(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第五十七章 事前準備 十一

2014-03-16 20:36:28 | 新転地はお化け屋敷
「えー、それでは早速なんですが」
 当初思い浮かべていた不安はどうやら杞憂だったらしく、男一人で指輪を買い求めるにあたって、店員さんから変な顔をされることはなかったのでした。そりゃそうですよね――と、事が済んでから当たり前ぶってみても全く格好は付かないんですけどね。
 で、その関門を越えてしまったなら後はもうさっさと帰宅してしまって今に至るのですが、そこで何をするかというのは、そりゃまあ言わずもがなでありまして。
「日向――いや、喜坂栞さん」
「はい」
「付き合っていた期間は、どころか知り合ってから今までの期間すら短いと言わざるを得ませんけど、でも、それでも心から愛しています。僕と結婚してください」
「私で良ければ、喜んで」
 照れ臭い、なんて言っちゃいけない場面なのでしょう。いくらそれが「結婚してください」も何も既に結婚を済ませているという、言ってみれば茶番でしかないものであったとしても。
 そしてそれは、結婚の申し入れを受け入れてくれた栞も同じく。僕が差し出したリングケースを受け取ると、店でも見たというのに再度その中身へ柔らかい眼差しを向け、そしてそれを取り出してゆっくりと指に――。
「孝さん」
「ん?」
「右左ってどっちなんだっけ。薬指なのは覚えてるんだけど」
 その時の栞の申し訳なさそうな顔ったらもう。
「僕も正直曖昧だけど、確か左手じゃなかったかなあ。結婚指輪と同じで」
「あ、同じなんだ?」
 結婚指輪が左手だったことは覚えていたらしい栞は、意外そうに言ってから今度こそ左手の薬指へ――。
「孝さん」
「ん?」
「孝さんに嵌めてもらいたいって、ありかな」
 僕がどう返事をするか、初めから分かっていたということではあるのでしょう。嬉しそうに楽しそうに恥ずかしそうに、何より幸せそうにそう言ってきた栞から、僕は返事を省略して今渡したばかりの指輪を受け取ります。
 ――なんせ心底から惚れ込んでいることもあって、基本的に僕は栞のことを綺麗だと思っているわけですが、しかし指だけを対象としてそう思ったことは、今までにはありませんでした。しかしそれでも、指輪を嵌めてもらうためにこちらへ差し出された栞の指は、何故だかとても綺麗に見えてしまいます。
 …………。
「孝さん」
「ん」
「私も愛してます、心から」
「うん」
 嵌め終えた指輪に、目元の代わりに声を潤ませる栞。僕の短い返事ににっこりと微笑んだ彼女は、するとその身をゆっくりこちらへ預けてくるのでした。
 ならばこちらはそれを受け止め、そうしてお互いの動きが一旦止まったところで――ふう、と一息。
「いやあよかった、サイズちゃんと合ってて」
「あっ。あはは、そこ気にしてたんだ?」
「そりゃするよ、ちゃんと測ったわけじゃないんだし。それに間違ったら取り返しがつかない……のかどうかは、分からないんだけど」
 刻印を入れてもらったわけじゃないんだから店に言えば取り変えてもらえたり、なんていうのはやっぱり、甘い考えなんでしょうかね。
「でもそれを抜きにしたって、後出しとはいえプロポーズなんだしさ。一世一代の。それで指輪が入らなかったとかスカスカだったとか、それはさすがに勘弁願いたいし」
「あはは、そうだね」
 笑いごとじゃないよもう、と言いたいところではありましたが、栞の笑顔を前にして憎まれ口を叩くことなどできはしない僕なのでした。なんせ僕ですから。
「でも孝さん」
 笑い終えた栞は、しかしその頬に小さな笑みを残したまま、
「あともう少しだけ待っててくれたら、もっと良かったかな。きっちりやり通すってことなら」
 なんで? とそう尋ねる暇もないまま、僕の口は栞の唇で塞がれてしまったのでした。
 そしてそのなすがままになりながら、ああ、確かにその通りだったなと。

「栞」
「ん? 何かなあ?」
 さすがは栞、僕が何を言わんとしているかくらいはお見通しなのでしょう。ううむ、なんと白々しい「何かなあ?」でしょうか。
「気持ちは分かるし嬉しいけど、ちょっとやり過ぎだったかもね」
「あはは――あー、ごめんなさいでした」
 ただのキスといえばただのキスなのでした。が、その長さ内容どちらの意味においても、子どもには見せられない感じになってしまったりもしたのでした。
 いや、だから飽くまでも、気持ちは分かるし嬉しいんですけどね? それくらい感激してくれたってことなんですから。ただ、
「あれじゃプロポーズの締め括りっていうか、プロポーズを食っちゃってたよね完全に」
「申し訳ないです……」
 なんだったら僕が食べられるんじゃないかってくらいの勢いでした。というのは、もちろん冗談ですけどね。……多分。
「でもまあ、それもまた栞らしいところってことで」
「え? えー、ええと、まあ、確かに好きだけどさ」
 何を想像してしまったのか、たった今したところであるキスの話で照れ始める栞。
 何をといったらそりゃあ同じくキスなんだろうけど、恐らくはそのシチュエーションが現実とはちょっと違っていたんだろうな。と、余計な想像を働かせたりもしつつ、けれど本題がそこだというわけではなく。
 僕は栞の手を取りました。そうしたのが今である以上もちろんそれは左手で、そして何に注目するかといえば、これまたもちろんその薬指に嵌められているものを、です。
「似合ってるよ、指輪」
「うーん、あんまり褒めてもらってる気がしないなあ」
 なんせ流れが流れですから、そんなふうに受け止められるのはもっともなのでしょう。
 が、しかしそこは他の誰でもない栞その人です。
「えへへ、でも、ありがとう」
 褒められている気がしなくとも、喜んでくれるのでした。自分で言うのもなんですけど、そりゃまあ褒め言葉でないわけがないんですしね。栞の意図にない褒め方だっただけで。
 その左手ごと指輪を引っ込めた栞は、それを右手で胸へと抱き込むようにしながらこんなことを。
「ああ、女からも渡すものだったらいいのになあ、婚約指輪」
「これまたえらく斬新な感想だね」
「あれ、そう? だって、自分が貰ってこんなに嬉しいんだよ? もしかしたら、私がしたのと同じくらい激しく喜んでくれるかもしれないんだし」
 言葉の使い方は間違っていないのになんと違和感のある言い回しでしょうか、激しく喜ぶって。しかも「私と同じくらい」ならいいとして、「私が『した』のと同じくらい」って、もう明確に感情じゃなくて行動に焦点を当てた話になっちゃってますし。
「ええと、して欲しいの? もしかして」
 キザったらしく言えなくもない台詞だった気はしますが、とてもそんな気にはなれなかったので努めて気の抜けたような調子で尋ねてみたところ。
「!」
 無言で大歓迎されてしまいました。
「いやしないけどね?」
「…………」
 無言で落胆されてしまいました。見ていて面白い、とは言いますまい。
「意地悪とかではないからね、一応。冗談半分だったとはいえさっき栞に謝らせたところで僕がそうするわけにはいかないっていうのもあるし、それにやっぱり、そういうことするならそういうことするなりの状況になってからっていうのもあるし」
 まだお外は明るいのです、の一言でお察しいただければ幸いです。
「『私が謝ったことだから』なんて、さすが孝さん。お堅いねえ」
「褒めてるのそれ?」
「褒めてるよ」
 褒めてるんだそうでした。だったらまあ、僕としてはそれでオッケーです。
「それとも、一から説明したほうがいい? お堅い孝さんのどこをどんなふうにどれだけ、私が愛してるか」
 と言われたのでちょっと考えてみましたが、
「……この場合、聞かせてもらうのと聞かなくても分かってるってことで済ませるの、どっちが正解なのかなあ」
 分からなかったので尋ね返してみました。
「どっちが間違いってわけでもないけど、っていうかどっちでも正解だけど、でも全部語らせると興奮した私がまたあれやこれやしてしまうかもしれません。なのでお勧めは後者です」
 なんて冷静な自己分析
「ええと、じゃあお勧めに従わせてもらうけど、ならどうしよっかここから」
「髪とか触ってもらえると嬉しいです」
 口調を引き継いではいますが、これを同じく自己分析とするのは何かが違うような気がします。要するに、程度こそ大幅に落としはするけど何かしら触れ合っていたい、ってことなんでしょうしね。
 とはいえ、それくらいであれば僕としても望むところではあります。そもそも今日は、当初の予定だと一日中そんなふうにして過ごすつもりだったんですしね。
 で、髪とか、とは言っていましたが、ここは変に捻ったりせずそのまま髪を触らせて頂くことにして。
「そろそろ気になってこない? 割と伸びたように思うけど」
「うーん、自分ではまだそんなにかなあ。そんなに伸びたように見える? 孝さんからだと」
「まあ、ね」
 実際どうなのかと言われれば、それは栞の感覚の方が正しいのでしょう。なんたって、栞の髪が伸び始めてからまだそれほど時間が経ってはいないわけですしね。
 ではどうして僕の感覚はこうもずれているのかというと、それは恐らく。
「伸びたように見えるっていうより、早く伸びて欲しいってことなんだろうね。で、やたらとじっくり観察してるから、ちょっと伸びただけでも大袈裟に捉えちゃう、みたいな」
「あはは、そういえば髪触ってくるたんびに言ってるもんね孝さん。伸びた伸びたって」
 ……考えてみたら相当気持ち悪いねそれって。
「鬱陶しい?」
「そんなことないよ、孝さんに髪触られるの好きだし。って、これも何回か言った気がするけどね」
「臆病者ですいません」
「うーん、これはセーフの範疇かな。ギリギリだけど」
「これは」というのはつまり、ということで今回もやはり僕の意図を汲んでくれる栞。そう、僕だって言われる度に忘れているわけではもちろんなく、鬱陶しがるどころか気に入ってくれていると把握したうえで毎度毎度こんなことを言っているわけです。
 どうしてそんなことをするのか?
 というのはこれまた毎度お馴染み、僕の悪い癖です。すぐに自分を悪者にしようとしてしまう、という。栞にも何度怒られてきたことか。
「……これからのこと考えたら、その辺も一層気を付けていかないとねえ」
「そうだよー。あんまり酷いとそのうち愛想尽かしちゃうかもだよー」
 台詞の割にはにこにこと微笑んでいる栞。というのはつまり、絶対にそうはならないと思ってくれているのでしょう。そしてそれは恐らく、自分で言うのもなんですが、僕がどうなろうと栞が愛想を尽かすことがないという意味ではなく、僕が「酷い」状態になることがない、という意味で。
「それもあるんだけどね」
 栞の口から直接聞いたわけではないにせよ、そう思ってくれていると確信できる今の僕は、髪を触っていた手でそのまま栞の頭を胸に抱き込みました。
 僕との将来に不安はない。そう思ってくれている栞だからこそ、こういう話も出てくるわけです。
「子どもからしたら、お母さんに怒られてばっかりのお父さんって威厳も何もないし」
「……そうかもね」
 それまでの調子のまま笑い話で済ませてくれてもよかったのですが、栞はそうはしないのでした。ふ、と口調を落ち付かせてそう返してくると、抱き込まれている僕の胸へ、今度は自分から更に深く潜り込んできます。
「なんだか、嬉しい」
「ん?」
「そういうこと、ちゃんと考えてくれてるのって。しょうもない話と真面目な話でもやっぱり繋がってて――しょうもない話だからこそ、現実味があるっていうか」
「あはは、しょうもないか」
 しょうもない話と真面目な話。それぞれどちらが何なのかというのは、語るまでもないのでしょう。
「しょうもないよ。だって、わざわざそんなふうに心配する必要なんかないんだもん」
「そっか」
「そんなしょうもないこと心配しなきゃならない人の胸じゃあ、こんなふうには、ね」
 そう言って、胸に押し付けられている頭のみならず、全身からふっと力を抜いてみせる栞。掛かっていた体重が軽くなり、するとその代わりのようにして残っていったのは、恐らくは栞が感じているのと同じものであろう安らぎなのでした。
 ついさっき思い描いた確信は、いともあっさりと現実になってくれました。そしてもちろん、最初からそう思ってたから特に感動はない、なんてことにはなりません。
 感動させられるところがあった僕は、ならばそれをどう表現したものかと少々考えさせられることになったのですが――。
「栞」
「ん?」
 呼び掛けてから、しかしそれ以上は何も言わずに栞の手を取った僕は、その薬指に嵌められている指輪へと唇を寄せました。
 本来なら将来の結婚を誓うためにあるその指輪ですが、既にそれを済ませている僕達からすれば、現在の間柄を形で証明するものということになります。となれば嬉しく、そして愛しいのです。それがそのあるべき場所、愛する女性の左手薬指に収まっているというのは。
 …………。
「うわわ、わ」
 栞の顔が見る見る赤くなるまでには、僅かばかりながらタイムラグがあったのでした。
「やっぱりちょっと、格好付け過ぎた?」
「そ、それもなくはないんだけど」
 あったかー。
「その……こういうのが『正解』なんだとしたらって考えたら、自分でしたキスがあんなだったのが、今更恥ずかしくなってきちゃって……」
「あー」
 格好付けるのが正解、ということにできる思考をお持ちであるなら、そりゃああれはねえ? 対極というか、対極程度の関連性すらない全くの的外れというか。
「もう一回してみる?」
「無理、無理、今からじゃもう」
 弱々しく首を横に振ってみせる栞なのでした。が、「どうせするならこっちに」と、再度左手薬指を僕の顔の前へ差し出してくるのでした。
「今度は、ちゃんとしたいし。返事とか」
 あれにしてもこれにしても、いろんな意味で栞はやっぱり栞なのでした。
 そんなふうに思えたのなら、同じことを二度繰り返すのに抵抗はありません。一度目と同じく、どころかもしかしたら一度目よりもっと込めるものを多くして、僕はもう一度婚約指輪にキスをしました。
 すると栞、キスをしたのは指輪であって栞の肌には触れていないというのに、くすぐったそうな笑みを浮かべてきます。そうして差し出していた左手を引くのですが、するとそのまま、栞も婚約指輪にキスをするのでした。
「……ねえ孝さん」
「ん?」
「これ、普段からしたいかも。髪触ってもらったりとか、傷跡の跡のこととかみたいな」
 説明としては言葉足らずな気がしますが、とはいえこっちはその二つの具体例に関わっている当人です。言いたいことはしっかり理解できました。
「お決まりの流れ、みたいな?」
「そうそう、それそれ」
「もちろん構わないけど、うーん、慣れるまではちょっと恥ずかしいかも」
「あはは、それはまあ、私もね。なんかちょっとこう、芝居掛かってるっていうか」
 ついでに言うなら、お決まりの流れになるにしたって普通は自然とそうなるもので、こんなふうに二人で話し合って決めるというのはちょっと可笑しいような気がしないでもありません。今出てきた二つの実例だって自然とそうなったわけですしね。
 ――とはいえ、まあだからといって不都合があるわけでもなし。僕がしたくてしたことを栞が気に入ってくれたというのなら、そりゃあもう喜んでそういうことにさせてもらいましょう。
「でもそれだと栞、普段からずっと指輪し続けとかないとだね」
「やだなあ孝さん。お風呂の時くらいは外すけど、それ以外なら言われなくたって嵌めっ放しにさせてもらう所存ですとも」
 ええ、それはもちろん構わないわけですが、
「普段から嵌めておくってことは、逆に言って付け外しの機会が多くなるわけだけど――無くさないようにね?」
 たまにしかしないということであれば普段は特定の場所に保管しておけるわけですが、嵌めっ放しとなるとそういうわけにはいきませんしね。それこそ、少なくとも入浴時には毎回外さなくちゃいけないわけですし。
 で、栞ですが、
「…………」
 カチコチの笑みを顔に張り付かせているのでした。
「あはは、ごめんごめん。そこまで不安がらなくても」
「うう、孝さんの意地悪……」
 弱々しくそう呟いた栞は弱々しく膝立ちになり、弱々しくこちらへ近付いてくると、弱々しく抱き付いてくるのでした。
 が、しかしどうやらこれは不安を紛らわせるためというわけではなさそうです。というのも栞、抱き付いた時点でもまだ膝立ちのままであって、対する僕はもちろん床に座っているわけですから、高さが合わないわけです。いやもちろん、あちらとしてはこれで合っているのでしょうが。
 というわけで胸の間にすっぽりと顔を挟まれた僕なのですが、すると栞はこんなふうに。
「ふふ、今日はもうずっとこのままだよ。罰として」
 悪戯っぽく笑えるということは、不安がっていたのは演技ということになるのでしょう。僕よりよっぽど罰当りのような気がしますが如何なものでしょうか。それにずっとこのままとなると食事やら何やらの行いに支障が出るわけで、特に近々のものとしては、この姿勢を維持するというのは結構辛いのです。それを理由に座椅子を買い求めたくらいですしね。
 となればここは座椅子を、というのが普段の流れになるわけですが、しかし今日はちょっと違いまして。
「わっ」
 僕は栞を抱え上げました。お姫様抱っこというやつです。
「…………!」
 が、王様だか王子様だかって軽々とこんなことができるほど力持ちなんでしょうか? 実際するとなると結構――いえ、いえ、これ以上は栞の沽券に関わるので言わないでおきますけど。なので何がとは言いませんが、栞の場合は身長が高いからなのです。なんたって抱え上げている僕とほぼ同じなんですしね。
 で。
「お疲れ様でした」
「なんの」
 息が乱れないように注意しつつ、僕は栞をベッドに下ろしました。
 いや別にここからどうのこうのするつもりがあるというわけではなくて、指輪を買いに出掛ける前と同じ状態に戻ったというだけのことです。だけのことのつもりです。
 さて。
 どうのこうのするつもりがあるのであれば特に気にもならないのでしょうが、そうではない現状で自分から飛び込むというのは中々に照れ臭いものがあるのでした。何処にってそりゃあ、栞の胸にですけども。
 ……ともあれ、これで一息つきました。いえ、栞をここまで運んだことに体力を消耗したとかそういうわけではなくて、ですけどね?

 どうのこうのするつもりがない、というわけでその後は特に何がどうなるというわけでもありませんでした。
 というのは何も「そういうことにはならなかった」というだけではなくて、本当にどうにもならなかったのです。横に並んで抱き合ったまま――といっても見た目上は僕が一方的に抱かれているようにも見えるのでしょうが――お互い動かず、口を開きすらせず、ただただその体勢を維持してじっとしていたのでした。
 しかしそれは気まぐれだとかなんとなくだとかでそうなったのではなく、お互いに初めからこうしたいと思っていた、ということではあるのです。こうしたかったのにお客さんが来たり他にやりたいことができたりと、中々思うように事が運ばなかったのです。
 ――とはいえ、それら予定外の出来事も喜ばしいものではあったんですけどね。
「孝さん」
「ん?」
 口を開きすらせず、なんて思った途端に栞が口を開きました。だからといってそれに問題があるわけではもちろんなく、ならばさて、何でしょうか。
「好き」
 知ってるけど。
 じゃなくて、どうしたの急に? これ、僕としてはどう返すべき場面になるの?
「豆腐の肉乗せ……」
 …………。
 ああ、寝ちゃってるのか。まあベッドに寝転んでじっとしてたらそりゃあねえ。
 と、それにしても夢に出てくる率えらい高いね豆腐の肉乗せ。今朝もそうだったし、それに寝言としても随分前にも同じような、というか多分全く同じこと言ってたような気がするんだけど。付き合うことになる前、だったっけ?
 寝言の内容こそ同じであるにしたってそりゃあその頃とは全然状況が違うわけで――というのはお互いの関係はもちろん、今のこの胸に顔をうずめている体勢についてもなのですが――少々その頃を懐かしんでみたりし始めたところ、するとまるでそれを遮ろうとしたかのようなタイミングで、部屋の電話が鳴り始めました。
 となれば当然出なければなりません。というわけなので栞、出してください。しっかり頭を抱きかかえてくれてるところ申し訳ないけど。
「んゅう~」
 力が抜ける非難声明を受けながら立ち上がった僕は、電話のある居間へと足を運びます。どうやら僕も寝掛かっていたか、もしかしたら寝てしまっていたようで、少々足がふらついたりも。
「はい日向です」
『こっちも日向です』
「……日向家に伝わる冗談だったりするの? それ」
 相手がお母さんだったなら「また同じことをしてきた」で済むのですが、今回受話器の向こうにいるのはお父さんなのでした。何やってんの夫婦揃って。
『使ってくれていいぞ』
「使わないよ。で、何? というか、お母さん帰ってきた?」
 寄り道を挟んだとしても充分家に着いていておかしくない程度の時間が経ってはいますが、一応はそう尋ねてみました。不安というほどではないですけど、でもまあペーパードライバーを自称してたくらいではありますしね。
『ああ、とっくに帰ってきてるよ。話も少しは聞いたし』
「少し?」
『栞さんをずっと見られるようにしてもらったっていうことだけ。なんで泣いてたかは、まだ聞かせてもらってなくてな』
「あー……」
 悲しませた、というわけではないのですが、それにしたってやはり胸に刺さるものはあるのでした。それが嬉し涙だったとしてもこうなるっていうのは、考えてみればちょっと変ではあるんですけどね。
 というわけなので、あちらにはこんな様子は微塵もなく。
『だからって今お前にそれを訊こうとしたら、後で何言われるか分かったもんじゃないからなあ。そっちは本人が話してくれるまで待つことにするよ』
「じゃあこの電話は、栞のことで?」
『そりゃあ、母さんがああしてもらったってことなら父さんだけこのままってわけにはいかんだろう。で、どうすればいい? 今からそっちに、というか家守さんの所に伺えばいいか?』
 お母さんに続いて、お父さんも栞を見ることができるように。当然そうなると言えばそうなる話ではあるのですが、それにしたってなんとも決断が軽い――。
 なんて思ったところで、お母さんがここで言っていたことを思い出す僕なのでした。恥ずかしいにも程があるので台詞をそのまま引用するのは避けさせてもらいますが、曰く、今でもお父さんを愛していると――あー、あー。
 で、となればもちろん、それはお父さんから見たお母さんだって同様な筈ではあるわけです。ならばこの決断があっさりしたものになるのも理解できる……ということでいいのかな? お父さん。


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