転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



(写真は、実家近所のアジサイ。
6月3日このかた、病院と実家の両方に毎日通って、私はかなり疲弊してきた。
介護内容はともかく、移動距離と時間の長さ、及び交通費が負担だ。連日となると。
年寄りは、鉄道もバスも来てないド田舎に住むもんじゃない。つくづく、そう思った。
私に老後があったら、娘が徒歩で来られるくらい近い病院か老人ホームに入ろう(爆))


6月3日(土)の夜中に救急搬送された実家父は、
あれからまだ入院しているのだが、着々と回復して来ている。
有り難いことだ。……じーさんの生命力は凄いな(汗)。

入院当日夜にはやや譫妄があり、翌日にかけて39度の熱が出て、
体じゅうガタガタと強く震え、ベッドが振動するほどだったが、
その次の日からは発熱が落ち着き、言動も普通に戻った。
そして入院5日目くらいだったか、一般病棟に移ることができた。
尤も、それまでHCU(重症患者病棟)にいたのは殊更に重症だったからでなく、
単に、大部屋のベッドが空いていなかったから、というのが理由だったのだが、
ともあれ、父はやっと普通の病棟で静かな療養時間が過ごせるようになった。
入院当初は24時間、心電図モニターがつけられていたが、
一般病棟に移る頃には、それらも外され、身軽になった。

リハビリも徐々に開始され、発熱がなくなって立つことができるようになり、
最初はリハビリの部屋やデイルームに行くのに車椅子に乗っていたが、
最近はそれも必要なくなり、自分で病棟内は歩いて移動することが可能になった。
きょうなどはもう、手すりにすがらなくてもスタスタ歩いており、
普段の室内での動きは、ほぼ問題なくなった。
病室となりの共同トイレに、自分で自由に行くようになったので、
ベッド脇に置かれていたポータブルトイレも、昨日から必要なくなった。

父は、『十日くらい前に、動けなくなって夜中に救急車に乗った』
というのは把握していたが、それ以上はあまり記憶に無いとのことだった。
「救急車は寝台が硬くて物凄く揺れるから、乗り心地が悪かった。
サイレンが耳元で鳴って、ものすごウルサかった」
と父は先日も今日も、私の前で数回は同じ話をしたが、
その救急車の件からあと、自分の身に、何がどういう順序で起こったかとか、
入院後、治療の過程で、立つことや歩くこと、トイレに行くことなどが、
いつ頃からどの程度自由にできるようになったかなどは、覚えていないそうだ。
ただ、私が病室に持ち込んだ時計やカレンダーを
最近は父が自分で、ベッドにいても見えるところに配置しており、
カレンダーには終わった日付のところにペンで斜線を引き、
きょうが何月何日であるかを自分で把握するようになったので、
頭のほうも本人なりに、日に日に回復しているらしかった。

主治医の先生にたまたま廊下でお会いしたときに伺ったところでは、
今回の発熱は尿路感染症と思われ、エコーで左腎結石が確認されたが、
これからする血液検査で、炎症反応が消えたことが確認できれば、
あとはリハビリの成果次第で、来週あたり退院して良かろうとのことだった。
ただ、糖尿病だけは、短期の入院ですっかりなおるというものではないので
退院後もしっかり通院して、管理をして行かなくてはならないとも言われた。
今は食前にインシュリンをお腹に注射している。
父本人のメモによると、昨日の血糖値は145ということだったが、
それが早朝空腹時の測定なのか食後の値なのかは不明だった。
父は、もともとそういう医療面での細かいことに関心がないうえ、
80過ぎてからは、すべてのことをどんどん忘れるようになったので、
詳細情報はもう本人の頭の中にさえ残っていないのだった。
数字だけでもメモしておいたのは、上出来であった(^_^;。

11日(日)に私は実家母をタクシーに乗せて、父の病院まで案内した。
家にいるときの父母は、しょっちゅう言い合いをしていて、
およそ二人の仲むつまじいところなど私は見たことがなかったが(爆)
病室での二人は手を取り合っており、さながら「感動の再会」だった(殴)。

今度から仲良ぅしぃや。ほんまに(--#)。

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