(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第五十四章 年上の女性 十一

2013-08-16 20:55:29 | 新転地はお化け屋敷
「ははは、いいねえその言葉が必要ない感じ。まだ式を控えてる夫婦とは思えないくらい夫婦しちゃってるねえ」
「その辺はいろいろ歩み寄ってくれた孝さんの努力に感謝ですけど、いい気分でいられるようなことばっかり察せられたらもっといいんですけどね」
 諸見谷さんのお言葉は嬉しかったですし、なので栞も機嫌を直してくれれば、なんて思ってみたのですがどうやら見通しが甘かったようでした。まあ、別に本気でへそを曲げたとかそういうわけじゃないんでしょうけどね。それこそ言葉を介さず察せられる分には。
 で、諸見谷さんもそれを察せられたのかどうかは定かではないのですが、しかしともあれ続けてこんな話を。
「と言っても、いい気分でいられるようなことが全くないってわけじゃないんですよね? じゃあたまには今みたいなのも挟んでかないと、その『いい気分でいられるようなこと』が普通になっちゃいますよ。なんだったら逆に、『いい気分でいられるようなこと』こそたまにくらいでいいかもしれませんし」
 なるほど、たまに食べると美味しいよ理論ですね。ふむふむ、仕掛ける側としては参考になりそうな――。
「あー、それはちょっと無理かもですねー」
「ほう。その心は?」
「大体はいい気分にさせてもらってますから」
 きゃあ。
 と言いたくなるような心境にある僕の顔を横目でちらりと確認した栞は、小さな笑みを浮かべたのちに諸見谷さんの方へと視線を戻します。
「っていうのは何もただの惚気話ってわけじゃなくて、結婚したばかりでそうじゃなかったら逆に問題ですしね。今こんな風じゃなかったらいつこんな風になるんだっていう」
「はは、そりゃまあそうですね。そっかあ、結婚かあ」
 理想としてはいつまでもこんな感じでいたいところだけどね、という話はともかく。式の話はこれまでもちらほら出てきていたわけですが、ここで結婚それ自体に思うところありげな諸見谷さんでした。
 となればやはり、あの人の話になるわけです。
「諸見谷さんと平岡さんが二人同時にそういう感じになっちゃったら、一貴さん大変そうですね」
「だろうねえ。でもまあ、それくらいは覚悟してると思うよ多分。いや、覚悟するってほど身構えられるのもなんか変な話だけどさ」
 そう言って笑う諸見谷さんに僕と栞も釣られて笑うわけですが、しかし自分も笑っておきながら「栞のあの笑いはどういう意味なんだろう」などと臆病風に吹かれたりもしないではないのでした。まさか僕一人だけでも大変だとか、もしかしたら覚悟させちゃってるとか、そういう話じゃないんですよね栞さん?
「いやあ、身近にこういう人達がいるっていうのは励みになりますよやっぱり。私なんかあれですしね、一貴との結婚についてあれこれ考えてみることはあっても、今みたいな話じゃなくて経済面のことばっかり考えてましたから」
「それだって大事なことではあると思いますよ? 私はまあ幽霊だから、あんまり縁がないってだけで」
「それだって大事、ならいいんですけどね」
 諸見谷さんは少しだけ、連続して声を聞いていないと下がったことに気付かない程度にだけ、トーンを落として言いました。
「それが大事、になっちゃうのはまずいでしょうしね。ならないうちは馬鹿げた話としか思えませんけど――私だって今現在そんなふうに思ってますけど、なり得るんでしょうしね。いやーなニュースとかから世間の様子を探ってみる限りは」
 金銭絡みでの、夫婦間の事件。いや、事件とだけ言ってしまうというのもどうかとは思いますけど、まあ確かに見聞きしないわけではありません。ではそういうことになってしまった人達は果たして初めからそんな調子だったのかと言われれば、まあそうではないのでしょう。まず結婚なんかしませんもんね、そんなだったら。
 長い月日を経て少しずつ変わっていく。それは何も悲惨な結末だけを指したものではなく、例えばさっき栞が言っていた「今こんな風じゃなかったらいつこんな風になるんだ」という話にしたってそうです。いつまでもこんな感じでいたい、という理想こそ持ってみた僕ではありますが、それが理想でしかないことは重々承知の上です。そりゃあ、どれだけ年月を重ねても今のこんな感じのまま、というわけにもいきません。
 一緒に年を取ると決意してくれた栞の為にも、そんな勘違いはしていられませんとも。
 栞と目が合い、揃って目元口元を緩ませたところで、諸見谷さんから話の続きが。
「栞さん、さっき幽霊だから縁がないって言いましたよね? 経済面の話」
「あ、はい」
「智子さんと一緒になることについて、私はその辺に期待させてもらったりしてるんですよ。すぐ傍で経済面なんてお構いなしに一貴とイチャイチャされてたら、『金のことばっかり考えてらんねえ私も交ぜろ!』ってなもんでしょうしね」
「なるほど」
 自然な流れとしてはここで返事をするのは栞だったのでしょうが、しかし意図せずそんな感想が口をついてしまうのでした。
 平岡さんが抱える一貴さんへの強過ぎる想いを和らげるために諸見谷さんが必要だった。そんな話をこれまでに聞いていたわけですが、どうやら三人での関係を求める理由は、諸見谷さんの側にもあったようでした。もちろん、元からそうなるつもりで一貴さんと付き合っていたわけではない以上、こちらについては必要というほどのことではないんでしょうけどね。
「とまあ、私はこんな人間だからいちいちそんなこと気にしなきゃいけないんだけど」
 自虐的な物言い。ではありましたがしかし諸見谷さん、その割にはほっこりした表情でいらっしゃるのでした。
「どんな感じなんですかね? 普通の恋人、もとい普通の新婚夫婦っていうのは」
「というのは、どの辺りまでの話で?」
「上限なしで」
 分かっているうえでの質問だったのでしょう、諸見谷さんと同種の笑みを浮かべながら尋ねた栞だったのですが、すると果たして諸見谷さん、同種の笑みを同種のまま浮かべ続けつつ、そんなふうに返すのでした。
 上限なしで。というのもやや誤魔化したような言い方であって、より正確には、上限のみを求めてらっしゃるのでしょう。
 ……ここでですか? なんの秘匿性もないただの路上ですが。
「そうですねえ。孝さん、基本的には優しいですけど」
 あっ、止める暇もなくそんな!
「あら、いきなり不穏ですねえ。基本的には、なんて」
 不穏も何もこの時点でアウトな気がするんですけどそうでもないんでしょうか諸見谷さん。
 と言ったところで止まってくれるわけもなさそうなので、ならばこれから暫く僕は聞きに徹することにさせてもらいます。横やりを入れて自体が好転するという光景が、どうしても思い描けないのです。
「ああ別に、優しくない時があるとかそういうことじゃなくてですね? うーん、なんていうのか、優し過ぎるというか――真面目過ぎるというか」
「真面目」
「はい。ええと、ふざけ合ったりとかっていうのが全くないんですよね、そういうことになると。と言ってもそれが嫌ってわけじゃなくて、むしろ暗に私がそうさせてるくらいの勢いなんですけど」
「ってことは、栞さんとしてはむしろ望ましいことだっていう?」
「そうですね、そうなります。あー、ええと、すいません、具体的なところは秘密にさせてもらいますけど、お決まりの流れみたいなのがあるんですよ。いい雰囲気になってきたらまずこうしてもらう、みたいな」
「ほうほう」
「その流れっていうのが、大事な思い出っていうか、今の私と孝さんがこういう関係にまでなった根本っていうか……だからまあ、ふざけた雰囲気じゃあなくなっちゃうんですよね。その直前までがどれだけふざけた雰囲気だったとしても」
「私で言うならこのリボンみたいなもんですかね。まあ、程度のほどは比較にもならなさそうな感じですけど」
「そう、ですね。程度のほうも……他の誰かの何かに負けるとは、ちょっと思いたくないです」
「んー、素晴らしい。やっぱこうでないとねえ、恋だの愛だのの話は」
「あはは、そう言ってもらえると気が楽ですけど――だから、あんまり普通の夫婦じゃなかったりするかもです」
「不思議なもんですねえ。栞さんも日向くんも、一人ずつで見れば善良な一般市民なのに」
「自分のことは言い難いですけど、孝さんはまあ、そうですね。私のことがなければ、ただ料理がすっごい上手なだけの男の人ですし」
「栞さん栞さん、その時点でそれもう『だけ』じゃない」
「あれ。……ああ、あと方向音痴で」
「そんな砂糖入れ過ぎたから塩入れてバランスを取ろう、みたいな」
 ――という突っ込みを入れたのは諸見谷さんでなく、居た堪れなくなった僕なわけですが。
「かっかっか、さすが料理人。ものの例えにすら料理持ってくるのね」
「いやまあ、料理かどうかと言われたら料理ではないんでしょうけどね。実際にやったらとんでもない大失敗ですから。そんな人いないとは思いますけど」
 とは言ってみたもののしかし、かつて玉子焼きを作るように言ったところスクランブルエッグを作っちゃった人もいるわけだしなあ。世の中広いわけですし、探せばいるんですかねやっぱり。
「うーん、なんで残念そうな目で見られてるんだろう私」
「ああ、玉子焼き」
「はい孝さんストップー」
 ……なるほど。この素早い反応、あれは栞自身にとってもかなり苦い記憶というわけで。
「あはは、そっかそっか。栞さん、最初は玉子焼きで失敗するほどだったのか」
「失敗というか勘違いというか」
 間違えてスクランブルエッグを作ったものの、そのスクランブルエッグ自体はちゃんとしたスクランブルエッグだったので、ならば勘違いせず玉子焼きを作ろうとしていればそちらもちゃんとした玉子焼きが出来ていたと思うのです。という説明を、栞の名誉のためにもしてみようと思ったのですが、
「うわあああストップ! ストーップ!」
 止められてしまいました。ううむ、「玉子焼きを作れなかった」と勘違いされるよりはマシだと思うんですけどねえ。
「――ということなので諸見谷さん、秘密ってことで」
「了解。何にせよ、今はそんなことないんだよね?」
「ああ、それはもう。栞が作る味噌汁は絶品ですよ」
 というのは飽くまで僕個人の味覚に対しての話ではあるのですが、しかし今ここで「じゃあ作ってもらおうかな」なんて話になるわけでもない以上、こう言ってしまっても問題はないでしょう。なんせ路上ですし。
 あとはまあ、夫婦だし、という話。夫が美味いと思えるなら合格ですよね、それだけで。
「お味噌汁みたいな簡単な料理じゃあ、あんまり腕前の保証にはならないと思うけどね」
 こちらとしては手放しでベタ褒めも辞さないところではあるのですが、しかし栞はそんな遠慮がちな物言いなのでした。まあここで本人が僕の意見に乗っかるというのも変な話なんでしょうけどね、やっぱり。
 と思ったら諸見谷さん、そんな栞にこんな一言。
「でも実際食べてもらう時には自信満々なんじゃないですか?」
 どうなんでしょうか栞さん。
「なんで分かっちゃいました?」
 どうやら図星だったようですが、しかしその表情には照れだけでなく、不思議そうな色も含まれているのでした。それほどまでに図星も図星だったと、そういうことなのでしょう。
 とはいえ栞が料理を作る際、僕は大体その隣に居たりするわけで、少なくとも乗り気かそうでないかくらいは見ていても分かるんですけどね。なんせ僕も包丁を持ってたりするもんで、見惚れて手元が狂わないよう意識するのは中々に大変だったりします。
 と、それはともかく諸見谷さんの返事なのですが、
「そりゃまあ、今ここで私に対してすらこんな風に言ってるってことは、普段から美味しいって言ってくれてるんでしょうしねえ日向くん。となったら作る側は喜んで作りますし――っていうか逆に、そうまで言ってくれてるのに自分の腕を信用しないっていうのは失礼だろうしっていう」
「……え、えへへ」
 笑いしか出ないらしい栞なのでした。それがどういう心境の表れなのかというのは、敢えて語るまでもないとしておきましょう。となれば話題は、図星の突き方が見事に過ぎた諸見谷さんです。
「諸見谷さんも似たような経験が?」
「まー誰が食べても不味いとしか言いようがないものでも出さない限りは、あいつの性格だしねえ。下手とまでは言わないけど、普通だよ? 私の料理の腕なんて。それをもう褒め殺しってくらい褒めてくるもんだから、外食で済ませる事が増えたなあ。後輩への奢りにかこつけてね」
 な、なるほど。ちょくちょく食事に誘いに来るのはそういう意図もあっての。
「とはいえまあ、そりゃあ褒められることは嬉しいからね。たまーに、月一くらいで手料理を振舞ったりはしてるよ」
「それはそれは」
 手料理を振舞うことがなくなった、なんて話になったらどうしようかと思いましたが、そんな心配は無用だったようです。
「単純に二人で食べるってのもいいもんだし、二人だけってことになったら外食するわけにもいかないしね」
 ……いくと思いますけどね、普通は。
 などと内心でだけ苦笑いしてみたりしたところ、「孝さん孝さん」と。
「ここ、どの辺だと思う?」
「ここ?」
 というのは、今歩いているこの場所のことでしょうか?」
「……諸見谷さんの家への帰り道」
 いえ、栞が何を言いたいのかは僕だって分かっています。分かっていますがしかし、僕には望まれている返答などできやしないのです。栞も分かってて尋ねたんでしょうけど。
 がしかし、そこから先の話を続けてきたのは栞でなく、諸見谷さんなのでした。
「そうだねえ。そろそろお別れしとかないと行き過ぎちゃうかね、あのアパート」
 諸見谷さんの帰路にご一緒させて頂いている時点で最短ルートではない――と思う――のですが、それを見過ごすにしてもどうやら限界な辺りまで歩を進めたようでした。
「あ、ちょっとくらい遠回りになっても大丈夫ですけど……」
 その言い方からして栞は何もここで諸見谷さんと別れるつもりで今の話題を口にしたわけではなく、単に僕へのクイズ、というか意地悪として言っただけのことだったのでしょう。まあ荷物はあるにしても荷台替わりの自転車があるわけで、ならば栞の言う通り、このまま諸見谷さんの家までついていってしまっても問題はないのですが、
「うちまで来たらちょっとじゃ済まなくなっちゃいますよ? 連れこんじゃいますよ? 智子さんが帰ってくるまで寂しいですし」
 とのことなのでした。

「じゃあ今度は結婚式で! とか言ってまた大学にお邪魔しに行っちゃうかもしれないけどね!」
「じゃあまた明日か明々後日にー」
「お気を付けてー」
 というわけで諸見谷さんの家への帰り道の途中、ということ以外何も分からない地点で諸見谷さんとお別れ。どう進めばいいのか分かりませんが、ここからはあまくに荘への帰路につく、ということになります。もちろんのこと、自転車二人乗りで。
 そして重ねてもちろん、僕には方角がさっぱりです。なので栞の指示に従うしかないわけですが、
「さあどっちでしょうか?」
 などと悪戯っぽく、というか間違いなく悪戯なのですが、通り掛かった交差点で自転車を止めさせ、そんなことを尋ねてくる栞なのでした。
「じゃああっちで」
「じゃあって」
 正解を導き出すための情報が頭の中に一つとして存在しない以上、ここでうんうん唸ったところでこれだと思う答えなど出せるわけがありません。ということで適当に真っ直ぐの道を指してみせたのですが、
「正解だけど、今のじゃあ正解扱いはしてあげられないかなあ」
 ぐぬ。ううむ、形だけでもうんうん唸っておけばよかったか。
 ともあれ真っ直ぐ進めばいいそうなので、そちらへ向けて再度自転車を漕ぎ始めるわけですが。
「普通に考えて、こんなにすぐ曲がらなきゃいけないような道なんか通らないよね? あまくに荘がすぐそこだったりするならともかく、まだちょっと離れてるんだし」
「なるほど」
 まだ距離があるうちからクネクネ曲がらなきゃならないようなルートは、そりゃあほぼ間違いなく無駄に遠回りをしているということになるのでしょう。それくらいは僕にでも分かりますがしかし――そうか、まだちょっと離れてるのか。
「まあいいんだけどね、急いで帰らなきゃならないわけじゃないし」
「むしろ喜んでそうだけど」
 サドルに座る僕から荷台に座る栞は確認できないわけですが――しようと思えば出来なくもないんでしょうが、運転中に後ろを向くわけにもいきませんし――しかし栞、そちらを見ずともそう思わせる行動に出たのでした。
 いやまあ、行動といってもこちらの背中にちょっと頭をもたれさせてきただけなんですけどね。
「私、割と好きみたいだし。自転車の後ろに乗せてもらうの」
「そうだったの? へえ、そりゃいいこと聞いた」
 とは言ってみたものの、車やバイクの免許を持っていない以上は避けようもなく自転車に乗るしかないんですけどね、お出掛けの際は。
「あとはまあ、暫く他の誰かと一緒に居ると、ね? やっぱり、二人っきり感が際立つっていうか」
「二人っきり感……」
 えらく恥ずかしい造語が飛び出してきたもんですが、しかしまあ、分からないでもないのでした。それこそ他の人達と一緒ではあったわけですが、結婚指輪を見に行った帰り、だったりもするわけですしね今って。
 水着披露のことはまあ、横に置いておくとして。

「はーい到着ー」
 というわけであまくに荘に辿り着いたわけですが、
「道順が違うだけで全然風景が違うもんだねえ」
 今通っているのが歩き慣れたあまくに荘近辺の住宅街だと気付いたのは、到着直前だったりしたのでした。これも方向音痴の症状の一つに数えていいんでしょうか?
「だから近場でも面白かったりするんだよ、何処かに出掛けるのって」
 随分と前向きな捉え方をする栞。見習おう、とは思うわけですが、方向音痴のそれとは別問題なので、見習って解決するものがあるわけではないというのが残念なところです。
「というわけで孝さん、今日はお疲れ様でした。あとは家でゆっくりしてね」
「今日はって言っちゃうにはまだ早いような気もするけど」
「あとすることって言ったら料理教室くらいだけど、晩ご飯の支度は疲れる作業に入らないでしょ? 孝さんの場合」
「それもそうか」

 あまくに荘の玄関口から204号室の玄関口へ移動する間、家事のことを考えたら料理教室だけってこともないよなあ、なんて思ったりもしたのですが、
「お風呂と洗濯は私がしちゃうからね」
 と、まるでこちらの考えを読んだかのように言ってくる栞なのでした。まあ、同棲生活ともなると、考え事をするタイミングが重なるくらいは不思議でもなんでもないんでしょうけどね。
 というわけでそれについてはともかくとしておいて、
「なんか機嫌いい?」
 と尋ねてみました。ちなみに、栞からの提案については反論しなかった時点で了承済みです。
「そりゃもう、指輪なんか見ちゃうとやっぱりね。孝さんは、というか男の人はそこまででもないのかな? やっぱり」
「いや、そうでもないとは思うけどね」
 残念がられるよりはマシですが、「やっぱり」なんて言われてしまうと中々認めたくないと思ってしまうものなのでした。知りようがないというのが本音なんですけどね、世の男性の指輪に対するスタンスなんてものは。
 ともあれ、
『ただいまー』
 我が家こと204号室に到着。ベッドやら座布団やらにドッと倒れ込むほど疲労困憊なわけではありませんが、それでも腰を下ろす拍子に「ふう」と一息吐いてしまう程度には。
 すると、それを見た栞に笑われてしまうわけです。
「孝さんったら、もうおじさんだねえ」
「だとしたら生まれてこのかたずっとおじさんって事になりかねないけどね。昔から体力には自信なかったし」
 じゃあ栞はどうか、ということになるのかもしれませんが、しかしそれは考えるまでもなかったりします。ずっと病院暮らしだったんだからそりゃあ体力があるほうではないだろう――という話ではなくむしろ逆で、なんたって泳ぎが得意な栞なのです。体力がないわけがありません。
「栞はさ」
「ん?」
「体力付いたのってやっぱり、泳ぐようになってから?」
「あはは、そもそも自分のこと体力がある方だとは思ってないんだけど……。そうだね、付いたか付いてないかって言われたらやっぱり付いたと思うよ。清さんに泳ぎを教えてもらってから」
 ここで清さんの名前が出てきたわけですが、そういえばそうでした。清さんに教えてもらって好きになったって話でしたっけね、泳ぎ。
 僕より先に栞の水着姿を堪能していたなんて――などと、馬鹿げたジェラシーは捨て置きましょう。そういう意味では栞は眼中になかったでしょうしね、清さんの家族仲を考えれば。
「というかそもそも」
 逆にこっちが恥ずかしくなってきていたところ、栞はこんなことを。
「後ろに乗せてもらっておいておじさん呼ばわりは失礼だったかな?」
「いやいや。そのおじさんと一緒になったっていうんだから、僕よりむしろ自分の首を絞めてるようなもんだよ? これからずっとおじさんと同棲生活だよ?」
 逃さないよ? とまでは、言いませんでしたが。
 すると栞、何やら胸を張って語り始めます。
「それは大丈夫。体力どうこう抜きにして、私だってそのうちおばさんになるんだから。なれるんだから、かもしれないけどね」
「それもそうか」
 という話にはそりゃあ思うところは多々あるわけですが、しかしそれを声や表情に出すようなことはなかったりもするのでした。それこそおじさんおばさんっぽく聞こえてしまうかもしれませんが、まあ、慣れってやつなのでしょう。付き合っている段階ならともかく同棲、更には結婚までしたとなると、そういう話になる度に色めき立ってしまうというのも考えものでしょうしね。
 とはいえまだまだそういう状況になって日が浅いわけで、ならば自然とこうなっているというよりは、意識してこうさせているという面もなくはないのかもしれませんが。
 というようなことを考えていたところで、栞がこんなふうに。
「……うーん、やっぱり駄目だ」
「ん?」
「そっち行く」
「ああ」
 どうやら栞も同じようなことを考えていたらしく、そして色めき立ちたがっている自分を抑え切れなかったようなのでした。もちろんのこと、自分を抑えてはいたにせよ、あちらからそう申し出てくる分には歓迎するところです。
 とは言っても別にそう大胆な行動に出るわけでもなく、本当にただこっちに来るというだけのことですが。
「別にこれくらいだったら断りを入れてこなくてもいいんだけどね」
「それでもわざわざ入れたところを見て欲しかったわけですけどね」
「まあ、分かりますけどね」
 ふう。と、ついつい再度のおじさん吐息を吐きそうになるのは寸でのところで止めておきました。というのは何もみっともないからとかそういうわけではなく、別に自分が動いたわけじゃないのにそれというのも変な話だよなあ、なんて思ったからなのでした。
 そりゃまあ落ち付くわけです。栞が隣にいると、やっぱり。
「どうする? ここから」
「どうもせずにぼーっとしてたいかなあ、暫くは」
「賛成」
 さらっと賛成してくれましたが、さっき自分から申し出た筈の洗濯と風呂掃除は? とはしかし、敢えて言わないでおきました。
「でも、それこそまさにおじさんの発想だよね。ぼーっとしてたい、なんて」
「そこは開き直ることにしたよもう。問題もないみたいだし」
「あはは、まあね」
 本音を言うとおじさんがどうのという話ではなく、今この場の居心地が良過ぎるだけなのですが、それも敢えて言わないでおくことにしました。
 一時は言い慣れた筈のこういう台詞が、照れではないにせよまた言い難くなってきているというのは、それこそおじさん化の表れなのかもしれませんけどね。落ち着きが出てきた、なんて言い方もできなくはないのかもしれませんが。
 ……でもその場合、それって僕だけの話じゃなくなってくるんですけどね。お互いにそうだからこそ成り立つわけで。


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