む? おお、これは――いや、ちょっと惜しいような気もしないではないが」
感心したと思いきや、直後にそんなことを言いもする成美ちゃん。でもまあ、気持ちは分からないでもない。
今回増えていた新しい種類。それは、黒猫だった。
だったら白猫もあっていいんじゃないかなあと思うのは、なにも隣に成美ちゃんがいるからというわけではないと思う。多分。
「それじゃあ、チューズデーさんは絶賛ですかね?」
「どうだろうな。あいつは口煩いから、あそこがこうだとかここがああだとか、細かい不満を並べ立てるんじゃないか? あいつと同じ黒猫ではあるが、あいつに似ているというわけでもないようだし」
「ああ、分かるような気がします」
とても失礼な成美ちゃんとこうくんの会話。でも残念なことに、私も同じようなことを考えてしまっていた。ただ、だからって本気で不満を持たれることもないんだろうな、とも思ったけど。
……いや、それくらいのことだったら成美ちゃんとこうくんも考えてるかな、やっぱり。
そしてその途中、あの子が「いおり」という形のフェルトを縫い付けられた服を着ている写真があった。ということは、それがあの子の名前なのだろう。漢字にすると、伊織、だろうか? 他に書くとしたらどういう字になるのだろう。
まあ漢字がどうなるかはともかく、それにしても男の子か女の子か判断し辛い名前だった(男の子か女の子かを確認できるような写真もなかった)。それに似た私の名前はどう聞いても女の子のそれなのに、不思議なものだ。
…………。
……似た名前、か。
しおりといおり。どちらか一方からもう一方を想像してしまう、ということは充分に考えられる程度に似た名前ではあるものの、ならば、名前を付ける段階ではどうだったんだろうか? 私の名前を意識して、あの子に「いおり」と名付けたのだろうか?
死んでしまった私を意識して。私が死んでしまったことを意識して。
考え過ぎだろうとは思ったが、しかし本当にそうだったとしても、別に悪い気がしないわけではない。と、思う。むしろ喜ばしいんじゃないだろうか。とも、思う。何かしら意識するというのは、それはそれで不思議ではないのだろうし。なんせ――自分で言うのも変な感じだけど――過去に一人娘が死んでしまっているのだから。
自分には子どもがいない。だからそれがどれだけの重大さなのかは分からないけど、でもだからこそ、私の想像以上に重大なことなのではないだろうか。自分の場合は長い間を病院で過ごしていたとはいえ、人一人まるまる全部の責任を負うというのは、並大抵のことではないだろうし。
というふうに考えられるのは、自分以外の誰かと深い仲になったからなのだろう。「まるまる全部の」とまではやっぱりいかないけど、相手のことについてそれなりに責任を負っているんだし。
「いおりちゃん、か」
弟なのか妹なのかはまだ判明しないあの子の名前を、小さく呟いてみた。あれくらいの年なら、弟だったとしても「ちゃん」で問題ないだろう。
……なんとなく心にぽわんと温かいものが浮かんだように感じられ、そして気付けば私は、くすりと息を漏らしていた。まあ、心のことを言うなら、この家に来てから温まりっ放しではあるのだが。
更にアルバムのページを捲る。ページ数自体はまだまだ残っているのだが、しかし、写真が貼られていないページはすぐにやってきてしまった。あの子――いおりちゃんの年を考えれば、まだまだ「これから埋まっていく」という段階のアルバムだ。それが当り前ではあるのだろう。
私はアルバムを閉じ、そしてその場に放置した。できればちゃんと本棚に戻したかったところだが、もともとこうして置いてあったのだから仕方がない。
いおりちゃんが弟なのか妹なのか。あと、漢字で書く場合はどうなるのか。そんなところが気にはなりつつ、けれどそれだけでなくいい気分にもさせてもらい、私は自分の目的のための行動を続行することにした。
いおりちゃんのアルバムがここにあったのならもしかして私のものも、と思ってみたものの、しかし残念ながらそういうこともないようだった。ううむ、言ってみれば「故人ゆかりの品」ではあるんだし、どこかにそういうものが纏めてあったりするんだろうか?
既に処分されているという、できれば思い付きたくはなかった可能性が頭をよぎったりもしたものの、しかし可能性は可能性だ。あり得るかあり得ないかでいえばあり得ることなので、ならば考慮にいれておくべきなのだろう。ありもしないものをずっと探し続けるわけにもいかないのだし。
結局のところこの部屋でも私に纏わるようなものは見当たらず、ならば次の部屋へと足を進める。まあ次の部屋と言ってもお風呂場とトイレと、あと物置「部屋」ではない単なる物置を除けば、もうそこが最後の部屋だったりもするのだが。
「あっ」
しかしその最後の部屋で私は、恐らくそれ以上ないくらい、私に纏わっているものを見つけた。
いつ撮ったものだろうか、笑っている私の写真があった。そしてその周囲には、金色に光る品々が。私でなくともこの部屋に来た人はまずそれが目に付くであろうというくらい、それは目立っていた。
お仏壇だった。もちろん、私の。
自分の状態を考えれば、それがここにあることになんらの不思議はない。しかし、良いもの悪いものというのは別として、やはり自分のそれを目にするということには、少なからずショックを受けた。
今日この家へ来てから、私は自分に縁のあるものをいくつか見てきた。けれどそれらはこの喜坂家が現在の私をどう捉えているかを表したものではなく、私が自分の思い出に浸っていたものだった。
かつてこの喜坂家の一員だった喜坂栞は、死んでしまった。
これまで見てきたものとは違ってそれを見た私がどう思うまでもなく、今目の前にある仏壇は、その端的な事実を表していた。
もちろん今更になってそれで傷付くようなことはないのだが、ずしん、と胸にくるものがあった。自分が死んでしまっていることはもうわざわざ意識するレベルですらないほどに理解していたが、「喜坂家における喜坂栞の死」についてはどうやらそこまでではなかった、ということなのだろう。普通に考えれば自分が死んでしまえばそういうことになるのは当然だし、私だってそれくらいは分かっていたが……考えなければ自覚できない程度だった、というか。
「でも、安心するべきところだよね」
その言葉はもちろん自分に言い聞かせるためのものだった。今この場で私の声が届くのは、私だけなのだから。
死んでしまった私を、死んでしまったものとして受け止めてくれている。どんなにそれを拒絶しようと私が生き返ったりするわけではないのだから、それが最善なのだ。お父さんとお母さんにとっても、そして当然私にとっても。
仏壇に飾られている写真の中の私は、笑っている。さすがにこの場で笑顔になるのは不自然だろうけど、せめて気持ちの中身くらいはその笑顔と同じにしようと思った。そして同時に、そのためにもう暫くこの部屋に居ようとも。
――そう決めて仏壇の前に座り込み、一分か二分ほど経った頃だろうか? そういえばお母さんが上がったまま降りてきていない二階から、いおりちゃんのものと思われる泣き声が聞こえてきた。目が覚めてしまったということなのだろうが、しかしお母さんが傍にいる割に、なかなか泣きやまない様子だった。
「お腹空いたとか?」
適当に言ってみたが、もちろんそれが当たっている保証があるわけでもなければ、そもそも私がそんなことを呟いても特に意味はない。さて、どうするお母さん。いや、どうにかしたところで私には何をしたのか分からないけど。
分からないことは気になること。というわけで二階に上がりたくなってしまうが、そうもいかないだろう。いくらいおりちゃんの泣き声があるにしても、階段での足音を消すほどのものではないだろうし。
などといおりちゃんに気の毒なことを考えていると、動きがあった。どうして一階にいるままの私に二階で動きがあったことが分かったかというと、その動きというのがお母さんが階段を下りてきたことだからだ。
どうやらいおりちゃんも一緒のようで、家中に響く泣き声も階段を移動している。なのでその後も、わざわざこちらから様子を窺いに行くまでもなくお母さんの足取りが掴めるのだった。
が、しかしどうやらお母さん、こちらへ向かってきているらしい。お腹が空いたのなら台所――もしくは一階に下りてくるまでもなくおっぱいをあげるとか――だろうし、おむつを取り替えるとかだとしても、そういったものがこの部屋に置いてあるようには見えない。お母さんはこの部屋で何をするつもりなのだろうか? そして、その何かでいおりちゃんは泣きやむのだろうか?
気になっている間にもいおりちゃんの泣き声はどんどんこちらへ近付き、そして途中で立ち止まるようなこともなくこの部屋に到着。声を上げて泣いているいおりちゃんと困ったような顔のお母さんを前にすると、なんだか口を開いてはいけないような気分になってしまう。もちろん実際には、そうしたところでどうにもならないのだが。
しかし私はともかく、いま問題とすべきはお母さんがどうするかだ。
お母さんは、このいおりちゃんのご機嫌を取れそうなものが見当たらない部屋で何をどうしたか。
「ほら、お姉ちゃんですよ」
……いおりちゃんを、仏壇に飾られている私の写真に近付けた。まるで想像だにしない展開だった。
けれどやはり母親がすること。突拍子もないことをしながら何の効果もないというわけがなく、というかむしろ効果は抜群で、いおりちゃんはあっさり泣きやんだ挙句にきゃっきゃと笑い始めさえ。
いおりちゃんは赤ちゃんだ。ならばもちろん「お姉ちゃん」という言葉の意味を知っているわけがなく、笑っている私の写真だって、ちゃんと見えているかどうか分かったものではない。けれど現にこうして私の写真で喜んでいるというのは、どういうことなのだろう? 実は写真じゃなくて周りの金色が好きとか?
という身も蓋もないことを即座に考えてしまうのは、照れ隠しなのだろう。
「不思議な子ねえ」
何度もこれと同じことをしているであろうお母さんでも同じような感想らしく(それが照れ隠しであることはともかく)、けれどそうは言いながら、口元には笑みを浮かべていた。
「栞、見えてる?」
笑んだ口元から、そんな言葉が。
「今日もあなたのことが大好きみたいよ、あたなの妹は」
言いながらお母さんは、いおりちゃんの手を私の写真へ向けてぱたぱたと振らせた。でもやっぱりいおりちゃんには意味が分かっていないようで、ぱたぱたと振られる手は、グーの形のままだった。
もちろんそれは今ここにいる私でなく、写真の中の私――つまりは「もういなくなってしまった私」への言葉だ。
「そうみたいだね」
それでも私は、そう一言だけ返事をしておいた。もちろんそれはお母さんにも、そしていおりちゃんにも届きはしないんだけど。
「――あ、妹だったんだ」
こちらは返事でなく単なる呟きだったが、そういうことなんだそうだった。となるといおりちゃんも、私がそうだったようにピンクの服を他の色より多めに買ってもらうことになるんだろうか? おかげで私は別の人に服を買ってもらってもピンクの服ばかり着るほどになったけど、いおりちゃんはどうなるだろうか?
「ふふっ」
そんな想像が可笑しかったのか、それとも幸せだったのか、気が付くと私は小さく笑っていた。
お母さんが私の名前を呼んでくれた。
そこから私は、自分の経験といおりちゃんを関連付けた想像をした。
……どうやら私は、まだこの家に残っているらしかった。今でも喜坂家の一員として、お父さんとお母さんの娘として、いおりちゃんの姉として、この家に。
「あら、また寝ちゃったわ」
お母さん、気の抜けたような声。それはもちろんいおりちゃんの話で、お母さんの腕の中で、ついさっきもそうだったようにすやすやと。まだ寝足りない時に目が覚めてしまった、ということだったのだろう。
「もう少し大きくなったらお姉ちゃんのベッドを使わせてあげられるんだけどね。おやすみ、伊織」
そう言って、お母さんは再び立ち上がった。そして残った私は、今の話について考える。
――私のベッド? でも、確かもう私の部屋から運び出されていたような……? どこかに置かれているにしても、お父さんとお母さんの寝室にはベッドを追加するようなスペースはないだろうし、一階の部屋はもう全部見て回ったし、じゃあどこに?
まだ見ていない部屋は、寝室を除くともう一つしかなかった。その寝室と私の部屋の間にある、物置部屋だ。
今は空き部屋も同然な私の部屋を今後いおりちゃんの部屋にするつもりならば、わざわざベッドを運び出す必要はない筈だ。だったら今ベッドが置いてあるであろうあの物置部屋が、いおりちゃんの部屋になるということだろうか? となると、今の時点でもう「物置部屋」ではないのかもしれない。うむむ、覗いてみるくらいはしておけばよかったか。
…………。
私の部屋にあったものを、いおりちゃんの部屋に移したという話。確認したわけではない以上、まだそれは私の想像でしかないんだけど――。
私の部屋をそのままいおりちゃんの部屋にするのではなく、わざわざ家具を移しまでして私の部屋を「私の部屋」として残してくれていることは、とても嬉しかった。そしてもちろん、私が使っていたものをいおりちゃんに使わせる、ということも同様に。
ついさっきも感じたことではあるけど、私は本当に、まだこの家の家族でいられているらしかった。でもなければ、こんなにも幸福になることはないのだろうから。
…………。
よし、決めた。
家を出た私は、立ち去る前に玄関前から家を振り返った。
私はここで生まれ、ここで育ち、そして死んでしまった。私はそれで「私」が終わってしまったと思い、なのに何も変わらないこの世界に深く嫉妬し、そして呪った。
その後あまくに荘に住むことになり、優しいみんなと知り合って呪いにぶれが生じ、そして最終的にはこうくんから現在における――つまりは「死後の」幸せを沢山貰って、救われた。この世界と、何よりこの幽霊である自分を、受け入れられることができた。
けれど、そもそも「私」は終わってなどいなかったのだ。死んでしまった私はそれでも喜坂家の長女で、お父さんとお母さんの娘で、そして今ではいおりちゃんの姉ですらある。終わるどころか、まだまだ続いているのだ。
こうなってから気付くなんて……いや、こうなったからこそ気付けたのだろう。私はずっと、幸せの中にあったのだ。この家で暮らしていた時も、病院暮らしが始まってしまった時も、自分が死んでしまうという事実に絶望していた時ですら、それでも私を愛してくれる人達に囲まれていたのだ。
家族がいる。生きている間からすればそれは極々当たり前のことで、ならばそれを幸せだなんてわざわざ思ったりしないのだろう。けれど私は今、間違いなく幸せだった。だからこそ、答えを出すこともできた。
「『私』を、ありがとうございました」
私はもう、ここへは戻らない。
「お帰り、喜坂」
あまくに荘に着き、恐らくは集まっているであろうみんなはどの部屋にいるだろうか、と思っていたら、探すまでもなくあちらから声を掛けられた。台所の窓から顔を出したのは成美ちゃん、そしてその部屋は203号室。つまり、午前中と同じというわけだ。
「入れ入れ、皆待っていたぞ」
「あはは、ごめんね。お待たせしました」
やっぱりみんなここに集まっていた。というわけで――いや、そうじゃなくてもお邪魔していたかもしれないけど――私は、みんなと合流することにした。
「お邪魔します。……それで、成美ちゃん」
「ん?」
「耳出してるけど、どこか行ってたの?」
散歩の時は耳を出していなかったので、つまりそれは散歩以外で、ということだ。服を着替えなければならない以上、まさか外でそのまま耳を出すってことはないだろう。裸で歩き回ることになっちゃうし。
「いや、買い物に行くところだったのだ。お前がいつ戻ってくるか分からなかったから、そのまま行ってしまうべきか待つべきかで悩んでいてな」
「あ……」
みんなが待っていたというのは、そういう意味もあったのか。
「ごめんね」
「いやいや。それより、戻ってきてすぐまた行くというのも疲れるだろう? 行くのは少し時間を取ってからにしよう」
「ありがとう」
構わずに行ってくれれば、という返事も思い付かないわけではなかったけど、ここは素直に甘えさせてもらうことにした。なんとなくそういう気分だった、というだけのことだけど。
居間に入ると、みんながそれぞれの言い方で「お帰り」を言ってくれた。いつものことなのに、なんだか妙に嬉しく感じてしまう。
それに返事をした後、私が腰を落ち着けたのは、これもまたいつものことながらこうくんの隣。そしてやっぱりこれもまた、なんだか妙に嬉しい。
「それで、お買い物って?」
特にその嬉しさを表に出すようなことはしないまま、私は成美ちゃんに尋ねた。けど、返事はこうくんからだった。
「ああ、僕の用事なんですけどね。食材の買い出し。でもなんだか、みんなで行くことになって」
「ふふん、なんせ暇だからな」
成美ちゃんは何故か威張るように胸を張っていた。耳を出しているということは、ただ一緒にいくだけでなく何かしら手伝おうというつもりでもあるのだろう。……ああそうそう、それがなくても今日は火曜日だし、
「あとついでに、魚を買いにも行こうと思ってな」
そう、それがあったんだった。
もう少し時間が違えば、さっきお魚屋さんで買い物をした私のお母さんとすれ違うくらいはしたのかな、なんてことを思ったりもしてしまう。もちろんみんなは私のお母さんの顔は知らないわけで、まさか髪の色が同じってだけで私のお母さんだなんて思ったりもしないだろう。でもなんとなく、ちょっとだけ勿体無いような気分になってしまう。
「くくく。今日はこの状態だ、何匹買わなければならないのだろうね」
「まあオレ等、金も余ってるしな。買ってきた後に捌くのは大変だろうけど」
「ああ、それは僕も手伝えるから大丈夫だと思うよ」
「あ、あの、怒橋さん。その、実はネズミが切れてたりするんですけど」
「ん? おお、じゃあそっちも買いに行くか。えーと孝一、別にいいよな?」
「うん。急ぐわけじゃないしね別に」
みんなは私が疲れるだろうということでこうして時間を取ってくれているわけだけど、もしかしたら時間なんて取ってもらわなくても、この中にいるだけで疲れなんて飛んでしまうんじゃないだろうか。そう思ってしまうくらい、なんだか居心地が良かった。
でもそうしてぽわぽわしているうちに、あることに気付いた。
私だってそろそろ戦力に数えてくれても良かったんじゃないだろうか? お刺身作り。もちろん言い出さなかった私も悪いんだけどさ、でも、昨日の夜ご飯の三枚おろしだってちゃんと出来たんだし――ん? あれ、そういえば。
「孝一くん、お昼ご飯は?」
大学から帰ってきて、そのまま散歩に同行したこうくん。その散歩から帰って来てからもここにいたということは、みんなと一緒にお昼ご飯を食べたということでもない限り、まだ食べてないということになるんじゃないだろうか。
「え? ああ、まだです」
やっぱり。ということは?
「もしかして、お昼ご飯用の食材すら残ってないとか? 私が帰ってくるまでに食べる暇くらいはあっただろうし」
「ああいえ、そういうわけじゃないんですけど……」
何やら言い淀むこうくん。じゃあ、どういうわけなんだろう? どういうわけだったら、言い淀むようなことになるんだろう。
するとそんなこうくんに変わって、ナタリーが一言。
「『お帰りなさい』って、言えたら気持ちいいですもんね」
「いやっ……!」
「あれ、違いましたか?」
「……いや、違わない、です、けど」
一瞬で真っ赤になりつつ、不自然な口調でそう返したこうくん、というわけで、ここでみんなと私の帰りを待つことを優先してくれたそうだった。
今更そんなことで赤くならなくても、とは思ったけど、多分それは私へ向けた恥ずかしさではなく、みんなへ向けた恥ずかしさなのだろう。もちろん、私は嬉しくなるばかりだけど。
暫くののち、「お待たせしました」とどこか照れ臭そうに昼食を終えて204号室から202号室に戻ってきたこうくん。それを出発の合図に、私達はお買い物に出掛けることにした。
せっかくだからお昼ご飯もみんなで一緒にと思わないでもなかったけど、それはまあお刺身のほうで、ということで。
「じゃあオレはいつものよーに」
「うむ。頼むぞ大吾」
デパート前。大吾くんはその言葉通り、いつものようにジョンとナタリーと、あとチューズデーと猫さんと一緒に、外のベンチで待つことに。強いていつもと違う点を挙げるなら猫さんがいることくらいだろうけど、しかしそれだけでも、いつもより随分賑やかに見えるものだった。とは言っても、その猫さん自身は全く賑やかではないんだけど。
「では行ってくる」
「ああ」
遣り取り自体は至って普通なものだけど、でもその口調から、成美ちゃんはなんだか張り切っているようだった。多分、こうくんの買い物はなかなか手伝えないから、ということだろうと思う。私達とは違って、こうくんは自分で買うことができるわけだし。
そんな成美ちゃんと違って私はただついていくだけになっちゃうけど、それはともかくお店の中へ。今更気にすることでもないしね。
「食いものを買うんだったな? 他には何もないのか?」
「んー、そうですね。今は特に」
そういえばこうくんってあんまりお金使わないなあ、なんてことを今更ながら。とはいえ料理が趣味である以上、食材へお金を使うのは文字通り趣味と実益を兼ねているわけだから、むしろ人よりお金を使わないのは当然なのかもしれない。私のお買い物に付き合って何か買ったりとか、そういうことはあるにせよ。
「……あの、成美ちゃん」
「なんだ?」
「ええと、置物、見に行ってもいいかな」
私のお買い物、という言葉を思い付いたせいか、不意にそうしたくなってしまった。
「置物?――ああ、陶器のあれか。もちろん全く構わんぞ。わたしではなく日向に言うことのような気もするが」
ああそうか、今ここにいるのはあくまでもこうくんの用事で、なんだった。
「言うまでもないっていうか先に言われちゃってますけど、僕も構いませんよ」
こうくんはそう言って、躊躇いがちな笑みを浮かべていた。
食材を持ちながら歩き回るのも、ということで、本来の用事よりも先に私の頼みが優先されることになった。とはいえお金を持ってきていないので、「見に行ってもいいかな」という言葉通り、本当にただ見るだけだけど。
「あっ」
動物をかたどった陶器の置物。私が幾つか買い集めているそれに、新しい種類のものが増えていた。なにも全ての種類を買いたいということではないんだけど、しかし目にした瞬間、それを欲しいと思ってしまった。
「む? おお、これは――いや、ちょっと惜しいような気もしないではないが」
感心したと思いきや、直後にそんなことを言いもする成美ちゃん。でもまあ、気持ちは分からないでもない。
今回増えていた新しい種類。それは、黒猫だった。
だったら白猫もあっていいんじゃないかなあと思うのは、なにも隣に成美ちゃんがいるからというわけではないと思う。多分。
「それじゃあ、チューズデーさんは絶賛ですかね?」
「どうだろうな。あいつは口煩いから、あそこがこうだとかここがああだとか、細かい不満を並べ立てるんじゃないか? あいつと同じ黒猫ではあるが、あいつに似ているというわけでもないようだし」
「ああ、分かるような気がします」
とても失礼な成美ちゃんとこうくんの会話。でも残念なことに、私も同じようなことを考えてしまっていた。ただ、だからって本気で不満を持たれることもないんだろうな、とも思ったけど。
……いや、それくらいのことだったら成美ちゃんとこうくんも考えてるかな、やっぱり。
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