転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



ネットで調べものをしていたら、偶然に、
大学で同級生だった友人の名前を見つけた。
彼女は今、国連難民高等弁務官事務所のジュネーブ本部で、
ヨーロッパ局上級リソース・マネージャーとして働いていた。
卒業後、何かそのような仕事に就いたとは聞いていたが、
具体的に彼女の情報を見つけることが出来たのは初めてだった。

彼女の名を、仮に「N子ちゃん」としておこう。
N子ちゃんと私は、大学一年のとき、同じ科の、同じ仏語選択で、
授業がほとんど一緒だったことから、知り合った。
我々は、同じように地方から出てきて東京で一人暮らしをしていて、
下宿もかなり近所だったため、放課後になっても、よく交流していた(^_^;。

当時の彼女の発言で私が忘れられないのは、
「英語って、本当に、これを喋って暮らしている人間が、いたんやねえ」
というものだ。
彼女の感慨は非常によくわかった。私もそう思っていたからだ。
地方の女学生にとって、英語とは、学校で習う、教科書の世界のもので、
実際にそれを使って生活している人間を間近で見る機会など、
東京に行くまで、皆無だったのだ。

私「ほんで、一生、フランス語だけで暮らす人間もおんねんな」
N「ほんまや~。それ考えたら、凄いやん!」

我々は、つまり、どっちも関西人だった(^_^;。
ふたりとも、結構、関西イントネーションが抜けなかった。
私は自分でそれを知っていたが、N子ちゃんはあんまり自覚がなかった。
下宿の近所の、とある商店の女性に一言話しかけたとき、
「あなた関西から来たのね」
と、先方がこともなげに言ったのを、
「おばちゃん、超能力あるんちゃうか!!」
とN子ちゃんは、本気で驚いていたものだった(爆)。

それはともかく。
N子ちゃんは、あるとき、衝撃的なことを言った。
「私、実は、将来、アフリカで働きたいと思うてる」
あ、アフリカ!!私は仰け反った。私には全然ない発想だったからだ。
やめたほうがいい、無謀すぎる、と私は内心、思った。
だってNちゃん、毎晩必ず銭湯に行かないと眠れないって言ってたやん!!
アフリカに、お風呂屋さんは、あらへんよ(たぶん)!?
(ちなみに、当時、我々どちらの下宿にも、風呂など無かった。
我々は「小平浴場」とか「ももの湯」の常連だった(^_^;)

彼女は、また、別の日には、こんなことも言った。
「私は、結婚は、しない。将来は、ゴージャスなおばちゃまになる。
みんなが結婚して、綺麗なおうちに住んで、子供ちゃんがいて、
そこに私が、きらきらの毛皮着て、外車に乗って、遊びに行くん。
ほら、Nおばちゃんがおみやげ持って来たわよ~って」

卒業後、彼女は、アメリカの大学院に留学した。
彼女はこのときから、ついに、
「英語を喋って暮らしている」側で生活することになったのだ。
その後のことは、ネットでヒットした記事に詳しく書かれていた。
大学院を卒業したあと、彼女は国連の仕事をするようになり、
ジュネーブ本部勤務を経て、まずナイジェリアに派遣された。
夢が叶い、生まれて初めて目にしたアフリカだった。

リベリア難民キャンプでの活動を終えてから、
いよいよ国連難民高等弁務官事務所の正規職員となり、
今度はスーダン東部、コートジボワールのアビジャンなどに赴任した。
彼女はそこで、キャンプ設営や物資輸送などに携わり、
援助活動の最前線で働いた。

また、2002年、タリバン政権崩壊直後に
アフガニスタン勤務を命ぜられたときには、彼女は、
職員約120人を擁するジャララバード・サブオフィスの所長として
戒厳令の敷かれる治安最悪の土地で、陣頭指揮にあたった。

今、彼女は再びジュネーブ本部に戻っているが、
この仕事は、数年ごとに異なる国への転勤が待っているので、
辞令が出れば、また直ちに現地へ赴くことになるのだという。
記事中で、N子ちゃんは
『難民のために働くというより、難民から学び、
難民から(自分が)得たもののほうが多い』、
と書いていた。そして、
『手に持てるわずかな荷物を携えて、戦禍や迫害をかろうじて逃れ、
苦境のどん底でも生きていこうとする難民の
生に対する希求には胸を打たれる』、と。

功成り名遂げた人生とは、大人になって叶う、少年の日の夢のことである、
・・・という言葉を、今、私は思わずにいられない。

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