転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



5月29日に拙サイトにUPしました、今回のポゴレリチ来日公演の感想ですが、
『携帯からでは読めない』『表示が文字化けして困る』
等々のメールを頂きましたので、同じものをこちらにも載せます。
自分本位に書いた大変シツコい内容ですので(笑)、
必要のない方は、この項、スルーして下さいませ<(_ _)>
(実はこの分量でも、私の感想の全容というわけではなく、
他にも書きたいことは多々あったのですが、
あらゆることに触れて書いていると、字数がとてつもないことになるので、
最初にUPするときに、自分なりに方向を決めて、内容は取捨選択をしました。
いずれどこかに、別バージョンを載せることができればと思っております・逃)。

なお、文字化けについては、私設ポゴファンサイトのほうは『日本語(EUC)』
になっておりますので、エンコードが自動選択になっていない場合は、
改めて指定して頂ければと思いますが、
ブラウザの状況によっては、それでも巧く行かないことがあるようです。
今回、印欧文字を半角で入れることをせず、そこだけフォント指定をしたのが、
余計なことだったのかもしれません、……が、よくわかりません(爆)。
ご迷惑とお手数をおかけすることになりました方々には、お詫びを申し上げます。
また、そのような御状況にも関わらず、読んでみたいとご連絡下さった方々に、
篤くお礼を申し上げます。

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『転妻よしこ の演奏会レビュー』:
2012年5月4日金沢・7日東京・13日名古屋


今年のポゴレリチは圧巻だった。
1988年に初めて彼の実演に接してこのかた、おそらく最高のものを、私は今回の来日公演で聴かせて貰った。彼に何が起こったのかわからない。しかしとにかく何かが起こっていた。とてつもない「何か」が。

近年、2005年から2010年にかけての来日公演では、私はポゴレリチの演奏に強く惹きつけられながらも、彼の音の中で深刻に迷っていた。あの頃、ポゴレリチが展開していたものは、常軌を逸した徹底的な点描で、全体としてそれらが何を形作っているのか、私には聴き取ることが困難だった。大きさも密度も異なる無数の点のひとつひとつが、不意に目の前に落ちてきたり、彼方に飛んだり、鮮烈だったり不透明であったりして、さきほどの音が何なのか、前の音との距離感はどの程度か、どこで消えるのか、そもそも全体の中で今どうなっているのか、……そうした問いばかりを突きつけられた気分になり、答えも出ないのに次々と新しい音が来て、私は巨大な音の迷路に迷い込んだまま、出ることが出来なかった。「曲」を聴くどころではなかった。世間では「長い」「遅い」と叩かれた演奏会だったが、一方で私には、このような限られた時間と空間の中では、彼の音を存分に聴き届けることができない、というもどかしさが常にあった。ポゴレリチが何か途方も無く大きな絵を描こうとしている、ということだけはわかったが、私には到底、追い切れるものではなかった。

ところが、今回は違ったのだ。それも、目覚ましく。
ポゴレリチの音楽は依然として膨大で精巧な点の集まりではあったが、それらに対して、例えて言うならフレーズごとにきめ細やかな「サイズ設定」がなされるようになっており、お蔭で彼の描いたものが、信じられないほど高解像度の「ビットマップ画像」だったことが、私のような聴き手にさえ、わかるようになっていた。否、ただの画像ではなくて3Dだった。ひとつひとつ執拗に微細に染め上げられた膨大な点が集まって、巨大で重く精密な立体を構成していた。そしてその立体は、各々の点を見ようと思えば鮮明に見ることができ、かつ、全体がどうなっているかも、同時に把握できるように工夫されて提示されていたのだ。

まず、来日公演の初日は5月4日LFJ金沢で、ポゴレリチは通常の半分の構成のリサイタルを行った。予定されていたラフマニノフ『ソナタ第2番変ロ短調 作品36』と、バラキレフ『イスラメイ』に加え、当日になって第1曲目としてショパン『夜想曲第13番ハ短調作品48-1』が追加され、合計3曲で約一時間の演奏会だった。そこでの夜想曲は、「テンポが遅い」という意味でなら、2010年と同じ感覚で弾かれたものだったかもしれないが、私には最初から彼の演奏が変わったことが感じられた。私が音を味わう速度と、彼のテンポ設定とが、絶妙の呼吸で合っているという手応えがあり、私はもうやみくもに点ばかりを受け取って扱いかねるようなことが無かった。打鍵にも素晴らしく抑制が効いていて、強奏になっても音が割れるどころか、くっきりとした強靱なフォルテが響き渡り、迫力の質が以前とは変わっていた。

ラフマニノフは、この曲の構成を懇切丁寧に説いて聴かせるような弾き方だった。これもまた時間的には「長い」演奏であったのだろうが、私には納得感のほうが大きかった。2005年のラフマニノフは、ひたすら正確に解剖された音の、膨大な集積だったが、今回はそれらに意味づけがきちんとなされており、音同志のつながりや対話、さらには楽曲全体の骨格が明瞭に示されていたのだ。

そして、最後の『イスラメイ』。この曲においてのポゴレリチは、冴え渡る技巧も圧倒的だったが、それ以上に曲に内在していた音楽的な深さを存分に描いて見せてくれた。昔とは段違いの音の厚みも加わり、特に中間部の声楽的な音の揺らぎなど、彼自身の90年代初期の演奏を遥かに凌駕した出来映えだと私は感じた。弾き手にさえ当たれば、どの楽曲も如何様にもその価値を発揮する可能性を秘めているものなのだと、私は改めて知った。

この金沢の感触から、以後の演奏会はきっと聴き応えのあるものになるだろう、という期待はあったのだが、東京でショパン『ピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11』と『ピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21』の両方を弾いた5月7日サントリーホールでの公演はまた、私にとって予想もしなかったかたちで、忘れ難い夜になった。なぜなら、ポゴレリチはついぞこれまで見せたことのなかった方向のものを、ここで展開したからだ。それは、私がポゴレリチの世界にこれだけはあり得ないと思っていた、「幸福感」という要素を伴った音楽だった。特にショパンのホ短調協奏曲でのポゴレリチは、手法は紛れもなく彼自身のものでありながら、全く新しい境地に踏み込んでいたと思う。

曲が進み、その世界に没入するにつれ、静かに寄せて来る無心な空気が、聴き手を幸福感で満たすのを感じて、私は感動しつつも、深いところで戸惑った。それは明るさこそ無かったが、確実に幸福な、なだらかな場所へと広がる音楽だった。ポゴレリチの演奏によって、幸せにして貰うなどということがあり得たとは。彼の音楽は、どんなときも孤独な陰影に深く縁取られ、聴く者に闇の淵を覗かせずにはおかないものだったのに!

更に第二楽章になったとき、彼の音楽の上に、天から微かな光が降りてきたように私は感じた。あまりにも不思議な感覚だった。幸福と、光と。ポゴレリチのピアノがそのような世界に迎え入れられることがあろうとは、夢にも思ったことがなかった。もはや、ポゴレリチはここで、自分を追い詰めることも、自己と闘うこともしていなかった。かわりに、ただひたすらな音楽への献身があるのみだった。この夜の、ホ短調協奏曲の第二楽章は、私のこれまでの人生で聴いたピアノ曲の中で、間違いなく、抜きん出て、最も美しいものだったと思っている。

第2番ヘ短調になっても、その印象は続いた。ちょうど二年前の2010年5月に、LFJ東京でポゴレリチは同曲をやはりシンフォニア・ヴァルソヴィアとの共演で弾いたが、あのときの彼にはもっと全面に出る強い自我があった。際だって特異な感性を顕示した、見事な演奏ではあったが、当時のポゴレリチの上には、天の光は射していなかった。何が彼をここまでにしたのか、……その答えは、ある程度わかるような気もするが、聴き手の想像など当たっていないかもしれない。言えるのは、演奏家としてのポゴレリチの何かが、この二年の間に確実に変わった、ということだけだった。

金沢でもそうだったが、この夜も、カーテンコールで出て来るとき、ポゴレリチは毎回必ず楽譜を持っていた。もう弾かないのだからステージでは必要ないのに、決して楽譜を離そうとせず、客席に頭を下げるときも後ろ手に持ったままだった。それは新しいものではなく、表紙にはキリル文字で『Шопен』(ショパン)と書かれており、ロシア語で編集された楽譜のようだった。彼とともに最後まで拍手を受け続けたあの楽譜には、何かが宿っているのかもしれなかった。

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ところで、以前からポゴレリチは協奏曲とリサイタルとでは、かなり違う面を見せる演奏家だったが、特にここ数年はその傾向が顕著になったと私は思っている。協奏曲では共演者が彼の異常性を緩和する働きをするように思われるが、リサイタルになると抑止するものが無くなり、どこまでも自身の世界に耽溺して行くように見えるのだ。今回も、私の聴いた範囲では、5月13日の名古屋公演でのリサイタルのポゴレリチは、東京での協奏曲とは明らかに異なる顔を見せた。協奏曲が「天から光を降ろしたWhite Pogorelich」ならば、リサイタルは「聴衆に死を直視させるBlack Pogorelich」だった。明らかに後者のほうが、これまで私たちがポゴレリチだと思っていた世界の延長線上にあった。

尤も、今回に関しては、本人側にもその方向での意図があったかもしれない。サントリーホールでの二公演が『The Legendary Romantics』と題された連続企画になっており、第一夜協奏曲(7日)と第二夜ソロリサイタル(9日)という位置づけだったから、ポゴレリチは最初から故意に、そこにコントラストを設定していたとも考えられる(しかしそうだとしてもなお私には、今回の協奏曲のポゴレリチは奇跡のように思えるのだけれど)。

リサイタルの四曲は、前半がショパン『ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調 作品35 「葬送」』とリスト『メフィストワルツ第1番』、後半がショパン『夜想曲第13番ハ短調作品48-1』とリスト『ピアノ・ソナタ ロ短調』で、東京(9日)・六ヶ所村(11日)・名古屋(13日)ともこのプログラムで通していた。

私が聴くことのできたのは、最終公演となった13日名古屋しらかわホールだけだったが、いずれの曲も結末が「死」になっていたと私には思われた。しかもここでは「天」への道は完全に閉ざされ、「死」は「無」であるとポゴレリチはとらえているようだった。地獄でも煉獄でもいいから、何かが「ある」と言われたほうが、聴き手はまだ救われただろう。この容赦の無さが、いかにもポゴレリチらしいところだった。しかしそれは、以前に彼の演奏にあった陰惨な「地獄」が影を潜めたということでもあった。「死」が「無」であればこそ、そこに至る人生は有限のものとしての意味と重みを増すのであり、ポゴレリチが精魂込めて描こうとするのは、「死」に向かって進む「生」そのものでもあったのだ。

ショパンのソナタで語られたのは、死への恐怖・懊悩と葛藤、受容と苦悶、そして絶命、……葬送行進曲に送られて行く先は、冷たい風の舞う墓場だ。続くメフィストワルツでは、享楽的な生と悪魔の哄笑、洞窟のように口をあけて待ち受ける破滅、断ち落とされて果てる命。

そして、ショパンの夜想曲作品48-1は、ポゴレリチ自身の過去が色濃く投影された自画像のような一曲だった。金沢でも弾かれた曲だったが、このプログラムで聴くと尚更そう思った。このリサイタルを通して、現世の目をもって突き放した態度で「死」を描いていたポゴレリチが、唯一、とめどもなく独白をしたのがこの夜想曲ではなかっただろうか。「前期」ポゴレリチを象徴するショパンが、凍結した夜想曲作品55-2の美だったとするならば、「後期」ポゴレリチとともにあるのは、この、夜想曲作品48-1に込められた「人生」かもしれないと私は思った。そしてその行く手にもまた「死」があることは、彼とても避けられない現実なのだった。人も我も、誰ひとり例外ではなく……。

そうして、この日のすべての曲目は、最後の、リストのロ短調ソナタへと収束して行った。この曲だけは、私には単独の「生と死」を取り上げたものには聞こえなかった。もっと大規模なもの、例えば、様々な演奏家の一生、多くの作曲家の生涯、それらが同時に展開し、奇跡のように交錯したり、無残に散ったりする様が、このソナタの中には目眩のするほどの高密度で描かれていた。凄まじい気迫に満ちた演奏だった。輝かしい陶酔も、透徹した静寂も、狂気のような激情もあった。しかし唯一確実な、そして偉大なことは、いずれの人生も必ず「死」をもって終わる、ということだった。そこに至るまでにどれほどの苦闘があろうとも、「死」は厳然とすべてを飲み込む。華やかな人生も、力強い生き様も、結局は潰えて、等しく「無」に返る。人間の歴史の中で、それは際限なく繰り返されてきたことだ。刻々と「死」に向かう時の流れは、止まることがない。臨終の微かな呼吸が徐々に間遠になって行き、途絶えるかと思うと、またあるかなきかの呼吸が戻り、その繰り返しの後、やがて、最後のひと呼吸になり、――ついに、次の呼吸は、もう、巡って来ない。永遠に。

ロ短調ソナタの終末のB音が、一打ののち蝋燭の炎のゆらめきのように消えたとき、ポゴレリチはそのまま動きを止め、長い沈黙が会場を覆い尽くした。一切の気配が断たれた静寂だった。彼がここまで描き続けてきた、「死」の支配する果てしない「無」だけが、最後に残った。

「無」となって完結したリサイタルに、アンコールはあり得なかった。聴衆にもよくわかっていた筈だ。しかしこの日、一旦拍手が起こるやそれは容易に止まなくなった。Bravoの声が飛び、観客が次々とスタンディングしてポゴレリチに拍手を送り、カーテンコールが繰り返された。私も立った。私が彼にスタンディング・オベーションを贈ったのは、これまでのファン生活の中で、2005年東京公演と、この名古屋公演の二度だけだ。前回は療養を乗り越え戻って来られたことへの祝福だったが、今回こそは演奏そのものへの賞賛だった。

ポゴレリチは幾度呼び出されても、彼独特のゆっくりとした歩調で歩いてきて、その都度、丁寧に客席に向かって頭を下げた。50分間に渡るソナタを弾き終えたばかりだというのに、その表情は穏やかで、呼吸も少しも乱れていなかった。

私は長らく、1991年5月の来日公演を、自分の中でのポゴレリチのひとつの頂点ととらえていた。師であり夫人であったアリス・ケジュラッゼによって造型された若き日の彼が、演奏家としての最初の極まりを迎えた時期が、90年代初頭であったと思う。以後、1996年に女史が死去し、彼の音楽は一度、閉ざされ崩壊したかに見えた。ポゴレリチは、再構築を2000年代初めから試みたが、それが今度は誰の助力も得ないで可能なのか、可能だとしてもどれほどの年月が必要なのか、2010年までのところでは、私にはわからなかった。それほどに、彼の選んだ道は途方も無いものに思われたのだ。しかし今回、あれから僅か2年でポゴレリチが、確かにひとつの方向性を見出したことを、私は感じた。

このあと、彼がピアニスト人生での、真の絶頂を迎えることを、今、心から祈り、熱く期待している。ケジュラッゼ女史と「ふたりで一人」であったポゴレリチの時代は終わり、これからは正真正銘の単独名義のポゴレリチが、自身の道を究めて行くところを私は見たいと願っている。ポゴレリチが未だ録音活動を再開していない現在、こうした演奏の証人になれるのは、この場に居合わせた我々だけだ。彼と同時代に生きていることの幸運を、私は心から感じた。もしかすると2012年こそ、ポゴレリチにとって本当の意味での、復活の年だったのかもしれない。その公演に立ち会えたのだとすれば、それは彼を聴く者としてこの上ない幸福だったのだと私は思った。

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