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「高慢ちきな嫌な女」淀殿の“悪女伝説”覆す史料見つけた…

2015年04月16日 | ニュース

「高慢ちきな嫌な女」淀殿の“悪女伝説”覆す史料見つけた…来年のNHK大河ドラマで“名誉回復”!?

 権力欲に満ちた高慢な悪女-。豊臣秀吉の側室で、秀頼の母・淀殿(通称・淀君)には、そんな負のイメージが今もつきまとう。400年前の大坂の陣で豊臣家が徳川家康に滅ぼされたのも、淀殿が家康の要求をかたくなに拒んだことが要因とする見方が依然根強い。しかし、家康に近侍した儒学者・林羅山の『大坂冬陣記』には、大坂冬の陣の講和交渉で自ら人質となることも受け入れていた捨て身の姿勢が記されている。これまで注目されてこなかった史料に着目する専門家は「いまこそイメージを見直す時期」と“名誉回復”を訴える。(川西健士郎)

“悪女”伝説の由来

 淀殿が“悪女”とされた要因は、関ケ原の戦いで勝利した家康との関係で形成されたとみられる。

 勝利した家康は「征夷大将軍」となり、慶長10(1605)年、息子の秀忠に将軍職を譲る。このとき家康は、当時13歳の秀頼を二条城に上洛させ、賀詞を呈するよう促した。

 これに対し、淀殿は「強いて求めるなら秀頼を殺して自害する」と言い放ち、断固拒んだとされる。

 さらに、大坂の陣のきっかけとなった慶長19(1614)年7月の方広寺鐘銘事件でも、淀殿は家康に逆らった。

 豊臣家が再建した方広寺大仏殿の梵鐘に「国家安康」とあることに対し、「家康を『安』の字で分断しており、不吉」と家康が難癖をつけ、交渉役の片桐且元は次のような難題を突き付けた。

 大坂を国替えし、秀頼が大坂城を退去するか、人質として秀頼公を江戸に詰めさせるか、あるいは淀殿を江戸詰めにするか-。

 「太閤様の築かれた大坂城を明け渡せとは何事ぞ。秀頼や妾(わらわ)を江戸に人質とは何事ぞ」。淀殿は激怒し、これを拒否したという。

 こうした感情的な言動が、ヒステリックな女性というイメージにつながったとみられる。

衝撃の事実…徳川家康の儒学者が記した「淀殿は人質として江戸行きに同意」

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