「なんとなく想像はつくかもしれねえけど、オレとオマエだけの話ってことで、例によって『そういう話』だ」
「ですか」
仰る通りになんとなく想像はついていたのですが、そういう話なんだそうでした。
が、しかしたまたま二人になったというならともかく、今回は大吾の意思のもとに二人になったわけです。ということであるなら、単にそういう話がしたくなったというだけではなさそうなのでした。
「特に今回はかなりアレな話なんだけど、それでも……というかかなりアレだからこそ、真面目な話なつもりだ。一応、そういう体で聞いてくれ」
「おう」
ということで、今回は「話がある」というより「相談がある」といったほうが相応しそうな雰囲気なのでした。そしてそういうことであるなら、こちらとしては協力を惜しむつもりはございません。
「まあなんだ、最初に言っちまうと混浴の話なんだけどな」
「混浴? あれ、成美さんは入る気満々だったし大吾もそれに乗っかる感じだと思ってたけど」
混浴に入る、ということについては完全に合意していると思っていたので、今の時点でそこに問題が残っているというのはかなり意外なのでした。というわけなので探り入れも兼ねてそんなふうに言ってみたところ、大吾も「それはそうなんだけどな」と。ただその際、肩を落としてはいましたが。
「今日ってほら、オレら以外の客もいるっぽいだろ? で、じゃあ前みてえにタオル巻いて入るってわけにはいかなくなるかもしれねえんだよな」
「それは僕もそう思ってたけど……ああ、成美さんが嫌がるかもって?」
正直な話、大吾がそれを嫌がるというのはかなり想像し難かったので、何を言われるまでもないまま成美さんの話ということにしてみました。が、
「いや、ちゃんと説明すればそこらへんは納得してくれると思う。アイツなら」
とのことでした。ふむ、まあ成美さんならさもありなんというところではありますが――でも、じゃあ一体何が問題なのでしょうか?
「その納得してくれるのが考えものっつうかな……」
「ええと、どういうこと?」
更に深く悩み始めてしまう大吾でしたがしかし、弱音にも近いような調子で僕がそう漏らしたところ、咳払いを挟みながら姿勢を整え始めるのでした。
そりゃまあ、話を持ち掛けた相手が弱り始めたら気にもするのでしょう。こちらにそんな意図があったわけではありませんでしたが。
「悪い、ちゃんと話すな。ええと、ほら、成美って髪伸びないだろ?」
「そりゃまあ……ん? いや、それってどっちの話? 年とらないって意味か、大人の身体になってもってことか」
成美さんでなければ前者の選択肢しか有り得ないわけですが、成美さんに限ってはその二つめの意味が生じてくるのでした。元から長過ぎるほど長いおかげで殆ど気になりませんが、あのふわふわもこもこの白くて長い髪は、小さい身体でも大きい身体でも長さは変わっていないのです。
で、それに対して大吾の返事ですが、
「どっちかっつうと大人の身体云々の方だな」
とのことでした。どっちかっつうと、というのはこれまた気になりますが、それはまあともかくとしておいて。
「僕達は気にしてなかったけど、髪は纏めたほうがいいだろうね。他のお客さんがいる場合は。纏め切れるかどうか分からないくらい長いけど」
「ああ、うん、それはそうだろうな」
髪の長さが問題だということならこういうことなんだろうな、と思ってそう言ってみたわけですがしかし、大吾のその反応からしてどうやら本題からは外れていたようでした。ううむ。
「あのな、孝一」
するとここで大吾、何やら意を決したように空気をピンと張り詰めさせてくるのでした。ならばどうやらとうとう、話の核心に踏み込むつもりのようです。
「うん」
「普通に考えりゃそりゃそうなんだけど、髪以外も伸びねえんだよ」
「うん?」
…………。
「う、うん?」
「いやオマエ分かったってことだろその反応」
「うん……」
だからといって、皆まで言いはしませんが。
「多分成美はそこは気にしねえっていうか、まず気にするもんだと思ってねえ。髪が伸びねえんだからそりゃまあこうなるよなって程度にしか思ってねえ、間違いなく」
という大吾の言い分は、信用に値するものなのでしょう。そりゃだって大吾ですし、なら今の話はただの想像でしかないってことではないんでしょうしね。そりゃあね。
「だから今回問題なのは、成美の話だけど成美じゃなくてオレなんだよな。それをこう、他人の目に晒すかもしれねえっていうのは、気にすべきことなのかそうじゃないのかっていう。分かんねえんだよ、ぶっちゃけ」
「なるほど……」
唸ってはみたもののさてしかし、内容が内容だけに言葉に困ってしまいます。あまり直接的な表現をするというのはこう、自分から話を持ち掛けているとはいっても、やっぱり大吾からすれば居た堪れなかったりするかもしれませんし。
「えー、小さい方の身体で入るっていうのは? それだったら別に、他の人の目からしても不自然じゃないっていうか」
「オレが保護者に見えてくれりゃいいけど、そうじゃなかったらより酷いことにならねえか?」
「あー」
小さい女の子と一緒に、しかも仲睦まじげな様子で――そこを我慢しろとはさすがに言えませんしね――混浴に浸かっている若い男。そうですよね、恐らくは酷い絵面になっちゃいますよね。僕達はまあ、普段の様子からすっかり慣れちゃってますけど。
「それ以前に、風呂入る前に耳引っ込めてくれ、とは言い難いしな。理由訊かれたらなんて答えるんだよって話だし」
「それもそっか」
言いたいことは理解できますし、ならば素直に頷いて見せる僕なのですが、けれど言い難い理由はそれだけでもないんだろうな、とも。とはいえそれは僕の口から語るような話ではなかったのですが、
「あと耳出すにしても出さないにしても、そこは成美の判断を優先してやりてえっつうか。今言ったこともあるから出す出さないどっちでも問題があるってことになっちまうんだけど、だからどっちにしてくれってのは言いたくねえな、あんまり」
僕の口から語るようなことでない話は、きっちり大吾の口から語られたのでした。ほらやっぱり、とここは少し得意になっておきましょう。
「……まあ、こっちから話持ち掛けといて我儘だとは思うけどよ」
「いや、そこらへんの理解はあると思ってくれていいよ」
なんせ実際に丸々理解しちゃってましたしね。
「悪いな」
「いいってことよ」
で、さて。
「栞と家守さん――は、今回いないけど、二人はそのこと知ってるんだよね?」
「そりゃまあ、女同士だし。とは言っても、大人の身体になれるようになってからってことなら、前にここに来たのが最初になるな。女同士で風呂入ったのって」
「ああ、そっか」
何故かすっかり僕があまくに荘に引っ越す前の話まで含めて考えてしまっていたのですが、しかしまあ一度でもその機会があったということなら特に問題はありません。
「その時成美さん、栞か家守さんに何か言われたとかって話は?」
「いや、全く。まああの時はまだそういう話をされるほどのアレじゃなかったし、何か言われてたとしてもそれをオレに言ってたかどうかはちょっと分かんねえけどな」
「ふむ……」
何も言われなかったのなら少なくとも女性からすればなんてことないんじゃないか、という話に持っていきたかったのですが、しかしこれは当てが外れたということになりましょう。そうですよね、その頃既に付き合っていたとはいえさすがに。
「栞呼んでこようか」
「そうなる気はしたけど、なんか軽蔑されそうな気がするな……」
「少なくとも意図は汲んでくれるって。……多分」
「何かと思ったらそんな話してたの? 男二人だけでまあ」
「ご批判はごもっとも。ですがここはどうか、お力添えを頂けないでしょうか。その男二人だけでは限界なのです」
「成美ちゃんのためでもあるし、仕方ないなあ。でも孝さん、その前に一つ確認しておくけど」
「はい」
「私の話はしてないよね?」
「はい!」
「え、栞サンも何かそういう」
「シャラップだよ大吾くん」
「はい!」
いやまあ、大した話ではないんですけどね?――と僕が勝手に評価を付けるべきことではないんでしょうけど、しかしそれでもやっぱり、少なくとも、成美さんに比べれば大した話ではないんだろうと思います。
まあ、栞の髪の色は黒ではないよねっていう、それだけの話です。
「そっちに気が向けば誰でも気付くことだし、だから知られてどうこうってほどのことじゃないんだけどね。私だって混浴には入るつもりだし、じゃあ全然知らない誰かの目に入るかもしれないんだし。でも、だからって知らないところでその話されてるっていうのはちょっと嫌かもね」
それはきっと自分のことだけでなく、僕と大吾がしていた成美さんの話についても言及しての言葉だったのでしょう。……というのはしかし、どうやら頭の中だけで済ませられる話ではなかったようで。
「だから大吾くん、探りを入れてみて大丈夫そうだったら成美ちゃんにもこの話を伝えるように。事後報告はよくないだろうからできればお風呂に入る前にね」
「分かりました……」
大丈夫そうだったら、という条件はかなり譲歩したというか、こちらからすれば有難がって然るべき話ということになるのでしょう。ならば僕も大吾も、不満を口にしたりはそりゃあできやしないのでした。
そうして男二人が若干の気まずさも孕ませながら黙り込んだのを見回したのち、ふんと鼻を鳴らした栞が口を開き始めます。
「じゃあさっそくだけど、まずは男とか女とか以前の話からかな」
「以前?」
大吾が意外そうな声を上げました。そりゃそうもなりましょう、今回の話は成美さんの話(に対する大吾の話)なわけで、ならば男とか女とかという話自体が「それ以前に」という扱いをされるべきものでもあるわけで、じゃあそのまた更に以前にまで話を引き戻す必要があるのかと言われれば、僕ですら首を傾げたくなるくらいでしたし。
けれど栞は構わず怯まず、「そう」と力強く頷いてみせます。
「当たり前だけど、こっちだけじゃなくて他の人だってみんな裸で入ってるわけだよね? 混浴って――というか、別に混浴じゃなくても公共のお風呂っていうのは」
「そりゃまあそうですけど」
「最初は恥ずかしいけど暫くしたら別に気にならなくなってくるとか、そういうのってない? 今くらいの年ならともかく、こう、多感な時期って言われる頃とかだと――と言ってもまあ、私はそこらへんちょっと、普通の人と認識にズレがあるかもなんだけど」
最初は恥ずかしいけど。前回ここの風呂に入った時のことを思い出すだけでも、僕は今でもそんな感じだったりします。そしてその時は平気そうだった大吾も、声には出さないながら「まあそんな感じだったろうか」というような表情でした。
認識のズレ、というのはもちろん、栞が多感な時期というものを丸ごと病院内だけで過ごしていたからなのでしょう。大吾も何も言わないでくれていることですし、もちろん僕からそこに触れるなんてことはしないでおきます。
特に反論がなさそうな男二人の様子を確認し、栞は話を続けます。
「その恥ずかしいのってさ、見られるのが嫌ってだけだった? 逆に他の人が目に入るのが嫌――うーん、こっちは嫌ってほどはっきりしたものじゃないかもだけど、抵抗があるとか、そういうのはどうだった?」
「うーん……ほんのちょっとだけ、って感じですかね。見えたなら見えたでそれネタにして冗談言い合ったりとかしてましたけど、冗談になるってことは、まあそういうことなんでしょうし。積極的に見に行くようなのもたまにいましたけどね」
というのは当たり前ながら同性間の話ということになるわけですが、と当然かつ極めて重要な前置きはきっちり挟んでおきまして。
大吾が今言った通り、僕もやっぱりそんな感じなのでした。積極的に見に行くわけじゃなし、何かの拍子に見えたり見られたりしてしまったらそこからふざけ合う、みたいな。そしてそれにしたって、暫くしたらあんまり気にならなくなってくるわけですし。
ちなみにここで、「直接的な表現を避けて話してるせいで有耶無耶な感じになってるけど、女性って女湯でタオル巻くんだろうか?」などというそれこそ直接的にアレな疑問が頭に浮かんでしまいましたが、しかしそれは尋ねたりしないでおきました。微妙に話がズレてますし、そうでなくともそれを栞に尋ねてどうするんだって話ですしね。病院に温泉やら銭湯やらがあるわけじゃなし。
「その見る見られるどっちの意味でもの恥ずかしさを今、この年になって感じるかって話だよ。その頃ですら暫くしたら気にならなくなる程度のことなのに、この年になって。そりゃあ今回は男だけ女だけって状況じゃないし、成美ちゃんのああいう事情もあるけどさ、正直、馬鹿らしいと思わない? それらひっくるめて考えても」
言われてみればそりゃそうなのですが、とは思うものの、成美さん絡みの話となると僕から迂闊な返事はし難いのでした。というわけで大吾の言葉を待つことになるわけですが、しかしその前に。
「だってもうあれだよ? 私達、お互いの夫婦同士ですることしちゃってるんだよ? それを今更みんな裸でいることが当たり前な場所で、全然知らない人から見たり見られたり程度でどうのこうのなんてさ」
ええ、まあ、ごもっともなのですが。
「私が成美ちゃんだったら、そんなこと気にされるほうが嫌かな。もったいないもん、一緒に混浴なんてそうそうない機会なのに」
「そうですね」
成美さんの立場に立って「嫌」と言われる。これはさすがに効いたのか、大吾の反応は素早く、かつ迷いがないのでした。
それを見た栞はにこりと笑い、そうしてから口調に普段の柔らかさを取り戻させます。
「じゃあ大吾くん、最後に質問だけど」
「はい?」
「成美ちゃんは全然気にしてそうじゃないって話だったけど、知らせずに済むなら知らせたくない? それとも、知らせたうえで気にしないでいて欲しい? こういう話になるようなことではあるんだよって」
「……そうですね。そういう意味でも、事後報告は駄目ですね」
「うん。好きだよ私、大吾くんのそういう考え方」
質問に対する返事はしていない大吾でしたが、けれどその考えはしっかり栞に伝わったようでした。というかこの場合、初めから大吾がどう動くか分かってて尋ねたって感じでしょうかね、栞の方も。
人間と猫。下世話な話ではありますし、いつもほど明確ではありませんが、今回の話もやはりそれに含まれてくるのでしょう。こう言ってしまうと大袈裟に聞こえてしまいますが、人間の身体に対する知識不足、ということにはなるわけですしね。猫であるが故の。
となったら、大吾は伝えるわけです。伝えて、きちんと二人の中で擦り合わせをしてから、共通の認識を形成していくわけです。猫であることを否定せず、かといって身体が人間である以上は避けられない「人間らしさ」も認めていって、そのどちらをも成美さんという一人の女性――妻として、受け入れていくために。
「さて、じゃあ私は音無さん達の部屋に戻るけど、どうする? 何だったら成美ちゃんに声掛けてみるけど」
話が終わったところで、すっきりしたご様子の栞からそんな提案が。事後報告は駄目、ということになったとはいえ、だからってもちろん今すぐでなければならないというわけではないのですが、
「そうですね、じゃあお願いします」
と、迷わずそう返事をする大吾なのでした。なんとなくそうなるだろうとは思ってましたけどね、僕も。
「分かった。じゃあ行こう、孝さん」
「え、僕も?」
立ち上がり、けれどそのまま立ち去るのではなくこちらを振り返ってそう言ってきた栞は、僕の返事にじっとりと目を細めるのでした。
「ここに残ってどうするの? まさかとは思うけど、あんな話に立ち会うつもり?」
「めっそうもない!」
尻にバネでも仕込まれてるかのような勢いで立ち上がり、ならば栞についていくことになった僕なのでした。
いや、そりゃ、当たり前ですけどこの部屋を出ること自体は僕だって初めからそうすべきだと思ってたんですよ? ただ行き先をどうしようかと思ってただけで。……というのは間違いなく本音ではあるのですが、けれどそれで心証が良くなることはまずないだろうという判断から、大人しくしておくことにするのでした。大吾にちょっと笑われました。
「何かあったんですかな?」
「いえいえ、大したことじゃあ」
栞に声を掛けられて成美さんが自分の部屋に戻ると、同森さんが心配そうな顔でそう尋ねてくるのでした。事情を知っていようがいまいが関係なく、人一人呼び出されただけじゃあそんな顔をするほど大事ではないと思うのですが、でもまあ仕方なくもあるのでしょう。幽霊さん達が見えるようになったとはいえ、まだまだ勝手が分からない場所ではあるんでしょうしね。この旅館自体が。
「まああれですよあれ、混浴どうしようかっていう相談です」
続けて僕からもそう言ってみたところ、栞は驚いたような顔でこちらをぐるんと振り返ったりしてみせるのでした。察するには「何余計なこと言っちゃってんの!?」ってなところなのでしょうが、だがしかし。
「はは、なんじゃそういう。それはまあ仕方ないじゃろうな」
何も知らない人からすれば、そりゃあそういう受け取り方になるものなのでしょう。
少し前まで幽霊さんを引き連れて大学に通っていた身としては、そういった話の勝手というものは多少なりとも分かっているつもりだったりするのです。それだって、「何も知らない人からすれば」の連続でしたしね。広い教室なら一緒に入ってもまず大丈夫、とか。
「でも……由依さん達は大丈夫かな……? 相談とか、ちゃんとできるかどうか……」
「そうじゃのう。異原はあからさまに入りたくなさそうじゃったが、口宮がそれにどう出るか分かったもんじゃないし」
仰る通り、確かに心配ではあります。が、けれどそれ以外にもというか、いっそそれよりも先んじて気になることがあるのですが。
「同森さんと音無さんは余裕ある感じですか? 入るって言ってましたけど」
「そうじゃなあ。今まで混浴なんて入ったことはないんじゃが、想像するだけなら別にそこまで抵抗はないというか」
「私も……まあ、そんな感じですかね……?」
ふむ。もちろんそれに文句があったりするわけではないのですが、という納得し切れなさが顔に出ていたのでしょう、音無さんが続けてこう言いました。
「もちろん小さい頃の話ですけど……お泊まりとか一緒にお風呂入ったりとかって、結構してましたしね……。今のこの部屋割りのことも含めて、多分、そんなに抵抗がない理由があるとしたらそれなんでしょうけど……」
「懐かしいのう。小さい頃とはいえよくもまああんな狭い風呂に三人で入っとったもんじゃ。あ、三人っていうのはワシの兄貴も含めてなんじゃが」
という話を聞いて隣の方の顔色を窺おうと顔を横に向けてみたところ、その隣の方もこちらを向いており、なのでばっちり目が合ってしまうのでした。それがなのか、それとも今の話の感想なのかは分かりませんが、つい二人して小さく吹き出してしまったりも。
それを受けて同森さんと音無さんも照れ臭そうに笑ったりするわけですが、しかしまあそれが照れるだけで済んでしまうという辺り、幼馴染というのは凄いもんなんだなと。……いや、冷やかしとかじゃなくてですよ?
「楽しそうですね、そういうの」
栞が微笑みながらそう言うと、同森さんも音無さんも照れ臭そうに笑い返すのでした。
一方で僕はそれを聞いて……いや、でも、これはそういう話ではないですよね。栞が初めて倒れたのは小学生の頃だったって話ですし。それに時期的な話を別にしてみても、じゃあそれがなければ幼馴染というものがどこからか湧いていたのか、なんて言われたらもちろんそんなことはないんですし。
「ところで音無さん、成美さんはどんな感じでしたか? 抱いてて」
ここで話題を変えに入る僕でしたが、けれど先の栞の一言は特に気に掛けるようなものでないとした以上、それは別に何かを気遣ってとかそういうことではないのでした。ただ単純に、同森さんと音無さんから照れ笑い以上のものが出てこなかったからです。
というわけでこちらの話題ですが、栞と一緒にこの部屋へ来た際、すぐに立ち上がることになったとはいえ成美さんが音無さんの膝の上に座っているのをしっかり確認してはいたのです。成美さんのほうはそのとき上機嫌そうでしたが、こちらは果たして。
「あ……えっと、その……。もちろんそこまではしませんでしたけど……思いっきり抱き締めてみたいなって……」
「ですよねえ!」
元から遠慮がちな口調の音無さんが更に遠慮がちに口を開いたところ、遠慮なんて欠片もないくらい勢い良く食い付いたのはもちろんですが栞です。そりゃ僕は言えませんよそんなこと、直接の友人でもあり友人の奥さんでもある人に対して。
「ふふ、ですよね……。よかった……他にも同じふうに思った人がいてくれて……」
栞の場合は思ったというより常日頃からそう思っていそうですが、それはともかく。
「あの髪……ただ座られてるだけでもふわふわして気持ち良かったですし……」
「それもいいですけど肌もぷにっぷにですよ成美ちゃん。頬ずりなんかしちゃったりしたらもう」
「それは……! ええと、あの、本当ですか……?」
という確認の質問に対する栞の「はい」という返事の、なんと自信たっぷりだったことか。
「音無さんだったら頼めば普通にさせてくれると思いますよ? 成美ちゃん、音無さんのことすっごい気に入ってるみたいですし」
「ああ……! ど、どうしましょう……!?」
音無さんにしては珍しく――なんて言ってしまえるほど音無さんのことを知っているのかと言われれば微妙なところではありますが――普段より声を大きくして慌てふためいてらっしゃるのでした。ただ慌てるってだけだったら、異原さんと口宮さんの小競り合いなんかが起こるといつもそんな感じなんですけどね。
「ワシからは何も言わんでおくぞ」
「じゃあ僕もそういうことで」
男性からはどうのこうの言い難いですもんね、やっぱり。
なんて思ってはみたのですが、けれどついさっきまで平然と混浴の話をしていたことを考えると、あべこべなんじゃなかろうかなあとも思うのでした。思っただけですが。
暫くして成美さんが大吾と一緒に戻ってきたところ、頬ずりとはいかないまでも、頬と頬をぺったりくっつける音無さんなのでした。その時の表情はやっぱり口元しか視認できないわけですが、それだけで充分なほどはっきりと緩んでらっしゃいました。
ついでに、こちらははっきりとしたものではありませんでしたが、大吾の口元もじっくり見れば分かる程度に緩んでいました。思い出すものが、というか思い出せるものがあったんでしょうね。無いほうが変と言えば変ですもんね、そりゃあ。
で、ともかく。それについても一段落したところで同森さんからこんな一言が。
「そろそろあっちも一息ついたじゃろう。今から何をするにしても、取り敢えず声を掛けにでも行ってみるかの?」
あっち、というのはもちろん口宮さん異原さんのことなのでしょう。まあ今はその二人だけでなく、ジョンにウェンズデー、それにナタリーさんも一緒だったりするわけですが。
するとそれに応じるのは音無さん。
「あ……じゃあわたし……この旅館の中、見て回ってみたいかな……」
なるほどそれは良さそうだ、と初めて来たならともかく二度目になる僕がそう思うのはちょっと妙な気もしないではないのですが、まああれです。知ってる人に会えるかもしれないな、とそういう話です。
「ですか」
仰る通りになんとなく想像はついていたのですが、そういう話なんだそうでした。
が、しかしたまたま二人になったというならともかく、今回は大吾の意思のもとに二人になったわけです。ということであるなら、単にそういう話がしたくなったというだけではなさそうなのでした。
「特に今回はかなりアレな話なんだけど、それでも……というかかなりアレだからこそ、真面目な話なつもりだ。一応、そういう体で聞いてくれ」
「おう」
ということで、今回は「話がある」というより「相談がある」といったほうが相応しそうな雰囲気なのでした。そしてそういうことであるなら、こちらとしては協力を惜しむつもりはございません。
「まあなんだ、最初に言っちまうと混浴の話なんだけどな」
「混浴? あれ、成美さんは入る気満々だったし大吾もそれに乗っかる感じだと思ってたけど」
混浴に入る、ということについては完全に合意していると思っていたので、今の時点でそこに問題が残っているというのはかなり意外なのでした。というわけなので探り入れも兼ねてそんなふうに言ってみたところ、大吾も「それはそうなんだけどな」と。ただその際、肩を落としてはいましたが。
「今日ってほら、オレら以外の客もいるっぽいだろ? で、じゃあ前みてえにタオル巻いて入るってわけにはいかなくなるかもしれねえんだよな」
「それは僕もそう思ってたけど……ああ、成美さんが嫌がるかもって?」
正直な話、大吾がそれを嫌がるというのはかなり想像し難かったので、何を言われるまでもないまま成美さんの話ということにしてみました。が、
「いや、ちゃんと説明すればそこらへんは納得してくれると思う。アイツなら」
とのことでした。ふむ、まあ成美さんならさもありなんというところではありますが――でも、じゃあ一体何が問題なのでしょうか?
「その納得してくれるのが考えものっつうかな……」
「ええと、どういうこと?」
更に深く悩み始めてしまう大吾でしたがしかし、弱音にも近いような調子で僕がそう漏らしたところ、咳払いを挟みながら姿勢を整え始めるのでした。
そりゃまあ、話を持ち掛けた相手が弱り始めたら気にもするのでしょう。こちらにそんな意図があったわけではありませんでしたが。
「悪い、ちゃんと話すな。ええと、ほら、成美って髪伸びないだろ?」
「そりゃまあ……ん? いや、それってどっちの話? 年とらないって意味か、大人の身体になってもってことか」
成美さんでなければ前者の選択肢しか有り得ないわけですが、成美さんに限ってはその二つめの意味が生じてくるのでした。元から長過ぎるほど長いおかげで殆ど気になりませんが、あのふわふわもこもこの白くて長い髪は、小さい身体でも大きい身体でも長さは変わっていないのです。
で、それに対して大吾の返事ですが、
「どっちかっつうと大人の身体云々の方だな」
とのことでした。どっちかっつうと、というのはこれまた気になりますが、それはまあともかくとしておいて。
「僕達は気にしてなかったけど、髪は纏めたほうがいいだろうね。他のお客さんがいる場合は。纏め切れるかどうか分からないくらい長いけど」
「ああ、うん、それはそうだろうな」
髪の長さが問題だということならこういうことなんだろうな、と思ってそう言ってみたわけですがしかし、大吾のその反応からしてどうやら本題からは外れていたようでした。ううむ。
「あのな、孝一」
するとここで大吾、何やら意を決したように空気をピンと張り詰めさせてくるのでした。ならばどうやらとうとう、話の核心に踏み込むつもりのようです。
「うん」
「普通に考えりゃそりゃそうなんだけど、髪以外も伸びねえんだよ」
「うん?」
…………。
「う、うん?」
「いやオマエ分かったってことだろその反応」
「うん……」
だからといって、皆まで言いはしませんが。
「多分成美はそこは気にしねえっていうか、まず気にするもんだと思ってねえ。髪が伸びねえんだからそりゃまあこうなるよなって程度にしか思ってねえ、間違いなく」
という大吾の言い分は、信用に値するものなのでしょう。そりゃだって大吾ですし、なら今の話はただの想像でしかないってことではないんでしょうしね。そりゃあね。
「だから今回問題なのは、成美の話だけど成美じゃなくてオレなんだよな。それをこう、他人の目に晒すかもしれねえっていうのは、気にすべきことなのかそうじゃないのかっていう。分かんねえんだよ、ぶっちゃけ」
「なるほど……」
唸ってはみたもののさてしかし、内容が内容だけに言葉に困ってしまいます。あまり直接的な表現をするというのはこう、自分から話を持ち掛けているとはいっても、やっぱり大吾からすれば居た堪れなかったりするかもしれませんし。
「えー、小さい方の身体で入るっていうのは? それだったら別に、他の人の目からしても不自然じゃないっていうか」
「オレが保護者に見えてくれりゃいいけど、そうじゃなかったらより酷いことにならねえか?」
「あー」
小さい女の子と一緒に、しかも仲睦まじげな様子で――そこを我慢しろとはさすがに言えませんしね――混浴に浸かっている若い男。そうですよね、恐らくは酷い絵面になっちゃいますよね。僕達はまあ、普段の様子からすっかり慣れちゃってますけど。
「それ以前に、風呂入る前に耳引っ込めてくれ、とは言い難いしな。理由訊かれたらなんて答えるんだよって話だし」
「それもそっか」
言いたいことは理解できますし、ならば素直に頷いて見せる僕なのですが、けれど言い難い理由はそれだけでもないんだろうな、とも。とはいえそれは僕の口から語るような話ではなかったのですが、
「あと耳出すにしても出さないにしても、そこは成美の判断を優先してやりてえっつうか。今言ったこともあるから出す出さないどっちでも問題があるってことになっちまうんだけど、だからどっちにしてくれってのは言いたくねえな、あんまり」
僕の口から語るようなことでない話は、きっちり大吾の口から語られたのでした。ほらやっぱり、とここは少し得意になっておきましょう。
「……まあ、こっちから話持ち掛けといて我儘だとは思うけどよ」
「いや、そこらへんの理解はあると思ってくれていいよ」
なんせ実際に丸々理解しちゃってましたしね。
「悪いな」
「いいってことよ」
で、さて。
「栞と家守さん――は、今回いないけど、二人はそのこと知ってるんだよね?」
「そりゃまあ、女同士だし。とは言っても、大人の身体になれるようになってからってことなら、前にここに来たのが最初になるな。女同士で風呂入ったのって」
「ああ、そっか」
何故かすっかり僕があまくに荘に引っ越す前の話まで含めて考えてしまっていたのですが、しかしまあ一度でもその機会があったということなら特に問題はありません。
「その時成美さん、栞か家守さんに何か言われたとかって話は?」
「いや、全く。まああの時はまだそういう話をされるほどのアレじゃなかったし、何か言われてたとしてもそれをオレに言ってたかどうかはちょっと分かんねえけどな」
「ふむ……」
何も言われなかったのなら少なくとも女性からすればなんてことないんじゃないか、という話に持っていきたかったのですが、しかしこれは当てが外れたということになりましょう。そうですよね、その頃既に付き合っていたとはいえさすがに。
「栞呼んでこようか」
「そうなる気はしたけど、なんか軽蔑されそうな気がするな……」
「少なくとも意図は汲んでくれるって。……多分」
「何かと思ったらそんな話してたの? 男二人だけでまあ」
「ご批判はごもっとも。ですがここはどうか、お力添えを頂けないでしょうか。その男二人だけでは限界なのです」
「成美ちゃんのためでもあるし、仕方ないなあ。でも孝さん、その前に一つ確認しておくけど」
「はい」
「私の話はしてないよね?」
「はい!」
「え、栞サンも何かそういう」
「シャラップだよ大吾くん」
「はい!」
いやまあ、大した話ではないんですけどね?――と僕が勝手に評価を付けるべきことではないんでしょうけど、しかしそれでもやっぱり、少なくとも、成美さんに比べれば大した話ではないんだろうと思います。
まあ、栞の髪の色は黒ではないよねっていう、それだけの話です。
「そっちに気が向けば誰でも気付くことだし、だから知られてどうこうってほどのことじゃないんだけどね。私だって混浴には入るつもりだし、じゃあ全然知らない誰かの目に入るかもしれないんだし。でも、だからって知らないところでその話されてるっていうのはちょっと嫌かもね」
それはきっと自分のことだけでなく、僕と大吾がしていた成美さんの話についても言及しての言葉だったのでしょう。……というのはしかし、どうやら頭の中だけで済ませられる話ではなかったようで。
「だから大吾くん、探りを入れてみて大丈夫そうだったら成美ちゃんにもこの話を伝えるように。事後報告はよくないだろうからできればお風呂に入る前にね」
「分かりました……」
大丈夫そうだったら、という条件はかなり譲歩したというか、こちらからすれば有難がって然るべき話ということになるのでしょう。ならば僕も大吾も、不満を口にしたりはそりゃあできやしないのでした。
そうして男二人が若干の気まずさも孕ませながら黙り込んだのを見回したのち、ふんと鼻を鳴らした栞が口を開き始めます。
「じゃあさっそくだけど、まずは男とか女とか以前の話からかな」
「以前?」
大吾が意外そうな声を上げました。そりゃそうもなりましょう、今回の話は成美さんの話(に対する大吾の話)なわけで、ならば男とか女とかという話自体が「それ以前に」という扱いをされるべきものでもあるわけで、じゃあそのまた更に以前にまで話を引き戻す必要があるのかと言われれば、僕ですら首を傾げたくなるくらいでしたし。
けれど栞は構わず怯まず、「そう」と力強く頷いてみせます。
「当たり前だけど、こっちだけじゃなくて他の人だってみんな裸で入ってるわけだよね? 混浴って――というか、別に混浴じゃなくても公共のお風呂っていうのは」
「そりゃまあそうですけど」
「最初は恥ずかしいけど暫くしたら別に気にならなくなってくるとか、そういうのってない? 今くらいの年ならともかく、こう、多感な時期って言われる頃とかだと――と言ってもまあ、私はそこらへんちょっと、普通の人と認識にズレがあるかもなんだけど」
最初は恥ずかしいけど。前回ここの風呂に入った時のことを思い出すだけでも、僕は今でもそんな感じだったりします。そしてその時は平気そうだった大吾も、声には出さないながら「まあそんな感じだったろうか」というような表情でした。
認識のズレ、というのはもちろん、栞が多感な時期というものを丸ごと病院内だけで過ごしていたからなのでしょう。大吾も何も言わないでくれていることですし、もちろん僕からそこに触れるなんてことはしないでおきます。
特に反論がなさそうな男二人の様子を確認し、栞は話を続けます。
「その恥ずかしいのってさ、見られるのが嫌ってだけだった? 逆に他の人が目に入るのが嫌――うーん、こっちは嫌ってほどはっきりしたものじゃないかもだけど、抵抗があるとか、そういうのはどうだった?」
「うーん……ほんのちょっとだけ、って感じですかね。見えたなら見えたでそれネタにして冗談言い合ったりとかしてましたけど、冗談になるってことは、まあそういうことなんでしょうし。積極的に見に行くようなのもたまにいましたけどね」
というのは当たり前ながら同性間の話ということになるわけですが、と当然かつ極めて重要な前置きはきっちり挟んでおきまして。
大吾が今言った通り、僕もやっぱりそんな感じなのでした。積極的に見に行くわけじゃなし、何かの拍子に見えたり見られたりしてしまったらそこからふざけ合う、みたいな。そしてそれにしたって、暫くしたらあんまり気にならなくなってくるわけですし。
ちなみにここで、「直接的な表現を避けて話してるせいで有耶無耶な感じになってるけど、女性って女湯でタオル巻くんだろうか?」などというそれこそ直接的にアレな疑問が頭に浮かんでしまいましたが、しかしそれは尋ねたりしないでおきました。微妙に話がズレてますし、そうでなくともそれを栞に尋ねてどうするんだって話ですしね。病院に温泉やら銭湯やらがあるわけじゃなし。
「その見る見られるどっちの意味でもの恥ずかしさを今、この年になって感じるかって話だよ。その頃ですら暫くしたら気にならなくなる程度のことなのに、この年になって。そりゃあ今回は男だけ女だけって状況じゃないし、成美ちゃんのああいう事情もあるけどさ、正直、馬鹿らしいと思わない? それらひっくるめて考えても」
言われてみればそりゃそうなのですが、とは思うものの、成美さん絡みの話となると僕から迂闊な返事はし難いのでした。というわけで大吾の言葉を待つことになるわけですが、しかしその前に。
「だってもうあれだよ? 私達、お互いの夫婦同士ですることしちゃってるんだよ? それを今更みんな裸でいることが当たり前な場所で、全然知らない人から見たり見られたり程度でどうのこうのなんてさ」
ええ、まあ、ごもっともなのですが。
「私が成美ちゃんだったら、そんなこと気にされるほうが嫌かな。もったいないもん、一緒に混浴なんてそうそうない機会なのに」
「そうですね」
成美さんの立場に立って「嫌」と言われる。これはさすがに効いたのか、大吾の反応は素早く、かつ迷いがないのでした。
それを見た栞はにこりと笑い、そうしてから口調に普段の柔らかさを取り戻させます。
「じゃあ大吾くん、最後に質問だけど」
「はい?」
「成美ちゃんは全然気にしてそうじゃないって話だったけど、知らせずに済むなら知らせたくない? それとも、知らせたうえで気にしないでいて欲しい? こういう話になるようなことではあるんだよって」
「……そうですね。そういう意味でも、事後報告は駄目ですね」
「うん。好きだよ私、大吾くんのそういう考え方」
質問に対する返事はしていない大吾でしたが、けれどその考えはしっかり栞に伝わったようでした。というかこの場合、初めから大吾がどう動くか分かってて尋ねたって感じでしょうかね、栞の方も。
人間と猫。下世話な話ではありますし、いつもほど明確ではありませんが、今回の話もやはりそれに含まれてくるのでしょう。こう言ってしまうと大袈裟に聞こえてしまいますが、人間の身体に対する知識不足、ということにはなるわけですしね。猫であるが故の。
となったら、大吾は伝えるわけです。伝えて、きちんと二人の中で擦り合わせをしてから、共通の認識を形成していくわけです。猫であることを否定せず、かといって身体が人間である以上は避けられない「人間らしさ」も認めていって、そのどちらをも成美さんという一人の女性――妻として、受け入れていくために。
「さて、じゃあ私は音無さん達の部屋に戻るけど、どうする? 何だったら成美ちゃんに声掛けてみるけど」
話が終わったところで、すっきりしたご様子の栞からそんな提案が。事後報告は駄目、ということになったとはいえ、だからってもちろん今すぐでなければならないというわけではないのですが、
「そうですね、じゃあお願いします」
と、迷わずそう返事をする大吾なのでした。なんとなくそうなるだろうとは思ってましたけどね、僕も。
「分かった。じゃあ行こう、孝さん」
「え、僕も?」
立ち上がり、けれどそのまま立ち去るのではなくこちらを振り返ってそう言ってきた栞は、僕の返事にじっとりと目を細めるのでした。
「ここに残ってどうするの? まさかとは思うけど、あんな話に立ち会うつもり?」
「めっそうもない!」
尻にバネでも仕込まれてるかのような勢いで立ち上がり、ならば栞についていくことになった僕なのでした。
いや、そりゃ、当たり前ですけどこの部屋を出ること自体は僕だって初めからそうすべきだと思ってたんですよ? ただ行き先をどうしようかと思ってただけで。……というのは間違いなく本音ではあるのですが、けれどそれで心証が良くなることはまずないだろうという判断から、大人しくしておくことにするのでした。大吾にちょっと笑われました。
「何かあったんですかな?」
「いえいえ、大したことじゃあ」
栞に声を掛けられて成美さんが自分の部屋に戻ると、同森さんが心配そうな顔でそう尋ねてくるのでした。事情を知っていようがいまいが関係なく、人一人呼び出されただけじゃあそんな顔をするほど大事ではないと思うのですが、でもまあ仕方なくもあるのでしょう。幽霊さん達が見えるようになったとはいえ、まだまだ勝手が分からない場所ではあるんでしょうしね。この旅館自体が。
「まああれですよあれ、混浴どうしようかっていう相談です」
続けて僕からもそう言ってみたところ、栞は驚いたような顔でこちらをぐるんと振り返ったりしてみせるのでした。察するには「何余計なこと言っちゃってんの!?」ってなところなのでしょうが、だがしかし。
「はは、なんじゃそういう。それはまあ仕方ないじゃろうな」
何も知らない人からすれば、そりゃあそういう受け取り方になるものなのでしょう。
少し前まで幽霊さんを引き連れて大学に通っていた身としては、そういった話の勝手というものは多少なりとも分かっているつもりだったりするのです。それだって、「何も知らない人からすれば」の連続でしたしね。広い教室なら一緒に入ってもまず大丈夫、とか。
「でも……由依さん達は大丈夫かな……? 相談とか、ちゃんとできるかどうか……」
「そうじゃのう。異原はあからさまに入りたくなさそうじゃったが、口宮がそれにどう出るか分かったもんじゃないし」
仰る通り、確かに心配ではあります。が、けれどそれ以外にもというか、いっそそれよりも先んじて気になることがあるのですが。
「同森さんと音無さんは余裕ある感じですか? 入るって言ってましたけど」
「そうじゃなあ。今まで混浴なんて入ったことはないんじゃが、想像するだけなら別にそこまで抵抗はないというか」
「私も……まあ、そんな感じですかね……?」
ふむ。もちろんそれに文句があったりするわけではないのですが、という納得し切れなさが顔に出ていたのでしょう、音無さんが続けてこう言いました。
「もちろん小さい頃の話ですけど……お泊まりとか一緒にお風呂入ったりとかって、結構してましたしね……。今のこの部屋割りのことも含めて、多分、そんなに抵抗がない理由があるとしたらそれなんでしょうけど……」
「懐かしいのう。小さい頃とはいえよくもまああんな狭い風呂に三人で入っとったもんじゃ。あ、三人っていうのはワシの兄貴も含めてなんじゃが」
という話を聞いて隣の方の顔色を窺おうと顔を横に向けてみたところ、その隣の方もこちらを向いており、なのでばっちり目が合ってしまうのでした。それがなのか、それとも今の話の感想なのかは分かりませんが、つい二人して小さく吹き出してしまったりも。
それを受けて同森さんと音無さんも照れ臭そうに笑ったりするわけですが、しかしまあそれが照れるだけで済んでしまうという辺り、幼馴染というのは凄いもんなんだなと。……いや、冷やかしとかじゃなくてですよ?
「楽しそうですね、そういうの」
栞が微笑みながらそう言うと、同森さんも音無さんも照れ臭そうに笑い返すのでした。
一方で僕はそれを聞いて……いや、でも、これはそういう話ではないですよね。栞が初めて倒れたのは小学生の頃だったって話ですし。それに時期的な話を別にしてみても、じゃあそれがなければ幼馴染というものがどこからか湧いていたのか、なんて言われたらもちろんそんなことはないんですし。
「ところで音無さん、成美さんはどんな感じでしたか? 抱いてて」
ここで話題を変えに入る僕でしたが、けれど先の栞の一言は特に気に掛けるようなものでないとした以上、それは別に何かを気遣ってとかそういうことではないのでした。ただ単純に、同森さんと音無さんから照れ笑い以上のものが出てこなかったからです。
というわけでこちらの話題ですが、栞と一緒にこの部屋へ来た際、すぐに立ち上がることになったとはいえ成美さんが音無さんの膝の上に座っているのをしっかり確認してはいたのです。成美さんのほうはそのとき上機嫌そうでしたが、こちらは果たして。
「あ……えっと、その……。もちろんそこまではしませんでしたけど……思いっきり抱き締めてみたいなって……」
「ですよねえ!」
元から遠慮がちな口調の音無さんが更に遠慮がちに口を開いたところ、遠慮なんて欠片もないくらい勢い良く食い付いたのはもちろんですが栞です。そりゃ僕は言えませんよそんなこと、直接の友人でもあり友人の奥さんでもある人に対して。
「ふふ、ですよね……。よかった……他にも同じふうに思った人がいてくれて……」
栞の場合は思ったというより常日頃からそう思っていそうですが、それはともかく。
「あの髪……ただ座られてるだけでもふわふわして気持ち良かったですし……」
「それもいいですけど肌もぷにっぷにですよ成美ちゃん。頬ずりなんかしちゃったりしたらもう」
「それは……! ええと、あの、本当ですか……?」
という確認の質問に対する栞の「はい」という返事の、なんと自信たっぷりだったことか。
「音無さんだったら頼めば普通にさせてくれると思いますよ? 成美ちゃん、音無さんのことすっごい気に入ってるみたいですし」
「ああ……! ど、どうしましょう……!?」
音無さんにしては珍しく――なんて言ってしまえるほど音無さんのことを知っているのかと言われれば微妙なところではありますが――普段より声を大きくして慌てふためいてらっしゃるのでした。ただ慌てるってだけだったら、異原さんと口宮さんの小競り合いなんかが起こるといつもそんな感じなんですけどね。
「ワシからは何も言わんでおくぞ」
「じゃあ僕もそういうことで」
男性からはどうのこうの言い難いですもんね、やっぱり。
なんて思ってはみたのですが、けれどついさっきまで平然と混浴の話をしていたことを考えると、あべこべなんじゃなかろうかなあとも思うのでした。思っただけですが。
暫くして成美さんが大吾と一緒に戻ってきたところ、頬ずりとはいかないまでも、頬と頬をぺったりくっつける音無さんなのでした。その時の表情はやっぱり口元しか視認できないわけですが、それだけで充分なほどはっきりと緩んでらっしゃいました。
ついでに、こちらははっきりとしたものではありませんでしたが、大吾の口元もじっくり見れば分かる程度に緩んでいました。思い出すものが、というか思い出せるものがあったんでしょうね。無いほうが変と言えば変ですもんね、そりゃあ。
で、ともかく。それについても一段落したところで同森さんからこんな一言が。
「そろそろあっちも一息ついたじゃろう。今から何をするにしても、取り敢えず声を掛けにでも行ってみるかの?」
あっち、というのはもちろん口宮さん異原さんのことなのでしょう。まあ今はその二人だけでなく、ジョンにウェンズデー、それにナタリーさんも一緒だったりするわけですが。
するとそれに応じるのは音無さん。
「あ……じゃあわたし……この旅館の中、見て回ってみたいかな……」
なるほどそれは良さそうだ、と初めて来たならともかく二度目になる僕がそう思うのはちょっと妙な気もしないではないのですが、まああれです。知ってる人に会えるかもしれないな、とそういう話です。
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