岩手の蘇民祭:「全裸は公然わいせつ」今度は県警が警告(毎日新聞)
岩手県奥州市の黒石寺蘇民祭(こくせきじ・そみんさい)(13~14日)が、今度は山場の主役が全裸になるかどうかで揺れている。下帯姿の男らが奪い合う蘇民袋を小刀で切り裂く役は07年まで伝統通り全裸だったが、岩手県警水沢署が今年初めて「公然わいせつに該当し、警察として措置する」と事前警告したためだ。運営する16人の世話人の中には「仮に逮捕されても伝統は守る」と逆に意気込む人もいる。
世話人の一人は裸で本堂の格子に登り近くに袋が来た瞬間、口に小刀をくわえて男衆の上に飛び降りる。そして四方をにらみ袋を切り裂くと、中から護符の小間木(こまぎ)がこぼれ落ち、争奪戦はクライマックスを迎える。
元々、参加者はみな全裸だった。しかし女性観光客が増加し、露出目的の参加者も現れ、寺側は数年前から「祭事外で全裸にならない」「一般参加者は下帯を付ける」と規制してきたが、世話人の全裸は許していた。
しかし1月、水沢署から全裸への事前警告が口頭で数回初めてあった。荒川文則副署長は「『神事だから黙認』と思われていたかもしれないが、法律に抵触する行為があればしかるべく措置するスタンスは不変。昨年までも現場で警告制止してきた」と話す。境内での宗教行為だから罪にならないとの声もあるが、荒川副署長は「観光客がおり、公然性がある」と言う。寺の女性住職、藤波洋香さん(55)は「対応に苦慮している。もう少し伝統文化への理解があっていいのでは」とこぼす。
全裸の男たちが絶頂を迎えまくると一部で大人気の蘇民祭、イっちゃった瞬間を激写したポスターにセクハラ疑惑がかけられて知名度向上に繋がったいわくつきの代物です。一過性のネタに止まるかと思いきや、不思議と毎日新聞はその後の顛末を結構な頻度で報道、おかげで毎日新聞のチェックが欠かせません。
さて、今度はポリスが「公然猥褻」の嫌疑をかけてきたようです。ここは公安に負けるなと応援したいところですが、世話人に曰く「仮に逮捕されても伝統は守る」とか。その意気込みは買いたいところですが、何かが引っかかります。住職も「もう少し伝統文化への理解があっていいのでは」と語っていますが、してみるとこれは、伝統とそうでないものの対立なのでしょうか?
神事だから、伝統だからと言う理由で何らかの罪が許されるべきか、そこには疑問を呈さざるを得ません。良き伝統もあれば悪しき伝統もあるわけで、ムラのローカルルールが認めていても現代社会では到底許されないことはあるはずです(相撲界では無抵抗の人間を鈍器で殴打するのは許されるのでしょうが、そんな考え方は外の世界では決して認められないわけです)。そもそも、こういう場面で口にされる「伝統」というのは概ね作られた伝統であって、自らを正当化するために捏造されたものばかりですから。
「伝統」を理由にすることには、ある種のいかがわしさを感じないでもないのですが、同時に思うのは「全裸の何が悪い!」と。伝統を用いて正当化する必要などない、なぜなら全裸は罪ではないからだ、そう主張してみたいわけです。
警察にどうこう言われるずっと以前から、全裸での参加が基本だったのなら、それがどうして今になって警告を受けねばならないのでしょうか。罪は全裸ではなく別のところに? 記事によると「女性観光客が増加し、露出目的の参加者も現れ」ということですが、これはどうでしょう、露出目的で参加していた人が昔はいなかったとでもいうのでしょうか? 昔は露出目的の参加者などいなかったと言い張るとしたら(そりゃ建前上はそうでしょう)、それこそ伝統の捏造のような気がします。
で、「女性観光客」の方です。見たい人にサービスするのがなぜ駄目なのかと問いたいものです。寺の住職は女性ということですから、女人禁制というわけではなさそうですが、してみるとムラの外の女性はダメと、そんなところでしょうか。先日のなまはげの件とどこか似ていませんか? つまり、セクハラは昔からあったがそれは伝統、しかし観光客というムラの外の女性に手を出したら大問題という…… 閉ざされた後ろ向きの伝統から、開かれた前向きの伝統、すなわち生きた伝統であり続けるためには、他所から来た観光客にも積極的にご開帳してみせるくらいのサービス精神があった方が良いと思うのですが。
実はこの手の裸祭りは日本各地にあります。してみると往年の日本では今よりも堂々と裸になれる、開放的な文化だったのでしょうか。確かに商品としての「性」の流通規模は現代の方が大きいかも知れませんが、その社会的地位は低下したかに見えます。「性」は消費こそされるものの、後ろ暗いものとして日陰に追いやられるようになったわけです。してみると「セクハラ」が成り立つようになったのは女性の権利云々もさることながら、性的な事柄に対する蔑視によって要求された結果とも言えるのではないでしょうか。
江戸時代までの日本では性は豊饒であり、豊かさであり、祭であり、聖なるものであったが、これ以降、性は邪悪なものとして位置づけられる。同時に、遊女や芸者や妾など玄人の女性たちは蔑視されるようになった。江戸時代までは普通の女性も恋に積極的であったが、明治以降、女性は性にまるで興味がないかのようにふるまうことが要求された。
―――『張形と江戸をんな』(田中優子)
「伝統」に関する考察、いつもさえてますね。
>してみると「セクハラ」が成り立つようになったのは女性の権利云々もさることながら、性的な事柄に対する蔑視によって要求された結果とも言えるのではないでしょうか。
う~ん、この辺普通に同意できるかもしれない
個人的には、性とか売春とかは、国家の規制は無理が多いと考えますが・・・・。
「セクハラだ」と主張する女性に対する非難があるわけですが、同時に女性に対して、性的な表現への拒絶感を持っていて欲しいと、そう期待する意識もまたあるのではないかと思うのですね。性的に開放的な女性を嫌い、そうでないことを求めるのなら……と。
>Bill McCrearyさん
おー、ドイツは混浴が一般的なのですね。調べてみたら色々と面白い話が見つかりました。よくよく考えれば日本だって江戸時代の先頭は混浴が伝統、それがいつのまにか??? それはさておき「性」とは最もプライベートな領域であり、「公」の対極にあるものでしょうか、それだからこそ支配する側はそれを封じ込めたがるのかも知れませんね。
http://wadaphoto.jp/maturi/kisai_2.htm
護符袋を取り合ってもみ合ってる最中に、ふんどしを締め上げられて内臓破裂で死亡事故っていうのが起きてから全裸になった、という説明がありますね。また、女性が下着一枚つけて参加してた時期もあったみたいです。
何を残して何を伝えていくか、どう変化させていくか、試行錯誤しながらやってきたからこそ、これだけ長く続いて来たのかなあと思います。
観光客がいるので公然性があるっていっても、えらい寒い時期にしかも真夜中から明け方にかけて(おそらくほとんど)寺内で行われる行事のようですし、見たい人しか行かないでしょう。警察の言ってること、ほとんど言いがかりなんじゃないでしょうか。
で、
>他所から来た観光客にも積極的にご開帳してみせるくらいのサービス精神があった方が良いと思うのですが。
同感です。
いやあ、それにしても寒そうです。。。生まれも育ちも温暖な地方の私には、これだけでもう近づけないお祭りです……。
人里離れた、えらい山中、みたいでますます寒そう……。
って、そういう問題じゃないですね(苦笑)。
共同浴場と同じでワイセツなど関係なし。
警察署長の権威はちょび髭で戯画化される。
裸になれば市長も市民も警官も見分けが付かなくなる、一時的にしろ私有財産などの多寡でなく肉体そのもので見かけの強弱美醜を感じられて不快になる人もいるのでしょう。
裸が最高でも耐えられるのは地元の人だけでしょうけど。
御神体が男根や女陰であるものも多いが…。
そうやって、文化を分明で塗り固めるのが
必ずしも良いこととは思えないのだが。
なるほど、たしかに褌を急に引っ張られると特定の部位が圧迫されそうですね。女性が下着一枚の時代もあったのが、今は露出控えめな方向に動きつつあるのでしょうか。いずれにせよ、よその家に乱入するならいざ知らず、人里離れた山の中でやること、規制などせず、もっと大らかに!と言いたいところです。
>tatu99さん
少なからず裸は反権力と結びつくところがありますよね。服装が示す社会的地位が脱ぎ捨てられることに、治安関係者なり社会的権威なりは自らへの脅威を知らず知らず感じるのだと思います。
>Unknownさん
インドなどでも生殖器が信仰の対象になるケースはありますね。エントリの末尾に引用したように、性が聖なるものであった時代もあるはずなのですが、今や日陰の存在に。性を日陰に追いやったのもまた(作られた)伝統ではあるのですが……