数学者の森毅(つよし)さんは京大の教授だったころ、授業で出席をとらなかった。あるとき、出席をとってほしいと学生が言ってきた。単位取得に出席を考慮してほしい、ということらしい。そこでこう答えたそうだ▼「よっしゃ、出席してないヤツは少々答案の出来が悪くても同情するけど、出席したくせに出来の悪いのは容赦なく落とすぞ」。学生は黙ってしまったそうである。自身、学生のころよくサボった。父親には「学校を休んだ日は、学校へ行くより充実した一日を送れ」と言われていたそうだ▼さまざまな逸話や、社会問題へのユニークな発言で「最後の名物教授」と親しまれた森さんが亡くなった。退官後は自ら「老人フリーター」や「言論芸能人」と称していた。自分にも他人にも、自由と放任を貫いた人だった▼発言はしなやかで飄々(ひょうひょう)、ときに過激でもあった。だが姿勢は一貫していた。「新しいことを始めるには優等生だけではだめ。突拍子もないことを言い出すのは、大抵はスカタンですわ」。はみ出しがちな人への愛情が言葉の端々ににじんだ▼『エエカゲンが面白い』『まあ、ええやないか』『ぼちぼちいこか』……。肩の力を抜いた著書名の数々は、人生の達人からのエールでもあったろう。「元気になれ、がんばれというメッセージが多すぎる」と案じてもいた▼入学から就職まで最短で駆け抜ける今の大学に、さぞ苦言は多かったに違いない。「予定通りの人生なんてそうあるもんやないよ」。享年82。あの柔らかい関西弁がどこからか聞こえる気がする。
先日亡くなった数学者の森毅氏が取り上げられています。「最後の名物教授」などとも紹介されているわけですが、この辺はどうなのでしょうね、「名物教授」と呼べるようなタイプが今の大学では絶滅してしまったのでしょうか。たしかにまぁ、型にとらわれないタイプは居場所を失いがちです。「新しいことを始めるには優等生だけではだめ」『エエカゲンが面白い』とのことですけれど、研究計画にエエカゲンな部分など残していようものなら事業仕分けで晒し者にされて潰されてしまう、そうでなくとも予算削減の対象にされてしまう時代でもあります。名物になれるような、ちょっと変わった人間は地位を得られなくなっているところはあるのかも知れません。
それはさておき、冒頭のエピソードはいかがでしょうか。出席をとってほしいと訴える学生に「よっしゃ、出席してないヤツは少々答案の出来が悪くても同情するけど、出席したくせに出来の悪いのは容赦なく落とすぞ」と答えたそうです。学生側は出席を評価して欲しかったのでしょうけれど、まぁ大学ってのは本来、出席することが目的ではないですからね。どれほど出席したところで何も身につけていなければ意味がない、大学が勉強するところであるならば、そういう評価も当然と言えます。大学が就職の前段階の一つであるならば、何も身につけておらずとも卒業のための要件を満たす=単位を取得することが目的になるのかも知れませんが……
ちょっと前のことになりますが、どこかで議会を監視しているオンブズマンがいるというニュースを見た記憶があります。議員の出席状況や議会での態度、途中で退席していないかなどを逐一チェックしているのだとか。そうでなくとも議員報酬に関しては出席日数に応じたものにすべきだとか、議会への出席日数が少ないことを理由に議員報酬が高いと主張する人がいたりするわけです。どうやら大学はおろか議会ですら「出席点」で評価される時代のようです。この辺、森毅氏はどう思っていたのでしょうか。むしろ議会に顔を出しているだけで何もしていない、ただ賛成票を投じているだけの議員にこそダメ出しした方が良いのではないかという気すらしてきます。「議会を休んだ日は、議会へ行くより充実した一日を送れ」と。
むしろ出席した人を高く評価することよりも、欠席した人を罰して欲しいという思いが強いようにも見えます。出席そのものが負担という意識が強くて、自分は嫌でも必ず出席しているのに、その負担から免れている奴らがいる、自分と奴らが同等に評価されるとしたらおかしい、奴らは低い評価を与えられるべきだ――そうした考え方が根底にあるからこそ、大学にせよ議会にせよ、出席を基準とした評価(欠席を理由とした減点)が望まれるのでしょう。本当に勉強したがっているなら出席は負担ではないはずですが、出席による評価を求める学生は森毅氏の授業に出席することを苦痛に思っていることが窺われます。自分が本当に勉強したい科目もあれば、必修なので履修せざるを得ないだけの科目もあるだけに、後者の部分では出席による評価を求める気分も理解できないではありません。ただ本当に勉強したいのであれば、授業に出ないことこそが損です。損した人には同情するけれど、損をしていない、ちゃんと授業を聞く機会があったくせに答案の出来が悪い奴には容赦しない、これも一理ありそうです。
授業のアンケートで、「先生は優しすぎるから、もっと不真面目な人に厳しくして欲しい」と書かれてしまい、ちょっと困ったな、と思った記憶が新しいです。
最近何かと衰退に邁進(溜息)している「大学」ですが、本音を言えば、学生には「出席」よりももっと「勉強」して欲しいです。どんどんさぼってもらって、講義で得られない体験・勉学から自ら学んだことを、講義・講師に対する挑戦的にレポートにまとめて欲しい。意欲と知的挑戦のある答案こそ、高く評価したいです。
しかし減点主義ばかりが求められている昨今、教科書的・WikiPedia的無難解答が多く、しかも型を外れたものに減点しないと文句を言われる、という杓子定規の基準には辟易します。
他人の評価なんて気にする前に、誰にも負けない自分の答案を作ることをこそ目指してくれれば、事実としても結果としても良いものになるのですが……。
>もっと不真面目な人に厳しくして欲しい
>型を外れたものに減点しないと文句を言われる
この辺は何とも、世相を痛感させられる一幕ですね。人事や採用における企業の評価も似たようなところがありますが、その辺もまた世相を反映しているだけなのかも知れません。とりわけ大学生たるもの、枠をはみ出してこそだと思うのですが……
「学校に頼らなくても立派に育つ」というのが、教育軽視を押し進める考えの一つですから。
エッセイなどを2,3冊持っていました。
ズバリ、「勤勉は馬鹿の埋め合わせにはならない」というお言葉に感動したものでした。
合掌
確かに、そっちの方に話を持っていこうとする人も多そうですね。何かと教育、とりわけ高等教育の価値は低く見積もられがちですから。
>kurosukeさん
学術的な面だけではなく、人間的な面で森氏の後継者が出てくると良いですね。「名物」になれるような一風変わった人が地位を得るのは難しい時代ですが、そういう人がいないと面白くないですし。
みんな会社人間なんかにならずどんどんフリーターになれ,そうすれば日本は変わる,ハズでした...
しかし,それから20年たち...
確かにみんなフリーターになり,日本は変わりました。しかし,それは森氏の意図するところとは全く逆でした。
フリーターではまっとうな生活をおくることさえできず,結局,ひたすら空気を読んで会社人間になるしか生きる道がなくなってしまったのは,彼にとって予想外であり痛恨事ではなかったでしょうか。
「フリーター」の持つ意味が肯定から否定へ移るにつれ,森氏の言論が精彩を欠くようになりメディアでの露出も減っていってしまったのは,本当に残念です。もう一度「あの柔らかい関西弁」で鋭く今の世の中を斬るのを聞きたかった...
合掌。
バブル崩壊と共にフリーター的なものを許容する社会的なゆとりも社会から失われていった気がしますね。その後は仰るように「ひたすら空気を読んで会社人間になるしか生きる道がなくなってしまった」わけで、森氏の言動が受け入れられる余地も失われてゆくばかりだったのかも知れません。やれやれです。