距離

ぼくらが育った時代は<遠景>があった。
遠景とは未来や夢など遠くに向かって生きていく。

バブルがはじけだんだんと先が見えにくくなりちょっと先に向かっていく時代となった。
<中景>と未来や夢のような軽さが薄まっていく、このあたりまでは実感としてある。

そこから現在に至るまで<近景>となる。
今、ここ、身の回り、刹那的、そんな時代となりそこで育った子供たちが社会に出始めているのだと。

違和感を解消する説明には最適であった。
ぼくら<遠景>を知る時代の者たちはその風景を具現化し、<近景>世代に見せる役割があるのだ。
同じ風景でも距離が変われば見えるものも違う。
どちらも知っている者は強くなると思う。

http://www.nhk.or.jp/subculture/

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共感

 
ずり落ちる

店をたたんだ、という話を今年になって頻繁に聞くようになった。リーマンショックの2年前から厳しさが体感できる近さまでやってきたことをくっきりと覚えている。そこから先は知っている業界は...
 

1年前の自分の共感。
何度もあるけど、
同じ時期に同じようなことを考えて
同じような考えになるときがある。
違う考えになったほうが面白いけど、
何年も同じなら1つの答えなのかもしれない。 

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なるほどオレ

 
同一化

いつのまにか、どこでも人と同じようにくくりたがる。はみだす者を監視したいのか、許せないのか、でも、はみ出した者同志が集まっても同じことが起きる。そして、その仕組みに自分の一...
 

今日のシゲサトの言葉とちょびっとシンクロニシティ


<・主観というのは、人間の数だけある。
 「わたしは、こう見る」とか「わたしは、こう思う」は、
 ほんとうはみんなのところにある。
 ただ、みんながそれぞれの主観を、
 そのまま口に出したら、差し障りのあることも出てくる。
 そう思って、人は、主観をそのまま語らなくなる。

 じぶんひとりの主観を語るよりも、
 みんなの主観を調整したものを、
 「客観」として受けいれて、
 それを主観として語るようになるのである。

 ようすを見て、正しそうなことを言う。
 それを、じぶんの主観として言う。
 こういうクセがついていってしまうのだ。

 語らなくなっていくうちに、主観が減っていく。
 つまり、感じたり思ったり考えたりしても、
 どうせそのまま語らないのだから、まずは、
 主観として感じることをやめておいて、
 じっくりあたりを眺め回して、
 見えてきた正しそうな考えに合わせようとする。
 そういうことをしているうちに、
 じぶんが感じたり思ったりする必要がない
 ‥‥と思うようになっていく。
 
 人間の数だけある、はずの主観は、
 ものすごく少なくなっていく。
 正しそうなことや、迷惑にならなそうなこと、
 りこうそうなこと、やさしそうなことを
 探すことばかりしているから、
 「わたしはなにを思えばいいんだ?」と、
 すっかり主観を失って生きていくことになる。
 
 有吉弘行さんや、蛭子能収さんや、
 マツコ・デラックスさんを、テレビが必要とするのは、
 彼らがいないと主観のない世界になってしまうからだ。
 あなたもぼくも、ふだん、主観を窮屈に閉じこめている。
 だが、主観をいつも見失わないということならできる。
 おそらく、アートの役割は、そんなところにある。
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
どれくらいナイスな主観を持てるかというのは、芸だよね。>

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3月10日

 
1460
 1095 730日 ふりかえる2日目昨日に引き続き、身の回りの出来事から1年前を振り返る。3月10日は誕生日なのでブログでも「Kun...
 

48回目の誕生日だった。
誕生日を特別な想いに馳せることは久しくなかったが今回は想うところがある。
父は47歳で鬼籍に入った。昨年の誕生日に母に教えてもらった。
そのときぼくは高校2年で、兄が専門学校を卒業だったから二十歳、弟は中2。
都内に戸建ての持ち家を持ち、車は車検ごとに買い替えていた。
じっくり話す機会はなかったが、立派な人だとおもう。
父より長生きできたというのは、偉人たちとの年齢を比べるより当然大きい。

父の幼年期は終戦まじかの疎開生活で、父の父は3月10日の東京大空襲で亡くなったらしい。
その貧しさや苦労はぼくの世代でも想像つかないが、
男の大人が極端に少ない異常な環境はどんな感じだったのだろう。
それを様々な世代で比べても仕方が無いのだろうけど。

5年前の誕生日の翌日に大きな地震が起きた。
近所にある最高の焼肉屋で食事をする恒例で、
次の日にしようかという話もあったが当日に行っておいてよかったね、
というのがきっと毎年思い出すのだろう。

 

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2月29日

今年は閏年で2月が29日まであった。
閏年はオリンピックが開催されると覚えている。
そんな4年に1日あらわれる2月29日にひっそりとRe-turnというサイトが無くなった。
トラブルや事故やドラマチックな話ではなくサーバー年会費を支払わなかったからで、
その日がたまたま2月29日だったというわけ。
個人事業から法人成りした一環でWEBショップはクローズした。

2006年に立ち上げたときよりWEB環境やサイト構築は大きく変わった。 
WEBも知人にお願いして作ってもらったが、今ではブログより簡単につくれるものがたくさんある。
商品紹介で動画を投入したときはYOUTUBEが今ほどメジャーでも使いやすくなくて編集ソフトを買って埋め込んだ。
こうした変化の時代にWEBSHOPに関われたのはよき財産だと思う。
売上げもジェットコースターのようにアップダウンが激しかった。
縁のある方々が丹精こめたよい商品だけを扱った。

想えば911で価値観に大きな変化が起き、起業して、
311でもさらなる価値観の変化がおきた。
WEBが疎かになったとき縁があり店を持つことになり会社をつくることになった。
この10年間面白かった。
そのさらに10年前よりうんと面白かった。
これからの10年はもっと面白いことは間違いない。

 

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自己完結

<音楽の記憶は時と環境の影響による>
ひと月前にメモした。

今日、アップルミュージックで流れてきた80年代の洋楽に当時の記憶が蘇えってきた。
今ではその歌詞の意味やバックボーン、
社会状況など知るところで感慨深いものがあるが、
当時はなんとなく聴いていて、
何がいいのかよくわからいというが正直なところ。
情報も少ない時代で、
なぜ流行っているかしらないけど、
そこらじゅうで流れていた。
感情の起伏が激しいタイミングに、
すっと耳に入る歌はその想いととも記憶となる、
そんな風に思った。
だから今の唄が耳に残ららいのは当たり前で、
古く思われるのも当然だ。
ジャンルとか関係ないんだろうなぁ。 

<音楽の記憶は時と環境の影響による>
というメモが3週間たって、
唄によって腑に落ちた今日でした。
 

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いとなみ

ひとそれぞれ様々な暮らしがあって、
そういう層がその人なりとなる。
その人が語るその営みと
客観的な見え方は違うし、それがまた面白い。
SNSの登場で知るはずのない過去の営みや
人間関係までのぞけてしまうことがわかった。
公開しているものであるから陰湿なのぞきではないだろうけど、
やっていることと興味は同じ穴だ。
とてつもなく面白いが、同じことをやられることもあるのかと思った。
そこまで興味をもってもらえればありがたいが、
そればっかりは除く側の興味が好意か悪意かで大きく変わる。
悪意でのぞくのはよほどの恨みなのだろうから恐ろしいかも。
一方的な好意も気持ち悪いか。
それでも抑えられない好奇心は消えない。



 

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続続編

 
続編

 反抗ダメ世代の中心にいる身として。10代は学歴社会に反抗し、20代は会社組織に反抗していた。ここまでがバブル。はじけた以降、学歴や組織に属していない人の...
 

つい先日、半年準備していた仕事をキャンセルした。
当然、失ったものも大きいが、得たものもたくさんある。
その1つが反抗世代以降とのギャップだ。
1周り離れていると反抗するとこなく、
環境に順応する能力が高い。
与えられた条件を飲み込み、効率よく、そつなくこなす。
パッケージ内やゲームのようなルールがあるものの中では
ぼくらからみるととてつもなく器用にこなす能力が高いのだ。
生活道具の変化を考えれば当然だ。
そのかわり停電するとどうしていいかわかならい、
スマホがないと時間をすごせない、
そんな弱さもある。
まぁ、そんな状況にほとんどならないようになってきているのだけど。
だから反抗するという感覚は、そういう世代から感じたことがない。
ぼくらは反抗する世代だったのだろう。

ジャレド・ダイアモンドが言うように
「いつ生まれたの?どこで生まれたの?
この2つを聞けば、ある程度のことがわかる」

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惑わず

 
わからない

自分のコトでわかったことがある。それは、わからないというコトがわかった。明日のことはわからない。人の気持ちはわからない。自分のこともよくわからない。愛の意味がよくわからない。これだ...
 

去年のこの時期にもがいてたことがあって、
なんだか今年も同じようにもがいていた。
ここ数年、1年に1度くらい眠れない日がある。
ほんとうに眠れない。
寝ないで考えたからといって、すっとするわけでもなく、
もろもろと引きずるのだ。
時間が解決するとわかっているのにもがく自分がいる。
「40にして惑わず」
惑いはないが、未熟さをますますと実感する。 

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年男

 
道草

東大に現役合格した人に勉強のコツを聞いたことがある。それは余計な疑問をもたずに記憶するだけ。言われてみれば、余計な疑問を考えだすと疑問が疑問を生み、疑問だけが膨らみ疑問だけ記録に残...
 

書かなくなるとやっぱり書かない。
無理やりでも書いていると、
まれに、自分で書いたのかと思うほどの出来きの場合がある。
前から一月たったけど、
2015年の本のまとめとか新年の抱負とか書かないとなぁ。

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31年

クリスマスの少し前の日は父の命日。
高校2年生の期末テスト最終日で終わると同時に担任からすぐに病院へと言われたことを覚えている。
その数日後に死んでしまった父の年齢が今の自分と同じだった。
30年以上経って、その位置に自分が立って、
見えることや感じることが変わるのかといえばそんなことはない。
だけど父の仕事や家族への想いが、少し見えてきたようにも思う。
しっかりと会話をした記憶はほとんどないが、
なりたくてもなれない父親像だ。
150歳まで生きる予定でいるけど、
ノストラダムスの予言を超え、父親の寿命を超え、
ありがたく、あと100年以上生きるのだ。
やりたいことがたくさんあるからあっという間だな。 

 

 

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本の記録2015年#32 【もしも、詩があったら】

どちらかといえば「もしも」という言葉は好きではない。
現実と向き合わない逃避だと思えるから。

この本の出だしから
<「もしも」と言っただけで、まわりの世界が、ちょっと違って見える。 (略)
詩が生まれるきっかえになるのも。この「もしも」だ。> 
たしかに。
いや、「もしも」ではない言葉の方が適切かもしれないが、
詩人である在日アメリカ人の言葉選びを楽しんだ方がいい。

<常識の向こうまで見通すためにも、「もしも」のレンズが欠かせない。>
<「歴史にはもしもは禁物だ。もしもこうだったらと、ファンタジーにふけるのではなく、もしかしてこうだったのではと、史実をつかんで多面的にとらえるためにのみ、イマジネーションを働かせなければならない。」>

またキリストへの潜在的な意識をつかまれたのが
<「聖書」のマタイ伝やルカ伝を読めば、彼のクソ度胸が伝わって、その覚悟のカッコよさに、強烈に惹きつけられる。>
そうイエスはカッコいいんだ。

そして詩の了見が素晴らしい。
<詩というものは「自分と自分の愛する人びとが生きのびるために、役に立つのか」という次元であれば、もしかしたら詩は有用かもしれない。>

 

同じ齢の詩人に興味をもった。
アーサー・ビナード 

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本の記録2015年#31 【コンテンツの秘密】

カドカワの川上量生さんの著書。
ジブリに無給の見習社員として鈴木Pのアシスタントをしていた総括のような内容。
書き出し。

メディアが変わると、元は同じ作品でも別のコンテンツになる。
クリエーターとは「ある制限のものでなにかを表現する人」
コンテンツとは現実の模倣(もほう)=シュミレーション
絵が大人の鑑賞に耐えうるような情報量になった
海外アニメは理屈でつくらないと通用しない。
客観的情報量:現実>コンテンツ
主観的情報量:現実<コンテンツ
人間が感じる美男美女とは遺伝子的にバランスがとれている人間という説があり、平均的な顔を好むらしい。
感度の高い消費者たちこそ原初的な特徴の「わかりやすさ」を求める傾向がある。
スト―リ―表現に比べてパターン化されやすく、かつパターンの数が少ないから。
トトロがヒットした理由は気持ちよさうだから。
理屈でコンテンツをつくって楽をするが、最後はやっぱり感性で判断するしかない。
脳はいいか悪いかの判断はできても、なぜそうなのかとう理由を説明するのとても難しい。
脳は新しいものをつくのは苦手。試行錯誤のプロセスを別の人に委ねると自分にはつくれないヴァージョンのパーツが手に入りやすい、インスピレーションが湧く。
天才とは自分のヴィジョンを表現してコンテンツをつくるときに、どんなものが実際にできるのかをシュミレーションする能力を持っている人。
コンテンツとは「遊び」をメディアに焼き付けたものである。
 

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本の記録2015年#30 【謎の独立国家ソマリランド】

「世界の辺境とハートボイルド室町時代」で清水克行さんと対談していたのが辺境作家の高野秀行さん。 
世界の辺境とハートボイルド室町時代では室町時代とソマリランドが似ているというとところから入る。
そのソマリランドという国は海賊で有名なアフリカの国か程度の認識であったが、
2度の訪問でその国と周辺国の関係から文化まで理解しやすくなった。

この本の一番の発見は高野秀行という人の文章がめちゃくちゃ面白いということ。
カタカナが苦手なボクが分厚いこの本をぐいぐいと、落語そっちのけで読み進めたこと。
理解しにくい氏族関係などを自ら理解したものをかみ砕き、咀嚼し、万人に通じるように、
しかも面白く書きあげているのだから。
しかも読み終えるころにはこのソマリランドに行きたくなってくる、
それほどの文才なのだ。
この人の本を追わなければ。 

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本の記録2015年#29 【喧嘩両成敗の誕生】

「世界の辺境とハートボイルド室町時代」の作者の一人で
中世歴史学者の清水克行さんの処女作。
網野さんの著書同様に中世のコトを知ると、
伝統や日本人らしさ、古来などというものの多くが、
最近こしらえたり、間違ったものだったりすることに気が付く。
喧嘩両成敗という制度も中世の裁きの1つの方法であった。

それよりも中世という時代は今よりもうんとキレやすく、
戦で敗れた武将は民衆に狩れたりヒリヒリする日常であったようだ。

なにより15世紀という時代は
地球規模の環境変動により、
世界中で大飢饉が起こり、
それにより制度が大きく変わった
という視座が刺さった。 
この人の本を追ってみよう。 

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