DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

谷川俊太郎(1931-)「絵」『二十億光年の孤独』(1952年、21歳) 

2016-10-16 17:49:57 | 日記
 絵
わたれぬような河のむこうに
のぼれぬような山があった

山のむこうは海のような
海のむこうは街のような

雲はくらく―――
空想が罪だろうか

白いがくぶちの中に
そんな絵がある

《感想1》
(1)「罪」深いと言われる「空想」を、この詩人は選んだ。
①「河」と「山」は、よく見える。その向こうの「海」、さらに遠くの「街」は、芒洋。
①-2「河」は、わたれない。「山」は、のぼれない。「海」、「街」は存在さえ不明。
①-3「雲」はくらい。
①-4 「絵」に描かれた風景は、「空想」である。
② 「空想」は、当時「罪」であり、無価値とされた。
②-2 時代は、戦後の混乱期。1949年ドッジ不況。1950年朝鮮戦争。1952年、米国の日本占領終了と日米安保条約締結。
③「罪」深い「空想」を描いた「絵」について、詩は歌う。
③-2 「白いがくぶちの中に/そんな絵がある」。
④ この詩人は、しかし「空想」を選ぶ。
④-2 参考:「戦争という悲惨な共通の体験も、戦後革命の理想も、それらはあたかも他人ごとでしかないかのような表情をもってこの谷川俊太郎が出現したとき、第一次戦後派の時代は終ったのである。」(河野仁昭『詩のある日々――京都』1988年)

《感想2》
(2)存在する《他我》に事実的に制約された「空想」
⑤詩人は、何を「空想」するのか?
⑤-2「空想」とはいえ、詩人は、詩を誰かに読ませる。“すぐれた詩”と評価されるのを期待する。この誰か、すなわち《他我》は、「空想」的存在でない。
⑤-3 読む《他我》を想定する限り、この詩人の「空想」は、《他我》に事実的に制約される。
⑤-4《他我》が“すぐれた詩”と評価する限りでの「空想」的詩を、この詩人は「空想」する。

《感想3》
(3)「空想」的詩も、言葉に制約される
⑥「空想」的詩も、言葉を使用する。「空想」は言葉に制約される。
⑥-2 言葉は、ただの音・形(文字)。しかし、それは“印”であり、世界の諸々の情景の一定の“重なり”を指示し、あるいは想起させる。
⑥-2 言葉はすでに作られており、人は言葉の中に生まれてくる。、世界は、言葉によって秩序化されている。
⑥-3 言葉あるいは言葉の組み合わせのもとで、何が想起されるべきか、人は生れて以後、訓練され教え込まれる。

《感想4》
(4)物体を現出させる触覚;《自》の起源としての欲望(自発性);自他の相互転換が起こる物体としての身体
⑨ところで、私において世界が現出する。私は、世界そのもの、宇宙そのもの。すなわち私は《モナド》である。
⑨-2 世界が、つねに現出している。
⑨-3 世界の現出において、触覚という出来事が、卓越する。触覚(痛覚を含む)は、物体を現出させる。
⑨-4 欲望(自発性)も世界の構成要素である。欲望が《自》である。欲望により操作可能な範囲が身体であり、欲望をさえぎるものが《他》なる物体である。身体は物体でない。自他の相互転換が起こる物体が身体である。
⑨-5 物体を現出させる触覚という出来事、また《自》の起源の欲望(自発性)が、身体を現出させる。
⑨-6 世界は、《ここ》中心に現れる。(さらに《今》中心に現れる。)世界現出の中心に、いつも《ここ》身体がある。
⑩ 《他我》は、他なる物体でない。《他我》は、他なる《モナド》である。すなわち、そこには、他なる《自》すなわち欲望(自発性)が備わり、他なる触覚という出来事が生じ、他なる身体が現出する。

(4)-2 「日常現実」による「空想」の制約:(1)触覚が現出させる《物体》、および欲望と化合して現出する《自》身体による「空想」の制約。(2)他なる《モナド》すなわち《他我》による「空想」の制約
⑪(1)触覚が現出させる《物体》、および欲望と化合して現出する《自》身体が、「空想」を制約する。(2)さらに触覚が現出させる物体は、他なる身体を介して他なる《モナド》すなわち《他我》を現出させ、「空想」を制約する。
⑪-2 かくて「空想」は、物体を含む《日常現実》(A. シュッツ)によって、制約される。
⑪-3「空想」は、さらに一切の「虚構」は、意図的に《日常現実》と切り離されてのみ、「空想」となりうる。「空想」は、意図的《疑似現実》である。

(4)-3「夢」「妄想」「白昼夢」
⑫「夢」「妄想」「白昼夢」は、非意図的に《日常現実》と切り離され、それと一貫性を形成しないので、非意図的自生的《疑似現実》である。

《感想5》
(5)自らの欲望(自発性)に対する共感者を求める詩人or普遍的《他我》の評価を問題にする詩人
⑬「空想」は、「夢」「妄想」「白昼夢」と異なり、意図的である。詩人は何を「空想」したいのか?
⑬-2 彼の「空想」は定義上、意図的であるから、《自》の起源である欲望(自発性)に基づく。
⑬-3 そして(ア)“すぐれた詩”との評価を期待するなら、「空想」は、《他我》に制約される。(イ)また「空想」は、当然、すでにある《言葉》に制約される。(ウ)「空想」は、《日常現実》からの意図的切り離しだが、彼の身体、物体(物理的世界)、《他我》が《日常現実》に属すことに変化はないから、当然、《日常現実》に制約される。
⑬-4 (ア)《他我》の評価、(イ)《言葉》、(ウ)《日常現実》(身体、物体、他我)の制約のもとで、この詩人の「空想」は、意図的に、すなわち《自》の起源である欲望(自発性)にもとづき、展開する。
⑬-5 この詩人が何を「空想」するかは、彼の欲望(自発性)が決める。
⑬-6 そしてこの詩人が、すぐれた詩”との評価を期待するなら、彼の欲望(自発性)に対する共感者の存否が重要である。
⑬-7 この詩人が《他我》の評価を問題にしないなら、つまり誰からも不評でも、無視されてもよいなら、彼は変人となる。
⑬-8 ただし公平な評価者、普遍的人間、神的評価者を詩人が想定するなら、彼は孤独な詩人でなく、《他我》(ただし普遍的《他我》)の評価を問題にする詩人である。

 A PICTURE
Beyond a river that seems to be impossible to be crossed over, there is a mountain that seems to be impossible to be climbed up.
Beyond the mountain, there seems to be a sea.
Beyond the sea, there seems to be a town.
The sky is dark・・・・
Is it true that imagination is sin?
Inside a white frame, there is such a picture.
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