「どうしてなんでしょうねえ。初めから意識してたならともかく、そうでもないのに短期間でこうなっちゃったっていうのは」
「別にそんな男前ってわけでもないのにな」
「ですよねえ、本当に」
栞と僕に共通した話である筈なのにどういうわけだか僕だけが蔑まれている気がしますが、ともあれ僕の両親はそんなふうに疑問を呈してくるのでした。そういう話をしたことがないというわけではないのですが、でもまあ真面目な話ならともかくからかい半分としてなら、ずっと言われ続けるんでしょうねこれは。
というわけで栞も、からかい半分の話に対してはそれに準じた対応を。
「ハートはともかく、胃袋はすぐ鷲掴みにされちゃったわけですしねえ」
嬉しいような悲しいような……って、だから、それは冗談みたいなものなんですけどね?
「ああ、そういえば」
とここで、何か思い付くことがあったらしいのは背の高い男性。
そういえばってどう言えばなんでしょうね。もしそれが今の栞の台詞を指しているんだとしたら、と考えると、僕はちょっと心の準備をしておいた方がいいんでしょうか?
「奥さん、自分で料理ができたほうがいいって言ってたけど、じゃあそれまでも食事はしてたってことなのかな」
なるほど、そういう。幽霊は食事をしない……とまでは言いませんが、する必要がない、という話ですね。
真っ当な、しかも僕に関係しない質問には安堵させられるところですが、それはともかく栞の返事です。顎に手を当て、「うーん」と唸ってから言うには、
「みんなでお出掛けして外で何か食べる、みたいなことは時々ありましたけど、自分で作る――じゃないか、その前の話なんだし。何か買ってきて食べるとか、そういうのはありませんでしたねえ」
ちなみにその「買ってきて食べる」というのも、そうするとなればそれは栞の仕事ではなく、成美さんに頼むことになっていたんでしょうが……というところも含めて、栞は幽霊だという話です。それこそ、これはずっと議題に上げ続けたり上げられ続けたりする話なのでしょう。
で、栞のそんな返答に対して背の高い男性はというと。
「ということは……多分、奥さんもやっぱり向いてたってことになるんじゃないかなあ。料理」
栞の表情がぱっと明るくなります。
「――ああ、と言ってもそれは技能とか才能とかの話じゃなくて」
続けてちょっと残念そうにします。
「こう、やる気になれるなれないの話というか。少なくとも僕は、自分で料理するなんて発想は全くないしね。なんせ誰が作るか以前にそもそも食事をしてないんだし」
そうは言いますけどそれはやっぱり貴方が男だから――と思ったら、傍にいる女性二名も特に異論はなさそうな雰囲気。
ううむ、となると案外そういうものなんですかねえ。料理とは違うにせよ成美さんもちょくちょく魚を捌いていたりするわけで、あまくに荘においては「幽霊だから食事をしない」という空気は薄かったのですが……。
「成美ちゃんの場合は、『お買い物係』が先にあったりするのかな」
とここで、またしても僕の考えを察した――いや、今回は単に同じ人物に思いが至ったというだけなのでしょう、栞が呟くようにしてそう口にするのでした。なるほど、ちょくちょく仕事が欲しそうにしてたりしますしね成美さん。食料調達なんてその最たるものなんでしょうし。
とはいえもちろん、それは成美さんの台所に立つことへの意欲や、あとお客さんへのもてなしの心を否定するものではないんですけどね。火曜日はいつもチューズデーさんと一緒に食べてるそうですし、それに僕自身、ご馳走になったことはあるわけで。
「奥さん自身が言ってたことなんだし、じゃあ結局は奥さんにも当て嵌まるんじゃないかなあ、あの話」
「あの話?」
何やら思わせぶりな台詞を口にする背の高い男性に、栞は首を傾げます。が、栞自身が言っていたこと、ということで、それが何なのか発表されるよりも前に「あのことだろうな」と。
しかしそれは……。
「お母さんの料理」
……彼に不信感を抱いていた少し前までの僕なら、恐らくここで大なり小なり、表に出すなり出さないなり、憤っていたことでしょう。しかし今はもう、そんなことはありませんでした。
悪い人ではない、という髪が短い女性の言い分を、家守さんの話しぶりを通して信用したというのもありますし――それに何より、考えてみれば、いや考えるまでもないことではあるのですが、彼だって栞と同じ立場なのです。栞もそうだということを彼が知らないだけで、彼がそれを口にするのであれば、それが軽薄なものであるわけがないのですから。
親の料理が美味しい美味しくない以前の話。そもそも親の料理を食べていられる期間が普通の人に比べて極端に短かった、という。
「どう? 栞」
彼の隣では背の低い男性が目を細めていましたが、その奥にある感情が口を通して出てくるよりも先に、僕は栞にそう問い掛けました。安心して答えていい質問だと、栞のみならずこの場の全員に知らせるために。
「そうだねえ」
何とも思わなかったということはないのでしょう。しかし栞はそれでも、何とも思わなかったように考える仕草をし、そして答えを出してみせるのでした。
「逆ならあるかもしれないね。お母さんの料理が殆ど食べられなかったから、っていう」
かもしれないね、と、栞はそう言いました。
「ええと……?」
前述の通り栞の事情を知っているわけもなく、ならば首を傾げてみせる背の高い男性なのでした。身体の年齢が十代後半である以上はそこまで――僕とのことで年を取り始めている栞なので、正確にはその付近まで、ということにはなるのですが――生きた筈である栞が、なのに親の料理を殆ど食べられなかったと言う。彼がそれに対してどんな想像をしたかは知りようがありませんが、しかし、何かある、と思ったのは間違いないことでしょう。
そうして傾げた首が乗せている表情には、しかし疑念だけでなく焦りのようなものも見受けられます。そりゃあそうでしょう、ただ自分と同じく幽霊だというだけならまだしも――だけ、で済ませていい話でないのはもちろんですが――それ以上の何かを抱えているということであれば、それが何なのか判明せずとも、安易に触れていいものでないことぐらいは誰にだって分かるわけですしね。
加えて彼は、同じく安易に触れられてはいけないものを抱えてもいるわけですし。
というわけで、
「あ、いえ、失礼しました」
そのままだと自身が抱える事情を説明し始めていたかもしれない栞を、彼はそう言って止めに掛かるのでした。
「ああ、大丈夫です。かもしれない、ですから。飽くまでも」
彼が頭を下げたのはそこではなく、その次の台詞についてだというのは、栞だって分かっていることでしょう。ならばつまりは、止められたのを察して素直に止まってみせたということなんだろうな、と。
……しかし、じゃあその言い分は場を誤魔化すための適当な発言でしかないのかと言われれば、そういうわけでもないのではないでしょうか。というのは、
「割とあるしね、自分でも気付かないところで影響されてるって」
と、そういう話です。例えば僕の場合、料理のことについてお母さんから素っ気ない態度を取られ続けたから意地になって続けたという面もある、みたいな――いや、僕の方は無意識だったにせよお母さん側は狙ってそうしていたわけで、ならば少々趣の異なる話だったりはするのかもしれませんが。
あと、意地になって続けたところが無意識だったとしても、素っ気なくされたこと自体はずっと意識していた、というか根に持ち続けていたわけですが……。
「あら、孝さんも覚えがあったり?」
ニヤニヤしつつお母さんをチラチラ見もしつつ、なんて露骨な振舞いをしておきながら、言葉の上では恍けてくる栞なのでした。ないって言ったらどうするつもりなのさ。言わないけど。
そんな感じでノーコメントノーリアクションのつもりでいる僕に満足そうな笑みを浮かべたのち、栞は再び背の高い男性を向き直ります。
「いま孝さんが言ってくれたこともありますし、だからそういうことがあるかないかっていうのは、自分でも分からないんですけど……でも、あるかもしれないっていう可能性に気付けたのは嬉しいです。有り難う御座います」
そうなると増々困ってしまう背の高い男性でしたが、しかし少なくとも、その中身の一つである焦りについては、逆に軽減されたようでした。
一方、そうさせた栞の言い分についてですが。
無理矢理なところがあるというのは、やはり否めないでしょう。しかしその無理矢理さは何も彼への気遣いとしてだけではなくて――いや、むしろそちらは副産物のようなもので、栞としては「自分にそう言い聞かせる」というのが主だったのではないでしょうか。
無理矢理でも何でも親が、家族が今でも自分と繋がっている可能性が提示されたのなら、それを聞き流すことなど栞には出来よう筈がないのです。
なんせそれを理由に一度実家を訪ね、そして同じくそれを理由に、もう実家には戻らないという決意をした彼女なのですから。
焦りの抜けた困り顔をしている背の高い男性が、にやにやと愉しそうな笑みを浮かべた背の低い男性から肘でつつかれている一方で、栞は作り物ではない嬉しそうな笑みを僕へと向けています。
この結果に首を傾げないでいられるのは、栞自身はもちろんとして、他には僕しかいないのかもしれません。栞の事情を知っている人間となれば、そこには僕達二人だけでなく僕の両親も加わって四人ということになるのですが、しかし栞がその事情に対してどう動けるか――言い換えれば「栞がどんなふうに強い人間なのか」ということについては、一度話を聞いてもらったくらいで理解し切れるものではないんでしょうしね。
……というのは何も栞が特別だという話ではなく、誰にでも言えることだという話ではあるわけですが。
つまらない、なんて言ってしまうと子どもっぽいというか夢見がちというかですが、でもやっぱりそうなっちゃいますもんね。ちょっと話を聞いただけでその人のことが分かってしまう、なんてことになったら。
というわけなので、たとえ現段階で既に仲が良かろうと、両親にはこれからまだまだ栞の良いところを知っていってもらうことになるわけです。
し、けれど当然、こう言っている僕自身にとってもそれは同じことだったりするわけです。栞のことはまだまだ知っていきたいですし、それに既に知っていることにしたって、改めて惚れ直すことはできるわけですしね。例えば今、この瞬間のように。
「もう、孝さんがやらしい目付きしてるから」
「ええ……」
妻の強さに惚れ直した、ということで個人的には晴れやかな一幕だった筈なのですが、残念なことにそんな評価を頂いてしまうことになる僕なのでした。
というのはもちろん冗談として、冗談である筈だとして、何があったかという話。
一旦僕達から離れると言って、家守さんの友人四人が他所へ移ってしまったのでした。
話の流れというのももちろんあるのでしょうが、しかし僕が、というか僕と栞が漂わせた雰囲気がそうさせたというのも、まあないではないのでしょう。……それがやらしいものだったかどうかは別として。
「ふふ、冗談だよ」
ほっ。
「ありがとね。話、させてくれて」
「何のことやら」
「ありゃ。んー、やっぱり本当にやらしかったのかも」
「…………」
どうやら意図して話の先を促したのも、その時そんな意図があったことを今こうして誤魔化そうとしていることもバレバレなようですが、栞に言わせればそれもまた「やらしい」という言葉で表現できるものらしいのでした。もちろん、最初に出てきたものとはニュアンスが違っているんでしょうけど。
まあどっちの意味だったとしても今更気にするようなことではないんでしょうけどね、などと開き直ってもみたところで、今度はお父さんが栞とこんな遣り取りを。
「心配には及ばない、ということで?」
「はい、全然。――あ、でも有り難うございます、心配してくださって」
「親が娘の心配をするのは当然のことですからね」
「……はいっ」
娘、ということで、お母さんと栞の遣り取りをさらりと流用してみせたお父さん。そのことについての意見は一致しているぞ、ということなんでしょうね。もちろん、こっちだって別に疑っていたわけではありませんが。
しかしそうなってくると、いずれはお父さんもお母さんのようにくだけた調子で栞と接することになるのでしょうか?……ううむ、良い悪いの話ではありませんが、どうにも想像し難いというか。
ちなみにですが、心配してもらったことに礼を言った栞は、しかしそちらの話についてはただ頷くだけに留めているのでした。
その弾んだような口調と口元の笑みからして、ちょっとどころではなく喜んではいるのでしょう。頷くだけに留めたというのは、当然のことだと言われたのであればこちらも当然のものとして受け入れる、と、そういうことなんでしょうね。
勿論、その頭には「有難く」という言葉が乗せられていることでしょうが。
「なんかもう、溜息出ちゃいますよ私」
実際に溜息を吐いてからそんなふうに言ったのはお母さん。となればお父さん、「ん?」とこれまた心配そうな顔をそちらに向けることになったのですが、
「栞さんが凄いのはもちろんですけど、その栞さんの凄さを分かって何かしてたらしい孝一も凄いじゃないですか。そんな二人が息子と娘なんですよ? 私達」
「ははは、まあなあ」
そこでプレッシャーを感じられてしまうのはこちらとしては、というか栞としては本意ではなかったりするのかもしれませんが、しかしそれはさておいて。
「どうしたのお母さん。なんか普通に褒めてくれちゃってるけど」
「普通に褒めてるのよ?」
…………。
ここでプレッシャーを感じられてしまうのは、お母さんとしては本意ではなかったりするんでしょうか? やっぱり。
「なに石みたいな顔してんの。別に初めてでもないでしょうが――というか、今日はこればっかりでしょうが。栞さんとの話になったら」
石みたいな顔ってどんなのさ、というのはともかく、「こればっかり」というほど褒められた覚えはないわけですが……とはいえ、逆に皆無かと言われれば、そこはまあそういうわけでもなかったりするんですけど。
「でもお義母さん、それは別に私とのことがあって凄い人になったってわけじゃないと思いますよ? 最初から凄かったんですよ、孝さんは」
まだそんなことまで言ってはいなかったのですが、しかしそこは栞の読み通り、「まだ」なだけでしかなかったのでしょう。先回りでそう言われてしまったお母さんは、困ったような笑みを浮かべるほかないらしいのでした。
で、ならばそうして言葉を途切れさせてしまったお母さんに代わり、今度はお父さんが動きます。
「長所にしろ短所にしろ、それまで無かったものがいきなり出てきた、なんてことになったら確かに栞さんとしても困るところではあるんでしょうけどね。せっかく付き合い始めた相手がいきなり別人になっちゃったようなもんですし」
言い方の問題ではあるのでしょうが、そりゃ確かに恐ろしい話です。しかもその契機が自分と付き合い始めたことともなると、それはつまりその人を別人にした原因が自分だと、言おうと思えばそう言えてもしまうわけですし。
……「無かった」ではないにせよ、「有るとは知らなかった」ものがいきなり出てきた経験であれば、僕にもあったりするんですけどね。もちろん、それが以前からその人の一部として存在し続けていたものだという点において、「無かった」とはまるで別の話だったりもするわけですが。
それが誰の何についての話かというのは今更なこととしておいて、どうやらお父さんの話にはまだ続きがある様子。
「とはいえ、長所がもっと伸びた、くらいのことはあるんじゃないですか? 何もかも変わりなくそのまんま、というのはちょっと寂しいですしねえ」
「ああ、はい。それはもちろんです。お付き合いさせてもらってる中で――」
その弾んだ声色のおかげで逆にあっさりした感じではなくなってしまっている気もしますが、あっさりと頷いてみせた栞。続けて何か言い掛けてもいたのですがしかし、
「させてもらっていた中で、になるんですかね? 今だと」
と、途中で訂正を挟むのでした。うーん、確かにどうなんでしょうね。恋人としての交際歴と夫婦としての結婚歴は果たして、連続したものとすべきなのか別物として分けて考えるべきなのか……。
と、しかし本題はそんなところにないわけでもありまして、「あはは」と笑ってみせた栞はそのまま話を続けます。
「その中で負けず嫌いっぷりにさらに磨きが掛かったと思いますよ、孝さん」
負けず嫌い。
……うーん?
「あったっけ、そんなところ」
と僕がそう返している間にもお父さんは、それにお母さんまでもが笑っていて、ならばあったんでしょうねどうせ。
「お義母さんがお料理続けるようにけしかけてくれたこと」
栞、開いた手の五本の指のうち親指を折ってみせながらそんなふうに。なるほど、攻め手は複数確保していると。
「負けず嫌い……うん、まあ、うん」
素っ気ない態度を取られたことで逆にのめり込んだという話をしているのは間違いなく、ならばそれについては確かにそんなふうに言えなくもない、のでしょう。多分。
「他は?」
「私とのことで何かあったら全力でぶつかってくること」
…………。
「負けず嫌い?」
「負けず嫌い」
勝ち負けの話かなあそれ。一緒になってその「何か」の解決を目指す以上、栞とは勝ち負けではなくむしろ共闘関係にあるわけですし。「何か」それ自体に対してとか、そういう?
「あれを負けず嫌いって言うのは――いやまあ、呼びたいように呼んでくれたらいいけどさ」
「よしよし、本人の承諾ゲット」
酷いごり押しだったようには思うのですが、しかし一応は僕の承諾を待ってくれていたらしい栞なのでした。まあ前述の通りこのことについて栞とは共闘関係にあるわけで、ならば栞の意見を僕が否定しようはずもないといえばないんですけどね。
ちなみにですが、こんな僕に対する最終兵器みたいな話が出てきたということは、
「次はもうない? 人差し指まで折ってるけど」
「うん、二つで終わり」
たった二つで指折る必要あったかなあ。と、まあ、多かったら必要が発生するのかと言われたら、そうでもないような気はしますけど。
「お前なんか二つで充分だってさ、孝一」
「じゃあお父さんはいくつでお母さんに負けるのさ」
「負ける前提なのか……」
そりゃあもう。「お父さんは負けず嫌いって感じじゃないわねえ。あっさり負けてくれるし」
お父さんにとってそれが慰めになるのか追い打ちになるのかは分かりませんが、ここでお母さんがそんなふうに。息子の立場からじゃ見えない部分もあるんじゃなかろうか、とは思っていたわけですが、これについてはどうやら見えているままが真実だったようです。
と思ったら、
「でも、お母さんが何かに負けそうな時は代わりに勝ってくれるのよ?」
とも。つい先程皆の前で披露した誓いの言葉ではありませんが、夫婦は互いに支え合うものだという考えに則れば、なるほどそういうことはあってもおかしくない、どころかあって当然のものではあるのでしょう。たとえそれが、自分の両親についての話であったとしても。
とはいえやはり自分の両親の話なので、
「あれ、年甲斐もないこと言い始めちゃった感じ?」
などと、そんなふうに返さざるを得ない場面でもあるのでした。息子としては。
「うーん、どうかしら。逆に年相応なんじゃないかしらねえ、これくらいにまでなっちゃうと」
「だなあ。なんせ、息子が嫁さん貰ってきたわけだし」
「ですよねえ。いつまでも照れたりしてる方が逆に気持ち悪いですよ」
なるほどそれは確かにそうかもしれない――と納得はさせられつつ、けれどそれを理由に両親の仲睦まじげなシーンをすんなり受け入れられるようになるかと言われると、そういうわけでもないような……。
「孝さんも早く大人にならないとねえ」
「ぐふっ」
顔に出ていたということなのでしょう。そんなことを考えているうちに、妻から子ども扱いされてしまうのでした。年齢的にはまだ未成年だし――なんて反論が良い結果を呼ぶ場面ではないですよね、これ。
「ところで栞、さっきの話だけど」
「ん? 逃げた?」
「逃げた。――ほら、僕は最初から凄かったとか、長所がもっと伸びたとかいう話。あれが本当にそうだとしたら、栞も実は最初から凄かったってことになるよね?」
というのは今していたものとはもうまったく別の話で、だから本当に全力で逃げたことになるわけですが、しかしそれが僕に対しての最終兵器的な話題である以上、栞に対しても同じことが言えるわけです。
というわけで栞、「というのは、どんなところについて?」と、逃げた僕を笑うどころかむしろ前のめりにそう尋ねてくるのでした。
それについては、しめしめ上手くいったぞ、という話ではなく「ああ良かった」と。
「僕の話と同じだよ。何かあったら全力でぶつかってくるっていう」
「あー、うーん、それねえ」
考え込んでしまった栞は、腕を組みさえしてみせます。となると、そうなると踏んだうえでその質問を投げ掛けた僕はともかく、傍で聞いているだけの両親はそれに対して怪訝な表情を浮かべもするのでした。
「今の、どういう話なの? 孝一」
お母さんからそう尋ねられもするのですが、しかしそれに対する返事は、僕よりも栞の方が先に。
「大丈夫ですお義母さん。これは別に深刻な話じゃなくて――あはは、ええと、さっきのお義母さんとお義父さんの年相応のお話みたいな、というか」
「ああ、はい。了解しました」
「年甲斐もない」ではなく「年相応」だというのがいつの間にか確定していたようですが、それはまあいいとしておきまして。
「孝さんとお付き合いさせてもらっている間に、私もそうなっちゃってたんですよ。何かあったら全力でぶつかるっていう」
「ということは孝一と栞さん、何かあったら全力でぶつかり合ってるのか」
いま問題としているのがそこでないことは明白だと思うのですが、そんな余計な指摘を差し挟んでくるお父さんなのでした。それ自体はいいとしても、その妙な笑みは引っ込めて頂きたいところ。
「そうなんですよ。そうなんですけど、孝さんに釣られてそうなったと思ってたのが実は最初からそうだったんじゃないか疑惑が浮上しまして」
「いや、自分で振っといてなんだけど栞、さっきの話がそうだったからって今までの認識を引っ繰り返す必要はないんじゃないかなあ」
「それはそうなんだろうけど、でもそうだったとしたらそれはそれで嬉しいような気もするしさ。好きな人の好きなところをもしかしたら自分も持ってたかもしれない、ってことなんだし」
そういうふうに考えられなくもない……の、でしょうか?
と、深刻ではないにせよ真面目な話ではあるというのにちょっぴり興奮気味の栞を可愛らしいと思ってしまったり、あと「好きな人の好きなところ」発言で両親がこっちにねちゃっとした視線を向けてきていることから逃げるようにして、頭を働かせてみる僕なのでした。
うーむ、逃げてばっかりですね、そういえば。
「別にそんな男前ってわけでもないのにな」
「ですよねえ、本当に」
栞と僕に共通した話である筈なのにどういうわけだか僕だけが蔑まれている気がしますが、ともあれ僕の両親はそんなふうに疑問を呈してくるのでした。そういう話をしたことがないというわけではないのですが、でもまあ真面目な話ならともかくからかい半分としてなら、ずっと言われ続けるんでしょうねこれは。
というわけで栞も、からかい半分の話に対してはそれに準じた対応を。
「ハートはともかく、胃袋はすぐ鷲掴みにされちゃったわけですしねえ」
嬉しいような悲しいような……って、だから、それは冗談みたいなものなんですけどね?
「ああ、そういえば」
とここで、何か思い付くことがあったらしいのは背の高い男性。
そういえばってどう言えばなんでしょうね。もしそれが今の栞の台詞を指しているんだとしたら、と考えると、僕はちょっと心の準備をしておいた方がいいんでしょうか?
「奥さん、自分で料理ができたほうがいいって言ってたけど、じゃあそれまでも食事はしてたってことなのかな」
なるほど、そういう。幽霊は食事をしない……とまでは言いませんが、する必要がない、という話ですね。
真っ当な、しかも僕に関係しない質問には安堵させられるところですが、それはともかく栞の返事です。顎に手を当て、「うーん」と唸ってから言うには、
「みんなでお出掛けして外で何か食べる、みたいなことは時々ありましたけど、自分で作る――じゃないか、その前の話なんだし。何か買ってきて食べるとか、そういうのはありませんでしたねえ」
ちなみにその「買ってきて食べる」というのも、そうするとなればそれは栞の仕事ではなく、成美さんに頼むことになっていたんでしょうが……というところも含めて、栞は幽霊だという話です。それこそ、これはずっと議題に上げ続けたり上げられ続けたりする話なのでしょう。
で、栞のそんな返答に対して背の高い男性はというと。
「ということは……多分、奥さんもやっぱり向いてたってことになるんじゃないかなあ。料理」
栞の表情がぱっと明るくなります。
「――ああ、と言ってもそれは技能とか才能とかの話じゃなくて」
続けてちょっと残念そうにします。
「こう、やる気になれるなれないの話というか。少なくとも僕は、自分で料理するなんて発想は全くないしね。なんせ誰が作るか以前にそもそも食事をしてないんだし」
そうは言いますけどそれはやっぱり貴方が男だから――と思ったら、傍にいる女性二名も特に異論はなさそうな雰囲気。
ううむ、となると案外そういうものなんですかねえ。料理とは違うにせよ成美さんもちょくちょく魚を捌いていたりするわけで、あまくに荘においては「幽霊だから食事をしない」という空気は薄かったのですが……。
「成美ちゃんの場合は、『お買い物係』が先にあったりするのかな」
とここで、またしても僕の考えを察した――いや、今回は単に同じ人物に思いが至ったというだけなのでしょう、栞が呟くようにしてそう口にするのでした。なるほど、ちょくちょく仕事が欲しそうにしてたりしますしね成美さん。食料調達なんてその最たるものなんでしょうし。
とはいえもちろん、それは成美さんの台所に立つことへの意欲や、あとお客さんへのもてなしの心を否定するものではないんですけどね。火曜日はいつもチューズデーさんと一緒に食べてるそうですし、それに僕自身、ご馳走になったことはあるわけで。
「奥さん自身が言ってたことなんだし、じゃあ結局は奥さんにも当て嵌まるんじゃないかなあ、あの話」
「あの話?」
何やら思わせぶりな台詞を口にする背の高い男性に、栞は首を傾げます。が、栞自身が言っていたこと、ということで、それが何なのか発表されるよりも前に「あのことだろうな」と。
しかしそれは……。
「お母さんの料理」
……彼に不信感を抱いていた少し前までの僕なら、恐らくここで大なり小なり、表に出すなり出さないなり、憤っていたことでしょう。しかし今はもう、そんなことはありませんでした。
悪い人ではない、という髪が短い女性の言い分を、家守さんの話しぶりを通して信用したというのもありますし――それに何より、考えてみれば、いや考えるまでもないことではあるのですが、彼だって栞と同じ立場なのです。栞もそうだということを彼が知らないだけで、彼がそれを口にするのであれば、それが軽薄なものであるわけがないのですから。
親の料理が美味しい美味しくない以前の話。そもそも親の料理を食べていられる期間が普通の人に比べて極端に短かった、という。
「どう? 栞」
彼の隣では背の低い男性が目を細めていましたが、その奥にある感情が口を通して出てくるよりも先に、僕は栞にそう問い掛けました。安心して答えていい質問だと、栞のみならずこの場の全員に知らせるために。
「そうだねえ」
何とも思わなかったということはないのでしょう。しかし栞はそれでも、何とも思わなかったように考える仕草をし、そして答えを出してみせるのでした。
「逆ならあるかもしれないね。お母さんの料理が殆ど食べられなかったから、っていう」
かもしれないね、と、栞はそう言いました。
「ええと……?」
前述の通り栞の事情を知っているわけもなく、ならば首を傾げてみせる背の高い男性なのでした。身体の年齢が十代後半である以上はそこまで――僕とのことで年を取り始めている栞なので、正確にはその付近まで、ということにはなるのですが――生きた筈である栞が、なのに親の料理を殆ど食べられなかったと言う。彼がそれに対してどんな想像をしたかは知りようがありませんが、しかし、何かある、と思ったのは間違いないことでしょう。
そうして傾げた首が乗せている表情には、しかし疑念だけでなく焦りのようなものも見受けられます。そりゃあそうでしょう、ただ自分と同じく幽霊だというだけならまだしも――だけ、で済ませていい話でないのはもちろんですが――それ以上の何かを抱えているということであれば、それが何なのか判明せずとも、安易に触れていいものでないことぐらいは誰にだって分かるわけですしね。
加えて彼は、同じく安易に触れられてはいけないものを抱えてもいるわけですし。
というわけで、
「あ、いえ、失礼しました」
そのままだと自身が抱える事情を説明し始めていたかもしれない栞を、彼はそう言って止めに掛かるのでした。
「ああ、大丈夫です。かもしれない、ですから。飽くまでも」
彼が頭を下げたのはそこではなく、その次の台詞についてだというのは、栞だって分かっていることでしょう。ならばつまりは、止められたのを察して素直に止まってみせたということなんだろうな、と。
……しかし、じゃあその言い分は場を誤魔化すための適当な発言でしかないのかと言われれば、そういうわけでもないのではないでしょうか。というのは、
「割とあるしね、自分でも気付かないところで影響されてるって」
と、そういう話です。例えば僕の場合、料理のことについてお母さんから素っ気ない態度を取られ続けたから意地になって続けたという面もある、みたいな――いや、僕の方は無意識だったにせよお母さん側は狙ってそうしていたわけで、ならば少々趣の異なる話だったりはするのかもしれませんが。
あと、意地になって続けたところが無意識だったとしても、素っ気なくされたこと自体はずっと意識していた、というか根に持ち続けていたわけですが……。
「あら、孝さんも覚えがあったり?」
ニヤニヤしつつお母さんをチラチラ見もしつつ、なんて露骨な振舞いをしておきながら、言葉の上では恍けてくる栞なのでした。ないって言ったらどうするつもりなのさ。言わないけど。
そんな感じでノーコメントノーリアクションのつもりでいる僕に満足そうな笑みを浮かべたのち、栞は再び背の高い男性を向き直ります。
「いま孝さんが言ってくれたこともありますし、だからそういうことがあるかないかっていうのは、自分でも分からないんですけど……でも、あるかもしれないっていう可能性に気付けたのは嬉しいです。有り難う御座います」
そうなると増々困ってしまう背の高い男性でしたが、しかし少なくとも、その中身の一つである焦りについては、逆に軽減されたようでした。
一方、そうさせた栞の言い分についてですが。
無理矢理なところがあるというのは、やはり否めないでしょう。しかしその無理矢理さは何も彼への気遣いとしてだけではなくて――いや、むしろそちらは副産物のようなもので、栞としては「自分にそう言い聞かせる」というのが主だったのではないでしょうか。
無理矢理でも何でも親が、家族が今でも自分と繋がっている可能性が提示されたのなら、それを聞き流すことなど栞には出来よう筈がないのです。
なんせそれを理由に一度実家を訪ね、そして同じくそれを理由に、もう実家には戻らないという決意をした彼女なのですから。
焦りの抜けた困り顔をしている背の高い男性が、にやにやと愉しそうな笑みを浮かべた背の低い男性から肘でつつかれている一方で、栞は作り物ではない嬉しそうな笑みを僕へと向けています。
この結果に首を傾げないでいられるのは、栞自身はもちろんとして、他には僕しかいないのかもしれません。栞の事情を知っている人間となれば、そこには僕達二人だけでなく僕の両親も加わって四人ということになるのですが、しかし栞がその事情に対してどう動けるか――言い換えれば「栞がどんなふうに強い人間なのか」ということについては、一度話を聞いてもらったくらいで理解し切れるものではないんでしょうしね。
……というのは何も栞が特別だという話ではなく、誰にでも言えることだという話ではあるわけですが。
つまらない、なんて言ってしまうと子どもっぽいというか夢見がちというかですが、でもやっぱりそうなっちゃいますもんね。ちょっと話を聞いただけでその人のことが分かってしまう、なんてことになったら。
というわけなので、たとえ現段階で既に仲が良かろうと、両親にはこれからまだまだ栞の良いところを知っていってもらうことになるわけです。
し、けれど当然、こう言っている僕自身にとってもそれは同じことだったりするわけです。栞のことはまだまだ知っていきたいですし、それに既に知っていることにしたって、改めて惚れ直すことはできるわけですしね。例えば今、この瞬間のように。
「もう、孝さんがやらしい目付きしてるから」
「ええ……」
妻の強さに惚れ直した、ということで個人的には晴れやかな一幕だった筈なのですが、残念なことにそんな評価を頂いてしまうことになる僕なのでした。
というのはもちろん冗談として、冗談である筈だとして、何があったかという話。
一旦僕達から離れると言って、家守さんの友人四人が他所へ移ってしまったのでした。
話の流れというのももちろんあるのでしょうが、しかし僕が、というか僕と栞が漂わせた雰囲気がそうさせたというのも、まあないではないのでしょう。……それがやらしいものだったかどうかは別として。
「ふふ、冗談だよ」
ほっ。
「ありがとね。話、させてくれて」
「何のことやら」
「ありゃ。んー、やっぱり本当にやらしかったのかも」
「…………」
どうやら意図して話の先を促したのも、その時そんな意図があったことを今こうして誤魔化そうとしていることもバレバレなようですが、栞に言わせればそれもまた「やらしい」という言葉で表現できるものらしいのでした。もちろん、最初に出てきたものとはニュアンスが違っているんでしょうけど。
まあどっちの意味だったとしても今更気にするようなことではないんでしょうけどね、などと開き直ってもみたところで、今度はお父さんが栞とこんな遣り取りを。
「心配には及ばない、ということで?」
「はい、全然。――あ、でも有り難うございます、心配してくださって」
「親が娘の心配をするのは当然のことですからね」
「……はいっ」
娘、ということで、お母さんと栞の遣り取りをさらりと流用してみせたお父さん。そのことについての意見は一致しているぞ、ということなんでしょうね。もちろん、こっちだって別に疑っていたわけではありませんが。
しかしそうなってくると、いずれはお父さんもお母さんのようにくだけた調子で栞と接することになるのでしょうか?……ううむ、良い悪いの話ではありませんが、どうにも想像し難いというか。
ちなみにですが、心配してもらったことに礼を言った栞は、しかしそちらの話についてはただ頷くだけに留めているのでした。
その弾んだような口調と口元の笑みからして、ちょっとどころではなく喜んではいるのでしょう。頷くだけに留めたというのは、当然のことだと言われたのであればこちらも当然のものとして受け入れる、と、そういうことなんでしょうね。
勿論、その頭には「有難く」という言葉が乗せられていることでしょうが。
「なんかもう、溜息出ちゃいますよ私」
実際に溜息を吐いてからそんなふうに言ったのはお母さん。となればお父さん、「ん?」とこれまた心配そうな顔をそちらに向けることになったのですが、
「栞さんが凄いのはもちろんですけど、その栞さんの凄さを分かって何かしてたらしい孝一も凄いじゃないですか。そんな二人が息子と娘なんですよ? 私達」
「ははは、まあなあ」
そこでプレッシャーを感じられてしまうのはこちらとしては、というか栞としては本意ではなかったりするのかもしれませんが、しかしそれはさておいて。
「どうしたのお母さん。なんか普通に褒めてくれちゃってるけど」
「普通に褒めてるのよ?」
…………。
ここでプレッシャーを感じられてしまうのは、お母さんとしては本意ではなかったりするんでしょうか? やっぱり。
「なに石みたいな顔してんの。別に初めてでもないでしょうが――というか、今日はこればっかりでしょうが。栞さんとの話になったら」
石みたいな顔ってどんなのさ、というのはともかく、「こればっかり」というほど褒められた覚えはないわけですが……とはいえ、逆に皆無かと言われれば、そこはまあそういうわけでもなかったりするんですけど。
「でもお義母さん、それは別に私とのことがあって凄い人になったってわけじゃないと思いますよ? 最初から凄かったんですよ、孝さんは」
まだそんなことまで言ってはいなかったのですが、しかしそこは栞の読み通り、「まだ」なだけでしかなかったのでしょう。先回りでそう言われてしまったお母さんは、困ったような笑みを浮かべるほかないらしいのでした。
で、ならばそうして言葉を途切れさせてしまったお母さんに代わり、今度はお父さんが動きます。
「長所にしろ短所にしろ、それまで無かったものがいきなり出てきた、なんてことになったら確かに栞さんとしても困るところではあるんでしょうけどね。せっかく付き合い始めた相手がいきなり別人になっちゃったようなもんですし」
言い方の問題ではあるのでしょうが、そりゃ確かに恐ろしい話です。しかもその契機が自分と付き合い始めたことともなると、それはつまりその人を別人にした原因が自分だと、言おうと思えばそう言えてもしまうわけですし。
……「無かった」ではないにせよ、「有るとは知らなかった」ものがいきなり出てきた経験であれば、僕にもあったりするんですけどね。もちろん、それが以前からその人の一部として存在し続けていたものだという点において、「無かった」とはまるで別の話だったりもするわけですが。
それが誰の何についての話かというのは今更なこととしておいて、どうやらお父さんの話にはまだ続きがある様子。
「とはいえ、長所がもっと伸びた、くらいのことはあるんじゃないですか? 何もかも変わりなくそのまんま、というのはちょっと寂しいですしねえ」
「ああ、はい。それはもちろんです。お付き合いさせてもらってる中で――」
その弾んだ声色のおかげで逆にあっさりした感じではなくなってしまっている気もしますが、あっさりと頷いてみせた栞。続けて何か言い掛けてもいたのですがしかし、
「させてもらっていた中で、になるんですかね? 今だと」
と、途中で訂正を挟むのでした。うーん、確かにどうなんでしょうね。恋人としての交際歴と夫婦としての結婚歴は果たして、連続したものとすべきなのか別物として分けて考えるべきなのか……。
と、しかし本題はそんなところにないわけでもありまして、「あはは」と笑ってみせた栞はそのまま話を続けます。
「その中で負けず嫌いっぷりにさらに磨きが掛かったと思いますよ、孝さん」
負けず嫌い。
……うーん?
「あったっけ、そんなところ」
と僕がそう返している間にもお父さんは、それにお母さんまでもが笑っていて、ならばあったんでしょうねどうせ。
「お義母さんがお料理続けるようにけしかけてくれたこと」
栞、開いた手の五本の指のうち親指を折ってみせながらそんなふうに。なるほど、攻め手は複数確保していると。
「負けず嫌い……うん、まあ、うん」
素っ気ない態度を取られたことで逆にのめり込んだという話をしているのは間違いなく、ならばそれについては確かにそんなふうに言えなくもない、のでしょう。多分。
「他は?」
「私とのことで何かあったら全力でぶつかってくること」
…………。
「負けず嫌い?」
「負けず嫌い」
勝ち負けの話かなあそれ。一緒になってその「何か」の解決を目指す以上、栞とは勝ち負けではなくむしろ共闘関係にあるわけですし。「何か」それ自体に対してとか、そういう?
「あれを負けず嫌いって言うのは――いやまあ、呼びたいように呼んでくれたらいいけどさ」
「よしよし、本人の承諾ゲット」
酷いごり押しだったようには思うのですが、しかし一応は僕の承諾を待ってくれていたらしい栞なのでした。まあ前述の通りこのことについて栞とは共闘関係にあるわけで、ならば栞の意見を僕が否定しようはずもないといえばないんですけどね。
ちなみにですが、こんな僕に対する最終兵器みたいな話が出てきたということは、
「次はもうない? 人差し指まで折ってるけど」
「うん、二つで終わり」
たった二つで指折る必要あったかなあ。と、まあ、多かったら必要が発生するのかと言われたら、そうでもないような気はしますけど。
「お前なんか二つで充分だってさ、孝一」
「じゃあお父さんはいくつでお母さんに負けるのさ」
「負ける前提なのか……」
そりゃあもう。「お父さんは負けず嫌いって感じじゃないわねえ。あっさり負けてくれるし」
お父さんにとってそれが慰めになるのか追い打ちになるのかは分かりませんが、ここでお母さんがそんなふうに。息子の立場からじゃ見えない部分もあるんじゃなかろうか、とは思っていたわけですが、これについてはどうやら見えているままが真実だったようです。
と思ったら、
「でも、お母さんが何かに負けそうな時は代わりに勝ってくれるのよ?」
とも。つい先程皆の前で披露した誓いの言葉ではありませんが、夫婦は互いに支え合うものだという考えに則れば、なるほどそういうことはあってもおかしくない、どころかあって当然のものではあるのでしょう。たとえそれが、自分の両親についての話であったとしても。
とはいえやはり自分の両親の話なので、
「あれ、年甲斐もないこと言い始めちゃった感じ?」
などと、そんなふうに返さざるを得ない場面でもあるのでした。息子としては。
「うーん、どうかしら。逆に年相応なんじゃないかしらねえ、これくらいにまでなっちゃうと」
「だなあ。なんせ、息子が嫁さん貰ってきたわけだし」
「ですよねえ。いつまでも照れたりしてる方が逆に気持ち悪いですよ」
なるほどそれは確かにそうかもしれない――と納得はさせられつつ、けれどそれを理由に両親の仲睦まじげなシーンをすんなり受け入れられるようになるかと言われると、そういうわけでもないような……。
「孝さんも早く大人にならないとねえ」
「ぐふっ」
顔に出ていたということなのでしょう。そんなことを考えているうちに、妻から子ども扱いされてしまうのでした。年齢的にはまだ未成年だし――なんて反論が良い結果を呼ぶ場面ではないですよね、これ。
「ところで栞、さっきの話だけど」
「ん? 逃げた?」
「逃げた。――ほら、僕は最初から凄かったとか、長所がもっと伸びたとかいう話。あれが本当にそうだとしたら、栞も実は最初から凄かったってことになるよね?」
というのは今していたものとはもうまったく別の話で、だから本当に全力で逃げたことになるわけですが、しかしそれが僕に対しての最終兵器的な話題である以上、栞に対しても同じことが言えるわけです。
というわけで栞、「というのは、どんなところについて?」と、逃げた僕を笑うどころかむしろ前のめりにそう尋ねてくるのでした。
それについては、しめしめ上手くいったぞ、という話ではなく「ああ良かった」と。
「僕の話と同じだよ。何かあったら全力でぶつかってくるっていう」
「あー、うーん、それねえ」
考え込んでしまった栞は、腕を組みさえしてみせます。となると、そうなると踏んだうえでその質問を投げ掛けた僕はともかく、傍で聞いているだけの両親はそれに対して怪訝な表情を浮かべもするのでした。
「今の、どういう話なの? 孝一」
お母さんからそう尋ねられもするのですが、しかしそれに対する返事は、僕よりも栞の方が先に。
「大丈夫ですお義母さん。これは別に深刻な話じゃなくて――あはは、ええと、さっきのお義母さんとお義父さんの年相応のお話みたいな、というか」
「ああ、はい。了解しました」
「年甲斐もない」ではなく「年相応」だというのがいつの間にか確定していたようですが、それはまあいいとしておきまして。
「孝さんとお付き合いさせてもらっている間に、私もそうなっちゃってたんですよ。何かあったら全力でぶつかるっていう」
「ということは孝一と栞さん、何かあったら全力でぶつかり合ってるのか」
いま問題としているのがそこでないことは明白だと思うのですが、そんな余計な指摘を差し挟んでくるお父さんなのでした。それ自体はいいとしても、その妙な笑みは引っ込めて頂きたいところ。
「そうなんですよ。そうなんですけど、孝さんに釣られてそうなったと思ってたのが実は最初からそうだったんじゃないか疑惑が浮上しまして」
「いや、自分で振っといてなんだけど栞、さっきの話がそうだったからって今までの認識を引っ繰り返す必要はないんじゃないかなあ」
「それはそうなんだろうけど、でもそうだったとしたらそれはそれで嬉しいような気もするしさ。好きな人の好きなところをもしかしたら自分も持ってたかもしれない、ってことなんだし」
そういうふうに考えられなくもない……の、でしょうか?
と、深刻ではないにせよ真面目な話ではあるというのにちょっぴり興奮気味の栞を可愛らしいと思ってしまったり、あと「好きな人の好きなところ」発言で両親がこっちにねちゃっとした視線を向けてきていることから逃げるようにして、頭を働かせてみる僕なのでした。
うーむ、逃げてばっかりですね、そういえば。
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