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[第1弾] あの御巣鷹の峰の灼熱の夏から28年。日航機123便墜落で、奇跡の生還を遂げた子を救助した男は今!

2017-05-16 05:23:43 | ニュース

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 < 2013・6・13 初掲載>

 < 2014・8・12 再掲載 >

 また、8月が巡ってくると、あの灼熱の、身を焦がすような夏を、思い出す。

 今から28年前。1985年8月12日。日航機123便は、通常の航路を大きくはずれ、群馬県の山中深くに墜落し、機体は激突し、バラバラに、飛散。

520人もの命が、亡くなった

 私も、逮捕のⅩデーが近いと、噂されていた三浦和義の住むマンション前での張り込みを中止。ともかく、上野村へと向かった。

 上の写真の川上慶子ちゃん(左側)が、翌日、奇跡的に救出され、自衛隊のヘリコプターへと運ばれたことは、御巣鷹の峰へと向かう途中で知った。

 墜落現場は、息をのむばかりの光景が、広がっていた。そこへ辿り着くまでも、大変だった。道が、無いのだ。

 油断すると、ずるっと滑って、谷底のようなところへ、転げ落ちる危険性一杯。

 墜落現場も、傾斜度が高く、人間の肉の焼け焦げた臭いが、辺り一面に漂っていた。

 写真を撮りまくり、見たままの状況をメモ。自衛隊のヘリが、舞い上がるたび、土とあらゆる小片も、舞った。

 機体の破片は、触ると、ぺらぺらと薄く、まるで厚紙のようだった。

 数日立つと、鼻も感覚も慣れ、人間の肉の破片のそばで、平気で、旅館で作ってもらった握り飯を食べ、お茶も飲めるようになってしまった。

 そいう自分に半ば、驚きつつも、数日過ぎには、藤岡市などの体育館にある遺体安置所や、他の遺族と離れて、別荘にいた故・坂本九の遺族を追ったりした。

 ぎらぎらと照りつける、真夏の太陽の皮膚感覚は、今も、残っている

 東京に戻った私は、日航を取材。ひたすら、ボーイング社に機体の原因を押し付けるかのように逃げ回る姿には、怒りがふつふつと湧いた。

 あれから、あの現場には1度も行っていない。

 あの道なき山道は、きれいに整地され、誰でも登れるようになっているというし、碑も出来ているのは、報道で知っている。

 川上慶子のその後は、気になっていた。

 しかし、その姿を追ってまで、する気はなかった。

 あの凄惨な現場を、この目で何日も見てしまったら、彼女に何か聞くのは酷に思われた。

 情報によれば、帰郷した彼女は、島根県大社町に住む祖母のキミエさんの元に引き取られ、たまたま飛行機に乗る事無く生き残った、兄の千春さんと3人で暮らすことに。

 その後、島根県下でも名門と言われる、県立大社高校に合格。

 やがて、亡くなった母と同じく医療関係の道に進んで、他人の命を救いたいと、看護師の資格を取るべく、大阪にある看護系の、藍野学院短期大学に進む。

 平成6年4月。看護師の国家試験に合格。

 あの阪神&淡路大震災の時には、兵庫県尼崎市内の病院で、内科の看護婦として、救援活動に参加。

 やがて、アメリカへ旅行に行った際に、5歳年下の日本人サラリーマンと知り合い、帰国後平成15年3月に結婚式を挙げた。

 少なくとも、1人の男児(長男)か、それ以上を産み、今は、四国のある町で、親子して、幸せにひっそりと暮らしているという。

 看護師も、辞め、専業主婦となっていたが、今は全国的に看護師不足。

 ひょっとしたら、看護師の経験を生かして、三陸沖大津波地震の被災者支援の1員として、参加したかもしれない。

 すでに、40歳。あの時のコトは、マスコミに話すことは、おそらく一生無いであろう。

 そうして、私には、長らく気になっている人物が、もう1人いた。

 写真の、川上慶子ちゃんを救助し、ヘリコプターへと引き揚げた隊員(写真右側)だ。

 今、どうしていて、「あの時」「あの瞬間のコト」を、今、どう感じているんだろう?

 数年前、風の便りに、定年退官したらしいと、耳にした。

 現役自衛官時代ならば、「仕事でしたから」とか、「職務上、知りえた事実は・・・」とか、紋切り型で断る理由づけは出来ても、退官後ならば、少しは斬り込んでいける余地が、あるのではないか?

 そう、思った。

 なんでそう、堅い考えを、と思われる方もいるだろう。

 実は、その自衛官は、あの時のことを、そののち、一言も、誰にも語っていないというのだ

 あの日航機墜落事件の救助ぶりを、時代を振り返ることも兼ねて、自衛隊の広報紙にまとめようとした際も、コメントを拒否。

 また、同僚や、隊の後輩にも、いまだかつて、何も話していないという。それどころか、なんと奥さんにすら、クチを閉じて、語っていないらしいと言うのだ

 こりゃ、とんでもない壁。打ち崩すのは、骨が折れそうだ。

 探しまくって、退官後は、ある大学の警備員として働いていることが、判明

 いざ、勝負! という気持ちで、大学の門をくぐった。

 警備室で、その人の名を告げる。

 「はい、私ですが」と、出てきたのは、良く日焼けした、精悍な顔つきの、身体のガッチリとした長身の人。まぎれもない、あの写真の人だった。

 28年前より、老けてはいたが、気さくさは微塵も感じられない。

 コトの次第を察知した、他の警備員は部屋を出ていった。

 聞きたいことを、端的に告げた。お時間をとらせないので、お仕事が終わった後、どこかでお待ちします。

 もしくは、後日、日時を決めて、ゆっくりお話しをお聞かせ願えれば・・・。

  結論をいうと、そのどちらも、かたくなに断られた。

 職務上・・・・とか、そんな理由では、なかった。

 「ここまでわざわざ遠くまで来ていただいて、申し訳ないのですが、あの時のことは、何としても、お話しする気には、ならないんですよ」

 「何か、話せば・・・・・520人もの、お命があの場でお亡くなりになった。その方たちの霊を汚すと言うか、私ごときが話すことは失礼じゃないか。そういう気がしてならんのですよ

 いや、私も実はあの現場に行ってますので、お気持ちはわからないでもありませんが

 そう、水を向けても、何の反応もない

 「古い人間なのかも分かりませんが、これからも、どなたがいらしても、お話しすることは、おそらく、無いと思います」

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ではと、短く聞いた。

 その後、川上慶子さんと、お逢いになったことは?

 「いえ、1度もありません」

 年賀状程度の、やり取りは?

 「それも、ありません」

 今、彼女は結婚して、子育てしているようですが

 「そのようですね。どこかで、見聞きしたような記憶があります」

 今、何か、彼女に言うとすれば・・・・

 「まあ、幸せであってくれればいいなと・・・・・・・そう思います」

 彼は、今は仕事を終えると、子供たちに武術らしきものを教えているらしい。あの、12歳のときの川上慶子ちゃんたち世代を。

 今もっての、あの身体付きは、そういう日々があってのものか。

 それにしても、28年もの、積み重ねた日々。

 あの現場には、彼もまた、再び足を運んではいない。

 今も、あの時のことは、いまもって重く・・・・・あの夏の8・12、そして救助した8・13・・・・・・

 ココロの奥深く、合掌を・・・・・・・・・

 旧姓・川上慶子さんに、この1文を捧げたい。

 どこかで、ふと、目にしていただいたら、望外の幸せです

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<2013・6・13 掲載したものです>

 

 

 

 

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