lens, align.

Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

eRa / "REBORN"

2008-04-28 07:06:46 | music7
Reborn


□ eRa / "REBORN" (Bonus Edt.)

Thousand Words
After Thousand Words
Kilimandjaro

Release Date;24/03/2008
Label; MERCURY
Cat.No.; 5307322
Format: 1xCD

>> http://era-music.artistes.universalmusic.fr/

>> tracklisting.

01. Sinfoni Deo
02. Reborn
03. Dark Voices
04. Come into My World
05. Prayers
06. Thousand Words
07. After Thousand Words
08. Kilimandjaro
09. Last Song
10. Come into My World [Remix]


混声合唱系ニューエイジの異端にしてカリスマ、Eric Leviのプロジェクト、"eRa"の4th Album。のはずが....初聴きの印象は、「どうしたら少しでも辛辣な表現を使わずに批評出来るだろうか。。」そればかりでした。そう、6曲目の"Thousand Words"を聴くまでは・・・。


□ 90年代初期に"Reborn"を遂げた"Sword & Sorcery"

とりあえず、Eric Leviは最近になってRobert Milesの"Dreamland"を聴いて感動したことは間違いないでしょう。"Come into My World"及び、そのRemixのような薄っぺらい音使いは、今ではなかなか聴かれない。もし"Reborn"が1st Albumより前、90年代始めにリリースされていたら、きっと古き良きアシッド・トランスのイロモノとして分類されていたはずです。


オーケストラは息を潜め、そのほとんどがシンセによるモデリングされたストリングスに座を追われています。ジュリオ・カッシーニの『アヴェ・マリア』主題に基づく"Sinfoni Deo"等で、80's臭漂うヴォーカルを披露するのは、"Dance Mania"シリーズなどディスコ・ミュージック全盛期に活動していたMiriam Grey。また、"Reborn"や"Prayers"では、イスラエル・ポップやチルアウトの趣向を取り入れた中東風のプリミティヴなサウンドをブレンド。

(もしかして、レトロな打ち込みサウンドと民族音楽は「原点回帰」のダブルミーニングで、Ericに音楽的な影響を及ぼした年代と関わっているのかもしれない。)

また、"Ameno"や"Divano"など、おなじみの過去作品のフレーズを散りばめて一貫性を演出しようとしていますが、決して開き過ぎたとは言えないブランクの割に、どこか空々しく漂うものが。。


またこの間、Andrea Bocelliが2004年に発売された"Viaggio Italiano"のリイシュー盤のボーナストラックに、eRaの"I Believe"のカヴァーを歌って収録しています。あの頃の豊穣な旋律に涙が。。



eRaの世界観は、これまでのPVにも反映されていたように、中世ヨーロッパの「剣と魔法のファンタジー」に強く根ざしていました。それは決してアーサー王伝説や指輪物語などではなく、精々が「コナン・ザ・グレート」だったり、「ドラゴンスレイヤー」だったりするのだけど。

(※ ジャン・レノが現代にタイムスリップした中世ヨーロッパ騎士を演じた映画「おかしなおかしな訪問者」「ビジター」にeRaの曲が使用されています。)

ちなみに私は、eRaの女性ボーカルを耳にすると、どうしてもピンクと白髪にパンクヘアーを染めた歌手のビジュアルが脳裏を過ってしまいます。

しかし、仰々しいオーケストラに当時では最先端の方法論であったプログラミング・ビートの鋭角的なリズムを刻み、ラテン語では十分ではないと、音節に細工を施した造語を合唱させて完成した"Ameno"は、紛うこと無くシュールでアーティスティックな孤高の名曲でした。


ヘヴィ・メタルに傾倒していたEric Leviのルーツを善くも悪くも露呈することになった"The Mass"を経て、更に"Reborn"において彼のセンスと指向性の古さを皮肉にも前面に押し出してしまったのは、これまでそれらを補って余りあったオーケストラによる重層的なメロディの不在と、前時代的なドラムワークの復興です。やけに小気味の良いムードトラック"Kilimandjaro"にしろ、Eric Leviは次にポップ・プロデューサーを目指しているのかもしれない。でもそこに混声合唱がある必然性は、"Reborn"においては遂に見つけられませんでした。


とはいえ、タイトル・トラックである"Reborn"のコーラスメソッドは、彼がしっかりと時代の趨向を見据えていることも窺わせる興味深いものです。元々オルフの"O Fortuna"がモチーフと思われますが、これは近年ハリウッドで使用される業務用サウンドライブラリから引用されているものに酷似しています。

特にSteve Jablonskyが"Transformers"で使用したコーラス、これはJames Dooleyの作曲・合唱指揮によるもので、Position Musicの"Orchestral Series Vol.2"と題されたサウンド・ライブラリに収録されているので、興味にある方は聴き比べて見てください。(iTunesで試聴可能)

>> http://www.positionmusic.com/


また、似た傾向のある混声合唱+打ち込み系作品として触れなくてはならないのは、Hans Zimmer以下RC社とも深い関わりのある作曲家 Robert L. Bennet Jr.のプロジェクト、Ars Arcana / "The Savage Tongue"。いつかレビューしたいと思います。

>> http://www.haymakermusic.net/
>> http://www.robertbennettmusic.com/

彼らは、ハリウッド系混声合唱スコアのリソースを支える職人とも言うべき人たちです。



話が逸れてしまいましたが、こうして時代の要求がさらに大袈裟に、派手なスコアリングに向かっているのに遡行するが如く、一変してストイックな転回を見せた"Reborn"の作風には、何らかの意図を嗅ぎ取れないこともありません。その最たるものが、今作のハイライト・トラックとも言うべき"Thousand Words"~"After Thousand Words"の流れ。

従来のeRaなら、この曲を冒頭に置いたに違いありません。それは神々しいほどまでに潤ったストリングスと混声コーラス、そしてプログレッシヴ・ロックの眩い調和であり、私たちがeRaに求めていた音そのものです。"Reborn"の示す意味が、ある種の帰還であるのか、それとも訣別であるのか。"Last Song"において寂しい旋律によって歌われる聴きなれたフレーズの一つ一つに、過去のeRaの確かな息づかいを感じながら・・・、次なる転生を待つには、ここに残された作品はあまりに心許ない。


THE PENINSULA TOKYO. 3/30-4/1

2008-04-27 08:01:11 | ホテル
Peni
(デラックス・スイート 日比谷方面)



□ The Peninsula Tokyo

>> http://tokyo.jp.peninsula.com/

ザ・ペニンシュラ東京
滞在日:2008/3/30、3/31、4/1

Peninsula

もう記憶が薄くなりかけてしまいましたが、
本当に忘れてしまう前に簡単に宿泊記を・・・。

桜も咲き盛りの先月末に上京。
ペニンシュラ東京のデラックス・スイートに2泊3日の滞在。結論から言うと快適で優雅なひとときを過ごすことが出来ました


3/30

折から強風の吹き抜ける銀座のオフィス街。立ち並ぶ高級ブティック群を通り抜け、皇居外苑側に一度出た後、にぎやかに往来する中国人ツアー客を掻き分けながらホテルに到着。正面入り口はドアマンやゲストがせわしなく行き来していた為、ビルの側面入り口から回転ドアをくぐり、細い通路を抜けてロビーへ。テナント宝石店のガードマンの視線がキニナル。。


さて、例のごとく衣装で一杯になった荷物をフロントに預け、部屋の準備が出来次第ケータイに連絡して欲しい旨を伝え、皇居外苑をプラプラ散策。翌日行った六本木ヒルズでも感じたのですが、中国人観光客がもの凄く目立つようになりましたね。。


Peniroom2_2

部屋は指定通り、ペニンシュラでは高層階にあたる17階の皇居外苑側。電気系統の制御パネルと無線テレビの操作についてベルマンから説明。宿泊登録者以外のゲストの出入りは原則22:00まで。それ以降はキーがないとエレベータが使用できないとのこと。意図的な構造なのか、ペニンシュラ東京はロビーから客室までのアクセスがとてもせせこましく、スタッフの目が届きやすくなっています。途中目にした暗い吹き抜けに飾られた光のオブジェが綺麗。

Peniroom

望遠鏡。「建物などへの使用はご遠慮ください」との注意書きがぶら下げてあります(笑)。手前にはテーブルがあるのですが、有名なペニンシュラチョコレートのセットとリンゴが2個。後で食べようと取っておいたら、もろもろあって結局食べれずじまいでした。。(ちょっとずつ摘みましたが)次の日はオレンジも仲良く鎮座してました。

MacBookから無線LANに接続しようとしたのですが、何故かログインできなかったので、ライティングデスクに置いてEthernetで接続。それと、外部オーディオを繋ぐケーブルが無いのも不満でした。


Peniclo_2

久々のスイートルームなので浮かれてましたが、ベッドルームは残念ながらツインタイプしか確保できませんでした。写真はドレッシングルーム。中央のオブジェに向かって左に寝室(扉が大げさ!)、右側にバスルーム。背後に何人分だよ!と突っ込みたくなるだだっ広いクローゼット。右手に大きな化粧スペースがあります。


Penibed

虚しさと涙が染み込んだ使用後のベッド(嘘です)。悲しいかなブレるのです。ほんとごめんなさい。写真は出るときに急いで撮ったものがほとんどです。無線テレビはリモコンの反応が許せないほど遅くてイライライライライラ。。ペニンシュラ独自のBGM系統チャンネルが無駄に充実していました。


Penibath_2 Penibath2

バスルーム。浴槽を挟んでパウダーテーブルが二つ向かい合ってます。入り口の両側、対象位置にシャワーブースとトイレ。お湯を出してジャブジャブ遊んでいたら、ウッカリ押しそうな位置に"CALL"ボタンが皓々と光っていてヒンヤリ。それにしても制御系統がカッコいいです。

空間把握能力に優れた方はもうお気付きかもしれませんが(笑)、寝室もバスルームも隣のビルから丸見えです。ウッカリ全裸になれません。特に浴槽では仁王立ちせず、必ずブラインドを降ろしてから入りましょう☆どうしても景色を楽しみたいというのであれば、私は止めません。止めませんがっ!もしあなたが見目麗しき美女でないのなら、苦情を受けるホテルの身になってください。


Penight

日比谷公園側の夜景。
遅くまでお仕事お疲れさまです(ー人ー)

この日の夕食はルームサービスでほうれん草のパスタと野菜のグリル他を注文。着流し風のホテルウェアを着てソファに寝そべり、リビングにある雑誌をパラパラ読んでいると、8時頃に早くもターンダウンサービスの女の子がやってきました。あの間ってどうにも落ち着かないですよね。。ウトウトしていたらいつの間にか夜中の2時に。


3/31

雨。
モーニングセットのカモミールティーが美味しすぎて感動しました。この日はホテル内で適当に過ごし、夕方から国立新美術館へ。詳細は先日の記事にて紹介しています。

>> lens,align.:AMEDEO MODIGLIANI

Ame
例の美術館で買った置物。これ何の動物?
とりあえず自宅の香水置きに飾りました。

昨年泊まったリッツ・カールトンのある東京ミッドタウンを横目に、帰りに六本木ヒルズの東京シティビューで黄昏時を過ごしました。夕景の写真はブレて全滅でした♪~。

この日は歩きまくったせいか、マッサージの方に「足がパンパンですね~」と言われてしまいました。休養に来たのに疲れてどうする....でも私は何かもっと切実なものを、ここに吸収しに来ているのです。それはいつも少し痛みを伴ったものなのだけれど。。


4/1

正午近くまでゆっくり寝てたので、慌ただしくチェックアウト。荷物はそのままクロークで預かってもらい、再びビル風の吹き荒れる銀座を周遊したのち、最後まで行こうか悩んでいたお台場まで直行。さすがに平日なので、ゆりかもめ乗車駅までは閑散としていたのですが、到着駅は人だかりでした。


7年ぶりのお台場。ってあれ?
間違ってヴィーナスフォートで降りてしまいました。
昼食をとってから、賑わう通りをメディアージュまで一人トボトボ

 λ....


変わっていたのかどうかすらわかりませんでしたが、辿り着くとやはり懐かしい感情を抱いてしまいます。昔訪れたカフェを探したのですが、さすがにもう無いですよね。変わらない風景、変わった光景。記憶の中を流れる景色はゆらゆらと濁ったままだけれど、此処は今こんなにも晴渡っているのだ。


ホテルに戻ってから地下のブティック/カフェでケーキセットをモグモグ。観覧車を模したオブジェに小さいケーキが幾つも乗っていてカワイイです。お土産を見繕っていたらペニンシュラの制服を来たクマが。。鼻血。でも高い。。。無難にチョコレートを買ったところで思い出しました。

部屋のチョコ食べてない。。。


見よ、あれが巴里の灯だ。

2008-04-25 20:34:48 | デジタル・インターネット
( ゜∀゜) カァー。。カァ。。。

MacBookのデータが飛びました。ミャハ☆

熊の子見ていた隠れんぼ~♪
お尻を出した子・・・

ヽ(`Д´)ノ一等賞!


うわーーーん、出てきてよー゜・(ノД`)


□ 終わりの始まり

ことの始まりは昨夜、帰宅してバッグからMacを取り出し電源を入れると、起動まで異様に時間がかかる。ユーザ辞書の呼び出しに手こずっているらしいのですが、なんとデスクトップ画面がブルースクリーンに戻り、再起動→読み込み→ブルースクリーン→再起動を繰り返すように。電源を入れ直しても症状は変わらず。Leopardのインストーラーからディスクユーティリティの「First Aid」で診断しても異常なし。

そろそろバックアップ用に"TimeMachine"を買おうかと思っていた矢先。データが破損したと見た私は、滅多なことはないだろうと浅はかな考えで、OSの再インストールを試みました。で、失敗しました。「ユーザ辞書」のアクセス権が壊れていたためらしいのですが、インストールが中断。おそるおそるリブートしてみると。。

\(^o^)/

ユーザアカウントが消えてしまい、生まれたままの姿に。とりあえず新しくユーザアカウントを作成してアクセスした後「移行アシスタント」にて、森の奥深くでSleeping Beautyよろしく眠っている前アカウントにアクセスしようとしたのですが、

当該ユーザアカウントがない。。

キーチェーンも向こう側なので、メインで使用してるバッファロールータのWEPパスワードも確認できず、FONルータから接続して解決策を探ることに。結果、シングルユーザーモードで立ち上げ、rootユーザとしてログイン。パスワードを設定し、新しいアカウントに管理者権限を与えたのち、そのアカウントでログイン(rootユーザは無効に)する。再び移行アシスタントから前ユーザアカウントのデータを継承する手続きに。

しかし、ファイルの取り出しの段階で致命的な事故が。。。


□ 二重のミス、一つのバグ。

Leopardの初期ロットには、アップグレード時にアカウントのパスワードをリセットしてしまうバグがあり、発売時には話題になっていたようですが、わたしはたまたま順調に移行できてしまったため、その顛末について関心を寄せることがありませんでした。予期できていたら、必ずバックアップを用意したのだけど、言い訳ですね。

ともあれ、今回のデータ消失の直接の原因は、ファイルの移行ミスです。データ移行時に、何度やり直してもプロセスの決まった時点"File name too long (63)"エラーで中断されることに。しかしアラートされた肝心のファイル名が文字化けしていて読めないため、フォルダを探し当てそれっぽい日本語名のファイルを探して、短く変更。リトライすると上手く継続された為、安心した矢先....(日本語名の長いファイルは置いておかないことをオススメします)


( ゜д゜ )

アプリケーションやキーチェーンは引き継いだのですが(ユーザ辞書は真っ白)、「データ」が移ってませんでした。HD要領が空きました。MacのアルゴリズムはWindowsと違い、移動に失敗したデータは上書きされて古い方が消えてしまうのが要因だそうです。救いだったのは、"File name too long"エラーが出るまでに移行が済んでいたデータはしっかりと残っていたこと。特に"Macintosh HD"フォルダ以下に置いてあった重要な書類等は無事でした。(優先して転送される?)全滅したのはユーザフォルダ以下の日本語名ファイル以降にあったほとんどのファイル。

どういうわけか調べたところ、とりあえずこれらは「消えてしまった」という結論。


現在に至っても、Finder上の操作に一々パスワード入力による許可を求められる状況を復旧できていません。アクセス権を修復しても無理のようで、同じ症例を探して解決中です。(元々使っていたアカウンドを使用)


□ 武器よ、さらば

さて、壊れてしまったのなら復元です。覆水盆にかえるのが文明の利器。修復にあたり、フリーソフトながら、有償ソフトに比べても十分過ぎる機能を誇るPhotorec、及びTestDiskを使用。Data Rescueも考慮しましたが、取り戻したいファイルのほとんどが大切とはいえ、必須とは言えないもの。mp3にしても、どうしても聴きたいものだけ買い直せばもっと安く済みます。


まずパーティションが見失われた可能性を鑑みて、TestDiskを起動。処理操作はターミナルを介して行われます。しかしそうではない模様。完全にユーザアカウントが上書きされてしまっただけのようです。ということで、Photorecで壊れたファイルから必要な形式だけ復元することに。

というのは、Photorecは復元力が強い反面、無数のファイルが重複してしまい、まともにやれば何十万ものデータが無尽蔵に生成されて、あっという間にHDが満杯になってしまいます。今回は画像やmp3、各種動画のみ指定しましたが、Macbookで6時間弱かかりました。

本当は上書きを防ぐため、HD上にパーティションを区切ってから他方に転送するのが原則なのですが、空き領域が確保できない恐れがあったので、半ばヤケな私はリスクを承知で進みました。


復元されたファイルはすべて"recup_dir"というフォルダに500件ずつ無造作に吐き出されます。ファイル名もパスも全て失われている上、同じ形式であればキャッシュから何から見境なく復元する為、数万のファイルから自分で選り分けなければなりません。タグ情報は生きている為、spotlightでタグを検索すれば、該当するファイルを一覧することも出来ます。

もっとスマートなやり方として、ターミナルコマンドで

find /フォルダパス/ -name "*.mp3" -size -ファイル容量 | xargs -I mv /フォルダパス/任意のフォルダ/


例えばこうすれば、「ファイル容量」の部分を任意のサイズに指定することで、指定容量未満のファイルを抽出することができます。(私の場合、上記の理由から"Permission Denied"を返されてしまいます。)というのは、実はPhotorecで復元されたmp3ファイルは、バラバラに壊れてしまっています。同じ曲でも、1分未満だったり、ほんの数秒だったり、完全な形のものもごちゃごちゃあちこちに存在してしまいます。これを選り分けるのは至難の業でしょう。購入した音楽ファイルならタグ管理されているはずなので、サイズが比較的大きいものを特定しておけば、飛躍的に効率があがるでしょう。


因に、iTunesで購入したものはiPod Touchから認証をやり直してMacBookにコピーすることが出来ました。その他のファイルも、何らかのソフトを使ってiPodから吸い出すことが出来そうです。本体中の離れたフォルダにあったmp3がどの程度復元されたのかは、まだまだ未知数です。


そんなわけで、今は復元された膨大なファイル量を前に茫然としているところですが、暇を見て少しずつでも整理していくしかないでしょうね。。何か間違いやアドバイスなどありましたら、ご指摘いただけると幸いです。


[追記]

jpgファイルの選別作業に入りました。
109個のrecup_dirの中から、
500ファイルx50フォルダ=25,000個のファイルを
目視で整理。およそ3時間。
もう半分。。。いやだぁ。。。

ファイルサイズでソートしてコピーしてから
元フォルダを削除すれば良いかもしれませんが、
小さくても重要なものがあるので大変です。


Karl Jenkins / "Stabat Mater"

2008-04-23 00:59:32 | art music
Stabatmater


□ Karl Jenkins / "Stabat Mater"

Cantus Lacrimosus
Paradisi Gloria

Release Date; 10/03/2008
Label; EMI Classics
Cat. No.; 50999 5 00283 2 0
Format: 1xCD

>> http://www.emiclassics.com/karljenkins2008/
>> http://www.karljenkins.com/

>> tracklisting.

01. Cantus Lacrimosus
02. Incantation
03. Vidit Jesum in Tormentis
04. Lament
05. Sancta Mater
06. Now My Life Is Only Weeping
07. And the Mother Did Weep
08. Virgo Virginum
09. Are You Lost Out In Darkness?
10. Ave Verum
11. Fac, ut Portem Christi Mortem
12. Paradisi Gloria


Jurgita Adamonyte Mezzo-Soprano
Belinda Sykes Ethnic Vocals
Jody K Jenkins Percussion

Royal Liverpool Philharmonic Chorus
Royal LiverpoolPhilharmonic Orchestra



?悲しみの聖母はたたずみ給へり
 御子の懸かり給える十字架の傍に
 涙に暮れながら

      -Jacopone da Todi / "Stabat Mater dolorosa" (13c.)


私にとって『スターバト・マーテル』といえば、悲痛な旋律が胸を貫くドヴォルザークや、寒々しく暗れ塞がるペンデレツキのそれの印象を強く抱いている。あるいはクラシックの熱心なリスナー達には、カール・ジェンキンスがこの主題において詩作した楽曲を、宗教曲としての"Stabat Mater"の系譜に含めることを認めない向きもあるかもしれない。


それほどまでにKarl Jenkinsの"Stabat Mater"は煽情的で、聴く者の感傷を強く揺さぶり過ぎる。各声部において独唱及び重唱部の旋律は明快な題意に随伴せず、Belinda Sykesのエスノ・シャントに至るまで、ひたすら響きの美しさを突き詰めたモチーフの連結と反復を繰り返すミニマルなスコアリングに偏重したものだ。そして渇仰する信仰心が荘厳なコヒーレントを描く合唱のダイナミズムが、全楽曲において何よりも先立っている。


テキストは主に英語とラテン語で歌われるが、扱う題材によりギリシャ語、アラム語、ヘブライ語を要所で使い分けている。それらは古くは『ギルガメッシュ叙事詩』、『ルーミー語録』といった考古学上重要な神話・詩文の引用であり、唱法から中東風のパーカッションに至るまで、太古の息吹を感じられる演出上の配慮が為されている。


また、恒例ながらAdiemusを始めとした自作曲の引用も目立つ。導入曲"Cantus Lacrimosus (涙の歌)"は、Adiemusの元曲のタイトルを、そのままラテン語に置き換えた"Cantus: Song of Tears"の再解釈であり、Graham Davisによって韻を整えられている。

"And the Mother Did Weep"もアディエマスの"Amate Adea"を一般手法にリデュースしたものであり、これらが始めから伝統的唱法を想定して書かれたものではないかという邪推を禁じ得ない。カールの頭には宗教曲を書き上げることへの憧憬が一貫してあったのかもしれない。尚、"Ave Vernum"は同郷ウェールズ出身のオペラ歌手Bryn Terfelに作曲したものとある。


Karl Jenkinsのルーツに言及する場合、Soft Machineを経由したジャズロック的バック・グラウンドが第一に挙げられることが多いが、彼はイギリスのRAMにおいて根っからクラシックを学んだオーボエ奏者である。良くクラシックとジャズの対比において、「クラシックは形式的、ジャズは即興的」と言われる。しかし実のところ作曲過程における統語論的意味においては「クラシックは自在的、ジャズは決定論的」と、立場が逆転する。

この両者の対立が、アディエマスにおいては実に巧く折衷されていた。Mike Ratledgeが初期アディエマスにおいて確立したパーカッションワークは、実はジャズにおけるハイハットシンバルの息づかいにそのまま置き換えられることに鮮やかな感動を覚えたものだ。無論この"Stabat Mater"においても同様である。


ところで、純正オーケストラにエスノシャントを絡める"Incantation"の書法は"Vocalise"から顕著となったが、これは90年代既にJonathan Eliasが独自に完成しており、ここでも非常に酷似して聴こえる。もっと遡れば4ADに好まれた音色に大きく被る所があるのだが、それが意図的な追随なのか否かは判断しかねる。

アルバムを壮大に締めくくる"Paradisi Gloria"にしても、Philip Glassの交響曲第五番に似た強いデジャヴュを覚えてしまう。彼の作風は、ここ数年のコンテンポラリーミュージックの趨向からそれほど外れたものではないのかもしれない。


しかし近現代音楽のクリティシズムに照らしても、Karl Jenkinsの方法論には異質と認めざるを得ない味がある。それは明らかに前衛手法、あるいは古典的書法を目指す定方向のトランジションを逸しており、うんざりするほど使い古され、耳に染み込んだ消費音楽の陳腐さも、そうとは切り捨て難いほどの芸術性豊かな純正律の響きも兼ね備えた渾然たる、「魂の琴線」を弾く音に他ならない。だからこそ、Karl Jenkinsの"Stabat Mater"は、模範芸術としての面では受容されなくとも、間違いなく多くの現代人の胸を震わせること出来、そこに存在意義があるのだ。




□ Miriam Stockley / "Eternal"

Fantasy - Sicut Cervus

Adiemusの立ち上げに大きく関わった『分身』ミリアム・ストックリーの、昨年リリースされたソロアルバムから。実に神聖な雰囲気の曲だが、彼女のスタンスはスタジオ・レコーディングを主としたヴォーカル作品に傾倒している。(Adiemusのカヴァーも収録)

この曲に限ったことではないが、一聴したぐらいでは彼女の曲とアディエマスの作風との明確な違いがわからないという方も多いかもしれない。しかし両者は、表現法として蓄積された既知のバンクから「宗教的雰囲気」を技巧的に抽出するか、あるいは自作のカラーの上に露呈するかの点において決定的な差異がある。前者はミリアムで、後者がアディエマスだ。




□ あとがき

アディエマスは個人的にも思い入れのとっても強い音楽なんですよね。出会いは高校生の頃に見た科学ドキュメンタリーに使用された"Zarabanda"でしたが、最初に買ったCDは"Cantata Mundi"なので、「アディエマス」だと始めに意識して腰を据えて聴いたのは"Song of Tears"だということになります。だから"Stabat Mater"の導入には心が打ち震えるほどの感動を覚えました。


[加筆版] 選択という行為によって損なわれる「心の中の資源」とは何か?

2008-04-22 23:45:30 | 日記・エッセイ・コラム
□ 『人は選択肢が多いほど疲れることが判明
 ? だからネタ探しは重労働。能動的なネットが受動的なテレビに勝てないのもこのため? 』

>> http://rate.livedoor.biz/archives/50620004.html 
(「なんでも評点」 様)

※ソースを読まれていることを前提に進めます。

「選択(に至るまでの意思決定)は心の中の貴重な資源を消耗させる・・・」

私はこの手の統計実験の信憑性については懐疑的なのですが、ここでヴォース教授の言葉として引用されている「情報の選択」によって損なわれる「心の中の貴重な資源」とは一体何なのか、強く疑問に感じました。それは間違いなく表現上のすれ違いに過ぎないのだろうけども。


「選択行為」に負荷があるかどうか。これが検証対象の為に要素化されていますが、かいつまんで言うと、これは脳の活動負荷による疲弊ですよね。「頭を使うと疲労する。」のは、脳内物質の消費云々を解説する前に自明なことだと思われますが、では人間はどんな状態を「疲弊」と捉えるのかと踏み込んで考えてみると、この記事の根幹を暈している違和感の靄を払うことが出来そうです。


件の実験において証明が試みられたことは、単に「脳を使うと疲弊する」ということではありません。「私が選んだ/選ばざるを得なかった」という意識を脳にフォーマットすることで振る舞いに与える影響の解釈とも捉えられ、これは遠回しに「情報の取捨選択」という行為が如何に生活にとって負荷のかかる行為なのか、そしてそれが顕在化する程度を計ろうとしたのだと展望できます。インターフェース開発の見地からも、時代の要求に応えられる視点を擁するでしょう。

上記サイト様の言う「選択肢が多いほど疲れることが判明」というタイトルでは、実験の真意が言外に隠れてしまっていますが、その点について後述しフォローしている節もありません。「ネタ探しは疲れる」という、実験前の普遍的な「実感」に帰納するのみに留まっていますが、これは論者の評点が、最初から実験意義とは離れた所(寧ろ検証されたことに対して動機を遡っているだけ)にあるということに過ぎませんので、私がとやかく言うことではありません。


では、「選択で失われる心の資源」って?
人の世界観で「疲弊している状態」とは、一定の行動基準(その時々の)に要するエネルギーが消耗しているということ。さらに言えば、その基準が外部環境、及び他者と相対性を成す為に、「私(彼)は疲弊している」と評価することが出来るのです。情報の選択肢が多いほど、抽出にエネルギーを注ぐのは自明なことと思われますが、それは「選択」の動機や期待される結果の違いによっても大きく左右されるでしょう。 つまり此処で言う「心の資源」とは、人の行動規範を実現する余地を与える一定のポテンシャルの言い換えです。

あちらのテーマとなっているネットとテレビの比較については別の複雑な問題になるので触れませんが、(受動的な情報獲得手段として、テレビを必要としている?)どちらにしろ「情報を得る手順」において「消耗」が起こるのは普遍です。


例えば単純に「長い文章を書く」だけでも疲弊は起こります。「文章の題材」の選択が、書き手にどれだけの大きさの意味を持つか。その評価の為に脳はきっと大きく働き、疲労するのかもしれません。人生は無限の選択の連続です。無意識にカットする選択と意識的に行う選択によっても及ぼす影響は異なるでしょう。しかもそれは何らかのスパンで初期化、あるいは蓄積するスケールが階層化している可能性もある。「考え事をする=脳が働くことで疲労が生じるメカニズム」と「それはいつどのように回復するのか」については、また別次元での理論展開を必要とするでしょう。


[追記]

以上の論考は、「選択は疲弊を招く」という実験評価を前提として受け入れたものですが、私なりにもう一つ仮説をたてると、「選択肢から決定した」という意識が、関連する挙動に汎化するプロセス、つまり、決定項に係る行動について「やる気」の出力が制御される可能性も示唆されていると考えます。物理的精神的に「エネルギーを消耗しているわけではない」。この場合、人が疲弊を見せるのは「選択に至るまでの意思決定」が要因ではなく、その逆。「ある条件に支配された意思決定を行ったから」であるかもしれないのです。


[追記]Gewinne ein exklusives Album Listening bei Enigma auf Ibiza.

2008-04-20 20:46:57 | Enigma
Eap


□ Enigma / "A Posteriori" スタジオ・リスニング

>> http://newsletter.emimusic.com/res/prod/survey/SVY297.jsp?

Enigmaに関するアンケートに答えた方に
抽選で「イビサのスタジオでアルバムを聴こう」
という特典が当たるそうです。

スタジオまで行ったら演奏を聴きたいのですが(笑)



□ Coming Soon!

Euph088cd_2

□ Mirco de Govia / "Iconic Path"

Release Date; 25/04/2008

>> http://www.shop.euphonic.de/



□ お知らせ

ブログのエントリー予定記事が堪りまくって髪が抜け落ちそうです。
レビューしたいCDだけでも、既に10枚以上待機中。(書きかけ含む)
今後直近で手元に届くアルバムがさらに5枚。
昨年購入した分についてはもう放棄せざるを得ない状況に。。
買ったもの全てをレビューする方針ではありませんが(大体3分の1程度)
一つ一つの記事について、もうちょっと力を抜こうか検討中です。
手抜きして髪抜けず。



Lightspeed.

2008-04-20 20:08:11 | Science
150億光年。

この果てしない宇宙は、どの地点からも等しい広さをとる。
それは宇宙を「存在たらしめる由縁」量子の形成する
「場の波及」状態に他ならないから。

単一の光子が宇宙の果てに辿り着くのは150億年後。
そこはもはや辺縁ではなく470億光年より彼方へ霞んでいる。
しかし何処まで行っても「光子それ自体」の体感する時間は0。
つまり光は此処に在り、同時に何処にでも存在する。

一部であり全体たる環。


光とは、電子や量子の運動から発生する
電磁波の一領域であり、「そのもの」である。
何かが存在するだけで波及する影響の波。
光速は存在間の物理的影響を結ぶ情報連結性の制限だが、
存在自身の時空は全ての点において完結したものだ。


それに等しく、
人の「想い」「記憶」は忘却されるのではなく「過る」のだ。
そして「自分と他者」の狭間には、
「過去と未来」ほどの隔たりがある。

彼、彼女の意識の存在を証せないように
外側に顕現される振る舞いが、
自分の心に落とす影を眺めるだけ。

誰かの心に、あるがまま触れることは叶わない。
犇めく星空に塵を掴むように。
風に流れる雲へ手を翳すように。
私たちはかつて一緒にあり、そして離れてしまった。
150億年たっても、もう近づけない。


変わることは強さであり弱さだった。
失くしたピースを探しても、
パズルはもはや欠けていない。


だから光よ
この声がもし届くなら
憶えていて
そこに辿り着いたら還りたい
あの環の中へ もう一度。




カオス理論の偉大なる提唱者、E.Lorenz氏の逝去に捧げる

http://web.mit.edu/newsoffice/2008/obit-lorenz-0416.html

誰かの運命を変えられるなら、それは変えられないのと同じ。

論理空間と同相にある宇宙では
何者かが成し得ることは 
宇宙のとりうる必然の形となる。
潤うべきかな
人には「人」であること以上のものが
託されている。

Rest in Peace.


Veljo Tormis / "Litany to Thunder"

2008-04-09 08:19:55 | art music
Ltt2_2


□ Veljo Tormis / "Litany to Thunder"

Kust tennen kodu
Laivassa Iauletaan

Release Year; 1999
Label; ECM
Cat.No.; ECM 1687
Format: 1xCD


>> tracklisting.

01. Kust tennen kodu (How Can I Recognize My Home)
02. Laivassa Iauletaan (Singing Aboard Ship)
03. Raua needmine (Curse Upon Iron)
04. Lauliku lapsepõli (The Singer's Childhood)
05. Muistse mere laulud (Songs Of The Ancient Sea)
06. Piispa ja pakana (The Bishop And The Pagan)
07. Pikse litaania (Litany To Thunder)
08. Haned kadunud (The Lost Geese)


Estonian Philharmonic Chamber Choir
Tõnu Kaljuste



?娘さんにお嬢さん
往きましょう 夜の幌が降りる前に
北から夜がやってくる前に
淡く照らす光の方へ 暁のいでる方へ
我が家は遠い 遠い遠い遙か


6つの枯れ川
7つの沼地
8つの魚の海と
9つの綺麗な小川の向こう
10回の凍えた春がやってきた


そろそろ帰途につきましょう
発つ頃合いが来たのです
我が家への帰路 それぞれのお家へ
我が家は何処 我が家は何処に


    -Runo-song adapted by Jaan Kaplinski


絵画と劇、音楽の狭間には、それぞれ視覚、聴覚を通して鑑賞者に働く時間軸が違うと言うこと以上に、発現の本質を異とする境界線がある。

絵画においては画家の描いた「作品それ自体」が一次媒介的に、(一定量の構成要素が損なわれない限り)鑑賞者に恒久的に情報を投影し続けるのに対し、記憶や記譜に依存した音楽は、「演奏者」という二次媒介過程においてエネルギーを注がれ芸術として発露する。しかし現代ではメディアでの記録というプロセスを経て、「絵画と鑑賞者」に極めて近い関係性が、半ば無自覚とはいえ、音楽においても為されていると言えよう。


ここにトルミスが採譜し、編曲を施した故郷エストニアの古き伝承歌に唄われた物語は、その再演が行われる度に、あるいは我々がCDを再生する毎に、終わらない時の円環に閉ざされた、反復性のあるパラメトリックな記憶の結晶を永遠に励起させる。童謡の子供達は、あの歌の中でいつまでも家を目指して果てしなく歩き続けるのである。(歌の最後では辿りつけるのだが)

この場合のパラメータ(母集団)、つまり芸術性の規定要素は、聴く者の原体験をも含意する。それはエストニアに限らず、多くの民謡が「郷土に生きる」それぞれの人々の生活とは不可分なツールとしての役割を担っているのに対し、トルミスはそれが聴く者の感情に働きかける機微を追求し、芸術に昇華した。何が出来上がったのかというと、誰もが遠い記憶の末梢に埋もれさせた不条理で、しかし切実な想いに突き動かされる共時性の体現である。


子供に道を教えるために伝わったという"Kust tennen kodu(我が家を知るには)"と"Haned kadunud(迷子のガチョウ)"では、エストニア唱歌における"Runo-song(ルノーの歌)"という伝統様式が取られている。

特徴的な音韻に関連付けられた8つの音節から成るユニットをベースに、延々と周期的に繰り返されるミニマルな展開を見せる。それぞれの韻文はメタファーや換喩を用いて意味並行的に結ばれている。『迷子のガチョウ』では、透き通る清水を鏡の如く湛えたコーラスが、徐々にピアノに追い立てられ波打つ様に、何処か身の毛がよだつ寒気を禁じ得ない。


現代声楽曲としてトルミスが成し得た仕事の大きな特徴は、そのテーマに比してあまりにも先鋭的な意匠を窺わせる音響的な処理にある。表題曲"Litany to Thunder(雷鳴への連祷)"では、天上に向かって祈りを叫ぶ幾層もの声が、あたかもフィルターを通して電子加工されたかのような、距離感を演出したコーラスの応酬が聴かれる。

一方で古典懐古的な"Song of the Ancient Sea(太古の海の歌)"では、ルネサンス的とも言える海鳥を模したオノマトペが、"The Bishop and the Pagan(司祭と異教徒)"ではグレゴリオ聖歌の導入から、やがて異教的な音色が渾然一体となっていくダイナミズムを、"Curse Upon Iron(鉄を呪え)"においては凄惨なまでの描写から平和への渇望を、Carl Orff的な劇音楽の前衛手法に転化し、シャーマニック・ドラム(呪術的意味合いで雷鳴を模し、雨乞いとなる)を配することで、プリミティヴで普遍的な響きを以て激情に訴えかける。


これら難解な技法を、驚く程の純度で再現した名門Estonian Philharmonic Chamber Choir。そしてその創設者であり、今や世界最高峰の合唱指揮者としての名声を戴いたカリユステの意匠は、正にこのECM盤を以て決定版と評するに相応しい。当時のアイヒャーの確かな審美眼が息衝いている。因に、現在のEPCCのチーフ・コンダクターはPaul Hillier(2008年9月からはDaniel Reussに後任)だが、近年は専ら古楽最大手レーベルであるHarmonia Mundiからの音源発表が目立つ。EPCCがバルト海地方の合唱曲の発展と集約に貢献する傍ら、意外にもECMとHillierは、The Hilliard Ensembleを立ち上げた1993年以降袂を分かっているようである。


また、ジャケットやスリーブアートを担当したBassiest、というより寧ろPhotographerとして有名なTõnu Tormisの写真も素晴らしい。海の彼方に閃く雷光や、雪に晒され罅割れた道路、森の野原に散らされた木片、懐かしくも寂しい何処にでもあるモノトーンの写真は、国境を越えて人々の胸を打つ原風景を映し出している。ECMのコンセプトアートに沿ったものだが、ともすれば芸術性の含意を押し付け気味な他作品に比べ、突き放したような寒々しさと普遍性が感じられる味気の無さが逆に功を奏している。


'Emotion genes' make mice squeal during sex.

2008-04-04 04:24:31 | music6
□ ムスカリン受容体と『感情遺伝子』がSEX時における雄の嬌声要因となる。

>> www.newscientist.com

When a male mouse is about to have sex with a female, he lets out ultrasonic squeals of delight.The vocalisations are controlled by a gene that is also involved in the production of the brain chemicals that mediate emotions, in mice as well as men. This leads psychologists to conclude that mice squeak when they're in good mood.

So Haoran Wang at the University of Toronto, Canada, and his colleagues performed five separate experiments designed to elicit the calls in both wild type and knockout mice.


When Wang's team looked at mice lacking various receptors, such as the M2 and M5 muscarinic receptors, which are involved in emotional expression, the males no longer produced the vocalisations.

08:00 03 April 2008
NewScientist.com news service
Alison Motluk

センセーショナルで面白い記事を見つけたので抜粋(笑)
求愛、または交尾中のマウスの雄は、人間の不可聴域(25-120kHz)で『さえずる』のですが、アンフェタミンを与えて雌に発生させた誘因物質は、M2、及びM5ムスカリン受容体(人の生理作用を司る副交感神経を制御する)の閉じたマウスには働かず、また、交配中にも一段と活性化するはずの「歌声」が発生しなかった。

つまり、ムスカリン受容体遺伝子がSEXにおいて感情の機微の発露に大きく関わっているという推測が成り立ち、人間の性交渉にも少なからず関連する可能性を示唆します。「交配行動に関して、これまでで最も踏み込んだ研究成果だ」との評価も。雌のマウスは交配中ではなく、群れに戻されて数時間後に『雄と同様の』交配時特有の鳴き声を発生させたといい、このことから雄と雌の情動の作用機序が根本的に異なることの裏付けとなりそうです。



□ clip.

環境適合型建物:低エネルギー消費型未来社会の設計
Architecture: Architects of a low-energy future pp520 - 523
Low- and zero-energy buildings could have a huge impact on energy
use and carbon emissions. We have the technologies, but if they are
to mitigate climate change, green-building design must hit the mass
market, says Declan Butler.

Declan Butler
doi:10.1038/452520a
http://ml.emailalert.jp/c/ab8zadshq1tMbfa7


太陽系外惑星:粗い周波数の「くし」でくまなく探す  
Extrasolar planets: With a coarse-tooth comb pp538 - 539
The search for Earth-like planets outside our Solar System is bedevilled
by the lack of an adequate frequency standard for calibrating starlight.
Tweaking existing laser 'frequency combs' could be a way forward.
Gordon Walker
doi:10.1038/452538a
Standfirst: http://ml.emailalert.jp/c/ab8zadshq1tMbfaL
Article: http://ml.emailalert.jp/c/ab8zadshq1tMbfaM


9種類のバイオームに関するメタゲノムの機能的プロファイル解析
Functional metagenomic profiling of nine biomes p629
Elizabeth A. Dinsdale et al.
doi:10.1038/nature06810
Abstract: http://ml.emailalert.jp/c/ab8zadshq1tMbfby
Article: http://ml.emailalert.jp/c/ab8zadshq1tMbfbz




□ Music News.

Myam

□ Kettel / "Myam James Part.1"

>> http://microsites.sendingorbs.com/so009/
>> http://www.sendingorbs.com/content/artists/kettel/myamjamespart1

Release date: 15 Apr 2008
Label: Sending Orbs
Catalog Number: SO 009
Album type: CD

今後短期間の内にシリーズとしてリリースが連発されるという、Kettelの純エレクトロニカ・プロジェクト"Myam James"の第一弾が4月15日にリリース。純粋なのにシュールな音像世界とジャケットのセンスが好きです。魚人がかわいい。。Part 2は三ヶ月後のリリースを予定。Secedeのリミックスが耳を惹かれます。