にっぽんの文化的アイデンティティを発掘、発見、発信する会 ( JICP )

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第51回JICP会合(9/27)講演会「小泉八雲にみる日本の心 ーオープン・マインドの航跡を辿るー 小泉凡氏」議事録

2017-01-02 17:41:36 | Weblog

議事録
第51回JICP会合 講演会「小泉八雲にみる日本の心 ーオープン・マインドの航跡を辿るー 小泉凡氏」

2016年7月16日に島根県松江市の小泉八雲記念館はリニューアルオープンいたしました。
それに伴いまして、最近は様々なメディアで小泉八雲の作品やその功績について耳にする機会が増えたような気がいたします。
そんな中、小泉八雲記念館館長でもあり八雲直系のひ孫にあたる小泉凡氏をお招きする運びとなりました。
講演会では一時間半という限られた時間にも関わらずとても充実した内容でお話しいただき、小泉八雲の生涯と現代に生かす精神性についてのエピソードはまだまだ尽きない!という様子の熱い語りでした。その全容の記録をアップいたします。 どうぞ、ご堪能ください。

*   *   *

日時:2016年9月27日(火)19:00〜20:30
会場:大阪府江之子島芸術文化創造センター2階 ルーム8
参加者:33名
講師:小泉凡氏(島根県立大学短期大学部教授・小泉八雲記念館館長・焼津小泉八雲記念館名誉館長)



あいさつ・JICP代表 奥村恵美子
2016年7月16日小泉八雲記念館(島根県松江市)がリニューアルオープンいたしました。このオープンセレモニーに寄せていただく機会がありました。このご縁というのがNY在住の美術作家・野田正明さんが「オープン・マインド・オブ・ラフカディオ・ハーン」という作品を宍道湖畔に飾られ、私が今彼の映像を撮っている関係で招待いただきセレモニーに参加いたしました。

その時のパーティーではいろんな人が集まっていて、ここで感じたのは小泉八雲は亡くなっているのに八雲の精神性というのはずっと皆の中に住んでいると思いました。その記念館の中の功績を見たり、あるいはお話を聞いたり、凡さんのご挨拶を聞いたりしていると私どものJICPの活動とあい共通するものがあると、八雲自身が私たち活動のシンボルに近いと感じました。と言いますのも、私どもJICPは2004年にスタートして、それはもともと日本人のアイデンティティというタイトルの映像作品を海外に向けて発信していくにつれて、私たちは日本人だが違いはなんだろうかと映像を見せるうちに感じるようになり、この様な勉強会を開催するに至りました。

明治時代の着物から洋服に変わった時代、でも底流に流れている精神性は変わっていないのではないかと思い、それを置き忘れているか見失っているかをもう一度考えるきっかけとなる勉強会を続けていきたいと思い今日に至ります。とは言っても、あまり難しいことを考えているわけではなくて、「日本っていいよね」と思えるような活動を続けていけたら良いと思っています。

今回は小泉八雲の直系のひ孫小泉凡氏をお招きしお話いただきます。どうぞよろしくお願いします。



あいさつ・小泉凡 氏
こんばんは、松江から参りました小泉凡と申します。今日は大阪の文化発信地のような素晴らしい場所でお話しさせていただきますことを大変嬉しく思っております。ご提案いただきまして「小泉八雲にみる日本の心ーオープン ・マインドの航跡を辿るー」というテーマでお話しさせていただきます。



はじめに
八雲は14年間日本に住んで一生懸命五感で日本の心を観察したと思います。一言で言えば、「オープン・マインド」で観察したのだと思います。小泉八雲に対して「オープン・マインド」という言葉を生み出したのはアートディーラーのタキス・エフスタシウス氏(Takis Efstathious)で、美術作家の野田正明氏の大変親しい友人で、ギリシャとNYを行き来して活動されています。長年ハーンを愛読しており、八雲の精神の根本には「開かれた心」があったのではないかと言うのです。もちろん八雲という人は怒りもあったし、思い入れも激しく、偏屈なところもあり、近くにいると迷惑なおじさんだったかもしれないですが、でも西洋中心主義でもない人間中心主義でもない、だからこそ本質を見ることがある程度できたのではないかと思います。この「オープン・マインド」という言葉自体が大変わかりやすい表現です。平和志向であり、ポジティブな言葉でもあると思いまして私自身も大変共感しました。

それにより、2009年ごろから「オープン・マインド」プロジェクトとして、世界の八雲のゆかりの地を舞台に色々な活動をしています。今日はそういった話をさせていただきながら、21世紀に持続可能な共生社会の方向性へ進んでいくためには「オープン・マインド」が必要なのではないかということを、八雲の視点を通して話していきたいと思います。

八雲と大阪のお話
本題の前に、実は八雲は大阪が大好きでした。そのことは一般にはあまり知られていません。大阪について言及した手紙で、1896年4月に松江の友人の西田千太郎に宛てのものを一つご紹介いたします。

「私は言葉であわらせられないぐらい大阪が気に入りました。京都を除けば、西日本で一番興味深い都市に違いありません。とりわけ良かったのは天王寺です。なんて風変わりで素敵な古いお寺なのでしょうか。東京に1年間家賃無料で住まわせてくれると言われても、私なら大阪で自費で1ヶ月暮らす方を選びます。」

あるいは、淀川とテムズ川を比べて書いてみたり、あるいは大阪人と東京人の違いはニューヨーク人とシカゴ人の違いに例えてみたりしています。そして、伝統文化が東京よりもずっと根付いているとも言っています。こんな一節も残しています。

「日本の大都市に比べると、ほとんど洋服を着た人を見かけない。大阪はほとんど理想に近いまでに日本的なものを残している。広い通りは何本かあるけれど、大体において道幅は狭い。京都の街筋よりも狭いぐらいだ。街を見通して見た眺めとして、この面白い景色も面白い眺めも当時の日本の地でもちょっと他にはない。」(「大阪」)

特に建物としては朝日新聞の社屋が和風建築で明治29年頃は畳がまだあり、これが素晴らしくて感動し日本の良さが残っている街だと感じたようです。


家族について
(略系図をスライドショーしながら)私の祖父が一雄といいます。長男ですが、長男だから一雄の意味ではなく「ラフカディオ」の「カ・ディオ」から響きが似ているので取った。父は時(とき)といいますが、八雲はすごく時を大事にしていたからです。

オープン・マインドのはじまり
「オープン・マインド」の活動のきっかけになったのが、2010年の夏に行った「ハーンの神在月—小泉八雲の会&ミュージアムの未来を考えるサミット」(松江市)というイベントでした。小泉八雲の研究顕彰団体は日本で30ぐらいあり、南は熊本から北は石巻まであります。そういった全ての関連団体に松江に集まってもらいました。従来のような研究発表や検証の集いではなく、八雲の精神性を社会にどうやって生かすかということを話し合いました。特に研究活動、文化活動、教育活動、観光などへの展開についてです。その議論が今思えば新しい八雲の生かし方へ一歩を踏み出すきっかけとなった瞬間でした。

オープン・マインドの言葉の定義
思想家の内田樹氏(うちだ たつる)が『呪いの時代』(新潮文庫、2014年)の中で「オープン・マインド」という言葉の定義をしています。

「のっぺりとした開かれた人格」というものがゴロンと単体で存在するわけではない。そうでなくて、自分の中にある高潔な部分も卑猥な部分も、勇敢な部分も、寛容な部分も狭量な部分も、全て受け入れ、それらを「折り合わせて」、とにもかくにも統一的な人格を維持している人間のことを「オープン・マインド」と呼ぶのだと僕は思います。

八雲もまさに、このようにゆるやかな定義の元に「オープン・マインド」を持っていた人です。もちろんその「オープン・マインド」というのは、地球を半周以上する人生の中で培われたと思います。


八雲の生い立ち
ギリシャ・レフカダの小さな町で生まれて、アイルランドで育ち、イギリス、フランスで教育を受けて、大西洋アメリカに渡って、アメリカのシンシナティ、ニューオリンズへ。さらにカリブ海のマルティニークを経て、39歳の時に日本へ来ました。生まれたレフカダは島根県松江市と風景が似ていました。そのためか宍道湖の風景をこよなく愛しました。

レフカダの八雲の生家の通りは「ラフカディオ・ハーン・ストリート」と名付けられていて、現在は愛好者の方が住んでいます。2歳の時にアイルランドのダブリンへ移ります。父親がアイルランド人の軍医でした。八雲の母親はギリシャ、キシラ島の女性です。駐留している時に現地で知り合い結婚しましたが、やがて帰国することになりダブリンに行くのですが、当然のことながらダブリンとてレフカダやキシラ島とでは気候はサハリンと沖縄ぐらい違い、言葉も違い、宗教もギリシャ正教とカトリックで違うということで、母ローザは病に陥ってしまいます。4歳のハーンを残して母はキシラ島へ帰ってしまいます。以後、孤独な幼年時代が始まります。


幻視体験
当時、アイルランドは独立国ではないので八雲の国籍はイギリスとなります。八雲を引き取ったのは大叔母のサラ・ブレナンという人で、彼女の庇護のもと生活をします。ダブリンではじめに住んだ家は現在ホテルとして残っています。ダブリン・コノリー駅とも近くて便利な場所です。4階が「骨董」、「心」など八雲の作品名になっており、この部屋を指定して宿泊される方もいるようです。大変ありがたいことです。

そして、もう一軒アッパー・リーソン通りの家も残っていて、ここに住んでいる時八雲はしばしばお化けや幻を見ています。一番衝撃的だったのはジェーンという女性ののっぺらぼうを見てしまいます。「ジェーン」と呼びかけると振り向いてくれたが、顔に目も鼻も口もなかった。びっくりして八雲は気絶して階段から転げ落ちてしまいます。その後まもなくジェーンは亡くなるということで強烈な幻視体験をします。その時の体験が『怪談』の「むじな」という話の最後の場面に結びついて活かされていくのです。


ケルトの口承文化との出会い
夏休みにはダブリンを離れてアイルランドの田舎や、イギリスのウェールズに行って過ごしていました。そういう時にケルトの伝統文化に触れ合う機会を持ってそれが八雲の怪談への関心を促したのではいかと思っています。アイルランドはご承知の通り、ケルト民族の国で、彼らはもともと文字を持たなかった民族で、ドルイドという信仰を持っていました。ドルイドとは一説には「かしの木の智恵」といわれ樹木信仰を持っていました。日本と同じようです。

以前、「願い事の木(Wish Tree)」の前をバスで通った際、バスの運転手さんはハンドルから手を離して木に向かって合掌していました。まだそういう国です。90%近くがカトリック教徒ですが、妖精信仰や樹木信仰が根強く残っています。「妖精の木(フェアリー・ツリー)」。フェアリーがまずこの木に宿ると言われています。また、ケルト人が島に入ってくる以前の先住民が作ったストーン・サークルもあります。この下には妖精たちが住んでいるとケルト人たちの想像力でフェアリーリングと呼ばれています。そういう環境で育ったことが八雲の日本文化への関心と理解につながったと思います。


日本の信仰への関心
特に島根県とか鳥取県など山陰地方は荒神信仰が盛んで、集落で祀る荒神のご神体はご神木です。巨大な日本一のスダジイの木(しいの木)が松江市の志多備神社にあり、水木しげる氏もここは大好きでした。樹齢600年とか言われていまして、これは村の水利、農業、安寧を司るオールマイティーの神様です。しめ縄を11月の終わりに付け替えます。当時は荒神の根元には人形が置いてあり、八雲はそれを見て日本人は人形を捨てずに荒神さんへ持って行って再生を祈願するということは素晴らしいと感じます。ユーラシア大陸の東と西の極みに似たようなキリスト教以前の文化が残っているという点にも八雲は関心を持ったのではないかと思います。

ウィリアム・バトラー・イェイツと八雲
アイルランドの20世紀を代表するノーベル文学賞を受賞した有名な詩人、ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats、1865-1939)は、八雲より15歳若くおそらく日本で最初にイェイツを紹介した一人が八雲だと言われています。イェイツは妖精の伝承を集めていました。『ケルトの薄明(The Celtic Twilight)』という本を書いて、それがのちに柳田國男が『遠野物語』を書くにあたって、大きな影響を与えるのですが、八雲はこのイェイツの活動に大変関心を持って素晴らしいと評価していました。

彼への手紙が15年ぐらい前にイギリスで見つかったのですが、これが出てきたときはとても嬉しかったです。家族のものにもアイルランドを好きだと一度も言わなかった八雲が唯一そういうことを告白している手紙でした。

「しかし45年前、私はやんちゃな、憎らしい少年だった。ダブリンのアッパー・リーソン通りに住んでいて、コナハド出身(コナハドとはアイルランド西部のケルト文化が最も濃厚に残っている地域)の乳母がいて彼女が妖精譚や怪談を語ってくれた。だから私はアイルランドの事物を愛すべきだし、また実際愛している」

このような手紙が見つかったことは驚きでした。やはり八雲にはアイルランドのケルト的な伝統文化に親しんでいたのです。だから元々日本に馴染みやすい、親しみやすい素地を持っていたということが言えます。


幼少期の体験
ではそういったアイルランドの伝統文化を伝えたのは誰かというとコノハド出身の乳母でした。敬虔なカトリック教徒の大叔母サラは、フェアリーという言葉をも否定する人物でした。この乳母の手記がつい数年前にアメリカのヴァージニア大学で見つかりました。乳母の名はキャサリンでした。背が高かったとか、髪が黒かったとか、手紙はそういった内容が書かれたものでした。キャサリン・コステロという名でラテン系の感じがあります。おそらく元はイタリアから13世紀ぐらいにアイルランドの西部に入ってきた一族だと思われます。

やがて、八雲は13歳の時全寮制の神学校へ大叔母の意思で行かされ、ここでキリスト教に疑問を持ち始めます。尚且つ、左目を失明という人生を大きく左右するような出来事が起こります。そして、追い討ちをかけるように養育者の大叔母が破産し、学校を退学せざるを得なくなりました。ここから路頭に迷う生活が始まり、しばらくロンドンでフラフラとしたあと新天地を目指してアメリカへ渡るしかなくなります。


アメリカ
NYに到着した時の乗船名簿が3年ぐらい前に見つかりました。「パトリック・ハーン、19歳、男性、無職、ギリシャ」と記載。本名は「パトリック・ラフカディオ・ハーン」なのですが、パトリックはアイルランドの守護聖人の名前で、いかにもこれを見ると、アイリッシュだけどもギリシャ人だと示したい気持ちがあったことがわかります。

2014年にレフカダ島で「オープン・マインド」についてシンポジウムを開いた時、八雲のアイデンティティとはどこにも帰属しない世界市民みたいな人だったのではなかったのかという意見が結構あったのですが、だからこそオープン・マインドで偏りのない見方ができたのではないか。よく言えばそういう解釈もできるのではないかと思います。

そして、NYからシンシナティに移ります。そこで、ホームレスを経てなんとかワトキンという印刷屋さんと出会い、裁断した紙の上に寝ていいと言われ、雨風がしのげるようになります。そこから、もともと本が好きだったので公立図書館に通って本を読み原稿を書きためて、自分で新聞社に持ち込んで認められるようになり新聞記者となります。

このころは殺人事件ばかりを追いかけていました。この当時の記事を一番日本で集めている方は、この会場の近く西長堀におられた檜山さんという方ですが、もうすでに亡くなられています。エムシー・インターナショナルという会社を経営されていて、その二階に八雲の新聞が山ほどありました。

やがて、シンシナティでマティー・フォリーという混血女性と出会います。二人は結婚するのですが当時のオハイオ州の法律では白人と有色人種の結婚が認められていなかったため、それが法律に抵触しせっかく得た新聞記者の仕事を失います。二人の関係も三年余りで破談します。しかし、彼女から聞いた怪談話は彼の初期の作品に大きな影響を与えます。再び一人になり、もっと文化の混じり合っているミシシッピー川の河口にあるニューオリンズへ移り住みます。現在、八雲を介してニューオリンズと松江市は友好都市になっています。

ニューオリンズでも新聞記者になるのですが、ここにいた時の1884年にニューオリンズ万国博覧会で八雲は日本に初めて出会います。その時に日本からの工芸品、民芸品を初めて見て日本に関心を持ちました。また、ニューオリンズにも家が二軒残っていまして、どちらの家もありがたいことに八雲の愛読者の方が大事に守ってくださっています。

八雲はここでも様々な新聞記事を書いています。同時に、徐々に民俗学者や作家としての活動もしていき、ことわざ辞典、料理のレシピ集も作ります。これが世界初のレシピ集で今でもニューオリンズではバイブルみたいな扱いを受けている本です。八雲はこの町でアフリカ、ヨーロッパ、先住民の文化が混淆したクレオール文化に魅かれて行きます。当時は純潔こそいいという価値観が支配的でしたが、八雲はそうではなくて、文化と接触して、融合することによってまた新しい文化が創造され、むしろ人間は混結することで豊かになるという。そういう新しい価値観を持った珍しい人でした。それが今、この地域での再評価につながっているのではないかと思っています。

さらに、ニューオリンズだけでは飽き足らず、同じフランス領のカリブ海のマルティニークという島へ行きます。ここで二年間、人類学者の生活をしまして、ニューヨークで買った106ドルのカメラを持ってばちばちと撮っています。八雲自身が撮った写真が東京の我が家で鳩サブレの缶の中から50枚ほど見つかりました。生活風景の写真が中心です。


日本行きの決断
NYに一度戻って、ここから日本行きを決意します。その一番の決断のポイントになったのは『古事記』の英訳を読んだことです。『古事記』はすでに1882年にバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain、1850-1935)という語学の天才によって訳されています。のちにチェンバレンと八雲は親友になります。また同時にライバルにもなります。

『古事記』が面白いのは、本の扉にマップがついています。一番上には「出雲神話群」と書いてあります。じっさい、『古事記』上巻の三分の一は出雲神話です。八雲はNYで「出雲」という言葉を知るわけです。それで、ここに行けばきっと日本の文化の古層が見られるに違いないと感じます。

そして、企画書を自分で雑誌社に持ち込んで日本行きが決まるわけです。日本に着いてから『古事記』を買い直し、それを書き込みながら読んでいきます。特に出雲神話の部分は精読していまして、このページは鉛筆の書き込みがいっぱいあります。「天穂日命(アメノホイノミコト)」をご存知でしょうか。出雲国造(こくそう)の初代です。現在の出雲大社宮司は84代目の千家尊祐(たかまさ)氏です。その初代についての記述の注のさらに欄外にかなり踏み込んだ内部事情まで把握した書き込みがあり出雲神話への造詣の深さがわかります。

偶然にも松江で英語を教えられることになったので、ここで出雲神話が生かされます。八雲が松江で職を得た経緯より、人との出会いは大切だと思わされます。ニューオリンズ万国博覧会で日本館の代表で来ていた服部一三(文部省普通学務局長、1851-1929)が外国人講師を地方に派遣する責任者でした。服部氏がハーンを知っていて、なんとかしてやらねばということで、はじめ大分への赴任が決まりかけたのですが、島根県の前任タートル氏の評判が悪く解雇されたため、そちらの方が急ぐことになり急きょ松江へ行かされることになります。それはおそらくハーンにとって幸せなことでした。後から考えれば、松江にとっても観光、文化創造活動に生かせられるという点でよかったのです。そういう偶然が重なった松江行きでした。

八雲は松江に残る日本人の民衆の生活、伝統文化を五感で観察します。ただ古いものが残っているだけでなく、松江は牛乳配達があるという珍しい日本海岸の土地でした。これがなかったら八雲は体力、健康が維持できなかったかもしれません。西洋料理も食べられ、ビールもワインも売っていました。


松江での1年3ヶ月
この1年3ヶ月の松江での生活を本にしたのが、『知られぬ日本の面影』です。これがベストセラーになり、初版だけで26刷り。今でも山陰地方の旅行ガイドブックの役割を果たしています。そして、山陰地方に行って、八雲の頭の中は古代ギリシャを思い出したり、ギリシャ神話と出雲神話の類似点を感じたり、あるいは鳥取県に旅行にした時に、子供の頃聞いたケルトの子守唄を出雲の女性が歌う、そういう不思議な夢も見ました。ケルトと出雲が響き合うのです。ケルト民族も輪廻転生、霊魂不滅の思考を持っていて、ケルト十字の円環もそういう意味があるのではないかと言われています。日本に来て山陰地方でこの伝統文化を見ることで、おそらく再び古代ギリシャや古代アイルランド(ケルト文化)に関心が向かうのです。

熊本、神戸、東京へ
寒さが1番の原因で1891年に熊本へ移りますが、残念ながら近代化、西洋化、軍国主義という日本のもう一つの顔を見ます。こういう日本もあるのだと初めて気づき、逆に言えば日本が客観的に冷静に見られるようになります。松江で出会った女性小泉セツと生活を共にするようになり、1894年には神戸に移り約1年9ヶ月住み、この時に正式に結婚します。入夫婚姻という形式で日本人、小泉八雲になります。ちょうど120年前で、ちなみに日本で191番目の国際結婚でした。意外と多いなと思いました。歴史学者の調べでは、明治6年が日本第一号の国際結婚で長州藩の南貞助でした。その後20年間で190組もいます。当時は国際結婚ではなく雑婚と言われていて、明らかに正当でないというミュアンスで世間から見られ、当然八雲にもセツには風当たりが強かったのです。やがて1896年に帝国大学文科大学(現東京大学文学部)に講師で招聘され東京に住むことになります。

東京時代
八雲は生涯海を愛した人で、海というのは人間の魂のオリジンがある場所だと思っていました。東京時代には遊泳の場所として、静岡県の焼津を見つけます。焼津には毎年のように通い計6回も訪れました。なので現在焼津にも記念館があります。おそらく東京時代に焼津がなければ8年も暮らせなかったと思われます。焼津で出会った魚屋さんの山口乙吉氏とは親友になり、その二階を借りて夏は1ヶ月ほど過ごしていました。

日本に来てから十数冊の本を執筆し、生涯で約30冊残しています。文学のジャンルとしては主にフランス文学の翻訳と紀行文、最後は何と言っても『怪談』とか『骨董』とかに代表されるような再話文学。原話(口承文芸)があって、それに文学的魂を吹き込んで英語に翻訳していくという作業。これが八雲の非常に得意とする分野でした。現在、東京の西大久保の書斎にあった2400冊の蔵書は富山大学に納められています。子供も4人できますが、1904年長男が10歳の時に八雲は他界してしまいます。




オープン・マインドについて
一つには、ものの本質を見るということ。日本が日清戦争に向かって強くなっていく時代に八雲は熊本で講演をしています。日本の将来にとって一番大事なのは、「自然と共生」していくことと、「シンプルライフ」を維持すること、物欲を求め過ぎてはいけないということを言っています。さらには、日本は将来きっとコストの高い国になるから、将来は政治戦争ではなくて経済戦争の時代になるだろう、そうしたら日本は中国に凌駕されるのではないかとも言っています。あんな経済観念のない人が、結構日本の行く末をきちんと見ていたのではないかと思います。松江では庭のある日本家屋に住んで、日本人の自然観をしっかりと見ていました。

もう一つは最後に書いた『日本』(1904年)という本から、この中で「日本人の精神性の根幹には祖先信仰がある」と八雲は言っています。国家神道の時代には、それが天皇崇拝に結びついています。祖先信仰は家庭の祭り、氏神の祭り、一の宮の祭り、さらには伊勢神宮の祭りを通して貫かれ、皇室、天皇への敬愛の念を醸成していると言っています。この『日本』を読んで共感したのが、ボナー・フェラーズ(Bonner Fellers, 1896 – 1973)という人物です。「終戦のエンペラー」のいう映画が2013年にありました。この主役がこのボナー・フェラーズです。マッカーサーが一番信頼する腹心でした。八雲の愛読者で、昭和3年ごろから我が家によく来られていて、一雄とは親友でした。不幸にして戦争がおこりますが、今度はマッカーサーと一緒に戦後処理のために厚木飛行場にやって来ました。そして、真っ先に小泉八雲のお墓参りをします。一雄をはじめ家族をGHQの本部に呼び寄せて涙の再会を果たしました。私の父に「お前も日米の架け橋になる仕事をしろ」と言って、父は在日米軍司令部報道部というところで40年間務めることになります。私の「凡」という名前も祖父がこのボナー・フェラーズにあやかって、初孫である私に付けてくれた名前です。

実は不思議なことがありまして、私が生まれた1961年7月10日に祖父が「今日初孫が生まれておじいちゃんになったよ」とボナー・フェラーズに出した手紙が手元に戻ってきました。ニューヨークの古本屋さんが、「こんなものを手に入れたけど、売り物にならないからあなたに返すよ」と言って、横浜までニューヨークから持ってきてくれました。私が生まれた時の写真もこの時初めて見ました。本当にボナー・フェラーズと親友だったということがわかります。映画では、マシュー・フォックスという人が演じています。

ボナー・フェラーズという人は日本で何をしたかというと、象徴天皇制の端緒を切り開きました。昭和天皇は東京裁判にかけて訴追すべきではない、むしろ平和的に民主的な形で天皇の力を活かすべきだ、否定すれば罪のない民衆の精神的の拠り所を否定することになるのではないかと、八雲の日本観をよりどころに考えました。それがマッカーサーも受け入れられて、今日のような戦後ができたといえます。そういう意味では、八雲のオープン・マインドが戦後の日本に間接的に活かされたというべきではないでしょうか。


教育
教育に関しては、八雲は日本に来てからずっと教師をしていました。でもそれまでは、指導経験はなかったので、教師が務まるのか、と多分本人にも不安があったと思います。意外にも学生から慕われる評判の教師になるのです。日本の教育について三つの問題点をあげています。一つは記憶力偏重で想像力を十分育んでいない。もう一つは、日本の親が学校の教師に甘えすぎではないか。また、詰め込み式の勉強をさせすぎるきらいがあるのではないか。結構三つとも未だに言われている日本の教育の問題点です。明治30年代に八雲はすでにこの点に気づいていて、一雄には自らホームスクーリングを実践しました。八雲はホームスクーリングでは妖精譚をいっぱい聞かせたり、読ませたりすることによって子供の想像力を育みたいというふうに考えたようです。

八雲が最後に住んだ場所はいま、新宿立大久保小学校になっています。そこに隣接して小泉八雲記念公園があり、小学校の子どもたちが公園の花の水やりなどをしてくれていて、僕も時々「総合的な学習の時間」に行きます。この小学校は七割が、少なくとも片方の親が外国人だといい、三割だけが純粋な日本人です。学校だよりが7ヶ国語で出されているという日本でも珍しい小学校です。そういう場所で八雲が教育に活かされているというのも大変うれしいことです。


『怪談』
一番有名な『怪談』は多くの言語に翻訳されました。イヌイット語にまでなっています。あらゆる国や地域を超えて、怪談というものには普遍的な関心があるのだと思います。八雲は怪談の中には真理(truth)があると言っていました。おそらく、だからこそ怪談を70、100話も決して長くない人生の中で再話して紡いできたのだろうと思います。

実はその真理とは、いまいち私も最近までわからなかったのですが。「あっ、こういうことか」と感じたのは、東日本大震災の後でした。八雲が特に好きだった大雄寺(松江)の怪談を紹介します。


「この大雄寺の前に、飴屋があった。毎晩白装束の顔が青ざめた女がやって来て、水あめを一厘ほど買いに来た。三晩続けてくるので不思議に思った飴屋が後をつけて行くと、大雄寺の境内の中に姿を眩ました。しばらくすると地下から赤子の泣き声がするので、掘り返してみると、元気な赤ちゃんが提灯の火を見て笑っていた。その傍にお母さんの骸があった。」「母の愛は死よりも強し。Love is stronger than death.」

最後の一文はこの怪談からのメッセージです。石巻にも八雲会があり、全員被災されたので1ヶ月後にお見舞いに行きました。その時、一番ひどくまだ瓦礫の匂いがすごかった南浜地区に案内され、「あなたが来るちょっと前に、この場所から若いお母さんの遺体が発見された」「そのお母さんがしっかりと赤ちゃんを抱きしめたままだった。そのニュースを聞いて、石巻の人たちが再び涙を流した」と聞きました。その時に「母の愛は本当に死よりも強し」は本当に真理だと思いました。真理と言うからには、時空を超えて変わらない本当のことだと思います。確かにそういうものが怪談には潜んでいることを八雲は気づいていたのでしょう。

そしてその真理に対する人間の関心は、100年経とうが、200年経とうが、お化けや幽霊が信じられない時代が来ても変わらないだろうと八雲は予言しています。確かに今それを感じます。八雲記念館を訪れる方、松江ゴーストツアーに参加する方、あるいは鳥取県の境港にはみんな妖怪を求めてやって来ますが、年間350万の観光客の人たちがみんな妖怪や怪談を求めてやって来ます。確かに何かそこに真理がなければ、そうはならないのではないかという気がします。


母ローザ
八雲は母への愛惜の念が人一倍強かったです。八雲の母ローザの肖像は一枚もなく、画家の安野光雅(あんのみつまさ)氏が想像で描かれたものがあります。安野さんは八雲の愛読者で、ローザの生まれたキシラ島まで行ってローザの写真を見たことがあるという三人の老人に会って、こんな顔、こんな髪、こんな服着ていたという証言をもとに想像で描かれました。

地震
八雲は自然と人間の関わりについて強い興味を持ち続けた人です。神戸にいた頃「地震と国民性」(1894年10月24日)を書きました。この記事が面白いのは「更新の文化」という文化の特徴が日本にあるのではないか、その理由として自然災害が多発するから常に変化に対応していかなければならず、そういうきびしい風土が人間性を作ってきたという風土論です。当時は風土が国民性を作るとはあまり言われていませんでした。日本では哲学者の和辻哲郎(わつじてつろう 1889年3月1日—1960年12月26日)が『風土』(1931年)を出してから、この考え方が注目を集めるのですが、それより30年以上前にそのことを感じていて、「その証拠に伊勢神宮は20年に一度遷宮があり、あれはまさに更新の文化の象徴だ」と言っていました。

さらに、1896年6月に起った明治三陸大津波に衝撃を受けた八雲は津波の話を書きます。それは1854年に和歌山県で起こった安政南海地震の話を取材したものです。濱口梧陵(はまぐちごりょう)というヤマサ醤油の御曹司が、たまたま故郷に戻っていていち早く津波を察知してひとり稲むらに火をつけて住民を高台に避難させたという話です。ここで初めて「Tsunami」という言葉を世界に紹介します。八雲より数ヶ月前に雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」(1989年)に「Tsunami」の言葉を紹介した、エリザ・ルアマー・シドモア(Eliza Ruhamah Scidmore)という地理学者がいます。しかし実際論文を読む人間は限られているので、八雲の「生き神」を通してこの言葉は世界に広まっていくのです。イギリスのOxford English Dictionary (OED) にもはじめて「Tsunami」が使われたのはハーンの「生き神」だと書かれています。

今この作品が防災教材としても使われています。2005年に防災世界会議が神戸で行われ私も参加しました。その時にもっとこの教材が子供の防災教材として使えるのではないかということが議論され、早速アジア防災センターが設置され、とりわけアジア各国のNGOと連携してそれぞれの言語に訳され読み聞かされました。今も継続されていて、東日本大震災で被災した「みちのく八雲会」の方々がギリシャ語訳の「稲むらの火」を作ったり、他にも嬉しいことに2015年には、クロアチアのミルナ・ポコトワツ・エンドリゲッティ氏というバイオリニストが日本に演奏に来た時、この話を聞いて感動したということで、ご自身でクロアチア語に訳して自費出版して子供たちに配るということがありました。


野口米次郎(イサム・ノグチの父)の言葉
イサム・ノグチと祖父が子供の頃親友でした。同じような境遇にあって、イサム・ノグチの母レオニー氏に英語を習いに行っていました。また、イサム・ノグチの父で詩人の野口米次郎は八雲の研究者でもあり、米次郎は「小泉八雲は預言者だ」「預言者とは何も特異の言葉を語る人のことにあらずして、真実なる事実を告げる人のことである」と言っていました。おそらく、オープン・マインドで見るからこそ、ある程度本質を見抜く力があったのではないかと思います。

オープン・マインドを生かした活動 ー子ども塾で五感の育成ー
私自身が関わる、オープン・マインドを実際に社会に生かす実践活動についてご紹介します。その一つは子供たちの五感力を養うプロジェクトです。八雲は左目を失明したことにより、より身体感覚でものを捉えるようになっていきます。目だけでなく、全ての五感を使うようになりました。2004年は八雲の没後100年でした。この頃から家庭用電子機器が普及してバーチャルな時間が長くなり、因果関係はわからないまでも、しばしば子供達に落ち着きがないとか、感情がコントロールできないなどといった問題が社会の関心事となりました。やはり、もっと五感力をつける必要があるのではないかと思ったのです。そこで「子ども塾」を開催して、毎年テーマを変えて五感力を磨く活動をやっています。学校教育の中では時間がギリギリいっぱいで難しいため、それ以外の場で時間を作らなければならないと思っています。

例えば、木の橋の上を素足や下駄を履いて渡り、音を聞いたり素足の感触を楽しんだりしています。「子ども塾」では、「町の音」「蝉の声」「海辺の生活」「怪談」「虫の音」「人力車」「怪談屋敷」「生物多様性」「五感で探す松江八景」などをテーマに、五感を磨く教育実践として夏休みに行っています。

今の子供達はヒグラシの声を知りませんが、八雲は大好きでした。トワイライト・ミュージシャンと呼んでいました。今の子供たちがなぜ知らないかというと、夕方外気と接触しないからです。部活だったり、塾通いがあったりしますが、夕方外で遊ぶことはすごく重要なことで、柳田國男(1857年—1962年)も「カワタレ時」まさに昼と夜の境目の時間に妖怪は出没すると言っていました。ちょうど人間の心が不安になってくる時間帯。こういう時間に外に出てヒグラシの声を聞き心細さを感じ、闇への畏怖の念を感じてもらいました。子ども塾では、いろんな学校の子供がくるのでまずは体を開いて、心を開きます。

ある年は友人の佐野史郎氏に来てもらい、とにかく語ってもらいました。二時間半小学生は佐野史郎氏の語りに夢中になりました。耳をこれだけ集中させることは大事だと思います。また別の機会では、『学校の怪談』の著者で知人の常光徹(つねみつとおる)氏に来てもらい、怪談の面白さを語ってもらいました。兵庫県三田にある「人と自然の博物館」の日本で唯一の在来種の虫の音を全て聞き分けられるという大谷剛氏には1時間レクチャーをしてもらい、何種類も虫が鳴いている外へ飛び出して行って聞き分けをしました。意外にも子供達は聞き分けられたので、島根の子供達は耳がいいと言われ彼らは自信を持ちました。

2015年は八景を子供達に探してもらいました。この辺では近江八景、関東では、私の今の実家がある横浜の金沢八景などがあります。元々は中国から伝わって来た文化ですが、日本流にアレンジされて五感で感じる美です。八景にはパターンがあります。たとえば「夜雨」は夜には見えない雨の音や香り。「晩鐘」も夕方に鳴る鐘の響きの美しさ。「晴嵐」は晴れている日にモヤが山の方から湧きたつ皮膚感覚の美です。それぞれに松江に五感で感じる美を探してもらい、五感マップを作りました。

なかなかすぐに成果は出ませんが、五感で地域を歩くと地域のことが好きになり、地域に関心を持ちます。毎年何十人かの子供たちが来て、そのうちの何人からは地域文化を学びたいという声が上がってきます。やはり子供の頃から五感で地域の楽しさを知ることはいいことです。

実は八雲が五感で日本を感じ取れたのは人力車のおかげだと思っています。日常生活では人力車しか乗りませんでした。これのいいところはかなりスピードがゆっくりで、高いところから遠くまで見られることです。目よりも先に匂いや皮膚感覚で感じられます。涼しい風が吹いて来たりするとその先に田んぼがあったり、ネギの匂いを感じるとしばらくしてから畑があるのです。人力車も五感で感じる乗り物です。


オープン・マインドを生かした活動 ーゴーストツアーー
もう一つは怪談を観光に活かすゴーストツアーを開催しています。松江で2008年に実施して以来、まだ一度も赤字を出したことがない珍しい着地型観光プランとして国土交通省も注目をしてくれています。

夜、語り部さんの案内で八雲の怪談を聞きながら二時間松江の街を歩くという、元手はあまりかかっていないながらもこれが斬新で面白いとの評価もあり助成金の対象にもなりました。日没時刻に松江城をスタートし、松江の松平家の菩提寺の月照時まで行くと闇を体感できます。ここで人食い大亀の歩く話を聞いて、最後は大雄寺で「子育て幽霊」の話を聞きます。

ヒントになったのは、アイルランド・ダブリンのゴーストバスでした。ここに世界中の人たちが集まって、このバスのチケットを求めるために朝早くから並ぶのです。これに乗って思ったのは、ただホラー気分を味わうだけではなくて、ダブリンの資源である文学や怪談の知識を得ることが出来る文化探訪ツアーだと感じました。そして、プロの語り部の素晴らしさ、おぞましいほどの怪談の語り口がが印象的な五感で感じるツアーでした。

ニューオリンズでもそうです。ここはテーマ別に、怪談ツアー、吸血鬼ツアー、お墓ツアー、ヴードゥーツアーなどに分かれており、グレイライン社(Grayline)の社長だけがインタビューに答えてくれたのですが、だいたい5〜10%がツアーの収入だと言っていました。

松江でのツアー参加者は、今は7〜8割が県外者からの参加です。ゴーストツアーのある日というのがだいたい夏場の土曜日なのですが、ありがたいことにその日に合わせて山陰の旅行を組み立ててくれるようになりました。ポリシーは①豊かな遊び心、②闇を歩く(自然への畏怖)、③耳で楽しむ、④歴史や文学の知識を持ち帰るの4つです。怪談には真理があるという八雲の思いなどを二時間のツアーの中でそれぞれの方が理解して持ち帰っていただきたいという願いを込めてやっています。


オープン・マインドを生かした活動 ー現代アート展ー
オープン・マインド・プロジェクトの一番中心的なものは現代アートで小泉八雲のオープン・マインドを紹介するという営みです。これもタキス・エフスタシウス氏の発想で始まったのですが、考え方としては文化資源の着想だということです。文化資源という言葉は2000年頃から使われ始めましたが、従来の文化財とは少し違います。文化財とは誰が見ても立派な博物館で保存するようなもの、あるいは国指定を受けたようなものです。そうではなく、例えば怪談とかがまさにそうであるように、地下資源みたいに眠っている未評価の文化を発掘して現代社会にふさわしいような形に磨いてプロデュースして行く、そういうニュアンスをもつ概念です。文化芸術振興基本法が作られたり、東京大学大学院の中に文化資源学専攻ができたりして、今ようやくそういう時代になってきたのだと思います。

現代アート展は2009年にアテネで開催した際、非常に成功し500名も開会式にやってきました。ギリシャ中のマスコミが報道して、この斬新な発想の展覧会とともにラフカディオ・ハーンというギリシャ生まれのこんな不思議な作家がいたのだということが広がっていきました。

ウェブ上で「八雲の人生とオープン・マインドという精神性を紹介し、これに共感する者は何か造形作品を作って寄贈して下さい」とアーティストに呼びかけました。すると47名集まりました。その中に始めにお話ししました野田正明先生も入っています。

二年目の2010年には松江城の天守閣の中で開催しました。すると、世界中のアーティストたちが自分の作品が「サムライ・キャッスル」に展示されるのだったら自費でも行くと言ってたくさん参加してくれて、思いもよらぬ国際交流ができました。偶然松江城に来た観光客も不思議に感じながら見てくれていました。2011年はNYの日本クラブで行いました。さらに2012年はニューオリンズのテュレーン(Tulane)大学でも行いました。


国際シンポジウム
オープン・マインドについてもう一度きちんと検証して行く必要があるのではないかということで、2014年国際シンポジウムをギリシャのレフカダ島生誕地で開催しました。日本・ギリシャ・アイルランド・マルティニークの5カ国9人のパネリストが参加してオープン・マインドの意味と社会的活用について多面的に検証しました。その時出て来た方向性は、「自分がこうだと思っていることが絶対ではなく、それが最終の結論でもなく、そこから次に新しい道が開かれていく。子どもたちには常にそういう新しい道を開いていくという場を提供しなければならない」というものでした。

嬉しいことに、レフカダ市が旧市役所の建物の二部屋を自由に使って良いということで提供してくださり、ここに予算ゼロで記念館が出来上がりました。これは日本の八雲ゆかりの地の自治体や大学などがレプリカを全て寄贈しました。それとタキス・エフスタシウス氏も蔵書を寄贈しました。あとはアテネからレフカダまで350km離れているのですが、週末ごとに通ってボランティアに壁塗りなどしてもらって、本当にゼロ円で出来上がったのがこのミュージアムでした。嬉しいことに「オープン・マインド」や異文化理解のため、すでに4000人の子供たちが通って学んでくれているということです。同時に、松江出身の佐野史郎氏の朗読、同級生で世界的なギタリスト山本恭司氏の演奏もギリシャで初めて行いました。


アイルランド「オープン・マインド」記念事業
トラモアは八雲が初めて泳ぎを覚えたケルト海(大西洋北部)の冷たい海です。この海を見下ろす丘の上に2015年「Lafcadio Hearn Gardens 小泉八雲庭園」(発起人アグネス・エイルワード)ができました。これが面白いのは決して日本庭園ではないということです。アイルランド人の想像力で出来上がった庭で、八雲の精神を九つの庭で表現し、オープン・マインドを世界に発信しようというコンセプトです。

アイルランドの経済担当大臣も訪問されたことで正式にこの庭は認知されるのではないかと安心しました。1ヘクタールの土地を回遊するようになっています。これを発想したアグネス氏は、2012年にお会いした時「ここに庭を作ることが夢だと」とおっしゃっていて、不思議なことに色々と援助する団体が出て来ました。三年前にアイルランドの首相が来られた際に、私は安倍首相の官邸に招かれました。エンダ・ケニー首相は、アイルランドに庭ができるから完成するまで協力してくれと言われました。それから1年半で庭は無事に完成しました。松江市からもレリーフが寄贈されました。また、ダブリン・リトル・ミュージアムでは「里帰り展 The Open Mind of Lafcadio Hearn -Coming home-」(2015年10月7日〜2016年1月5日)も開催されました。


キシラ島での記念式典
2016年に入ってからは、ギリシャで八雲の母親ローザの生まれたキシラ島にてローザの生家を地域資源として人に見せたいというお話があり、そのオープニングのためにギリシャへ赴きました。ここに飛び入りでギリシャのバルタス文化大臣が来られました。日本とギリシャの文化友好のためにこの様な活動を広げていかなければならないということで、島中にローザのポスターが貼られて、島の方が100名集まりました。ローザの生家でパーティーが行われ、ローザが再婚したその子孫らに会うことができました。その1か月後には、八雲の父チャールズの再婚者の子孫が私を訪ねてきました。そしてお土産に持って来てくれたのはイギリスの高級スパークリングワインで名前が「Cuvee Koizumi Yakumo」でした。彼の親戚がやっているワイナリーだそうで、商品名に遠い先祖の親戚にあたる作家の名前をつけたかったということです。

おわりに
これからの時代において、ある親日的な経済学者によればGDP(gross domestic product)「どれだけ物を作ったか」ではなく、GNE(gross national enjoyment)「どれだけ人生を喜びで満たすか」というの価値観にシフトするのではないかということです。(by J.K.ガルブレイズ)あるいは先ほど申し上げた文化資源とか、六次産業化とか、里山資本主義といった言葉が聞かれます。「里山資本主義」とは中国地方で生まれた言葉で岡山県真庭市などがモデルになっています。里山にリゾートを作ろうという話ではなく、むしろ自給自足の生活を里山で行うというものであり、その代わり燃料はエタノールのような燃料で生活し、自給できるという環境を作ればやっていけるというのです。現に若者のIターンもみられるようです。地域の人たちも様々な形でコミュニティの創造性を作っていくというような活動をし、これまでの経済一辺倒の価値観から脱却する時代になってきています。そんな中で物質文明に逆行する価値観を持ち、反人間中心主義、オープンマインドなハーンの精神性というのは活用できるのかなと思います。やはりどの時代にもオープン・マインド、五感力、グローカルな視野で物事をみることは大事で、これからも時代にふさわしい文化・創造活動に結びつけて発信していきたいと思っています。



*   *   *

参加者からの質問:
小泉八雲研究の業績が溜まってきていると同時に、ここに行けば全てのアーカイブが見られるといった場所、あるいは試みはありますか?

回答:
今のところそういうところはないです。一箇所にいけば分かるというところもないですし、そういった構想もないです。日本では富山大学は蔵書で、八雲の基本情報とか新しいことは松江の記念館、八雲の生原稿をいっぱい持っているのはアメリカのヴァージニア大学、新潟県南魚沼市の池田記念美術館の小泉八雲の文学資料室などです。というふうに分散してしまっていて、デジタル化すれば集めることは可能かもしれませんが、まだ至っていません。現在、収集可能なものはデジタル化して蓄積していて、ウェブ上でも差し支えない範囲で紹介しています。



(記録:南)

*   *   *

【後記】
会場では小泉八雲記念館より発行された図録『小泉八雲、開かれた精神の航跡。』を用意いたしました。
こちらが大人気でほとんどの参加者の方がご購入され、この日は特別に小泉凡さんのサインも入れていただきました。
今回のお話をより詳しくお知りになりたい方には是非おすすめです。


『小泉八雲、開かれた精神の航跡。』B5変型判/104ページ/日・英/1,800円(税別)


家紋入りの凡さんのサインも素敵です。



図録には略系図や八雲の愛用品など様々な情報が載っています。
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第52回JICP会合「大坂を歩く」(忘年会含)のご案内 (12/18)

2016-11-20 15:08:52 | Weblog
第52回JICP会合「大坂を歩く」(忘年会含)のご案内

さて、11月も後半に入り、何やら気ぜわしい気分になってきました。
12月のJICPは座学ではなく、日本一の兵(ツワモノ)とまで称された“真田幸村”ゆかりの地をめぐるまち歩きの「玉造コース」をガイドさんの案内で歩きます。

真田丸はどこに、どんな形で、どのような規模で存在していたのか?最新の調査でたどり着いた真田丸の地を探訪します。(案内より引用)

加えて、ギャラリーを回って、最後は忘年会とまいりましょう。
是非たくさんのご参加をお待ちしています。

日時:2016年12月18日(日)午後1時 
   地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」改札口前に集合。

内容:町歩きコース
   地下鉄玉造駅→空堀→善福寺→真田丸跡地→円珠庵→心眼寺(信繁墓)→
   三光神社→旧陸軍墓地→幸村ロード(その他も臨機応変に)
   約2〜3時間を予定
   http://www.osaka-asobo.jp/course497.html

   画廊めぐり(空堀商店街界隈) これは、JICP独自に回ります。

   忘年会(参加人数によって厳選します。京橋あるいは空堀界隈。
       ここぞ!というお店があれば教えてください。)

参加費:まち歩き参加費 1,500円 (JICPサポート会員は500円)
*この参加費はお釣りなきようお願いします。

     忘年会 3,500円程度を予定(実費)

参加申込:現在、まち歩きはJICPで仮予約しています。
     12月12日ぐらいまでには参加申込をお願いします。
     JICPのアドレスに参加者のお名前と人数をお知らせください。

     info.jicp@gmail.com
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第7回 大人の遠足「猫の恩返し in Ohgian」(10/29-30) レポート

2016-11-12 11:12:11 | Weblog
第7回大人の遠足 「猫の恩返し in 滋賀」(2016年10月29日〜30日)レポート

集合:2016年10月29日(土)JR能登川駅 改札 12:09 
参加者:濱中応彦+5名

今回の大人の遠足の目的は、琵琶湖畔に佇む水墨画家の濱中応彦先生のアトリエを訪問して、日本水墨の世界の一端を知ると同時に、東近江界隈の文化巡りをすること。
集合場所の能登川駅から濱中先生自ら運転する車に乗り込み、いざ出発。
途中、車の中から、料亭「水幸亭」のウィンドウ壁面全面に飾られた龍の水墨画を鑑賞することから始まった。


まずはいったん濱中先生のアトリエへ。
ご自分で設計し10年以上かけて手づくりしながら2年前に完成した3階建ての館。
建築家でもある濱中先生。1階は水墨画創作の場、2階がゲストルーム、3階がリビングキッチンなど集う場とテラスになっている。
各自、荷物を置いて再出発。


<森の感謝祭 in たかとり>



濱中先生の事務所で働いていた建築家平居さんが活動をお手伝いしている「森の感謝祭 in たかとり」へ。ちょうどこの3日間開催されていた。
場所は高取山ふれあい公園。山道をくねくねと入っていくと何やら轟音が聞こえてきた。チェンソーの音だ。全国のカーバーがチェンソーアートを通じて、森林に感謝し、地域貢献と復興支援ができるチャリティイベントとして開催されている。公園には、ヘッドフォンとメガネをかけたカーバーたちが細かい木屑を飛び散らしながらいままさにカービング中。
チェンソーアートをよく見ると思ったよりも細かい表現。馬の毛並みなど見事。バーナーで焦がしたりしている。しかしこの轟音では街の中ではとうてい作業できないな。
http://www.takatori.cc


<サンセット断念>

先生のアトリエでサンセットを見ようと帰路を急ぐ。サンセットを見るために購入した土地というだけに期待に胸が踊る。途中、とれたて野菜を売っているお店で夕食を仕入れる。サンセットに間に合うよう疾走。ところが、じょじょに太陽の下に厚い雲の層が・・・。日没の5時半まではまだ時間がある。いけるかな。お鍋用の野菜を切りながら、ひたすら念じる。しかし、結局は厚い雲に覆われたまま。次回のお楽しみかな。


<Dramatic Legacy>

どっぷり日が暮れたのでライトアップされている彦根城と多賀大社に向かう。
彦根市と多賀町が誇る歴史遺産を生かし、光とアートで新たな魅力を発信するイベントが開催されている。
1300年以上の歴史をもつ多賀大社は日本最初の神であるイザナギノミコト・イザナミノミコトを祭神としている。この二神は日本の国土や山川草木・八百万の神々を生み、最後に生まれた天照大神は伊勢神宮の祭神であることから「お伊勢参らばお多賀ヘ参れ、お伊勢、お多賀の子でござる」と謳われるほど。
多賀大社は「神あかり」というネーミングでライトアップ。車から降りるとひんやりした空気に包まれた。
拝殿前には祈りの石ころあかり。多賀町民によって手づくりされた1万個の石ころの明かりが色を変えつつ輝いていた。石庭ならぬ光の庭。


さらに、彦根城へ車で移動。
彦根城は「城あかり」。白壁を照らす明かりを求めてのドライブ。石垣に紋が大きく写し出されスケールと歴史を感じた。

http://dramatic.oh-mi.org/jp/

<ほうとう鍋と猫の恩返し>

そろそろお腹もすいてきたところでアトリエにUターン。いよいよ夜の宴会の始まり。
テーブルに卓上コンロを置き、手際よくほうとう鍋を用意。奈良から参加の人からの差し入れ、柿の葉寿司をつまみながら鍋の仕上がりを待つ。
私がJICPを始めたきっかけなどを話すと、最近TVで見た岡倉天心の話も出て話は盛り上がる。
いよいよメイントーク。濱中先生の「猫の恩返し」の不思議話に突入。中津の事務所に迷い込んできた猫「どらちゃん」のお話。「こんなことってある?」と一瞬思うけれども「意外にあるかも」と納得するお話だった。一瞬ぞぞっとして、ほっこりする。その通りのお話。私たちはそのどらちゃんのおかげでこうして素晴らしい体験をすることができたことに感謝して眠りについた。


<水墨画鑑賞>

翌朝。真っ青な空と穏やかな湖。トンビがくるりと舞う姿を見ながら、3階のテラスで湖からの風を受け朝食。雄大なパノラマを楽しみながらの食事に大満足。


そしてサプライズは、1階の作業場に置かれた1枚の水墨画。これは普通の人にはなかなか見ることのできない代物。私たちだけでなく、お隣さんもお呼びしてのご開帳。見ている人が感じるのが水墨画。鶴が心の中で飛んでいった。作業場も見学。衝動買いの絵画もたくさん。
さらに、お隣さんにはマンハッタンを描いた、濱中先生の大きな作品があると聞き「見た〜い」という元気いっぱいの声に押されて「いいですよー」というお隣のご主人。これまたすごいおまけ付きに恵まれた。


<たねや本社>

お菓子で有名なたねやグループ。その本社機能が今年6月に移転。そこがラ コリーナ近江八幡。
行列がおなじみのメインショップを通り抜けると、いきなり広大な田んぼ。その中には7つの石が点在。「徳石」「有石」「蓬莱山」「おにぎり石」「舟石」など。これは藤森照信氏が命名。本社の建物もユニーク(藤森氏設計)。ラ コリーナ近江八幡は、自然を愛し、自然に学び、人々が集う繋がりの場。八幡山から連なる丘に、緑深い森を夢み、自ら木を植え、ホタル舞う小川を作り、生き物たちが生きづく田畑がある。原始的な力強さと壮大な構想に気持ちが大らかになった。
https://taneya.jp/la_collina/about.htm




<BIWAKOビエンナーレ>

締めは、BIWAKOビエンナーレへ。
今回で7回目を迎えるBIWAKOビエンナーレ。テーマは「見果てぬ夢~Eternal Dream」舞台となるのは、江戸時代の風情が色濃く残る近江八幡旧市街。会場は、町に点在する町家や元造り酒屋、また八幡山山頂の城跡に建つお寺など。
まずは「まちや倶楽部」でパスポートチケットを購入。ここは、2008年に操業を停止した西脇酒造の旧工場。ここでは30人以上の作家の作品が展示されていた。


そのあと、腹ごしらえ。先生お勧めの蕎麦屋「日牟禮庵」まで歩いていく。1時半到着。人気店らしく、私たちが着いたときにはなんと3人分しかそばが残っていなかった。もちろんそれでもオーケー!ここは押しの強さで店の中へ。6人で蕎麦とかやくご飯をわけわけしていただいた。


その後、再びビエンナーレの町歩きへ戻る。旧中村邸、カネ吉別邸、喜多七右衛門邸、喜多七右衛門邸倉、尾賀商店、旧扇吉もろみ倉と回る。どこも暗い空間。入ってから目が慣れるまで時間がかかった。異空間へ入ったような感覚。階段は急。欄間のデザインが見事。
町屋を現代アートで飾ることで、過去と未来をつなぐことができるのかもしれない。日本家屋の空間の美と陰翳礼讃を堪能した。
http://biwakobiennale.jp


<あとがき>

今回の大人の遠足は、JICP顧問の濱中先生になにからなにまでお世話になりました。アトリエでの宿泊、車での移動、水墨画の鑑賞。
そして参加してくださった4人のパワフルな女性陣にも圧倒されました。17年間続いているアイアイ(アイデンティティのアイも入っているそうです)の活動のメンバーで、この会は毎月1回欠かさず続けておられるとか。すごいことです。このJICPの活動も負けないようにゆっくりと地道に続けていきたいと思います。基本理念は「ほんもの」。これからもよろしくお願いします。

(記録・奥村)








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第7回 大人の遠足「猫の恩返し in 滋賀」

2016-10-19 11:30:20 | Weblog
第7回 大人の遠足 「猫の恩返し in 滋賀」

今回は、滋賀県の能登川にある水墨画家の濱中応彦先生のアトリエ訪問を中心に、
高取山ふれあい公園で3日間開催されるチェンソーアートの鑑賞と
彦根・多賀のライトアップ見学など。
そして応彦先生によるお話「猫の恩返し」もお楽しみに。
ふるってご参加ください。

日時:2016年10月29日(土)~30日(日)
集合時間と場所:10/29 13時40分 JR能登川駅 改札 
宿泊:濱中先生のアトリエ(人数が多い場合は近くの施設を予約)
移動:先生の車+もう1台

遠足の内容予定:(二日間で予定を組みます。臨機応変に変更あり。自由行動もあり)
1) 森の感謝祭 in たかとり2016
http://www.takatori.cc/component/option,com_frontpage/Itemid,1/
2) Dramatic Legacy「城あかり、神あかり」
http://dramatic.oh-mi.org/jp/
3) BIWAKOビエンナーレ
http://biwakobiennale.jp
4) 彦根城博物館や多賀大社など

参考資料
◯森の感謝祭 in たかとり2016
 チェーンソーアートの鑑賞と森の体験
 場所:高取山ふれあい公園
 〒522-0335 滋賀県犬上郡多賀町藤瀬1090
 TEL:0749-49-0635  
 http://www.tagatown.jp/takatori/
 http://www.takatori.cc/component/option,com_frontpage/Itemid,1/
森の感謝祭は、「森に人に地域に感謝し、森に人に地域に還元する」ことを最大のテーマとしています。
『チャリティ・チェンソー・カービング 森の感謝祭』は、チェンソーアートを通じて「森に人に地域に感謝し、
森に人に地域に還元する」そんな想いを形にするため、チャリティイベントとして「高取チェンソーCLUB」が主体となり開催するもの。
この活動に関わっている平居さんに現場をご案内いただきます。
山の上なので少し寒いかもしれません。暖かい服装でお越しください。

◯Dramatic Legacy「城あかり、神あかり」見学
 彦根市と多賀町が誇る歴史遺産を活かし、光とアートで新たな魅力を発信する灯りとアートのフェスティバル

参加費:1,000円(JICP活動諸経費、サポート会員は不要。)
    能登川までの交通費は、各自実費。その他、入館料などは各自実費。
    夕食は持ち寄り+買い出しの予定。
    持ち寄りは各自ご用意いただき、買い出し分は人数で割り勘。
    1,500円程度ではないかと予想。

お申し込み:準備の関係で、10月25日までにメールでお申し込みください。
      info.jicp@gmail.com JICP事務局
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9/27講演会の案内を江之子島の情報サイトに掲載していただいています。

2016-09-12 08:45:19 | Weblog
江之子島 enokojima サイト

http://www.enokojima-art.jp/e/event/2016/08/23/4133
http://enokojima.info/event/329

是非みなさんお越しください!
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