などと頭を下げたままゴチャゴチャ考えていると、その頭の上から怒気を含んだ言葉が降りかかってくる。
「顔上げてよ。怒ってるんだからちゃんとこっち向いてよ」
まるで本当にすぐ近くにいるような―――テーブルから、こっちを覗き込んでる?
「はい………」
顔を上げたら、テーブルから身を乗り出した栞さんが至近距離でこちらを睨み付けている。頭の中ではそういう事になっていた。
だけど実際は。
「うわっ!? えっ? ちょっ、あの、これは」
頭を上げた途端に、栞さんに抱き付かれた。
僕の目の前にはもちろんテーブルがある。だけど栞さんは、そのテーブルに重なりつつ僕の背中に腕を回している。――――つまり先程話し掛けられた時に至近距離だと思ったのはテーブルから身を乗り出してではなく、テーブルの存在を無視してすり抜けたまま、僕の目の前に座っていたからだったのだ。
「孝一くんが………孝一くんが悪いんだよ? 全然諦めてくれないし、酷い事言ってくるし」
「そそ、それは、むしろこうなる原因とは真逆なような」
宙に浮かせた自身の両腕が行き場を失っておろおろと彷徨う。ええもうこんなの初体験ですよ女性に抱き付かれるなんて。幼稚園ぐらいの時までの母親を除けばですが。
しかし抱き付いたほうは何とも思ってないのか、更に腕に力を込める。肩に押し付けられたその顔も更に強く押し付けられて、正直ちょっと痛いくらいだ。
「だって! だって栞、孝一くんの事嫌いになりたい訳じゃないもん! 好きだもん! だからこのまま仲良しでいたかったのに、全然諦めてくれないんだもん! 孝一くんに喋らせてたら、嫌いになっちゃいそうだもん! そんなの―――!」
この頃になると、宙を彷徨っていた両腕も行き場を見つけたようだった。栞さんを抱き返す―――いや、抱くと言うよりは背中に手を乗せただけ。そんな緩い反応に感化されてか、栞さんの腕からも力が抜け、顔も少しだけ肩からずり落ちる。
「そんなの…………生きてた頃の事を思い返すのと同じくらい嫌だもん……」
「栞さん……」
力無く言い終えると、栞さんの肩が痙攣するように震え出した。
「孝一くんの、馬鹿ぁ………ひぐっ、ひ、卑怯者ぉ…………」
「……ごめんなさい」
告白を受け入れられた理由が「嫌いになりたくないから」とは、なんとも可笑しな話だ。そして自分が好かれていると知った上で栞さんにそう思わせてしまった―――いや、思わせた僕は、間違い無く馬鹿で卑怯者だろう。卑怯すぎて反吐が出る。
でもそんな、馬鹿な上に卑怯者だと言われても。馬鹿な上に卑怯者だと自覚しても。
「そっ………そんなのだから、今まで彼女が一人もできなかったんだよぉ……」
後悔はしない。しよう筈もない。好きな人をこの腕の中に収め、それで後悔なんてしようものなら、馬鹿な上に卑怯者で更に愚か者だ。
―――と、僕は開き直る。所詮は馬鹿な卑怯者だから。
「告白したのが、そもそも初めてですから」
「なんで、なんで栞にはしちゃったの……? そりゃあ、ひっく、こっちが先に言いかけちゃったんだけどさ、無かった事にしてって、頑張って言ったのに、それなのに……」
「人参の皮を素で剥かないものだと思ってたり、卵焼きを作ろうとしたらスクランブルエッグ作っちゃったり、魚捌こうとしたら魚を怖がったり、一人で料理しようと言ったら火災を心配されたり、豆腐に乗せた肉をブン投げて僕に命中させたり」
「な、何よぅ……」
「話し声に釣られてパジャマでベランダに出てきちゃったり、お喋りに夢中になって仕事の事を忘れてたり、ワインに酔っぱらって隣の部屋に飛び出してきたり、これまた酔っぱらって膝枕を強要してきたり、何の躊躇もなく夜に男性を部屋に連れ込んでみたり」
「むぅ…………」
「そんな栞さんが自分でもどうしようもないくらいに好きだからです」
「……嬉しいような、嬉しくないような」
「そりゃあ今までも好きな女性の一人や二人はいましたが、ここまで、告白させられるほどまでに好きになったのは栞さんが初めてです。だから意地でも好きです。なんと言われようと好きです。なので、今ここで死ぬのなら躊躇無く押し倒します」
「最後にそんなの持ってくるなんて、だから孝一くんには喋らせたくないんだよぉ」
「じゃあ暫らく黙っておきます」
「うん。そうして」
こちらのあまりの言い草に呆れてか、栞さんは途中からすっかり泣き止んでしまった。別に意図してそういうふうに言ったとかじゃなくて本当にそう思ってただけなんだけど―――まあ、いいか。今はただこの状況に身を任せるだけでも、こんな呆れた男には勿体無いくらいに嬉しいし。
「幽霊の肌が冷たいっていうのは迷信だったんだなあ」と、お互いの衣服を通してじわじわと伝わってくる心地よい温かみに今更ながら実感が湧く。ここに引っ越してきてから半月ちょっとの間にいくらでも確認する機会はあっただろうに。
そうして動きのないままじっと喜びを噛み締める事数十秒、肩の温かみがふと弱くなった。栞さんが顔を上げ、服に残った僅かな温度だけが僕の肩を温める。そしてその温もりも外気によって冷やされ、あっという間に消え失せてしまった。名残惜しさを感じた僕は、ついつい今の今まで暖かかった部分へと視線を移す。もちろん、そこには何もありはしない。
一方肩から離れた栞さんは、両手で僕の胸を押すようにして体全体までも引き離す。こちらの両腕は栞さんの背中に添えられていただけなので、離れる体を引き止める事もなくするすると持ち場を離れてしまった。そしてついに触れている箇所が全くなくなると栞さんは伏せ目がちになりながら、
「ちょっとベランダに出てくるね。頭冷やしてくるよ」
そう言って立ち上がり、くるりと体を反転させ、言葉通りにベランダへと通じる窓へ向かい始める。
「あ、えっと」
対して僕は床に座ったまま、急な事に二の句を告げられないまま、遠ざかるその背中を目で追った。が、追うだけではどうにもならない。だからと言って立ち上がって再び触れようとする訳でもない。なぜなら、頭を冷やすという事は―――
「一緒になって出てこないでね孝一くん。頭が冷やせないから」
―――そういう事。そういう事なんだけど、頭を冷やしてどうすると言うのだろう?
立て付けがいいのか殆ど音を立てる事なく窓を開け、そして自身が外へと出ると、同じように静かに窓を閉める。もちろん栞さんが。そして後ろから見ているのでよくは分からないが、ベランダの手擦りに両肘を掛けるような格好になってただ静かに夜空を見上げる。もしかしたら月が出ているのかもしれないが、それはわざわざ窓に近付いて確認するほどの事でもないので気にしないでおく。
さて、動きがなくなったところでよく考えよう。栞さんは、頭を冷やしてどうする? 冷静になって今更何を考える? 想像したくはないが、答えが一つしか浮かばないので強制的に想像する事になる。
ああ、代わりの答えでお茶を濁す事すらできないとは。
で、そのたった一つの答えというのはもちろん今まで言い争ってきた事について。はっきり言うなら、その言い争いの結果自分が出した答えについて。もっとはっきり言うなら、僕に抱き付いた事について。それについて冷静に考えるって事は、まあまずその事を間違いだとするんだろう。頭を冷やすなんて台詞は、それまでの自分或いはその台詞を投げかけられた者が間違っている場合に使われるものなのだから。
じゃあ僕に抱き付いたのが間違いだとするのなら、それからどうなる? どういう展開になる? 考えるまでもないだろう。やっぱり僕は振られる。
………でもここまできてあら残念とあっさり認めるなら最初から諦めてる訳でして、諦めないのならば栞さんが戻ってくるまでに論理武装をしておかないといけない。今度も同じ結果に辿り着かせるために。
栞さんがのんびりと夜空だか月だかを眺めている間に、こっちは脳味噌フル回転。電気信号でシナプスが燃え尽きてしまわんばかりにあれこれどれそれと思考を巡らせる。そりゃもちろん栞さんだって何かしらは考えてらっしゃるんでしょうけど、話術のプロであるかテレパシー能力装備でもしない限りはそんなの関係ありゃしません。どうせ分かりゃしないんですから。なので、あちらからの話に対する答えを考えるよりはこちらから話す事を考えましょう。別にこの件に関する話であればなんでもいい。要は自分が話し続けて相手を圧倒すればいいのだから、こちらに有利な話である必要は全くない。栞さんの反応次第で、後からいくらでも話は広げられる。
攻撃は最大の防御也! 点数ゲームじゃないんだから守ったところでいい事なんぞありゃしない! と思う!
暫らくすると窓が開き、栞さんが部屋に入ってくる。それと同時に風―――と言うよりは、空気の流れか。ひんやりとしたそれが部屋に侵入して体に触れ、気を引き締めるのに一役買う。無論、相手はその空気の中にずっといた訳ですが。
「お待たせしました」
「はい。ではこちらにお掛けください」
「あはは、ここ栞の部屋なんだけどなぁ」
そんな取るに足らない小さなやり取りもありつつ、再びテーブルを挟んで向かい合う僕と栞さん。しかしここで一服していてはいけない。あちらから話し掛けられる前に、こちらから話し掛けなければならないのだから!
「あの、栞さん」
「降参だよ」
「…………………………………は?」
まず第一に思ったのは、「こちらの話を無視して上から押し付けてくるとは、なんという先制攻撃潰しか! これは作戦崩壊の危機!」という事。次に思ったのは、「は?」という事。自分が話す事しか考えてなかったのもあって一つ目のほうだけでも混乱しそうなのに、なんですかその二つ目は。
「どれだけじっくり考えても孝一くんに諦めさせる方法が思いつかなかったから。だからもう、降参。栞の負け」
肩肘張って勝負に臨もうとした僕に比べて、栞さんのなんとリラックスした表情であろうか。今の僕から見れば「ふにゃり」という効果音がつけられてもなんら違和感を感じないであろうその気の抜けっぷりに、勢い余って前につんのめりそうになる。
「え~っと、それはつまり………」
分かるような、分からないような。いや本当は分かってるんだけど、それがはっきりと脳内で文章に変換されるのがなんとなくためらわれるような。
でも、僕がそうしたところで栞さんは続ける。これまでにないくらい、背筋がぞくりとしそうなくらい、とびっきりの笑顔で。
「大好きだよ、孝一くん」
その笑顔に見惚れ、言葉に聞き惚れ、僕の思考はパンクする。ただ好きな人に好きだよと言われただけなのに。それだったらさっきだって、怒鳴りながら何度も言ってたのに。それなのに、今回の「好き」は頭脳への影響が大き過ぎる。ファイル容量が大きすぎるのか? それともウィルスか? ブラウザクラッシャーか? ともかく一旦、強制終了しなければ―――
「…………あが…………」
「あが?」
「あ、あぁあぁいえいえ。びっくりし過ぎて顎が外れかけただけです。大丈夫大丈夫」
起動音代わりに奇声を発してしまい、それでもなんとか正常に戻ったマイコンピュータを駆使して取り繕う。が、そんな努力も空しく栞さんはくすくすと笑い出してしまった。
「びっくりした時に外れるのって、顎じゃなくて腰じゃない? 驚いた拍子に腰を抜かすとか言うでしょ?」
むぅ、まだちょっと影響が残っているらしい。
「それに、どうして今更びっくりするの? 好きだ好きだって何回も言ってたよね、お互いに」
「それは僕も思いました。けどなんか、その時とは違って衝撃的だったと言うか………」
「言葉が違うだけで、それってびっくりしたって事だよね」
どうやらマイコンピュータは再起動したところで元々のスペックが低いらしく、恥ずかしい失敗を犯した僕はまた栞さんに笑われてしまった。
「あ、あはは、そうですね。いやーいい言葉が思いつかなくて。あははは」
その照れ隠しにこちらも合わせて笑うと、
「ふふ。やっぱり駄目だ、孝一くんには敵わないよ」
自分の笑う口を手で覆いつつ、そしてそれでも尚笑いつつ、楽しげに言う。
そして更に話は続き、
「ベランダから戻ってくる時にね、本当に何も思いつかなかったけどなんとかなるだろうって思ってたの。最初は。でも―――ほら、座る前に栞、ちょっとだけ笑っちゃったでしょ? あの時に『ああ、もう無理だ』って思っちゃったの。だってどうやったって自分が死んじゃった話に繋がるのにさ、その前に笑っちゃったら台無しでしょ? 自分が――死んだ事をなんとも思ってないみたいでしょ? 本当は、本当は凄く辛い記憶の筈なのに。実際に辛く思ってきた筈なのに……」
……話始めは笑っていたのに、そう言いながらだんだんと曇っていく表情。そんな栞さんを見てこちらの笑いもなりを潜め、顔の筋肉がどんどん別の表情を作っていくのがよく分かる。
なんとかしてあげたいとは、思う。だけど、なんともできないとも、思う。それは自分で事前に言っていた事。じゃあどうする? 自分が何もできないのなら………
「もういいです、栞さん。分かりましたからその話はもう………」
自分が何もできないのなら、相手に働きかけるしかない。
「……ごめんね、こうなったらもう止められないよ。話すのを止めても、頭が勝手にあの時の事を思い出しちゃうから」
でもそれも、効果無し。
「どうにかするって言ってくれたけど、孝一くんは頑張らなくてもいいよ。もともと、自分一人の問題なんだから。本当は、誰にも言わない筈だったんだから………」
栞さんがベランダに出ている間に考えた話題の一つ。
『もうこうなってから随分経つし、分からない事とか困った事はみんなが助けてくれたから。だから誰かに相談するような事はもう殆どないと思う』
霧原さんと深道さんがここへ来て、僕の部屋で家守さんに相談を持ちかけていた時。その時外に出ていた僕に、同じく外に出ていた栞さんがそう言った。だから僕は、この時の事を持ち出してこう言おうと思った。「今のこの件は誰にも言わないつもりだったんですか?」と。………答えは、聞く前に出てしまった。その通りだったのだ。
そもそもが自分の死についての話なのだから、他人にベラベラと言いふらすような話でない事は分かる。死んだ経験のない僕ですら、栞さんの言い分は理解できる。
でも。
「嫌です」
テーブルをすり抜けられない僕は、わざわざ反対側へ歩いて回った。そして栞さんが僕にそうしたようにきつく抱きしめ、そう言った。
「…………やっぱりわからずやなんだね、孝一くんは」
しかし栞さんは抵抗するでもなく抱き返してくるでもなく、両腕をだらんと垂らしたままで悪態をつく。片膝を床についていた僕は、そのままゆっくり後ろに尻餅をつくようにして座り込んだ。すると必然的に、栞さんを抱き寄せる形になる。
「わからずやは栞さんです。どうにかするって言ったらどうにかするんです。どうにもできなくてもどうにかするんです。栞さんに嫌がられたってどうにかするんです」
「また矛盾してる。だから、どうにもできないんなら無理してくれなくてもいいんだって」
今回は、栞さんはまだ泣いていない。ならまだ間に合う。このまま泣かせなければそれでいい。内面的にはもう泣いているのも同然なのかもしれないけど、少なくとも泣き顔だけは勘弁して欲しい。
「好きな人のためにする無理なら本望です。望んでやってるんです。邪魔しないでください」
「な―――あはは、何それ。助ける相手に向かって邪魔するなって………本当、孝一くんがこんなに変な人だなんて今まで全然思わなかったよ」
「自分でもびっくりですよ。でも、じゃあどうしますか? 部屋に不審者が侵入したって大声出しますか? 壁はそんなに厚くないでしょうから大吾辺りはすぐに来てくれると思いますよ?」
「どうしよっかなー。ちょっとまって、考えるから」
どうやら泣くのは防げたようだけど、悪ノリが過ぎたのか話がおかしな方向へ。その展開に驚いて顔を離すと、目の前には栞さんらしからぬ悪戯っぽい笑顔が。
「……え? ちょっとちょっと、冗談ですよ? 本気で大声出すつもりですか?」
そういう顔と役回りは家守さんの専売特許じゃないんですか? しかし栞さん、まるで無視。家守さんチックな表情をやめてくれない。
「うーん、よし決めた」
そう言うと、それまで重力に任せっ放しで床につけられていた両の手で僕の両の肩を緩く掴み、自分の体を少し持ち上げ、そして―――
「―――大好きだよ。不審者さん」
「―――に、二回目ですよねそれ言うの」
重なった唇が離れると、栞さんの表情はもう元に戻っていた。手も、肩から降ろされて脇を通り、背中に回される。
「初めてだよぉ。だってあの時はまだ不審者じゃなかったもん」
そりゃないでしょう、と思いながら考える。もっと根源的な事を。
―――その台詞、後で絶対恥ずかしくなりますよ? 勢いと流れに任せて思った事ぽんぽん言っちゃうのは―――まあ、いっか。
するとここで、時間差で唇に残った感触がむずむずと疼きだし、口を手で押さえるか舌で唇を舐めるかしてしまいそうになる。が、格好が非常に悪そうな気がしたので抑えに抑えて耐えに耐えて栞さんとの会話に専念。
「どっちも僕じゃないですか………」
「嫌?」
「いえいえ、もちろんそんな事はないですよ?」
「良かったぁ」
今はそうして嬉しそうにしてますけど、後で「あれはやっぱり無かった事にして」って言われても聞いてあげませんからね。花見の一件と同じく。
しかし今現在喜んでいる栞さんは、そんな事お構いなし。
「本当になんとかしてくれちゃった。ありがとう、孝一くん」
「………そうですか。なんとかできましたか。それは良かった」
「でも毎回毎回この方法だと疲れちゃうね。言い合いしなきゃ駄目なんだもん」
「改善の余地あり、ですか」
「それにさっきも言ったけど、毎回口喧嘩してたら嫌いになっちゃうよ。孝一くんの事」
「そりゃまあそうでしょうね。どうしましょうかねえ……」
やっとの事で確立できた「なんとかする」方法は、結局あまり役に立たないものだったと判明。いやまあ前から分かってはいましたが。で、それじゃあどうしましょうかという事になる。が、当然そんなにすぐには思いつかない。それゆえに、長考に入ろうとする。
「…………ふふっ」
しかしもそもそと動いてこちらの胸板に横顔を押し付けて小さく笑う栞さんに、大した時間も取れないまま長考はストップさせられてしまった。
「どうしました?」
「なんでもないよ。…………だから、もうちょっとだけこうしてたいな。いい?」
「お好きなだけどうぞ。僕も同感ですから」
栞さんの背中に回していた手を片方だけ持ち上げて、栞さんの頭に当てる。ほんのちょっとだけ自分の胸に押し付けるようにして。
―――ああ、駄目だ。結局ろくに考え事なんてできやしない。何か考えるのが勿体無い。今はただ頭脳を含めた体の全神経を使って、ぼーっとしていたい。好きな人の体を自分の腕の中に収めて、好きな人の体温を触れている箇所の全てで感じながら、全身全霊を以って腑抜けていたい。幽霊の肌に温かみがあって、良かった―――
どのくらいそうしていただろうか。服を通してですら、その温かさに触れている箇所にうっすらと汗をかいているような感触が現れ始めた頃、栞さんが顔を上げた。
「ありがとう。もういいよ孝一くん。もう充分落ち着いたし、充分堪能できたし」
「そうですか? ちょっと名残惜しいですけど……ずっとこうしてる訳にもいきませんもんね。僕も堪能させてもらいました」
男から言うと別の意味も含まれてそうな気がしないでもないけど、とにかくこちらも充分堪能させていただいたので素直に言葉に応じ、背中と頭に回していた手を離す。
僕から解放された栞さんが体を離し、再び座って向かい合う。ただし、今度はテーブルを間に挟まずに。
「全然予想とは違う展開だったけど、今日孝一くんに来てもらって良かったよ」
「僕は予想通りでしたけどね。………いや、予想じゃないかな。作戦通り?」
「その作戦には完敗だったよ。負けたほうが良かったっていうのが余計にしてやられた感じだし、悔しいなあ」
二人して軽口を言い合いながら、二人してくすくすと笑い合う。
「あのさ、孝一くん」
「はい?」
その笑いによって生まれた柔らかい雰囲気を纏ったまま、栞さんが改まって話し出す。
「今なら大丈夫だと思うから―――もうちょっと昔話、してもいい? 話せる時に話しておきたくて」
「え。大丈夫なら………まあ、いいんですけど……」
こちらが纏っていた柔らかい雰囲気は、一瞬にして霧散する。
そりゃそうだ。やっとの事で落ち着いてもらえたと言うのに、また泣かれでもしたらまた言い合いをしなければならなくなる。―――ああ、我ながら本当に間抜けな方法を思いついたもんだ。他に方法があるのなら、そっちを先に思いつけば良かったのに。
それでも栞さんは余程自分のコンディションに自信があるのか一切ためらう事無く姿勢を正し、話をする姿勢に。合わせてこちらも話を聞く姿勢に。それはつまり正座。
そして栞さんが一つ小さな咳払いをすると、昔話が始まる。
「栞が死んじゃってからね、うーん、どれくらいだったかなあ。そんなに長くは無かったよ。二日か三日くらいかな? その間、これからどうしようかなって病院の中をうろうろしてたの。外に出ようとは思ってたんだけど、行きたい所が多過ぎて―――ううん、どこに行きたいのかが分からなくて、なかなか外に出る気になれなかったんだよね。試しにちょっとだけ外に出ても、すぐに足が病院に向いちゃって。勝手に」
そこまで言うと、栞さんは笑う。
「自分でもよく分からないけど、恐かったのかもね。あんまり急に自由になっちゃって」
そう、自嘲気味に。
入院どころか病院にお世話になったこと自体が殆どない僕にとって、何年も……小学三年生の頃から十七歳までだから、九年? それだけもの間病院から出られなかったなんて、とても想像の及ぶ範囲の出来事じゃない。そして及ばないからこそ余計に、その時の不安や恐れが大きく感じられた。
だけど、いくら大きく感じたところでそれは実体のない妄想でしかない。大きかろうが小さかろうが、実態のある本物の不安や恐れのほうが強いのは当然だ。その事は、今僕がこの部屋から外に出る事を恐れていない事が証明している。
……所詮は妄想で作り上げられた薄っぺらい感情。実際の経験による本物の感情に比べれば、なんとちっぽけな事か。
だから僕は、栞さんの話に頷けない。ただ黙る事によって先を促し、話を聞くだけだ。
「そしたらね、受付のロビーで楓さんに見つかって話し掛けられたの。他のお客さん達が誰に話し掛けてるんだろうってじろじろ見てるのに、全然気にせずに『こんにちは。こんなとこで何やってんの?』って鼻ズルズル言わせながら。後から聞いたらね、風邪引いてたまたま病院に来てたんだって」
思わず足に掛けた手が滑り、体勢を崩してしまう。ちょっと恥ずかしい。
「え、本当にただ風邪引いてただけなんですか? 困ってる幽霊の存在をキャッチして助けに来たとかそういう霊能者っぽい理由じゃなくて?」
「うん。そう言ってたよ」
なんとまあ。そりゃあ僕の勝手な霊能者のイメージを押し付けるのも変ですが、それにしたって行き当たりばったりと言うか締まりがない展開と言うか。
「顔上げてよ。怒ってるんだからちゃんとこっち向いてよ」
まるで本当にすぐ近くにいるような―――テーブルから、こっちを覗き込んでる?
「はい………」
顔を上げたら、テーブルから身を乗り出した栞さんが至近距離でこちらを睨み付けている。頭の中ではそういう事になっていた。
だけど実際は。
「うわっ!? えっ? ちょっ、あの、これは」
頭を上げた途端に、栞さんに抱き付かれた。
僕の目の前にはもちろんテーブルがある。だけど栞さんは、そのテーブルに重なりつつ僕の背中に腕を回している。――――つまり先程話し掛けられた時に至近距離だと思ったのはテーブルから身を乗り出してではなく、テーブルの存在を無視してすり抜けたまま、僕の目の前に座っていたからだったのだ。
「孝一くんが………孝一くんが悪いんだよ? 全然諦めてくれないし、酷い事言ってくるし」
「そそ、それは、むしろこうなる原因とは真逆なような」
宙に浮かせた自身の両腕が行き場を失っておろおろと彷徨う。ええもうこんなの初体験ですよ女性に抱き付かれるなんて。幼稚園ぐらいの時までの母親を除けばですが。
しかし抱き付いたほうは何とも思ってないのか、更に腕に力を込める。肩に押し付けられたその顔も更に強く押し付けられて、正直ちょっと痛いくらいだ。
「だって! だって栞、孝一くんの事嫌いになりたい訳じゃないもん! 好きだもん! だからこのまま仲良しでいたかったのに、全然諦めてくれないんだもん! 孝一くんに喋らせてたら、嫌いになっちゃいそうだもん! そんなの―――!」
この頃になると、宙を彷徨っていた両腕も行き場を見つけたようだった。栞さんを抱き返す―――いや、抱くと言うよりは背中に手を乗せただけ。そんな緩い反応に感化されてか、栞さんの腕からも力が抜け、顔も少しだけ肩からずり落ちる。
「そんなの…………生きてた頃の事を思い返すのと同じくらい嫌だもん……」
「栞さん……」
力無く言い終えると、栞さんの肩が痙攣するように震え出した。
「孝一くんの、馬鹿ぁ………ひぐっ、ひ、卑怯者ぉ…………」
「……ごめんなさい」
告白を受け入れられた理由が「嫌いになりたくないから」とは、なんとも可笑しな話だ。そして自分が好かれていると知った上で栞さんにそう思わせてしまった―――いや、思わせた僕は、間違い無く馬鹿で卑怯者だろう。卑怯すぎて反吐が出る。
でもそんな、馬鹿な上に卑怯者だと言われても。馬鹿な上に卑怯者だと自覚しても。
「そっ………そんなのだから、今まで彼女が一人もできなかったんだよぉ……」
後悔はしない。しよう筈もない。好きな人をこの腕の中に収め、それで後悔なんてしようものなら、馬鹿な上に卑怯者で更に愚か者だ。
―――と、僕は開き直る。所詮は馬鹿な卑怯者だから。
「告白したのが、そもそも初めてですから」
「なんで、なんで栞にはしちゃったの……? そりゃあ、ひっく、こっちが先に言いかけちゃったんだけどさ、無かった事にしてって、頑張って言ったのに、それなのに……」
「人参の皮を素で剥かないものだと思ってたり、卵焼きを作ろうとしたらスクランブルエッグ作っちゃったり、魚捌こうとしたら魚を怖がったり、一人で料理しようと言ったら火災を心配されたり、豆腐に乗せた肉をブン投げて僕に命中させたり」
「な、何よぅ……」
「話し声に釣られてパジャマでベランダに出てきちゃったり、お喋りに夢中になって仕事の事を忘れてたり、ワインに酔っぱらって隣の部屋に飛び出してきたり、これまた酔っぱらって膝枕を強要してきたり、何の躊躇もなく夜に男性を部屋に連れ込んでみたり」
「むぅ…………」
「そんな栞さんが自分でもどうしようもないくらいに好きだからです」
「……嬉しいような、嬉しくないような」
「そりゃあ今までも好きな女性の一人や二人はいましたが、ここまで、告白させられるほどまでに好きになったのは栞さんが初めてです。だから意地でも好きです。なんと言われようと好きです。なので、今ここで死ぬのなら躊躇無く押し倒します」
「最後にそんなの持ってくるなんて、だから孝一くんには喋らせたくないんだよぉ」
「じゃあ暫らく黙っておきます」
「うん。そうして」
こちらのあまりの言い草に呆れてか、栞さんは途中からすっかり泣き止んでしまった。別に意図してそういうふうに言ったとかじゃなくて本当にそう思ってただけなんだけど―――まあ、いいか。今はただこの状況に身を任せるだけでも、こんな呆れた男には勿体無いくらいに嬉しいし。
「幽霊の肌が冷たいっていうのは迷信だったんだなあ」と、お互いの衣服を通してじわじわと伝わってくる心地よい温かみに今更ながら実感が湧く。ここに引っ越してきてから半月ちょっとの間にいくらでも確認する機会はあっただろうに。
そうして動きのないままじっと喜びを噛み締める事数十秒、肩の温かみがふと弱くなった。栞さんが顔を上げ、服に残った僅かな温度だけが僕の肩を温める。そしてその温もりも外気によって冷やされ、あっという間に消え失せてしまった。名残惜しさを感じた僕は、ついつい今の今まで暖かかった部分へと視線を移す。もちろん、そこには何もありはしない。
一方肩から離れた栞さんは、両手で僕の胸を押すようにして体全体までも引き離す。こちらの両腕は栞さんの背中に添えられていただけなので、離れる体を引き止める事もなくするすると持ち場を離れてしまった。そしてついに触れている箇所が全くなくなると栞さんは伏せ目がちになりながら、
「ちょっとベランダに出てくるね。頭冷やしてくるよ」
そう言って立ち上がり、くるりと体を反転させ、言葉通りにベランダへと通じる窓へ向かい始める。
「あ、えっと」
対して僕は床に座ったまま、急な事に二の句を告げられないまま、遠ざかるその背中を目で追った。が、追うだけではどうにもならない。だからと言って立ち上がって再び触れようとする訳でもない。なぜなら、頭を冷やすという事は―――
「一緒になって出てこないでね孝一くん。頭が冷やせないから」
―――そういう事。そういう事なんだけど、頭を冷やしてどうすると言うのだろう?
立て付けがいいのか殆ど音を立てる事なく窓を開け、そして自身が外へと出ると、同じように静かに窓を閉める。もちろん栞さんが。そして後ろから見ているのでよくは分からないが、ベランダの手擦りに両肘を掛けるような格好になってただ静かに夜空を見上げる。もしかしたら月が出ているのかもしれないが、それはわざわざ窓に近付いて確認するほどの事でもないので気にしないでおく。
さて、動きがなくなったところでよく考えよう。栞さんは、頭を冷やしてどうする? 冷静になって今更何を考える? 想像したくはないが、答えが一つしか浮かばないので強制的に想像する事になる。
ああ、代わりの答えでお茶を濁す事すらできないとは。
で、そのたった一つの答えというのはもちろん今まで言い争ってきた事について。はっきり言うなら、その言い争いの結果自分が出した答えについて。もっとはっきり言うなら、僕に抱き付いた事について。それについて冷静に考えるって事は、まあまずその事を間違いだとするんだろう。頭を冷やすなんて台詞は、それまでの自分或いはその台詞を投げかけられた者が間違っている場合に使われるものなのだから。
じゃあ僕に抱き付いたのが間違いだとするのなら、それからどうなる? どういう展開になる? 考えるまでもないだろう。やっぱり僕は振られる。
………でもここまできてあら残念とあっさり認めるなら最初から諦めてる訳でして、諦めないのならば栞さんが戻ってくるまでに論理武装をしておかないといけない。今度も同じ結果に辿り着かせるために。
栞さんがのんびりと夜空だか月だかを眺めている間に、こっちは脳味噌フル回転。電気信号でシナプスが燃え尽きてしまわんばかりにあれこれどれそれと思考を巡らせる。そりゃもちろん栞さんだって何かしらは考えてらっしゃるんでしょうけど、話術のプロであるかテレパシー能力装備でもしない限りはそんなの関係ありゃしません。どうせ分かりゃしないんですから。なので、あちらからの話に対する答えを考えるよりはこちらから話す事を考えましょう。別にこの件に関する話であればなんでもいい。要は自分が話し続けて相手を圧倒すればいいのだから、こちらに有利な話である必要は全くない。栞さんの反応次第で、後からいくらでも話は広げられる。
攻撃は最大の防御也! 点数ゲームじゃないんだから守ったところでいい事なんぞありゃしない! と思う!
暫らくすると窓が開き、栞さんが部屋に入ってくる。それと同時に風―――と言うよりは、空気の流れか。ひんやりとしたそれが部屋に侵入して体に触れ、気を引き締めるのに一役買う。無論、相手はその空気の中にずっといた訳ですが。
「お待たせしました」
「はい。ではこちらにお掛けください」
「あはは、ここ栞の部屋なんだけどなぁ」
そんな取るに足らない小さなやり取りもありつつ、再びテーブルを挟んで向かい合う僕と栞さん。しかしここで一服していてはいけない。あちらから話し掛けられる前に、こちらから話し掛けなければならないのだから!
「あの、栞さん」
「降参だよ」
「…………………………………は?」
まず第一に思ったのは、「こちらの話を無視して上から押し付けてくるとは、なんという先制攻撃潰しか! これは作戦崩壊の危機!」という事。次に思ったのは、「は?」という事。自分が話す事しか考えてなかったのもあって一つ目のほうだけでも混乱しそうなのに、なんですかその二つ目は。
「どれだけじっくり考えても孝一くんに諦めさせる方法が思いつかなかったから。だからもう、降参。栞の負け」
肩肘張って勝負に臨もうとした僕に比べて、栞さんのなんとリラックスした表情であろうか。今の僕から見れば「ふにゃり」という効果音がつけられてもなんら違和感を感じないであろうその気の抜けっぷりに、勢い余って前につんのめりそうになる。
「え~っと、それはつまり………」
分かるような、分からないような。いや本当は分かってるんだけど、それがはっきりと脳内で文章に変換されるのがなんとなくためらわれるような。
でも、僕がそうしたところで栞さんは続ける。これまでにないくらい、背筋がぞくりとしそうなくらい、とびっきりの笑顔で。
「大好きだよ、孝一くん」
その笑顔に見惚れ、言葉に聞き惚れ、僕の思考はパンクする。ただ好きな人に好きだよと言われただけなのに。それだったらさっきだって、怒鳴りながら何度も言ってたのに。それなのに、今回の「好き」は頭脳への影響が大き過ぎる。ファイル容量が大きすぎるのか? それともウィルスか? ブラウザクラッシャーか? ともかく一旦、強制終了しなければ―――
「…………あが…………」
「あが?」
「あ、あぁあぁいえいえ。びっくりし過ぎて顎が外れかけただけです。大丈夫大丈夫」
起動音代わりに奇声を発してしまい、それでもなんとか正常に戻ったマイコンピュータを駆使して取り繕う。が、そんな努力も空しく栞さんはくすくすと笑い出してしまった。
「びっくりした時に外れるのって、顎じゃなくて腰じゃない? 驚いた拍子に腰を抜かすとか言うでしょ?」
むぅ、まだちょっと影響が残っているらしい。
「それに、どうして今更びっくりするの? 好きだ好きだって何回も言ってたよね、お互いに」
「それは僕も思いました。けどなんか、その時とは違って衝撃的だったと言うか………」
「言葉が違うだけで、それってびっくりしたって事だよね」
どうやらマイコンピュータは再起動したところで元々のスペックが低いらしく、恥ずかしい失敗を犯した僕はまた栞さんに笑われてしまった。
「あ、あはは、そうですね。いやーいい言葉が思いつかなくて。あははは」
その照れ隠しにこちらも合わせて笑うと、
「ふふ。やっぱり駄目だ、孝一くんには敵わないよ」
自分の笑う口を手で覆いつつ、そしてそれでも尚笑いつつ、楽しげに言う。
そして更に話は続き、
「ベランダから戻ってくる時にね、本当に何も思いつかなかったけどなんとかなるだろうって思ってたの。最初は。でも―――ほら、座る前に栞、ちょっとだけ笑っちゃったでしょ? あの時に『ああ、もう無理だ』って思っちゃったの。だってどうやったって自分が死んじゃった話に繋がるのにさ、その前に笑っちゃったら台無しでしょ? 自分が――死んだ事をなんとも思ってないみたいでしょ? 本当は、本当は凄く辛い記憶の筈なのに。実際に辛く思ってきた筈なのに……」
……話始めは笑っていたのに、そう言いながらだんだんと曇っていく表情。そんな栞さんを見てこちらの笑いもなりを潜め、顔の筋肉がどんどん別の表情を作っていくのがよく分かる。
なんとかしてあげたいとは、思う。だけど、なんともできないとも、思う。それは自分で事前に言っていた事。じゃあどうする? 自分が何もできないのなら………
「もういいです、栞さん。分かりましたからその話はもう………」
自分が何もできないのなら、相手に働きかけるしかない。
「……ごめんね、こうなったらもう止められないよ。話すのを止めても、頭が勝手にあの時の事を思い出しちゃうから」
でもそれも、効果無し。
「どうにかするって言ってくれたけど、孝一くんは頑張らなくてもいいよ。もともと、自分一人の問題なんだから。本当は、誰にも言わない筈だったんだから………」
栞さんがベランダに出ている間に考えた話題の一つ。
『もうこうなってから随分経つし、分からない事とか困った事はみんなが助けてくれたから。だから誰かに相談するような事はもう殆どないと思う』
霧原さんと深道さんがここへ来て、僕の部屋で家守さんに相談を持ちかけていた時。その時外に出ていた僕に、同じく外に出ていた栞さんがそう言った。だから僕は、この時の事を持ち出してこう言おうと思った。「今のこの件は誰にも言わないつもりだったんですか?」と。………答えは、聞く前に出てしまった。その通りだったのだ。
そもそもが自分の死についての話なのだから、他人にベラベラと言いふらすような話でない事は分かる。死んだ経験のない僕ですら、栞さんの言い分は理解できる。
でも。
「嫌です」
テーブルをすり抜けられない僕は、わざわざ反対側へ歩いて回った。そして栞さんが僕にそうしたようにきつく抱きしめ、そう言った。
「…………やっぱりわからずやなんだね、孝一くんは」
しかし栞さんは抵抗するでもなく抱き返してくるでもなく、両腕をだらんと垂らしたままで悪態をつく。片膝を床についていた僕は、そのままゆっくり後ろに尻餅をつくようにして座り込んだ。すると必然的に、栞さんを抱き寄せる形になる。
「わからずやは栞さんです。どうにかするって言ったらどうにかするんです。どうにもできなくてもどうにかするんです。栞さんに嫌がられたってどうにかするんです」
「また矛盾してる。だから、どうにもできないんなら無理してくれなくてもいいんだって」
今回は、栞さんはまだ泣いていない。ならまだ間に合う。このまま泣かせなければそれでいい。内面的にはもう泣いているのも同然なのかもしれないけど、少なくとも泣き顔だけは勘弁して欲しい。
「好きな人のためにする無理なら本望です。望んでやってるんです。邪魔しないでください」
「な―――あはは、何それ。助ける相手に向かって邪魔するなって………本当、孝一くんがこんなに変な人だなんて今まで全然思わなかったよ」
「自分でもびっくりですよ。でも、じゃあどうしますか? 部屋に不審者が侵入したって大声出しますか? 壁はそんなに厚くないでしょうから大吾辺りはすぐに来てくれると思いますよ?」
「どうしよっかなー。ちょっとまって、考えるから」
どうやら泣くのは防げたようだけど、悪ノリが過ぎたのか話がおかしな方向へ。その展開に驚いて顔を離すと、目の前には栞さんらしからぬ悪戯っぽい笑顔が。
「……え? ちょっとちょっと、冗談ですよ? 本気で大声出すつもりですか?」
そういう顔と役回りは家守さんの専売特許じゃないんですか? しかし栞さん、まるで無視。家守さんチックな表情をやめてくれない。
「うーん、よし決めた」
そう言うと、それまで重力に任せっ放しで床につけられていた両の手で僕の両の肩を緩く掴み、自分の体を少し持ち上げ、そして―――
「―――大好きだよ。不審者さん」
「―――に、二回目ですよねそれ言うの」
重なった唇が離れると、栞さんの表情はもう元に戻っていた。手も、肩から降ろされて脇を通り、背中に回される。
「初めてだよぉ。だってあの時はまだ不審者じゃなかったもん」
そりゃないでしょう、と思いながら考える。もっと根源的な事を。
―――その台詞、後で絶対恥ずかしくなりますよ? 勢いと流れに任せて思った事ぽんぽん言っちゃうのは―――まあ、いっか。
するとここで、時間差で唇に残った感触がむずむずと疼きだし、口を手で押さえるか舌で唇を舐めるかしてしまいそうになる。が、格好が非常に悪そうな気がしたので抑えに抑えて耐えに耐えて栞さんとの会話に専念。
「どっちも僕じゃないですか………」
「嫌?」
「いえいえ、もちろんそんな事はないですよ?」
「良かったぁ」
今はそうして嬉しそうにしてますけど、後で「あれはやっぱり無かった事にして」って言われても聞いてあげませんからね。花見の一件と同じく。
しかし今現在喜んでいる栞さんは、そんな事お構いなし。
「本当になんとかしてくれちゃった。ありがとう、孝一くん」
「………そうですか。なんとかできましたか。それは良かった」
「でも毎回毎回この方法だと疲れちゃうね。言い合いしなきゃ駄目なんだもん」
「改善の余地あり、ですか」
「それにさっきも言ったけど、毎回口喧嘩してたら嫌いになっちゃうよ。孝一くんの事」
「そりゃまあそうでしょうね。どうしましょうかねえ……」
やっとの事で確立できた「なんとかする」方法は、結局あまり役に立たないものだったと判明。いやまあ前から分かってはいましたが。で、それじゃあどうしましょうかという事になる。が、当然そんなにすぐには思いつかない。それゆえに、長考に入ろうとする。
「…………ふふっ」
しかしもそもそと動いてこちらの胸板に横顔を押し付けて小さく笑う栞さんに、大した時間も取れないまま長考はストップさせられてしまった。
「どうしました?」
「なんでもないよ。…………だから、もうちょっとだけこうしてたいな。いい?」
「お好きなだけどうぞ。僕も同感ですから」
栞さんの背中に回していた手を片方だけ持ち上げて、栞さんの頭に当てる。ほんのちょっとだけ自分の胸に押し付けるようにして。
―――ああ、駄目だ。結局ろくに考え事なんてできやしない。何か考えるのが勿体無い。今はただ頭脳を含めた体の全神経を使って、ぼーっとしていたい。好きな人の体を自分の腕の中に収めて、好きな人の体温を触れている箇所の全てで感じながら、全身全霊を以って腑抜けていたい。幽霊の肌に温かみがあって、良かった―――
どのくらいそうしていただろうか。服を通してですら、その温かさに触れている箇所にうっすらと汗をかいているような感触が現れ始めた頃、栞さんが顔を上げた。
「ありがとう。もういいよ孝一くん。もう充分落ち着いたし、充分堪能できたし」
「そうですか? ちょっと名残惜しいですけど……ずっとこうしてる訳にもいきませんもんね。僕も堪能させてもらいました」
男から言うと別の意味も含まれてそうな気がしないでもないけど、とにかくこちらも充分堪能させていただいたので素直に言葉に応じ、背中と頭に回していた手を離す。
僕から解放された栞さんが体を離し、再び座って向かい合う。ただし、今度はテーブルを間に挟まずに。
「全然予想とは違う展開だったけど、今日孝一くんに来てもらって良かったよ」
「僕は予想通りでしたけどね。………いや、予想じゃないかな。作戦通り?」
「その作戦には完敗だったよ。負けたほうが良かったっていうのが余計にしてやられた感じだし、悔しいなあ」
二人して軽口を言い合いながら、二人してくすくすと笑い合う。
「あのさ、孝一くん」
「はい?」
その笑いによって生まれた柔らかい雰囲気を纏ったまま、栞さんが改まって話し出す。
「今なら大丈夫だと思うから―――もうちょっと昔話、してもいい? 話せる時に話しておきたくて」
「え。大丈夫なら………まあ、いいんですけど……」
こちらが纏っていた柔らかい雰囲気は、一瞬にして霧散する。
そりゃそうだ。やっとの事で落ち着いてもらえたと言うのに、また泣かれでもしたらまた言い合いをしなければならなくなる。―――ああ、我ながら本当に間抜けな方法を思いついたもんだ。他に方法があるのなら、そっちを先に思いつけば良かったのに。
それでも栞さんは余程自分のコンディションに自信があるのか一切ためらう事無く姿勢を正し、話をする姿勢に。合わせてこちらも話を聞く姿勢に。それはつまり正座。
そして栞さんが一つ小さな咳払いをすると、昔話が始まる。
「栞が死んじゃってからね、うーん、どれくらいだったかなあ。そんなに長くは無かったよ。二日か三日くらいかな? その間、これからどうしようかなって病院の中をうろうろしてたの。外に出ようとは思ってたんだけど、行きたい所が多過ぎて―――ううん、どこに行きたいのかが分からなくて、なかなか外に出る気になれなかったんだよね。試しにちょっとだけ外に出ても、すぐに足が病院に向いちゃって。勝手に」
そこまで言うと、栞さんは笑う。
「自分でもよく分からないけど、恐かったのかもね。あんまり急に自由になっちゃって」
そう、自嘲気味に。
入院どころか病院にお世話になったこと自体が殆どない僕にとって、何年も……小学三年生の頃から十七歳までだから、九年? それだけもの間病院から出られなかったなんて、とても想像の及ぶ範囲の出来事じゃない。そして及ばないからこそ余計に、その時の不安や恐れが大きく感じられた。
だけど、いくら大きく感じたところでそれは実体のない妄想でしかない。大きかろうが小さかろうが、実態のある本物の不安や恐れのほうが強いのは当然だ。その事は、今僕がこの部屋から外に出る事を恐れていない事が証明している。
……所詮は妄想で作り上げられた薄っぺらい感情。実際の経験による本物の感情に比べれば、なんとちっぽけな事か。
だから僕は、栞さんの話に頷けない。ただ黙る事によって先を促し、話を聞くだけだ。
「そしたらね、受付のロビーで楓さんに見つかって話し掛けられたの。他のお客さん達が誰に話し掛けてるんだろうってじろじろ見てるのに、全然気にせずに『こんにちは。こんなとこで何やってんの?』って鼻ズルズル言わせながら。後から聞いたらね、風邪引いてたまたま病院に来てたんだって」
思わず足に掛けた手が滑り、体勢を崩してしまう。ちょっと恥ずかしい。
「え、本当にただ風邪引いてただけなんですか? 困ってる幽霊の存在をキャッチして助けに来たとかそういう霊能者っぽい理由じゃなくて?」
「うん。そう言ってたよ」
なんとまあ。そりゃあ僕の勝手な霊能者のイメージを押し付けるのも変ですが、それにしたって行き当たりばったりと言うか締まりがない展開と言うか。
付き合うのは目に見えてたけど……
いやぁ今回はそう来たかぁ
スゴいね代表取り締まられ役さん
ああ、やっとこさくっつかせられました。私としてもこの瞬間はマラソンの休憩地点みたいなもんなので、待ちに待ていた感がありますです。やー今回はここまで本当に長かった。
で、ただ付き合わせるにしてもやっぱりいろいろ話を考えなきゃならんのですが……
前作はちょっと違うとは言え登場人物が(主にヒロイン)毎回幽霊なんつー設定なんで、話の基点は最初から出来上がってるようなもんなんですよね。
私はそこをちょちょいと弄くるだけでいいので、楽といえば楽です。
…………なので、幽霊とか人外とかじゃなくて普通の人間で話書けって事になると、全く書ける気がしないです。
ただの人間でどう話を作ればいいのかと。
まあ書く場所がここである限り、そんな事はないんで安心ですけどね。
ついでに。
大学が始まった今、一日五千文字ペースはかなりきっついです。
そのうち以前の二千文字ペースに戻るかもしれませんが、なにとぞ御了承下さい。
無理なくマターリやれや
ノシ
それでも一応ほんの僅かにまだ書き貯めが残ってるんで、それが尽きるまではこのままやってみます。
明日にでも尽きそうですが。